第三章・笑美2

「最近、よく一緒になるね」

 ちゃんとした身分証を持っていない私ができるバイトは限られていた。登録制の、イベントスタッフのバイト。高校生不可と書かれていたから、年齢は十九歳と、二歳サバを読んでいた。

 漉磯先輩といるのはキケンでしかないので、できる限り、彼と一緒にいる時間を短くしたい。その思いが、夜遅くまでのシフトを増やしていた。漉磯先輩が疲れて寝静まってから帰ることに成功すれば、レイプされずに一日を乗り切ることもできた。

「あ、そうですね」

 社員だと言う宇賀神うがじんさんは、どうも食えない。見透かすような目をするから、何となく構えてしまい、きちんと話ができない。余計なことを言うと、ボロが出そうな気がする。漉磯先輩と同様、何か変わった苗字だし、と変なジンクスまで感じてしまう。寛軌先輩や漉磯先輩のせいで、ちょっと男性恐怖症っぽくなってるのもある。

 理由はよく分からないけど、この人は社員の中でも、どちらかと言うと昼からの勤務が多いらしく、夜遅くまでのシフトを選ぶ私と時間帯が重なることが多いようだった。

「石野さんって、俺の日に限らず出勤多いよね。有難いことだけど、いいの? もう少し、休んだっていいんじゃない? 今だって、残業してくれてる訳だし」

 できるだけ居たくないんだよ、あの部屋に。登録制ということもあり、勤務時間の線引きがシフト頼りになるから、残業まではシステム化されていないらしい。よって、残業代が弾む訳ではないのだ。本当のところを言う訳にもいかないから、心の中だけで毒づくように思う。登録制だから定着率も悪いし、メンバーも毎日その都度、変わってしまう。そのせいか、特定の同じ立場の人と仲良くするってことを、新人の私はまだできないでいた。比較的多く顔を合わせる人となると、宇賀神さんのように社員さんであったり、ベテランさんになってしまったりするのだ。同じ新人の立場ならまだしも、そんな人たちに、今の私の事情を話してしまったら、クビに繋がりかねない。

今日のイベントは、そこそこかしこまった様子の新製品の発表会だった。配られたかなりフォーマルな制服に袖を通している私は、チョーちゃんとしてるって感じで、東京の人っぽい。広場にかなりの席数を設営されていたものの中から、信じられない数のパイプ椅子を一気に担ぎながら、宇賀神さんは飄々と訊いてくる。漉磯先輩のことが無かったら、好きになってたかも知れないな、と思いながらも、やっぱり踏み込まれるのが怖かった。

「まあ、はい。でも、今はお金が必要で」

 嘘をつくのは苦手なのに、するりと口をついて出る言葉。確かに、お金は必要だ。だけど、それは第一位の理由じゃない。当然だけど、あの部屋からは一刻も早く出たい。もう少しでたぶん、一人で生活できるくらいの稼ぎと蓄えができる。だけど、漉磯先輩がもはやダッチワイフと化した私を簡単に手放すだろうか、と言う疑問もあった。彼も仕事をしているので、隙を見て逃げようと思えば逃げられるとは思うけど、いざ出て行くことにした時、彼がどう出るかは分かったものではない。

「どうして?」

 随分とストレートで率直な訊き方だった。そんな風に訊かれるとは思わなくって、つい動揺して顔を上げ、振り返る。

「えっ」

 私の反応が意外だったらしく、宇賀神さんもまた顔を上げ、私の顔を強く見た。

「えって。どうして、お金が必要なの?」

 そんなに見つめないでほしかった。私の反応がおかしかったのは認めるけど、今の私には男性の視線が理屈じゃなく、怖い。

「えっと……あの。専門学校に、行きたくて」

 苦し紛れだった。十九歳で、お金が必要な理由なんて、正直よく分からないけど、高校時代、そんなことを言ってる十九の先輩に出会ったことがある。それを思い出して、そのまま答えた。

「……石野さん、それ嘘でしょう」

 つい、身体がびくっとなる。確かに嘘だし、苦し紛れなのは自覚があったけど、そんな風に言われるなんて、思いもしなかった。宇賀神さんはパイプ椅子の束を台車に乗せると、腰に片手を当てて言った。

「石野さんさ。別に今は客商売してる訳じゃないからいいんだけど、自分の顔、鏡で見たことある? たまに、すごい心配になる顔、してるよ。何か絶対、悩んでることとか、隠してること、あるでしょう」

 思わず、頬に手がいく。じんわりと身体が熱くなった。恥ずかしくて。

「……そんなこと、ないです」

 絶対、そんなことなくないトーンで言ってしまう自分がいるのが、心底嫌だった。こんな屈辱的な状況下に置かれていることは、あまり人に話したくはない。口にするのも怖い。だけど、誰かに甘えられるものなら甘えたいという気持ちも強い。あまりに強い感情が激しい葛藤を生んでいる。東京の人は冷たいって聞くし、バイトをする中で実際に冷たいなって思ったことも、何度かあった。寛軌先輩もいなくなって、今や東京の人で強い結びつきがあるのは、同じ部屋に住む漉磯先輩だけ。私をあんな目に遭わせる先輩は、東京で生きることに対する現実の厳しさの象徴にもなっていた。だから、こんな風に言ってくれる人がいたって言う事実だけで、凄く嬉しい。だけど、やっぱり事情を話すのは怖い。怖いし、簡単に人に頼っているようじゃ、一人で自立するなんてことはできない気がしていたし、また騙されるんじゃ、っていう恐怖もあった。

「まあ、喋りにくいことってあると思うし、話すのは俺じゃなくてもいいけどさ。一人で溜め込むのは良くないよ。俺、石野さんの笑顔って見たことない。部下が楽しく仕事できてないのかもって思うとさ、すごい気になるし、ヘコむわけ。現場責任者なんかやってる俺としては」

 その言葉が限界だった。迷惑を掛けてしまってるんだなっていうのと、ただのバイトでしかない私を〝部下〟って言ういかにも身内っぽい言い方をしてくれたことが、たまらなく有難かった。

 完全には重なりきらない白いコーヒーカップがからん、と音を立てて傾く。それを乗せる盆に、水滴が落ちたのに気付いた時にはもう、止まらなかった。

「石野さん?」

 異変に気付いた宇賀神さんが、声を掛けてくれているのに、返事ができない。自分の弱さに苛立ちながらも、泣き声が漏れるのを私は、いとも簡単に自分に許してしまった。


 家出のことや、年齢のこと。みっともなく泣きながらも私は、ここで働けなくなってしまうような事実は伏せて喋った。漉磯先輩とのことだけを抜き出して、何をされているのか全部、話した。台車に乗せた椅子や、私が片付けたコーヒーカップを一緒に運びながら、宇賀神さんは優しい眼差しを向けたまま聞いてくれた。今時そんなのある? ってくらい、まるで嘘みたいな話なのに。

私の話が進むうちに、その優しい眼差しがだんだんと険しいものに変わっていった気がしたのは、気のせいではなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る