第二章・涙3

「おかえり」

 空を見上げながら、篠美が言う。僕のことは見ていなかった。かなり憔悴しているのが分かる。今日もきっと、ありもしない薄い糸を手繰りながら、エンの行方を探していたのだろう。一日丸ごとの徒労が、面持ちに現れていた。

「ただいま。……今日は、藤白まで手を伸ばしてみたんだけどね、やっぱり、だめだった」

 保の会社(保はそこで、iモードのネットワークを管理する業務をしているらしい)近くにある、この辺りでいちばん大きな駅の名前を出す。そこは僕が普段、乗換をする駅でもある。エンも登校には利用しないものの、買い物やデートをする時に利用していたはずだ。一度、一緒に逃げたのであろう彼氏と歩いているのを見たことがある。――尤も、そのことは篠美にも保にも伝えられないけど。

「そう」

 何の疑念も持たない、弱々しい声だった。結果として、一日中デートしていた今日は藤白には経由こそすれ、改札から外に潜ることはなかった。県外の高校に通っているお陰で、両親やその知人、地元の友達や知り合いに目撃される心配もない。深川に関しては、クラスメイトの目に触れることも許されないので、待ち合わせる駅を変えている。深川については当然のことだが、史穂の存在についても僕は、保はもちろんのこと、篠美にも伝えていない。

 ――この秘密があれば、大丈夫。

 何の後ろ盾も根拠もないのに、ついそう思い込んで安心してしまう。このところの僕の悪い癖だ。

 すぐに部屋に引っ込もうと思った。しかし、タッチの差でそのタイミングは奪われる。

「……私の何が、いけないって言うの」

 脈絡も失ってしまうほど行き詰ってしまっている様子の幕開けにうんざりしながら、それでも振り向く。母のそれは独り言のような物言いだけど、それは確実に僕に聞かせる為の言葉だった。

「あの人の言う通り、お母さん、やってきたの。なのに、どうしてあの子はいなくなるの。どうしてお母さんが責められなきゃならないの」

 声に、少しずつ力が加えられていく。叫ぶような音量に達する前に、言葉が終わる。黙って二階に上がったって良いんだけど、それをしたら、この人は。そう思うと、足が動かない。

 篠美が立ち上がる。それだけで、息を止めるような気持ちになった。ここからのくだりはもう、終わりを待つばかりのルーティンワークのようなものだったから。

「ねえ、ルイ。答えてよ」

 予見する。今日も僕の身体に、何かしらの傷が残る。けもの道で枝に引っ掛けたと誤魔化した額の切り傷は、頬を打ったこの人の爪が額の薄皮を通り過ぎてついたもの。理由すら解らないことにした腕の青痣も、投げつけられた灰皿が直撃してできたもの。全て、この人の仕業だ。エンが逃げ出したことについて毎晩のように保に責められ、詰られ、それを黙ってただ耐え忍ぶ篠美が後になってから僕に吐き出す、全ての罪の証なのだ。


 虐待なんて言葉を、使う気力も起きない。エンの失踪に起因して、結局は保によって引き起こされている不安定は、止めようと思えば止められる。筋肉に乏しい細身とは言え、もう僕も高校生だ。五十代に差し掛かろうとしている、頭一つ背の小さい母を、抑え込めない訳もない。

 こんな風に篠美が不安定になるのは、実を言うと今に始まったことじゃなかった。幼い頃から、保に何か言われるたびに、この人は殆ど言い返すことなく、ただただ胸の裡から湧き上がっているであろう言葉を飲み込んできた。詰られて俯いた篠美の視線の冷たさを、小ささ故に見上げていた僕はよく知っている。言い返したケースも何度か見たことがあるが、残酷なまでに百倍の勢いで押し返されてしまい、なおのこと篠美の中に多くの言葉を滞留させてしまった。篠美も、それをうまく吐き出せないタイプの人間なので、二人の言い争いは、決まって篠美にとって悪循環を極めるものにしかならなかった。

