第8話 断髪!? 少女の生命は刈り取られる運命か? (Aパート)

 湿気付いて、ジメジメとした雰囲気のオフィス。

 それは雨が降っているせいか、その中にいる人間の心境のせいか。あるいは両方か……。

 いずれにしても、よくない空気だ。黙々と作業している翠華は密かに感じていた。

 今オフィスには彼女一人しかいない。こういった状況はかなり珍しい。

 魔法少女としてこの会社に働いているみあ、かなみ、翠華の三人は小中高別々の学生である。基本的に小学生のみあが一番修業時間が早い。次に学校から距離が近い翠華が着く。とはいっても、みあは寄り道をしたり、道草を食ったりで翠華の方が早い場合がままある。

 珍しいのは、鯖戸がいないことだ。彼は基本的に電話一本で魔法少女が請け負う依頼や報酬を取りまとめているため、大体オフィスに常駐している。その彼がいないのは、何か良くないことの前触れのように思える。

 まあ、かなみさんいたら「小憎たらしい奴がいなくてせいせいする」と元気良く言ってくれるだろう、と思う。……と、ここで無意識のうちにかなみのことを考えている自分に翠華は気づく。

(ジメジメしてるのは、かなみさんがいないせい……?)

 それは自分が恋い焦がれているから、だけではない。借金があるから、とか、無理矢理働かせられているから、とか、そういって文句言ったり、抗議したりする彼女のおかげでなんだかんだで活気づいているのだ。

 それがいつの間にか、自分の活力になっている。みあにとっても同じだろうし、おそらく鯖戸にも同じことが言えるだろう。

 そうなると今の状態はむしろ、彼女が入社する以前のオフィスに戻っているような気がしてくる。鯖戸はデスク処理で忙しく、翠華とみあはそれぞれ別の業務にあたっていて、みあはいつも仏頂面でよそよそしい。

 一人じゃないのに、一人でいる時のような、そんな感覚がこのオフィスにはあった。今は本当に一人だからそんな感覚に戻っているのだろう。

――まあ、でもそんな時間もすぐに終わる。

 時計を見て、翠華は微笑む。

 学校の修業時間から電車のダイヤまで把握してある。そこから徒歩での速度もちゃんと計算に入れての結論。

――もうすぐ彼女がやってくる。

 このオフィスの、そして自分の活力の源であるかなみが。

(まずはちゃんと笑顔で『おはよう』って挨拶するところからね)

