第一章・笑美1
始発が出発する時間まで、あと二十分程度。
冬めいた空気がしっかり染み込んでしまっている駅前は、まだまだ暗かった。
冬至まで一ヶ月を切っているこの時期。きっとほんの数分で一気に明るくはなるだろうと思うけど、寒さと不安が、私の足を急がせる。
どうせこの後、しばらくは暖房の利いた電車の中で座りっぱなしになるんだ。
背負った重たい鞄が揺り動かされるせいで肩が痛くなっても、ちょっとぐらい息が上がってしまっても別にいい。
今は、ここから出ていくことが最優先なんだ。
海が近いせいで、潮風がちょっと混ざったそよ風は、それでも痛みを伴うほど冷たい。
ここにたどり着くまで、袖に唯一、隠れていない指先はすっかりかじかんでしまっていた。
暗くて見えないけど、きっと赤くなっているんだろうなと思うと、やきもきしてしまう。
ああ、早く。早く着いてよと。
今までだって何度も歩いたことのある道のりなのに、妙に長く感じてしまった。
きっと二度と歩くことはなくなるけど、名残惜しむような余裕も感傷も、今の私には一切ない。
ようやくたどり着いた無人駅のプレハブ小屋の前で、青白い街灯の光を浴びているあの人を、歩きながらこれでもかというくらい目を凝らして確認した。
あの立ち姿。
身体の角度。
佇まい。
間違いない。
そう思うと、重い荷物のせいで強張っていた身体の力が抜ける。夢じゃなかった。そのことに、どうかと思うくらい安心してしまう。
せっかく急いでいたのに、一度足を止めてしまう。上がった息を、ぐっと飲み込む。自分が破顔するのが分かった。
私の、寛軌先輩。
思うと、頬がかあっと熱くなった。
しなやかで薄いボディーラインに沿う黒い革のジャケットが、街灯の光を鈍く返している。
近付いてくと、気配を感じたのか、先輩はぴくりとこちらに顔を向け、表情をまるで春を迎えたような笑顔に変えてくれる。安堵したように、私の名前を呼んだ。
「
とろみのある、男子高校生らしくない、なんというか、まろい声。
怒られるだろうからゼッタイ頼めないけど、一回、歌舞伎みたいによぉ~っとだけ言ってみてほしい。
もはやシュールな物まねだけど、それをされても私はもっと恋をしてしまいそうだ。
はまりすぎると思うから、恋する前に笑うだろうけど。
私の名前を呼ぶその声に滲む感情の名前に、心が躍る。
すかさず先輩は、二枚ある切符の一枚を私に差し出した。
荷物を持ってくれてもいいと思ったけど、それは仕方ない。
先輩の荷物だってけっこう大きいんだし、こちらが言わなくても持ってくれる男の子なんて、そうそういない。
私の弟はすかさず持ってくれるけど、あの子が変にできすぎているだけで、それを基準に期待するのは間違いだと密かに反省する。
渡された切符に、思わず目を落とす。そこにはまだ〝東京〟の文字はない。
だけど、実際に書かれている
本当にこの人は、私をここから連れ出してくれるんだって思うと、その場で飛び上がりたい気持ちになった。
私と同じ高校に通う、一個上の先輩。
喋ったことは何度かあって、かっこいいなと思ってはいたんだけど、地味に人気ある人だったから、まあお付き合いするのは無理だろうなと思って、諦めていた。
だけどある時、友達に共通のファンがいなくて、だけど好きすぎて結局、一人で行っちゃったサカナクションのオールスタンディングのライブに、先輩も私と同じような理由で一人で来てて、一緒に観ることになるっていう偶然にお互い運命感じて、つきあうことになった。
先輩といると、嫌なことが全部忘れられた。
絶妙に邪魔くさい校則と、女子同士の付き合いが苦痛でしかない学校生活とか、意味不明な厳しさをぴしゃりと与えてくる親(よって、先輩とのことはトップシークレット)のこととか全部。
でもつきあってくうちに、案外このヒト鈍いくせにナルシストっぽいんだなって言うのにだんだん気付いて、それがちょっとやだなって思い始めてたし、私以外の女の子と遊んでるっぽかったんだけど、東京に一緒に行かないかって誘われたことで、そのへんが全部チャラになった。
これはつきあってみてから分かったことなんだけど、私と先輩の共通点は、サカナクションのファンだってところだけじゃもちろんなくって、親とそりが合わないってところがおんなじで、しかも、よくできる兄弟をもったばっかりに、比較されまくってるとこまでおんなじだった。
私には双子の弟がいて、あんまりにもその弟ができた子に育っちゃったが為に「それに比べてどうしてお前はそうなんだ」って何回言われたか分からない。
特に父親の
家に居づらいレベルで。
先輩にも優秀なお兄さんがいて、お兄さんは大学の薬学部を出た後、今は薬剤師をしているんだとか。
先輩はあんまり話そうとしないけど、境遇が似てる分、何を言われてきたかはなんとなく想像がつく。
私たちの高校は、滑り止めとして名高い
先輩が昔からお世話になっているらしい
しかも、私って言うおまけがついてっても大丈夫って言うから驚きだ。
