#4 ある無名インターネッツ物書きの距離

 その晩、穐山はいつものようにノートPCに向かい合っては、急須で淹れた煎茶を片手にぼちぼちと小説を書いていた。既に何度も淹れているため出涸でがらしになってしまい、湯呑の中の液体はかなり薄い緑色になってしまっている。

 彼の執筆スピードは決して速くはないが、急いで書かなければならない程に彼の作品を求める読者もいないので、どれだけ時間がかかろうと問題はない。気楽ではあるがこれはこれで悲しく虚しい事実である。

「うむ……」

 穐山は表現したい言葉が詰まって出て来ず、モヤモヤとしながら考えている時だった。

 何の前触れもなくドンドンドンと、築五十年越えの木造アパートの戸を叩く音が響く。時刻は二十三時を回っているが、インターホンのないアパートの部屋へ、何者かが容赦なく激しく拳を叩きつけている。これには部屋の住人どころか、壁が薄いので近隣住民にも迷惑である。

「ちょっとぉ~っ! いるんでしょぉ~っ! いるのはわかってるんだからぁ、さっさと開けなさいよぉ~っ! 責任取りなさいよぉ~っ!」

 深夜にも関わらず戸をドンドン叩きながら、身に覚えのない責任を擦り付けようとしている声の主は、聞き間違えるはずもない相手だ。穐山の宿敵(本人談)であり高校時代からの腐れ縁の白滝である。

 しかも語尾がやけに間延びしており、気の抜けた物言いだ。

 うわっ、こいつは厄介なのが来てしまったと思いながらも、ご近所に迷惑が掛かっては申し訳ないと思い、穐山は仕方なく小ぢんまりとした玄関へ向かう。古い鍵を開錠して扉を開けると、顔を真っ赤にした白滝が倒れ込むように部屋へ入って来た。

「とほぉぅわ~っ! あぶな~いっ」

 片手にはバッグ、もう片手にはチューハイの缶を持っており、転びかけた彼女を抱えた穐山は漂う酒気から全てを察した。

「お前、どれだけ飲んだんだ」

「覚えてんなぁ~い」

「こりゃ随分飲んだな……。で、また俺の家をホテル代わりに使う気か」

「んんん~? ダメなのぉ~?」

 上目遣いで訊ねる白滝に、部屋の主は強く出られない。今回に限った話ではなく、彼らが二十歳はたちを越えてからこういう機会は幾度かあった。

「今更あれこれ言うつもりはない。まあ上がれ、どうせ終電逃したんだろう。もてなすものはないが、寝るには使える部屋だからな」

 穐山は大学の近くのアパートに部屋を借りて住んでいるが、白滝は両親からの反対もあって実家から通っている。そのため友人と飲んで終電を逃してしまった時、彼女は穐山のアパートを訪ねて宿を貸して欲しいと言ってくるのだ。

 最初こそ穐山も倫理的に如何かと考えたが、もはや慣れてしまった。追い払って暴漢に襲われては良心が痛むというのと、わざわざ金を払ってネットカフェやカラオケで寝泊まりさせるのもかわいそうだと思ったからである。

「ほら、腕を貸せ」

「ん、あんがと……」

 宿敵ながら情けない姿だと思いながらも肩を貸し、布団を敷いて寝かせる。二人分の布団など持ち合わせていないので、こうなれば穐山は床で寝るしかない。

「茶と水、どっちがいい」

「みずー」

「はいよ」

 蛇口を捻りコップに水道水を注ぐと、白滝を起こして持たせた。

「ほら、飲んでおけ」

「あんがと。んぐ……んぐ…………ふあぁー」

 コップの中は一瞬にして空になり、ふちに付いていた雫が底に落ちた。

「ふぅ……少し落ち着いた。あー、持って来たチューハイ飲んでいいよ~。飲みかけだけどね」

 泥酔して赤らめた顔のまま、冗談なのか本気で言っているのか判別しがたい態度で、バッグの横に置かれているチューハイの缶を指差す。

「そんなもんを勧めるな……」

 缶を持ち上げると半分以上残っているが、これをそのまま流しに捨ててしまうのも勿体ないと、ここでも穐山の倹約家の血が騒いでしまう。彼は普段酒を飲まない。飲めないわけでなく、浪費を避けるためにあまり自分で買って飲まないのだ。

「礼として受け取っとく。布団も取られたからな」

 グイと喉に流し込むと、ほんのり甘い味と微かなアルコールが口の中に広がり、穐山はゆっくりと息を吐いた。チューハイなのであまり度数は高くないが、煎茶と水道水に慣れ過ぎた彼の体は久々に摂取した酒に躍る。