 そう考えるだけで、一分一秒が長く感じられる。

 本当に楽しみでしょうがない、彼女がいるだけで自分は笑顔でいられる。雨振る雲間に差す太陽のようである。

「酷いな、ずぶ濡れじゃないか」

「しょうがないでしょ、いきなり雨が振るなんて思わなかったんだから!」

 聞こえてくる。階段を駆け上がる足音とともに聞き慣れた話し声とやり取り。そして、すぐさまオフィスの扉が開けられる。

 ピタピタと水滴が落ちる音とともに、かなみは入ってくる。肩にはネズミ型のマスコット、マニィも一緒だ。

「あ、翠華さん、おはようございます」

「おはよう、かなみさん。どうしたの、傘忘れたの?」

「そうなんですよ。雨が振るなんて思わなかったんで」

「本当は傘を買うお金が無くて――」

「余計な事言うな!」

 かなみは慌ててマニィの口を塞ぐ。

「相変わらずお金に困ってるのね」

 思わず苦笑いで反応する。

「相変わらずなんですよ……」

 かなみの方も愛想笑いで応える。

「でも、傘ならちゃんと持っていますよ。でも朝晴れてたじゃないですか!」

「それで傘を持って行かなかったのね」

「天気予報を確認しなかったからだよ。電気代の節約とか言って」

「それ以上言うな!」

 今度はマニィをはたき落とす。

「ご、ごめんなさい、翠華さん。見苦しいところ見せちゃって」

「い、いえ、いいのよ」

 見苦しいところならもう見慣れている。むしろ、もっとそういうところを見せて欲しいというのが翠華の本心である。

「私にできることがあったらなんでも言ってね。力になるから」

「ありがとうございます」

 とは言っても、かなみが翠華に頼ったことはあまりない。何度か食事をねだられたことはあったが、それ以外はない。

――お金を貸して欲しいと言ってもいいのに。

 というのが、翠華の本心だ。もっともっと頼ってほしいと思っているのに、かなみは極力自分の力でなんとかしようとしている。特にお金を無心するぐらいだったら、莫大な借金返済のために給料をあてざるを得ない今のかなみの状況ならしてもいいとさえ思っている。

 なのに、それをしない。

 本当に強い娘ね、と翠華は常々思う。でも、それは危うさも兼ね備えているように思える。常に崖の上を綱渡りするような、そんな危うさだ。

「ああ、もうこれじゃ仕事にならないわ!」

 制服の上着を脱ぐ。駅から距離があったせいで下のシャツまで濡れている。

「か、かなみさん、シャツ透けてるわ!」

 かなみは着痩せするタイプだということは以前からわかっている。透けたシャツから露出するいつもは制服で隠れている起伏のある肌が妙に翠華の胸をざわめき立たせる。

 そう、これは性的興奮だ。

 あまりにも、なんて無防備な、と思わずにいられない。

「ごめんなさい。でも、すぐ乾かしますから。鯖戸あいつはすぐ帰って来ないですよね?」

 とはいっても、ここで普通に警戒するのはこの会社の唯一の異性である鯖戸からの視線である。同性の翠華に対して無警戒なのは当たり前だ。

(――そりゃそうよね)

 おかしいのは自分の方だと、翠華は自嘲する。

 かなみは制服をハンガーにかけてオフィスの壁際に干す。

「ああ、髪も凄い濡れてる。こりゃ中々乾かないわね」

 背中まである長い髪をふさふさ揺らす。そんなかなみを不憫に思った翠華は閃く。

「そのままだと風邪を引くわね。確か備品棚にドライヤーがあったはずよ」

 翠華は棚からドライヤーを出す。

「え、っと、それとクシも必要ね」

「翠華さん?」

「髪、とかすからじっとしてて」

「え、とかすって?」

「いいから!」

 翠華は半ば強引にかなみの髪を撫でながら、ドライヤーを当てる。

(うーん、わかっていたけどボサボサね)

 水道代を節約するためにシャワーで済ませていると前聞いた事がある。となると洗髪もろくに出来ていないと考えるのが妥当だ。

「ふひ~気持ちいい~」

 夢心地な気分に落ちついているかなみ。

(ああ、かなみさん。いい顔してるな、癒される~)

 翠華はそんなかなみを見て、微笑む。そして、手際よく乾いた髪をクシでほぐしていく。

「翠華さん、随分手馴れてますね」

「え、そうかしら?」

「他の人にもこんなことやってるんですか?」

「え、他の人って!?」

 翠華は狼狽する。

「え、いや、そんな、他に、そういうわけでも……!

「あつ、あつッ!? 熱いですよ!」

 思いっきりドライヤーの熱をあててしまい、かなみはあたふたする。

(……かなみさんに他の女の人にもこうやって誘惑する悪い子だって思われないかしら?)