それが僕に発露する頻度は、そう多いものではなかったが、ある程度僕の中で類型化できるくらいの頻度ではあった。篠美が僕にだけ発露する、心の腑に眠らせていた負の感情。エンは無邪気に、お母さんはるんに甘い、といつも頬を膨らませていた。その甘さの裏で僕が篠美に何をされているのか、エンは知らないのだ。それはまた同時に、エンに発露している様子は、まったくないということでもあった。それを除く篠美への不満も、保に従属していること以外に言及していなかったので、間違いないと思う。僕らは双子なのにも拘らず、何故エンには手が伸びないのか。長いことやられているだけあって、それも何となく解っている。単純にエンが女の子だから、と言う単純なことでは決して、ない。

篠美は、僕が保に似ていると確信しているからだ。

篠美にとって、僕は保の分身。だから、溜め込んでいたものが行き場を見失って発露しているということだけではなく、僕を見ると、条件反射のように保への憎悪が再燃するらしいのだ。

「あなたのそういうところ、お父さんそっくりよね」

 言われるたびぞっとするのだが、僕をただ叱る時や、日常の会話の中でもその言葉は出てきていた。切羽詰まった時も、その意識が呼び起こされてしまうのだろう、決まって篠美は僕の前だけで顔を歪めるのだ。どうして、とこぼし始め、間もなく手を出してくる篠美に、僕は当初、謝ってばかりいた。叩かれるたび、身体を揺すられるたび、ごめんなさい、とそればかり呟いていた。ごめんなさいお母さん。ごめんなさい。ただ謝ることしか、できなかった。身代わりのように、僕を掃き溜めにする母親の醜い弱さになんか、幼い僕には気付けるはずもなかったから。


 涙が落ちるのが合図だった。篠美が泣き崩れてさえしまえば、手は止まる。しゃがみ込んでしまうと面倒なので(一度や二度ではないが為に、知ってしまったやるせないノウハウ)立ち尽くしているうちにすかさず手を引く。嗚咽を漏らしだした篠美を、僕は無言で寝室へ連れていった。ベッドの上に座らせてしまえば、あとはもう知ったことではない。まだ乱れた心が整わないままの篠美を残し、寝室を後にした。

 寝室の戸を閉め、打たれた頬を押さえながら、考える。あくまで無抵抗に母親の責めを受容すること。これは、優しさなどでは決してない。正しさを携えて拒んでしまえば、また篠美のフラストレーションは溜まる一方かも知れないが、別に抵抗したっていい。殆どの子どもがそうすると思う。それこそが、正しい。ただ他でもない僕がそれをすると、保と同じだと言われてしまいかねない。それに、僕は心のどこかで待ち望んでいる。篠美が、やり過ぎてくれはしないだろうか、と。病院にかかるような怪我をさせられるとか。篠美の不安定を目の当たりにして息を止めるたび、決まって心の奥底から浮かび上がる言葉がある。

 ――いっそ、殺してはくれないだろうか。

 そうしてくれれば、と切に思う時がある。殺される義理なんてないし、僕だって人間だから、いざとなれば本能的に抵抗はすると思う。だけど、思ってしまう。それくらいしないと、保は気付かない。篠美も気付かない。

 この家族は、完全には壊れない。

 居間に戻ると、ちょうど保が帰ってきた。舌打ちが出そうになる。今夜はいちいちタイミングが悪い。

「おかえりなさい」

 流石にもう、部屋に戻りたかった。篠美に殴られた右肩が痛かったし、そもそもその前に二人の女性を相手にしているので、疲れていた。不満を滲ませる彼女、はしゃぐ担任教師、泣き狂う母親。うち二人は自分で選び取って相手しているとは言え、流石に疲労が募っているのは否定できない。だけど、保もまた僕を呼び止める。最後の砦、と意識して対峙する。