「一緒に寝ればいいのにぃ」

 敷かれた布団へうつ伏せになりながら枕に顔を埋め、目線だけを穐山に向ける。酔って少し乱れた衣服が蠱惑的だが、彼は気にせずに二口目を飲んだ。

「冗談」

「アッキー、どうせ何もしてこないでしょ」

「さあね、俺だって若者らしく肉欲に負けるかも知れん。あとアッキー言うな」

「そう言ってるうちは大丈夫だねー」

 軽口を叩いてくる白滝を余所に、穐山は中断していた執筆作業を再開する。書いているのは継続して連載している、本人曰く重厚な設定によって構想したファンタジー小説。全く人気の出ないネット小説だ。

 戦闘シーンに入っており、主人公や仲間たちの動きをどうするべきか、どうすればかっこよく描写できるかなどの趣向を凝らしている。難解な文字の羅列と「――」という棒線や擬音が混じり、文章の緊張感を演出している。

 しかしほんの少し酒が入っただけで頭がぼんやりとしてしまい、考えがまとまらなくなっていた。

「手が止まってるじゃん」

 布団から起き上がった白滝は、立ち上がるなり千鳥足で穐山の後ろに付くと、両肩に手を置いて掴み、後ろから画面を覗き込む。

「ほほぉう、新作ですかな。さすが檜枝せんせー、更新頻度が高くてよろしいねぇ~」

「おい見るなよ、機密情報だぞ。布団は貸すが執筆中の作品ものを見せるほど、敵に送る塩は持ち合わせてないんだ」

「いいじゃん、どうせアップするやつでしょ~? 遅かれ早かれ読むんだしさぁ」

 肩に顎を置いてPCの画面を覗き込んでいる白滝の髪が、彼の耳の辺りをこそばゆくくすぐる。また密着した彼女からは酒の匂いに混じって漂う、フレグランスのような甘い微香が、弛緩しつつある彼の思考に麻痺の加速を錯覚させた。

 背には彼女の胸部が当たっている。ただし本人は酔いが回っていて気にすることもなく、穐山だけが悶々と込み上げてくる本能を騙し騙しに隠して、矛先をキーボードへ向けた。

「……酒臭いから離れてくれないか」

「え、におう? はあー」

 耳をくすぐって首まで通り抜けた彼女のぬるい吐息に、不意打ちされた穐山は思わず身震いする。酒気を帯びた飴色の微風は、やがて彼の鼻に到達した。

「うわっ、息を吹っ掛けるんじゃない! しかも本当に臭うぞ! さては焼酎も飲んだな!」

「せぇかいー。よくわかったねぇ。ちなみに飲んだのは芋焼酎ぅ~。癖が強いんだけどいいんだよねぇ、あの辛みがまた」

「オッサンか!」

「それより本当ににおうって、どゆこと?」

「いやそれは……」

 誤魔化したつもりが逆に追及された穐山は、白滝の腕を掴み、ズルズルと布団へ引きずる。六畳の部屋に敷かれている布団には、もうしっかりと彼女の匂いが上書きされていた。

「臭うものは臭うんだ。大人しく布団で寝ていてくれ」

「けちぃっ」

 酒の抜けていない白滝は、ノートPCの置いてある方へと戻ろうとする穐山の足を掴む。足元に目など配っていなかった彼は足をすくわれ、視界が上下逆転する。咄嗟のことに何が起こったのか理解が及ばない穐山は、顔を引きつらせて畳の床へと後ろ向きに転倒した。

 深夜にも関わらず、アパート中にぎっしりと中身の詰まったタンスを倒したような、重量感のある物音が響く。穐山はまともに打った腰のことよりも、まず近隣住民への申し訳なさが先行して頭によぎった。次に築五十年の床に穴が開かなくて良かったと、心底安堵した。そしてこれでは大家に怒鳴り込まれても文句は言えないと、転倒して一秒にも満たぬ間に覚悟した。