 そんなことよりもヤケドしていないか心配してほしいと、もしかなみが心の声を聞いていたら思っていただろう。

「ウシシ、不憫な片思いだぜ」

「そう思うなら手助けすればいいんじゃないか」

 オフィスの隅で二匹のマスコットがせせこましく会話している。

「ウシシ、そういうのはタイミングを計ってからするもんだぜ」

「じゃあ、今はその時じゃないと?」

「ウシシ、そういうこった。まあ、ここは一つ温かく見守ろうじゃないか」

「単に面倒事はなるべく避けたい、と言っているようにも聞こえるけど」

「ウシシ、マニィよ、お前さんちょっと口数が多くなってねえか。俗に言う余計な一言がよ」

「彼女と一緒にいると自然にそうなるんだよ。なんなら変わってみるかい? 君の口出しも二言三言増えるかもしれないよ」

「ウシシ、それも面白いかもな」

 そうこうしているうちに翠華はかなみの髪をほぐし終えていた。

「はい、これで終わりよ」

「ありがとうございます。生まれ変わったみたいに気持ちいいです」

 髪を揺らして、かなみは心地のいい髪ざわりに浮かれる。

「大したことじゃないわ。しっかり毎日ケアしていればこのぐらい誰にだってできるわよ」

「それが難しいんですよ。これだけ長いと洗うのも大変で、いっそのことバッサリ切っちゃった方が楽なのかな~って思ってまして」

「それはダメよ!」

「え?」

「かなみさんの髪は綺麗なんだから、そのままにしておいた方がいいわ!」

「そ、そうですか……?」

「ええ、切るなんて勿体無いわ!」

「す、翠華さんがそう言うなら……やめておきます」

「その方がいいわ。それに魔法少女なんだから髪は重要なチャームポイントよ、あるみ社長ならそう言うに違いないわ」


ドン!


 唐突に会話の中の『何か』の単語に反応するかのようにオフィスのドアがけたたましい音を上げて開けられる。

「ひ!?」

 こんな音で扉を開けられただけでも心臓に悪いのにやってきたのはあるみ社長なのだから二人にとっては十分卒倒モノである。

「……私のこと、呼んだ?」

 あるみは気だるい口調で問いかける。

「いいえ、全然呼んでません!」

 かなみと翠華は首を振って同時に答える。

「そう……」

 あるみはいかにも重そうなアタッシュケースを片手に気だるい態度そのままにのっそりと社長用のデスクに向かう。

「…………………………」

 かなみと翠華はそれを呆気に取られながら見ていた。

――いつもと様子が違う

 いつもならここでもっと食いついてくるのがあるみなのだ。

 それが今はカジュアルスーツをシワシワに着崩して、髪はボサボサ、眼にクマをつくっている。まるで全身を使って『徹夜明けで疲労困憊』を体現しているかのような様子だ。

 それは社長だし、かなみや翠華の何倍も大変な依頼を請け負って戦っていることは二人も十分よく知っている。しかし、それでも平然とこなしているのがあるみであって、化け物じみているを通り越して化け物そのものである所以だ。それがここまで疲れ果てているのを見るのは初めてであった。

 しかし、それ以上にかなみと翠華を畏怖させたのはあるみの不機嫌な顔つきである。いつも豪快で不遜な態度を崩さず、不満や怒りを顕にすることはあっても、常に余裕を満ちているのが彼女のスタンスであった。それが今はあまり感じられない。少しでも触れれば爆発しそうな、そんな雰囲気でいつもとはまた別種の恐怖がそこにある。例えて言うなら、いつもが安全装置が外れた拳銃なら、今は安全ピンが外れた手榴弾のようなもので、暴発と爆発ほどの違いが感じられる。どちらも危険なことには変わりないが

