第一章・笑美2

家出をするのは久しぶりだった。

 家出って、親を心配させる為にするものだってよく言うけど、私の家出はいつもちょっと違った。保とは文化や根本的な考え方が違う人間って感じで、不意に諦めのような気持ちが心を支配してしまい、同じ屋根の下にいるのが本当に、本当に馬鹿らしくなる。しかも家を出た私を迎えに来てくれるのは、ゼッタイにるんか篠美ちゃんだ。保は当たり前のように迎えに来ないし、帰ってきて反省しきっている私にも、容赦なく説教を垂れる。

どうしたらこの人は許してくれるのか、放っておいてくれるのか。一時期、本当に悩んだ。


 その気持ちが顕著に現れたのは、中学三年生の時のことだ。その時も私は、家出をした。

 私の中学には弁論大会があった。夏にみんなで作文を書く。テーマは縛りがなく、殆ど自由。長さは作文用紙二枚から五枚までのあいだ。みんな書き終わったらクラス内でまず発表して、多数決で一番良かったやつをクラス代表として選出する。クラス代表が決まったら、今度は学年全体で集会を開いて、クラス代表の作文を、みんなで聞く。そして、その中で一番良かったやつをまた学年全体で投票して、選ばれたやつは学習発表会で、学年代表として発表するという、割と大きいイベントだった。勉強もそんな得意じゃない私だったけど、国語の成績は弟ほどじゃないけど比較的良くって、作文を書くのはそんな嫌いじゃなかった。代表に選ばれるのを期待していた訳じゃないけど、自分なりに満足できるものを書きたくて、かなり頑張って書いた。知識が足りないところは自分で調べたり、弟に教えてもらったりして書いてった。そしたら、ありがたいことにクラス代表に選んでもらえた。内容が良かったというよりは、クラスのみんなが、私がこういうので珍しく頑張っているのを買ってくれていたらしかった。

 クラス代表戦のメンバーには、るんもいた。まあ、るんには敵わないよなあ、と思って、集会に臨んだら、なんと私たちはワンツーフィニッシュを飾ったらしい。るんが一位で、私が二位。るんは戦争と人権の話、私は双子の話。社会と理科って感じだね。そしたら、校長先生が学習発表会で二人とも発表しましょうって提案してくれて、三年生だけ特別に私たち二人で発表させてもらった。学習発表会は演奏とか劇がメインで、弁論大会はいつもオマケな感じだったのに、双子でやるって言うのがやっぱり物珍しかったみたいで、町内に貼って回る学習発表会のポスターに双子発表の文字が入るくらい、目玉企画にのし上がっていた。

 篠美ちゃんは隣近所や、同級生のオカーサンたちに鼻をぐいぐい天高く伸ばして自慢していて、ちょっと恥ずかしかったけど、当の私たちも案外、悪い気はしていなかった。

 篠美ちゃんがそんな調子だった一方で、弁論大会の最中、保は名古屋に三か月だけ出張していた。保のいない生活はまさに天国で、篠美ちゃん含む私たち三人はのびのびと生活していたんだけど、保は学習発表会の少し前に出張を終えて帰ってきた。

「ねえ、お父さん、ルイとエミがね」

 篠美ちゃんは、帰ってくるまでお父さんには内緒にする、びっくりさせよう、とうきうきしていた。保が帰ってきて、満を持してと言わんばかりに、久しぶりの家族揃っての夕食だねってタイミングで篠美ちゃんが種明かしをした。もし良かったら、学習発表会の日は有休を取って、一緒に観に行かないか、と誘おうとも考えていたらしかった。

 しかし、保の返答は私たち三人が予想していないものだった。

「あ? お前、そんなことに感(かま)けさせて、受験勉強はサボらせてたって言うのか」

 ときどき腹立つくらい保に従順な篠美ちゃんだけど、この時ばかりは顔を凍らせた。その反応を図星と取った保はふざけるな、と罵声を浴びせた。食卓に緊張が走り、篠美ちゃんが作ったいつもならおいしい豚しゃぶの味が、一気に行方不明になる。

「その間に勉強させていれば、ワンランク上の高校を目指せたかも知れないだろう! そんな内申くらいにしかならないことを、なんでお前は」

 私たち二人もいる席で、保はそう怒鳴った。あまりのことに、私とるんは顔を見合わせる。きっと私もだったと思うけど、るんの顔は完全に色をなくしていた。でも流石に篠美ちゃんも今回ばかりはやっぱり納得がいかなかったらしくって、珍しく言い返した。

「でも、お父さん。この子たち、頑張ったのよ。二人で、力を合わせて」

 篠美ちゃんが弱々しく、たどたどしくそう言うと、何故か保が鋭い眼差しのまま、くるっと私とるんの方を向いた。視線だけで肩がびくっと跳ね上がるのは、癖みたいなものだった。

「なあ涙、そんなところを助けて何になるんだ。何故、勉強を教えてやらない? 笑美も何だ、そんなことやってる暇あったら、ランクの一つでもあげられるだろう」

 何が頑張っただ。そう言い捨てた保のおかげで、久しぶりの一家団欒は最ッ低の空気になった。信じられなかった。保のことだから、褒めることはしないかも知れない、とは思っていたけど、何故、怒鳴られなくちゃいけないのか。こんな最低な空気に晒されなきゃいけないのか。

 私たちは、私は、あんなに頑張ったのに。

 思うと、はっきりとした舌打ちが出た。イッツ、オートマティック。水を打ったような静けさの中に、その音だけが響く。

「なんだ、その態度は」

 私の舌打ちに敏感に反応を見せた保に、持っていた赤い箸を投げつける。私はそのまま家を飛び出した。こんな場に、家にもういたくない。息苦しい。


 その後、どんな経緯で家に戻ったか、どう保に許されたかは、もうあんまり記憶にない。でもあの日、家に戻った後、保にやっぱり説教を垂れられたような気がする。当然、謝られる訳はなかった。あれから私は一度も、保を許せないでいる。それからずっと家の中にいる私はずっと、ずっとずっと息苦しいままだった。

 今回も、確か、あの時も。心配なんて、してほしくもない。探さないでほしい。もう、あれとは関係ない人間になる為に、私は家を出たんだ。

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