第一章・笑美5

るん、助けて。

 寛軌先輩に気持ち悪ィんだよ、と引っぱたかれても、私はそればかり繰り返してた。来てくれる訳もない、私の唯一の家族。ひたすら気持ちが悪くて、ひたすら痛くて、目が溺れたみたいに涙を滲ませた。涙を意識した時、やっぱり弟の顔が浮かんだ。まさに名前の妙。涙とはまるで無縁な、屈託のない弟の笑顔。セックスの時に家族を思い出すのは萎えるけど、今回はすごく効果的だった。おかげで、目の当たりにしている現実を変換し続けることができた。

夕焼けが窓からわずかに射し込んでおり、寝かされた私から見るとすべては逆光で黒塗りにされていた。頭上に時折舞う男二人の手や腕。現実から逃げたい私は、こんなのは本当の男の手じゃないとか、そんな風なこじつけをしていた。私にとって必要な手を思い浮かべる。

それは、まだ成長しきらないるんのやわらかな手だった。


るんは、私が語彙に乏しい私の気持ちを、いつも弁解してくれた。ぐちゃぐちゃな気持ちを少しずつ緩めて解いてくれた。

あれは小学生の時。つまらないことで男子と口げんかをしているうちに、相手が私の容姿を引き合いに出して馬鹿にした。だけど私は怯まなかった。引き合いに出された部位は、まんま保から受け継いだからだ。その時から保のことは嫌いだったから、私も自分のその部位が嫌いだった。その場ではさらりと流して、結局、私は相手を泣かした。

だけど夜になり、私は罵倒されたその言葉が呪詛のように反芻されてしまうことに混乱した。気にしていないのに、傷ついてなんていないのに。私の好きでこうなったわけじゃないし、大嫌いな保と同じなだけだから、むしろ保への罵倒を代弁してくれてアリガトって感じに思っていたのに。

あの当時はまだ引っ越す前で、私とるんは同じ部屋だった。私が泣いていると、どんなに声を殺してもるんは気付いて、私のもとにやってきた。るんに来られると、私は耐えられなくなる。つい涙腺が緩む。何もできないことを申し訳なく思っているような顔をして、でもずっと平気になるまでそばにいた。この時もそうだった。

「こんなの、お父さんのせいだし。気にしてなんてないのに。気にしてなんてないのに」

 今思えば、気にしているに決まっていた。大嫌いな父親とおんなじ。大嫌いなのに、血がつながっていることが証明されてしまうほど同じその部位。そのことをコンプレックスに感じるのは当たり前のことだ。むしろ、その方が自然な感情なんだとなかなか私は気付けなかった。その当時から保嫌いはそれだけ根深く、捻じ曲がったものがあったのだ。自分の気持ちが理解できなくて、言葉にできなくて、頭をかきむしる。もしかしたら、気付いていたんだけど、そうは思いたくなかったのかもしれない。もう、覚えていないけど、とても苦しかった記憶だけがある。

目の前には私と同じようにその部位を受け継いだるんがいる。その事実に対してけろりとしているるんを見て、私は自分だけ泣いてしまっているのが申し訳なかった。

 顔を手で覆い、伏せてしまっていると、ほつれた髪を梳く指の感覚が髪に伝わる。

「似てても似てなくても、女の子なんだから。そんなこと言われたら傷つくのは当たり前だよ」

 るんの指が私の髪をまっすぐ梳いていく。るんもきっと、私がコンプレックスに感じているのは分かっていたんだと思う。自分もそっくりなわけだし、似たような気持ちはあっただろうから。だけど、それを真っ向から言えば、私が傷つくってことも知っていた。だから、そうやって私にとって都合のいい言葉を選んで、私を甘やかす。弟のくせに。

「父さんに似てるだけだから別にいいなんて、こじつけて我慢しなくたっていいんだよ」

 ふにふにのやわらかい指の感触が、いつまでも心地いい。けど、もう既に絡まっていた髪はじゅうぶんに解けて、まっすぐになっているはずだった。

 いつまでも休まらない手を不審に思い、顔を上げた。いつも通りの真顔のるんがそこにいた。

「別にちょっとぐらい、顔が長くたっていいじゃん。こんなに髪がするするで気持ちいいんだから」

 保と私たち双子は顔がちょっと縦長で、あまりバランスがよくない。のちのち、美容師さんに言われて、むしろこうやって髪を伸ばしていたらより縦長に見えるからと、その髪はもう少し短くして、横にボリュームを足すようにするようになってからは、あまり指摘されなくなったし、気にならなくなった。私は性格のせいで男っぽく見られがちだから、髪は長いままの方がいいと思い込んでいたのだが、まあるく形づくる方がよっぽど女の子っぽくなるので、目から鱗だった。るんは黒くて長い方が良かったって、ずっと言っていたけど。確かにさらさらしていた髪を撫でてそう言っていたから、こっそり気に入ってたのかもしれない。脱色して髪質が変わったのを見た時は、妙に残念そうだった。尤も、髪形を気にするようになってからは、触らせるなんてことはしなくなったけど。

