第二章・涙1

エンは、とうとう見つからなかった。


 仰々しい校門をくぐると、そこは僕のもう一つの世界が広がっている。僕にとってここは、家の中での自分の役割にはまったく干渉されない場所だった。ここでなら、家出した姉のことを忘れてしまってもいい。無理に忘れる必要があるわけではないが、そこには家族のことなど考えていられなくなるような環境が多く待ち構えている。高校生にとってみれば当たり前のことかもしれないが、僕には意識的に自覚されることだった。

 エンの家出騒動は、僕の学校に伝えていないし、親しい友人にもまるで教えていない。エンは僕の学校の生徒でもないから、特に必要を感じないし、県を跨(また)いでわざわざ登校しているのだ、空気感の変容が我が家と変にリンクされても困る。だから、地元で家出したエンの捜索を甘んじて請負いながらも、学校に来てしまいさえすれば、そこにはいつもと変わらぬ時間が流れていた。

「おーはよっ、ルイ」

 だからって、このテンションを同期して応えられるほど、僕もまだ大人じゃない。突如、暗転した視界と、瞼の上に乗った柔らかい指の感触。乱暴に払いのけたい衝動を必死に抑えて何とか、おはよう、とだけ返す。

「どうしたのその傷」

 僕の前にぴょん、と何故かジャンプで移動した史穂しほが言う。額に貼られた絆創膏をじろじろと見ている。目を隠した時に指が当たっていたから、違和感を覚えたのだろう。僕はまず史穂から鞄を預かる。反射的に息を飲もうとする身体の反応を行動で遮り、口を動かした。

「ああ、これ? 地元でね、近道しようと思って、久しぶりにけもの道に入ったら、枝に引っ掛けちゃって」

 垂れる前髪に隠れきらない絆創膏を撫でながら、笑顔を作る。所作一つ一つに気を配る癖はいつからついたのだろう。覚えていない。あんな家に産まれていなかったら間違いなく、身につくことはなかっただろう。

 間もあけずに、思いつきで補強するネタを放り込む。このスムーズさが重要だ。

「最近、成績落ちちゃったからか、他に意識飛ばなくなっちゃっててさー。ほら、見て。これに至ってはどこでやったかすら、記憶にない」

 軽く腕をまくり、うすぼんやりと浮かぶ青痣をわざわざ見せつける。

「えーっ、何それ。青くなってるし。もう、しっかりしてよ。心配」

 史穂が、踊るようにぱしっと僕の腕を捕らえて身を寄せながら、校門を一緒に潜る。たくさんのことを一度にやって凄いなあと、自他共に認めるのんびり屋の僕は素直に感心する。

 正面玄関を達すると、史穂がふいに振り返った。

「そう言えば昨日、メールしたのまた無視したでしょー。ひっどいなあルイは。また勉強?」

 夜、メールを返さない弁明は、基本的に、勉強に集中したくて電源切ってた、で通す。せっかく運良くクラストップの成績を取れているのだから、それを利用しない手はない。しかも、このところはエンの捜索に時間を取られている分、成績も少し落ちていた。別段、焦りは無いがこんな時は、多大にそれを利用してやれる。

「うん、そう。ごめんね」

 唇と尖らせ、目線は下に。史穂の得意な顔だ。僕には特異に映る。当然だけど、顔には出さない。こうやっておどけて見せているうちは、素直に謝っておくに限る。

「もうっ。そしたら今度の日曜日は私に使ってよね」

 上履きに履き替えながら、史穂が言う。僕は外靴を靴箱に突っ込むと、意地悪な思考に支配されてしまい、貼り付けた笑顔から無神経なくらい曇りが晴れてしまう。

「うーん、日曜だと、夕方まで、かな」

 つま先で床を突いた史穂がこちらを振り返り、色を失った目で僕を見る。そろそろ表情に余裕が無くなってきたらしい。高校に入って、とりわけ史穂と付き合い出してから解ったことがある。エンの解り易さは、意外だけど女の子全般に言えてしまう部分もあるんだなあと。

「……日曜って、夕方以降は恵泉けいせんの自習室も開いてないよね。家で勉強?」

 史穂が完璧とも言える笑顔を取り戻して言った。一点の曇りもない笑顔で問いかける方が、責める意味合いを持っていると勘違いしているらしい。ちなみに恵泉は、僕らが通っている予備校の名前だ。質問を終えた史穂は答えを待たず、教室へ足を向けた。僕は追いすがりながら質問に答える。体裁上、急いで中靴を履いて、史穂を追う。

「あ、違うよ。日曜は夕方から家の用事。従兄いとこが家に来るんだ」

 史穂は返事をせず振り返り、私より従兄の方が大事なのかとでも言いたげな顔をした。頭に用意した筋書きを読み上げるように、且つ、贖罪の気持ちを声に滲ませるのを意識しながら一気に言う。

「ごめん! ずっと前から約束してて。勉強を教えてもらうのと、僕の志望校に通ってる人だから、いろいろ話を聞くために呼んだんだ。なかなか会えない人だから、本当にごめん。今回は許して!」

 謝りながら歩いているうちに、教室に着きそうだった。玄関から程近い僕らの教室はまさに目と鼻の先。いいよ、とだけ言って史穂が自分の鞄を僕の手から奪い、ぱっと離れる。特進クラスの教室は朝からテキストや参考書を開いている生徒が殆どで、ぴりぴりしていることが多い。だから浮かれたようにカップルで入っていくのは基本的にタブーなので、いつも別々に入っていくのが基本だ。今日はそれを言い訳のようにして、史穂は離れていった。

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