「仔魔こうまはどこ?」

 言葉を発するだけで全身に恐怖で震えが走る。

「……わ、わかりません! 私が来た時にはいませんでしたから!」

 翠華は勇気を出して答える。

「……そう」

 眉間にますますシワが寄っていき、二人の心拍数が天井知らずに上がっていく。

「しょうがない、後処理も私がやるか。ん、どしたの、二人共?」

 二人の視線が自分に釘付けになっていることに気づいたあるみの一言で、心臓が胸から飛び出しそうになった。

「い、いえ、なんでもありません!?」

「そう……あん、でも気が乗らないわね……!」

 あるみは面倒そうに髪を掻き毟りながらぼやく。ここまでくると何の仕事でそこまであの陽気なあるみ社長が不機嫌になるのか、好奇心が沸き上がってくる。

「あの……何がそんなに気が乗らないんですか?」

「ん、後処理よ。まったく、徹夜明けの私にやらせようとしてるんだからいい度胸してるわよね、仔魔こうまのやつは」

 フフッ、と最後に微笑みを浮かべてあるみは言う。

 それは徹夜明けの形相と相まってとてつもなく不気味に見える。とはいっても、彼女の爆発の矛先が鯖戸に向きそうなので、かなみにとっては喜ばしいことかもしれなかった。

「それで一体、どんな仕事だったんですか?」

 かなみさん、度胸あるなと翠華は横で見守りながら感心と心配が入り混じった感情を抱く。

「こいつの奪取と送達よ。まったく期日までに二十本回収しろって無茶振りもいいところよ」

「期日っていつなんですか?」

「今日の午前0時までよ。はあ、メンドーだわね」

 あるみはため息をつきながら、電話に手を伸ばす。

 オフィスにある電話は昔懐かしの黒電話で、鯖戸曰く「ある筋から安く購入できたから使っている」らしい。

 慣れた手つきでダイヤルを回して、あるみはハッと気合を入れる。そのたった一喝でいつものどっしりとした雰囲気に戻った気がした。

「こちら、株式会社魔法少女、社長の金型あるみよ」

『ああ、ようやくきたか、遅いから心配したぞ。それで例のブツは?』

「御心配なく、ちゃんと二十本間違いなく手に入れてあるわ。そっちこそちゃんと札束、首を揃えて渡す準備は出来てるんでしょうね?」

『それはもちろんだ。だからなるべく早くポイントまで来るのだぞ』

「ええ、わかってるわ」

『くれぐれも注意するのだぞ。いいか、絶対にしくじるなよ』

「こっちだって一億の商談よ。みすみす逃すわけ無いでしょ。何よりこっちだってこれを手に入れるのに相当苦労したんだからね。今さらしくじってられますかってのよ!」

 あるみは自信満々に豪語する。そこにはさっきまでの疲労困憊の様子は微塵も残っておらず、すっかりいつもの調子の社長がいた。

『わかった。ポイントで待つ』

 ガチャ、と受話器を戻す。

「はあ~、こっちの苦労も知らずにいい気なものね」

「あ、あの、一億って……?」

 電話の会話を戦々恐々で聞いていたかなみは尋ねる。自分の背負っている借金と同じ金額だから過敏になっているせいか、訊かずにはいられなかったのだ。

「ん、こいつの値段よ」

 あるみはアタッシュケースをトントンと人差し指で叩く。

「この中に何が入ってるんですか?」

「企業秘密……って言いたいところだけど。ま、いいか、あんた達にも協力してもらうから見せても問題ないか」

「え……?」

 かなみと翠華に衝撃と緊張が走る。まさかこんな形で爆発するなんて思わなかった。

「わ、私達もこの仕事に参加するんですか!?」

「ええ、その方が成功率が上がるしね」

「で、でも、一億の仕事ですよ!」

「今までやってきたのが百万なんだからたかがその百倍じゃないの」

「百万の百倍って! 単位がおかしいですよ!」

「せめて、かなみさんの借金と同額って言った方がイメージできると思いますが」

「翠華さん、それもおかしいですよ! あと借金は一億二千万です!! 借金の方が二千万多いです!」

「そこ張り合うところなのかしら?」

「まあ、かなみちゃんの借金はどうでもいいとして……」

 よくないです! とかなみはツッコミを入れるが無視された。