 でも、その時はうれしかった。ちゃんと私をまっすぐ見て言ってくれた。

あの子どもっぽい、細くてやわらかい手を、忘れないように何度も思い出す。ずっとるんのことが頭の片隅にあったお陰で、身体が屈しないでくれた。るんのことばかりで、さらにこんなことを思い出してるのは、寛軌先輩への反抗だった。るんのおかげで、痛くて痛くて気が狂いそうだったのにも、何とか歯止めをかけられた。とんでもないことをされたのに、私は理性を失わなかった。物理的じゃないにしろ、るんは確実に私を助けてくれてた。流石、私の唯一の家族。


「……楽しみにしといて下さい」

特急に乗る直前、寛軌先輩が電話で言ってたあの言葉。あの時はどうせ私には関係ない話だろうと思っていたから気にも留めなかったけど、今になってその意味を思い知る。どうやら漉磯先輩は、部屋に住まわせる条件を、バイトを探すこととは別にもう一つ、寛軌先輩に提示してたらしい。俺ともヤれる女を連れてきたら、ちょっとの間住まわせてやってもいい。別に、私たちの境遇に理解がある訳でもなかった。ただ、サイテーなだけだった。

 別に処女じゃないし、寛軌先輩の前にも恋愛経験はある。十七にしては豊富な方だって言ってもいいくらい。変わり種で言えば、アイドルのコスプレだってしたことあるし、これで叩いてくれとムチを渡されて、言う通りにしてあげたことだってある。けど、これだけは言える。3Pももちろん初めてだけど、好きでもない男に抱かれたのは、初めてだ。

コスプレも鞭も、相手のことが好きだからノッてあげた。コスプレの人なんて、かなり年上の人なのに、すっごく恥ずかしそうに、申し訳なさそうに頼んできたのがかわいかったから、してあげたんだ。

先輩の言う通り、その条件を先に聞いていたら、ここには来てたかどうかは疑問だった。元々、寛軌先輩のことは東京に連れてってくれるって言うのを除いちゃうと、若干、倦怠期かかっていたし、多分そのうち別れていたと思う。鈍ナルシー(鈍いナルシストの略ね)なところの他にも、別の女の子ともちょくちょく遊んでることにも気付いてた(まさかその全員に、東京行きの話をもちかけているとは思わなかったけど)し、家にいたくないからって言う理由だけで呼び出されて、何もしてくんないつまんない夜も、この人とは何度かあった。最ッ低なこの条件を知ってたら、私は生き苦しくてもあそこに残ることを選んだと思う。

そこまで思って、気付く。そうだ、私、ついて来ちゃったんだ。何も知らないで、先輩を信じたくて。私はもう、先輩を信じるしかなかったんだ。そう思って、改めて寛軌先輩を見る。横に転がっていた寛軌先輩は旅とレイプの疲れに負けて、気持ちよさそうに寝ていた。寛軌先輩は、どこでも寝られる。夜、私を呼び出した公園のベンチで眠ってしまった時はなかなか起きてくんなくて苦労した。蚊に食われたのを私のせいにされて、ちょっとケンカになった。罪のない風な安らかさをもった、罪深い寝顔を見ていると、げんなりする。私は、こいつと生きようとしてたのか。こいつと、家族を作ろうとしてたのか。

 ここを出てくる時、誓った夢を思い出す。

できる限り相方と対等な関係を保って、子どもには息苦しさを与えない家。それが私の夢だった。一緒に東京に逃げる話が出た時、寛軌先輩との結婚を考えなかった訳がない。先輩は鈍ナルシーかも知れないけど、基本的には優しくて、どことなーく頼りない人だから、保と篠美ちゃんみたいなことにはならないはずだ、って思ってた。しかも、先輩は私と同じで、家庭で苦しめられてきた人だ。やり口は最低だったとは言え、そうまでして東京に出てきたかった気持ちだけは、私だからこそよく分かる。先輩は半年先の高校卒業すら待てなかったくらいだし、下手をすれば私以上にその気持ちは強かったのかもしれない。

 だけど、もう無理。先輩の顔を見ながら、決意する。この人とは、別れよう。私だって、この人を少なからず利用しようとしていたのだ。言わば、その罰がこれなのかも知れない。

かと言って、私はこいつを許せそうには、ない。だったら、私はこいつを徹底的に踏み台にしてやる。ここで、東京で何とか仕事を見つけて、細々とでいいから、生きていこう。仕事を見つけるまでの間、この二人とは何とか住んでやる。利用されたっていい。組み敷かれたっていい。その代わり、こいつらには私の踏み台になってもらう。仕事と部屋を見つけるまでの間だけ、私もこいつらを利用してやるのだ。

全てを委ねようとしていた寛軌先輩に裏切られ、私がピュアに想える相手はもう、弟だけだった。二度と会えないかもしれないのに、それを招いたのは自分の身勝手な行動なのに、今の私にはあの子がすべてだった。見慣れない天井を見上げながら、祈るように頭の中で語りかける。出ていく直前、最後にと見に行ったあの子の寝顔が浮かんだ。

るん。るん、ごめん。お姉ちゃんはちょっとの間だけ、最低な女になります。だけどいつか、必ず幸せな家庭を作ります。うちなんかとは違う、私の理想の家族を。

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