 これには穐山も堪忍袋の緒が切れ、足を掴んだ張本人に説教の一つでもせねばと起き上がろうとした。だがそれは、彼を転ばせた張本人に阻まれてしまっていた。

「……どくんだ、白滝。話をさせてくれ」

 倒れている彼に覆いかぶさりながら、白滝が瞳を覗き込む。目と目が合っている気まずさに穐山は視線を逸らそうとしたが、物言いたげな瞳がそれを許さなかった。

「どうして足を掴んだ。おかげで腰は痛いし、物音はひどくて近所迷惑だ。明日は朝から隣と下の階の人に謝りに行かなきゃならんだろうな」

「…………」

 問い対する答えはない。耳に届いてすらいなかった。

「白滝?」

「アッキーはさ」

「アッキー言う――……」

「こんな風にされても、なにも思わないの?」

 迫真がかかった彼女の問いかけにもまた、穐山の答えはなかった。正しくは、彼はどのように答えたらいいのか判らなかった。回答に逡巡したなどではなく、彼女の質問の意図に理解しかねたのだ。それよりも、どうして彼女が自分の足を掴んだのかという疑問の方が、今の彼は気になっていた。

「そこをどいて欲しいとは思う、あとわざと転ばせた理由も」

 しばし考えた後、率直に今の要望を口にした。白滝は「そう」と小さく頷くと、失望したとばかりに不満を表に出す。

「だろうね。アッキーがこの状況においてもわたしに思うことがないのは、顔を見ればわかる」

「思うことがないって、何に対してのことを言っているんだ? いや、ないことはないだろう。さっきどうして足を掴んだんだ」

「じゃあ質問を変えるね。あんたはわたしのこと、どういうヤツだと思ってる?」

 白滝が如何様いかような気持ちを込めてその問いをしたのか。異性に接近した上でこんな訊き方をすれば大抵の男は意図を汲み取るものだが、穐山に関しては例外だった。ある意味では純粋過ぎるほどに真に受けて、むしろ彼女の求めている答えから逸れてしまうのだ。

 彼は彼女に対して一つの思いを持ってしか見ない、見られない。故に、穐山にとっての白滝、あるいは時津蒼に抱く感情はこのひとつしか存在しなかった。

「決まってるだろ。何度も言ってるが宿敵だ。俺の人生における越えるべき壁、目標であり尊敬する好敵手。高校生の頃あのころからそれは変わらん」

 敵が身近でありすぎるからこそ、そして光が強すぎるからこそ、白滝を一人の女性として等身大に見ることはない。

 白滝が光の極みたる境地に立つものなら、穐山は僻地の影に這う屍にある。対極に座する者同士だからこそ、光に位置する白滝が望む理想が叶うことはなく、。どれだけ同じ書き手として親しく、由縁ある人物であろうと、根底にある振れ幅は変わらないのだ。

 穐山が鈍いな男だという問題ではなく、これは彼女に対する価値観が世俗的なものからかけ離れているからだ。同時にこれは一方通行な価値観でしかなく、白滝が本心を知ったとしても理解しがたい。

 彼の回答は、白滝の失望を充足させた。そして望んでいた回答は決して得られないのだと、顔を顰めて確信した。

「……そう」

「どうか、したのか」

 白滝は穐山から離れて立ち上がると、何事もなかったかのようにそっぽ向き、無言のまま布団へ潜り込んだ。

「おい、こっちの話が終わってない」

「明日聞くから、今日は寝る」

 追及するも、背を向けたままで不貞腐れるように答えた。

「お前酔ってるのか」

「酔ってるよ。だから寝る、お酒入ってて眠いし」

「むちゃくちゃだぞ」

 互いに苛立ちを覚えていたが、両者とも相手のことに気遣う余裕などなかった。とりわけ、白滝に関しては彼の回答には満足出来なかったし、摂取していたアルコールが悪酔いさせて、不機嫌さに拍車をかけていたのもある。ただし、腹の中では吐き出せない感情が煮えたぎったまま焦げていたのは、紛れもなく本心であった。

「いつものことじゃん。じゃ、お休み」

「おい、白滝っ」

 穐山は布団を被ったまま背を向ける彼女をしばらく厳めしく見ていたが、やがて寝息を立て始めた。さっきのやり取りなどついぞなかったかのように快眠へ落ちた白滝を見やり、説教する気も抜けてしまった彼は、頭を冷やそうと窓に頭を出して項垂れた。

 時間も遅いため外を出歩く人はおらず、街灯に群がる羽虫だけが見えた。

 冷やすには向いていないぬるい初夏の夜風を受けながら、どうして彼女が不機嫌になったのかの理由をしばし考えるが、答えには至れない。すれ違い、交わらぬ平行線を歩く二人がどちらか片方の意見に納得するなど、はっきりと口にしない限りありえないのだ。ただし、穐山は一つだけは何をすべきかを念頭に置いていた。

「朝になったら、他の部屋に謝りに行かないと……」

 町の空気を肺にいっぱい吸い込んだところで、窓をぴたりと閉めた彼は執筆作業を再開した。

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