「人手は多い方がいいわね。みあちゃんが来るまで待つわ。それまで一休み一休み」

「え、でも……時間は今日の午前0時ですよね。間に合うんですか?」

「大丈夫大丈夫、急がば回れってね。時間はまだたっぷりあるし、何より一休みしないと私の体力がもちそうにないし」

「魔力の方は大丈夫なんですか?」

「まったく問題ナッシングよ。いざとなればとっておきがあるしね。それじゃ、作戦決行は八時にするわよ。おやすみ~」

 そう言ってあるみはオフィスを出て、仮眠室に向かう。

「なんだか、凄いことに巻き込まれましたね……」

「え、ええ……まさか、一億の仕事なんて。今までとは桁違いの山場になりそうね」

「うわ……緊張してきた……! このアタッシュケースには一億のブツがあるってことなんですよね?」

「そう、なるわね……こんなところに無造作に置いちゃって大丈夫なのかしら?」

 緊張は募る一方だ。

 みあが早く来てほしい、と二人は心底思った。

「…………………………」

「…………………………」

 沈黙は続く。一分、いや時計を刻む一秒すら恐ろしく長く感じる。

(嫌な感じ……)

 翠華は思う。これはついさっき――かなみが来る前の翠華が一人でいる時の感覚に似ている。

 それから、みあがやってくるのは時間にして数分程度であったが、二人にとっては数時間にも長く感じた。



 時計がきっかり八時になってから、あるみはドンと扉を叩いてオフィスに戻ってくる。それにしてもあるみは毎回思いっきり叩いてくるのだが、扉に何か恨みでもあるんじゃないのかと疑問に思う三人であった。

「さあて、時間ね」

 入ってきて早速社長用デスクに座って仕切り出す。その趣には先程の髪ボサボサで目にクマを作って、眉間にシワを寄せた疲労困憊の様子は一切無く、きっちりと髪を整え、化粧でクマを消して、カジュアルスーツに着替えたキャリアウーマンとしてのあるみの姿であった。

「本当に大丈夫なんですか?」

 あるみに自信があるとはいっても、時間が迫っている上に案件の金額が金額なため、かなみ達は不安を隠せないでいた。

「それもあなた達次第よ」

 そこであるみは不安を更に煽る返事をする。

「私達次第……?」

「ええ」

「それよりも、まずは何の仕事か教えて欲しいんだけど」

 仏頂面でみあはあるみに問い質す。あるみに対しても強気な姿勢でいられるのはさすがといったというべきか、それとも幼さゆえの怖いもの知らずというべきか。

「かなみったら、入ってくるなり『一億で~』とか『借金が~』とか言っちゃって全然意味不明だったんだから」

「あはは、私達も全然知らなくて、それで上手く説明できなかったんですよ」

 かなみは気が動転して事情を説明できなかったことを笑ってごまかそうとする。

「まあ、ろくに説明もしていないんだからそうなるわね」

 不思議とあるみはそれを納得する。

「そうなんですよ。社長がもっと詳しく教えてくれていたらちゃんと説明できていましたよ」

 本当にそうかしら、と翠華は密かに思った。なにしろ、かなみは借金のことが絡むと落ち着いていられないきらいがある。みあに上手く説明できなかったのもそういった一面が出てしまったのが、本当の原因ではないかとも思える。

「メンドーだからみんな揃ってから一度に説明するつもりだったのよ。だって同じことを二度も三度も言うのは疲れるし」

「だからって大事なアタッシュケースをここに置き去りにしてもいいってわけじゃないですよね?」

「ん、ああ……これね」

 あるみはパカッと開ける。一億の代物とあれば自然とこれは危険物と連想してしまい、気になっても開けられなかった。それがあまりにも簡単にあっさりと開けられてしまった。

 少々拍子抜けしたが、肝心の中身を見て考えを改める。

 アタッシュケースの中身は20本も敷き詰められた試験管で、その試験管には全て墨汁のような黒い液体が入れられている。

「なんか、見るからにヤバイモノが出てきたわね……」

「なんですか、これ?」

 みあの言うとおり、試験管に詰められた黒い液体というだけで怪しくてヤバイモノに思えてならない。それが一億円という大金がかかってるとなると一種の神秘性まで感じさせる。

