第二章・涙2

 日曜。具体的に何をする訳でもない、何が楽しいかまるで解らない昼間のデートを終えて、不満を押し殺してますよというのを存分にアピールした顔の史穂と別れる。史穂は僕の家と逆方向の電車に乗って帰っていくので、改札内で別れることになった。好都合なことに、史穂の電車の方が早く出るので、出発を見送ってから、自分の乗る電車のホームへ移動した。

間もなくして到着した、県を跨ぐ鈍行に乗る。日曜の夕方の車内にしては空いていたが、目的の駅は二つ隣の駅なので、敢えては座らない。手持ち無沙汰になって、従姉から譲り受けた旧式のウォークマンの再生ボタンを押す。エンが出ていく前「ライブ、ちょー良かったんだからっ!」と僕に強く勧めてきたサカナクションが流れる。正直、何が良いのかよく分からない。雲を射抜く暮れかけの太陽光に支配された窓外に目をやっていると、いつの間にかその殆どを聴き流してしまっていて、印象にも残らないのに気付く。きっと後でこの曲を思い出そうとしても、サビを思い返すことすらできないだろうと、予想がついてしまった。

結局、一曲目が終わらないうちに下車し、改札を出る。二曲目が始まってすぐ、肩に手が置かれた。イヤホンを巻きながら、いつしか作り慣れた笑顔をかたどり、後ろを振り返る。

「先生」

 もしかしたら、クラスの奴らは今の彼女を見ても気付けないかもしれない。学校には到底していけないだろう、年齢を完全に無視したメイクとファッションで身を包み、レッドフレームの眼鏡をハードコンタクトに変えた僕の担任教師、深川が僕だけに見せる特別な笑顔を携えて立っていた。

「もうっ。先生はやめてって言ってるでしょ?」

 言いながらも、彼女の笑顔はまるでかげらない。下から突き上げるように甘えられる快楽を知った、いい年した女の笑顔は、年齢に比例したえぐみを孕んでいる。


「それ、どうしたの」

 じっとり汗をかいた身体に、ごわごわした安物のシーツの感触がそれでも心地いい。ベッドで上半身を起こす僕の真隣にある間接照明が、裸の僕の腕を強い光で照らしていた。光源から放たれるちりちりとした熱が、僅かに腕に注ぐ感覚があった。暖房を緩めた部屋やぴしっと冷たく、かっかした身体は表面だけ少し冷えていて、こんな微かな熱にさえ敏感になっている。こないだ、史穂にも見せつけた青痣を指して、深川が訊ねてきた。僕は短く、親、とだけ伝えた。史穂には舌先三寸で嘘をついても、この人には本当のことを話してしまいたくなる。

 予想していた答えではなかったのだろう、驚いたように絶句した深川はしばらく硬直した後で、こちらに近づいてきて僕の隣を陣取り、斑点のような青痣に手をあてがった。小さく、可哀想、と呟く。このところ、全く安らぎを感じていなかったという事実と、その実感がゆるゆるとこみ上げてくると、僕の頭は自然と深川の膝の上に下っていった。まだ汗で湿っぽい肌が、僕の頬に水分を分ける。若い史穂とは違い、年齢豊かな深川の肌には張りが無く、汗として排出した水分を、再度吸ってしまっているようだった。

「……ずっと、こうしてたい」

 柔らかな腿の肉に重心を任せながら言ってはみるけど、もうそろそろ帰らないと、家に着くのがかなり、遅い時間になってしまう。あまりに遅いと、保や篠美に訝られてしまうだろう。きっと、数秒もしないうちに僕は頭を持ち上げて、シャワー室へ駆け込む。それがまざまざと予想できた。無慈悲に物を考える僕の頭に、月光が注ぐように深川の掌が舞い降りてくる。青痣に触れるのとさして変わらぬ手つきで、彼女は僕の頭を撫でた。一本一本が太いけど柔らかい黒髪が、指通り良く深川の手の感触を覚えていく。きっと顔を見てしまったら、名残惜しくなる。それが分かっているから、僕は彼女を見上げない。憂うように視線をさまよわせた。僕らを照らしている室内の赤い照明は、僕らに何かを警告しているようだった。

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