第三章・笑美1

「決まったんだ?」

 よろしくお願いします、と締め括った、バイトの採用通知の連絡を受けた私の背筋が凍る。背後から聞こえた声そのものも、ずいぶんとひんやりして聞こえた。ぞっとする。振り向くと、濡れた髪をごしごしとバスタオルで拭きながら、漉磯先輩がこちらを見ていた。スウェットの下だけを履いた、だらしない格好。紺のスウェットはゴムがいいだけゴムが緩んでしまっているようで、ずり下がっている。へその下、スウェットが下がりすぎて隠れきっていない陰毛がちらついていて、下着すらまともに履いていないのが分かってしまい、嫌悪感で身の毛がよだった。目を背けたくなるのに、身に危険が迫っている以上、なかなか目を離すこともできない。私が反射的な防衛本能で電源ボタンを押した携帯を胸に押しつけると、それがゴーサインになっちゃったみたいに、漉磯先輩の腕が覆うように私の両肩に降りてくる。入水するような感覚。息を止める。漉磯先輩のことだけは、当然だけど、どうしても好きにはなれない。好きになる必要なんてないけど、逃れられないならその方がセーシンコーゾー上、ましなのかもしれないと考える夜も多い。だけど嫌悪感からその先、別の何かに発展することは、どこまでもない。それなのに、このところは私も無抵抗だった。下着を脱がされることに、この上ない絶望と屈辱を味わいながら、唯一の抵抗として、頭の中でるんを呼び起こして、まるで呪文のように反芻させる。るん。私のるん。子どもの時の、私もるんも純粋だった頃の記憶が、VTRのように何度も流れる。蕾のように固い私の身体に不満げな漉磯先輩に頬を叩かれ、電撃のような痛みが走っても、記憶はとめどなく流れてくる。高校に入るまではずっと一緒にいた弟。思い出なら満天の星空のようによりとりみどり、強く輝いている。

 ナイフを引き抜かれたかのような感覚に伴い、空気が直接、ひりついた性器に触れるのを感じる。その痛みに、私は動物のような低くくぐもった声で呻いた。声と同じように、きっとひどい顔をしている。本来なら、人に見せてはいけないような。目をきつく閉じた状態のまま、顔射される。精液のぬるさを頬や鼻に感じながら、バイトが決まったことで事態が好転してくれることを、切に祈った。


「寛軌? ああ、さっきね、お兄さんが連れ戻しに来て、帰っちゃったよ」

 寛軌先輩は、私の外出時にあっさりといなくなった。戻ってくることもなかった。私をダシに使ってまで、ここにやって来たと言うのに。だけど、寛軌先輩のお兄さんがここを見つけたんだから、私だって危ないかも知れない。寛軌先輩から情報が漏れる可能性がある。保はサイアクだけど、るんが来るなら私はもはや嬉しい。また、家に連れ戻されるんだとしても。今、私が飛び込める胸は、るんの胸だけだ。だけど今のところ、保やるんが来た形跡はない。

もしかしたら、本当はもうここに来たのに、漉磯先輩が適当なことを言って、私の存在を隠したのかも知れないけど。

 あっけらかんとそう言った漉磯先輩は、先輩の事情を汲んだって言うていだったくせに、強制送還された後輩に同情する素振りはこれっぽっちも見せず、いっそ好都合とばかりに私を襲いまくった。このところは、股がひりひりして痛痒い。ヤラれ過ぎだ。性病にでもなっていそうで怖い。

 こんな事態になっても、私はあの家に帰ることを望まなかった。漉磯先輩の横暴は、保の横暴よりも次元が違うにしてもひどいものがあったし、こちらには誰も味方がいないのに対して、向こうに帰れば友達も少なからずいるし、るんだっている。だけど、私にも意地があった。漉磯先輩にレイプされようが、寛軌先輩が帰ろうが、私は保の檻の外で生きたい。戻って、従う従わないは別にして、あいつにいちいち指図される人生はもう嫌だ。あの声が、意識が私に向いていると言う事実が、もはや私には耐えられない。

 無抵抗とは言え、承服した訳ではなかった。抵抗すれば引っ叩かれる。インコーが暴力に変わるだけだ。だから、私はひたすらマグロだった。だけど、当然ながら行為はエスカレートするから、エグいプレイを要求されて、私から手を煩わなきゃいけないこともざらになってくる。拒めば、やっぱり殴られる。その時に思う。私は貝になりたい。映画は観てないし、どんな内容かすらちゃんと知らないけど、CMで見た表情のないジャニタレの顔が浮かぶ。泣いていたのも最初のうちだけ。もう、涙すら出ない。だけど、やっぱり家族萎えを狙って、るんのことを思い浮かべることだけは毎回、忘れなかった。まるで子宮が、異物を拒むように脳みそをせっせと働かせ、屈するのを拒み続けるかのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る