「――育毛剤よ」

「え?」

 あるみが答えた一言はあまりにも予想外すぎて理解が追いつかなかった。

「い、育毛剤……?」

「そう、育毛剤よ」

 二度繰り返して言う。そうすればさすがに理解は出来る。

「はあ~!? まじですかッ!?」

「冗談でしょ、ただの育毛剤になんだって一億も値がつくのよ!?」

 みあの言う事ももっともだ。こういう訊きにくいことをみあは代弁してくれるのでありがたい。

「ただの育毛剤なんかじゃないわ。極めて強力なヤツよ、一滴でも塗れば効果テキメン。一毛も生えない荒野に実りある鮮やかな毛をもたらすと謳ってるわ」

「謳ってるってどこが? そんな育毛会社、聞いたことはないわ」

「ネガサイドよ」

 あるみがそう答えると自然と露出癖のある女性、妙にハイテンションな男、小生意気な坊っちゃんの三人が頭の上に思い描かれる

「あいつら、いつから悪の秘密結社からハゲの味方に鞍替えしたのよ」

「私達も正義の秘密結社とは言い難いけどね……」

「正義の味方ってわけでもないけど、っていうか、正義の秘密結社って……」

「そこ、笑うなぁッ!」

 みあは激怒する。時々変なことを口を滑らせるんだよなこの娘、と二人は思う。

「正義の秘密結社、ね……そのキャッチフレーズ、いいかも……」

「あの……社長、脱線してたらせっかくの時間が勿体無いですよ」

 翠華が話を戻す。

「そうね……まあとにかく、これは超強力な育毛剤で売りさばけばレート次第で莫大な利益を生み出せるのよ」

「莫大な利益ってどのくらいですか?」

「かなみちゃんの借金、百回返してもおつりがくるわ」

「社長、一本ください」

「かなみちゃん、目が本気ね」

「社長、煽らないでください」

 また翠華が話を戻す。

「まあ、信じられないけど、これが凄い値打ち物だってことはわかったわ」

「理解はできないと思うから認識だけはしてればいいわ。とにかく、これをネガサイドの拠点潰して奪い取るのは一苦労したんだからね」

 あるみの『一苦労』というのなら、それは相当なモノだったのだろうと容易に想像がつく。

「おまけに数少ないもんだから揃えるのに、二つも三つも駈けずり回る羽目になるし、」

「いくつ潰したんですか……」

「さらにさらに、追っ手を巻いたり、ぶっ飛ばしたり……」

「あの、社長……長くなるようでしたらまた今度にしてもらえますか?」

 翠華がいてくれて本当に助かったとかなみとみあは思った。もし、いなかったら状況説明だけで日付が変わってタイムリミットになるところだったかもしれない。

「そうね、時間差し迫ってるしね」

 『誰のせいですか』と三人は思った。

「時間無いから、作戦内容は簡潔に話すわ」

 『だから、誰のせいですか』とまた三人は思った。この時、三人の心は間違いなく一つであった。

「今回の作戦はね……ズバリ、こうよ!」

 ドン、とアタッシュケースを勢い良く閉じる。

 中の試験管が割れてないか心配になるのも束の間、閉じられたアタッシュケースが瞬く間に四つに増える。

「みんなに一つずつ持ってもらうわ。一つだけ本物であとの三つは囮用の偽物よ」

「なるほど、社長が無事に駅に辿り着くために私達が囮になる、ということですね」

 翠華は即座に理解する。頭の回転が速い、とかなみは感心する。

「いえ、私が囮よ」

「……え?」

 その返答に翠華だけではなく、かなみとみあの頭の回転が止まる。

「考えてもみなさいよ。今さっき拠点をぶっ潰した敵が動きまわってるのよ、追撃しないわけないじゃない?」

「それは、確かにそうですが……」

「だから、あなた達三人の内誰かが持っていた方がいいのよ」

「でも、誰が持つんですか……?」