「今日、藤白に行ったんだろ。どうだった?」

 うんざりする。芳しい結果があれば、すぐに連絡するに決まっているだろうに、何でわざわざここで答えてやらなくてはならないのだろう。そんなに娘が気になるなら、悠々と日曜出勤していないで、自分で探せ。

「何も、解らなかったよ。遠くに行っちゃったのかもね」

 吐き捨てるように言ってしまったのにすぐさま気付き、心の底から後悔する。表情のなかった保の顔が軽く歪む。

「お前、真剣に探したんだろうな。あ? いいか、元はと言えばお前や母さんがしっかり見ていないからこうなったんだぞ」

 あ? という威圧的な、もはや意図すらない口癖に理屈でない嫌悪感を覚えながらも、同時に吹き出しそうになるのを、必死で堪える。これを本気で言ってくるのだから、本当に呆れてしまう。保を嫌悪し、避け、言葉を交わすたびに僕に泣きついてきた哀れなエンの姿が思い出される。言ってやりたい。全ての元凶は、お前だと。嘲笑ってやりたい。

「ちゃんと探したよ。笑美が行きそうなとこも行ったし、あのあたりに住んでるって言う友達のところも当たった。でも何にも無かった」

 可笑しいのを必死でこらえ、流石に顔は背けながら演技した。裏取りなんてしないだろうし、これまで僕もある程度真剣に映るように協力してきたから、ここまで言ってしまえば保も文句は言えないはずだ。最後まで気は抜けなかったが、今日はそれ以上追及されなかった。

「ったく、家族が一人、いなくなったって言うのに」

 ぶつぶつと、保は最後まで文句を垂れながら寝室に戻っていった。その先はドアが遮って、耳まで届いて来なかった。

 ――知ったことか。家族のことなんて。

 エンのおかげで、完膚なきまで家の中はぎすぎすしている。しかし、何もかも正しいのはエンだ。こんな家、捨てて当然だ。この後、また保が篠美に何か言うかもしれないと思うと、嫌な気持ちでいっぱいになった。

何故、僕はこんな家に帰ってくるのだろう。思えば、不思議だった。こんな家、放っておいて、深川とゆっくりひと晩を過ごした方が、よほど僕にとっては幸せだ。それこそ、普段から反発していたエンよりも、表面的ではあるが従順だった僕がいなくなった方が、両親は自分たちを省みるかもしれないのに。家出という方法がリスキーだと考えるなら、篠美に殴られているという事実を盾に、正当な方法でこの家から逃げることだってできない訳じゃないはずだ。

嫌になる。中途半端に、水面下だけでしか復讐できない自分が、情けない。自分の手で鉄槌を下すことが、何故かできない。表立って家出し、今も全くどこにいるか見当もつかないエンが勇者のように感じられた。

「家族なんて、糞喰らえだばーか」

 保を真似て、僕もひと言吐き捨てて自室に戻った。


自室で鏡を見たら、篠美に打たれた頬が赤いのに気付いた。それを見て、僕は慌てて布団に潜りこむ。布団の中で、こらえようにもこらえきれない笑いが、不規則に沸き立つ。聞こえないようにしたいのに、止められなかった。

 保は、僕や篠美がエンをしっかり見ていないから、エンが家出したと言った。この、頬が赤くなっている僕の顔を、まっすぐ見て。何の疑問も感じている様子はなかった。

 しっかり見ていないのはお前じゃないか。

 こみ上げ続ける笑いを堪えすぎて、顔を包んでいる布団が涙で濡れるのを感じた。笑いが止まらないのは、ただただおかしいからという理由ばかりじゃないことには、もう気付いていた。馬鹿だ。救いようがない。篠美も、保も。そして、自分も。

 情けない。それは、自分に対してだけ、思った。シーツはやわらかく、ごわついてなどいないのに、深川と入った中心地ですらない駅の近くにあるラブホテルのベッドの方が、数段居心地がよかったことにもじきに気付いてしまい、笑いはしばらく止まりそうもなかったが、特に一階の両親から咎められることもなかった。

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