 震え声でかなみは訊く。一億……育毛剤とはいえ、その金額の代物を任されるのだから、その緊張は並大抵ではない。

「それは秘密よ」

「……え?」

「誰が持ってるかわかってたら、そんなに緊張しないでしょ?」

「緊張とかそういう問題じゃないでしょ? 誰が持ってるのかわかっていないと不便ですよ!」

「それ以上に敵に勘付かれる方が危ないわ。そういうのって雰囲気で見抜かれるものよ、『ああ、こいつは囮か』ってね」

「う……」

 そこまで言われると翠華も言い返せなくなる。普段はとぼけていても、こういうときのあるみの説得力は十分ある。

「というわけで、誰が持っているのか本人もわからないくらいでちょうどいいのよ。さ、持って持って」

 あるみに言われるまま、かなみ達三人はそれぞれアタッシュケースを持つ。

「駅までのルートはそこのマスコット達に叩き込ませたからナビは問題ないはずよ」

「まったく、色々つめ込まれていい迷惑だよ」

 マニィはボヤく。

「あの社長……もしかしてそのために時間がかかっていたんですか?」

「さ、無駄口を叩いてるヒマはないわ。さっさと行くわよ!」

 そう言ってあるみは電光石火の早業でオフィスを出て行く。煙に巻く、それもあるみの特技なんだ、と最近かなみは思う。

「はあ、どうしましょうか?」

 かなみは途方に暮れる。

「やるしかないんじゃないの。とりあえず、失敗したら後が怖いし」

 一億の仕事の失敗で怖いのは社長だけなのか、とかなみはさすが大手の社長令嬢だと思った。まあ、社長が怖いのは同意だが。

「まあ、誰が持ってるのかわからないなら、みんな条件は一緒ってわけね。それならみんなで送り届ければ問題ないわ」

「いっそのこと三人、一緒に行動します?」

「それだったら囮の意味ないじゃない?」

 みあの返事は辛辣だ。

「かなみさん、一人で心細いのはわかるけど心は一つよ」

「そういうのってキモくてひくけどね」

「え、そ、そうなの!? かなみさん、今はひいちゃったの!?」

「い、いえ、そんなことありません……でも、なんだか愛の告白みたいで照れますね」

「あ、愛の告白……?」

 翠華は顔を真赤にして卒倒する。

「はいはい、そういうことは終わった後にしてよね。みてられないわ」

 みあはそう言ってオフィスを出て行く。

「え、ちょっとみあちゃん? そういうことって、どういうこと?」

 かなみだけがその言葉を理解できなかった。

「……うっかりしてたわ、そういうのってまだ早いわよね……でも、そんなこと言ってたらいつまでもできないし……勢いが大事なのかもしれない…………」

「あの、翠華さん……?」

 軽くトリップの翠華を現実に戻す。

「は、かなみさん! ち、違うのよ、今のはそういうことじゃなくてね!」

「何を言ってるんですか?」

 身振り手振りで必死に言い繕っているが、かなみには何のことだかわからない。

「え……あ、そうだったわね……」

 そのおかげで翠華は現実に引き戻される。

「ま、まあ、今のことは気にしないで。お互い頑張りましょうってことで」

「そうですよね。でも、翠華さんの言葉、とても心強くかったですよ」

「そ、そう……それはよかった……じゃ、じゃあ……!」

 翠華はそう言ってフラフラとした足取りでオフィスを出て行く。

 あんな状態で大丈夫なのだろか。でも、翠華のことだからきっと心配ないと思うかなみであった。

「君って案外罪作りなんだね……」

 一人残ったかなみにマニィはため息混じりにぼやく。

「どういう意味?」

「知らなければそれでいいよ。さ、僕達も行こうか」

「え、ええ……ああ、緊張してきた……どうか私のが本物じゃありませんよ―に……」

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