二人ともできる限り早くバイトを見つけて出てくことが、住ませてもらう条件らしい。私たちがこの条件を飲まない訳がなかった。
今現在三年生である寛軌先輩の高校卒業まで待ってもいいって言う漉磯先輩の言葉も遮って私たちは、本格的に冬を迎える前に、と行く意志を示した。
私たちが目指すのは、一刻も早い自立だ。
自立さえしてやれば、さんざん私たちを馬鹿にしてきた親たちを見返してやれる。
自立して、いつか二人で幸せな家庭を作る。
そして生まれてきた子どもたちには、私たちのような気持ちはゼッタイに味わわせない。
私たちはそれを二人のゴールと決めて、結束を強くして、今日のこの日を迎えた。
駅のホームで、電車を待つ。時間が早すぎるからか、人はいない。無人駅だから、駅員さんも。
防犯用か知らないけど、改札のところにカメラがついているのが気になったので、寛軌先輩にカメラの存在を伝えて、気休めかもしれないけど、改札は別々に通っておいた。
電車はもう間もなく来るはずだ。だけど、私たちはやっぱり、そわそわした。
たった数分、そう思うけど、やっぱり。
私の家からも、寛軌先輩の家からも、ここはそんなに遠くない。
高校生にもなる私たちが家出するなら、この駅を使うのはハッキリ言って簡単に予想がつくはずだ。
きっと、こんな時間に起きて私たちの不在に気付くってことは普通で考えたらないけど、もし気付かれて、ここにいるのが分かったら。
ここにたどり着くまでにも、追っかけてくる保を何度も想像した。
寛軌先輩もそれは同じみたいで、私たちはどこかびくびくしながら、電車の到着を待った。
だから電車が来た時には、当たり前のことなのに、私たちは笑顔で顔を見合わせた。
暗いからまだ電車はヘッドライトがついている。
私たちはドアが開くまでのあいだ、駅入り口付近を、注意深く観察する。誰か追ってきていないか。
荷物を抱え、素早く電車の中に身体を滑り込ませて、それでもなお窓の外を観察する。
乗った車両には誰も乗客がいなかったからよかったけど、窓の外を気にしまくる私たちは、端から見れば明らかに怪しかったと思う。ドアよ早く、早く閉まれと切望した。
炭酸のペットボトルのフタを、満を持して開けたような音を立てながら、電車のドアが閉まる。
ひとまず、その音を止むのをじっと待つ。
くん、と電車が動き出す感覚が全身に伝わると、私はふぅ、と濃ゆい息をついた。
ここまでくれば、万が一、家出がバレて保が追っかけてきたとしても大丈夫。
きっと、逃げ切れる。見慣れきって反吐が出そうな街並みが、横にするすると滑り始めると、心配だった気持ちはここから出られるんだって言う実感へと、リトマス試験紙くらい急激に移り変わっていった。
駅周辺だってのに、見渡せるのはせいぜい三階建てが限度のがらがらとした建物の群れと、その隙間から見えるきたない海だけ。これでは、時間帯問わず賑わいというものを寄せ付けそうにない。
実際、人が通ることは殆どと言っていいほど、ない。
まあ、券売機と改札一台だけが置かれた狭いプレハブ小屋の前に、町が栄えるはずもないよなと思い、私は窓外の光景を鼻で笑い飛ばした。
「名残惜しい?」
景色を見渡した後、俯いた私を見て、先輩がチョーゼツ勘違いをする。鼻で笑ったのには気が付かなかったらしい。こういうとこが、先輩は鈍い。よくもこんな的の外れたことをどや顔で言えるなあ、と意地悪に感心する。私はもっかい大きく鼻で笑う。
「違う。このしょっぼい町からいなくなれるんだって思ったら、嬉しいの。ありがと、先輩」
感謝の気持ちを込めて、先輩の左のほっぺたにキスを置いた。
先輩の、もちっとした頬の肉と、私のくちびるがふぅわりとぶつかる。
始発の電車の中に、人はいない。
電車は走る。私たちを、家や故郷から引き剥がしていく。私は自由。あの檻には、もう縛られないでいい。
きっとこれから、自立するのにいっぱい苦労があることは予想できるのに、出発駅からどんどん離れていくにつれて、胸の閊(つか)えが少しずつ取れていく感覚があった。
まだまだ旅は長い。私はハンドバッグから、手帳を取り出した。ゴテゴテにゴシックピンクを基調にデコった手帳を開くと、写真が出てくる。
持ち上げる為に、淡い水色の台紙を爪でひっかいて、写真の縁をばいん、と弾き写真の裏に指を入れる。
そこに映る、私の唯一の心残り。
家出する直前に、適当な理由をつけて一緒に撮った写真。わざわざインスタントカメラで撮ったやつだ。
写メだったら楽だったんだけど、ドコモのケータイのメンテを代行する下請けの会社に勤めてる保(しかもそこそこ重役らしいからなおさら怖い)のせいで、ケータイは何か持ってるだけで不安になるから、初期化だけして部屋に置いてきた。
顔がよく似た私と、なんで写真なんか撮らないといけないのかと、不審げに並ぶ弟。るん。
保の何とも残念過ぎる感性のせいで、涙と書いてルイと読むイタい名前を付けられた可哀想な男の子。
それへの反骨精神からかは分かんないけど、ノーテンキで底抜けに明るい性格に育った。
成績がいいし、運動ができるわけじゃないから、勝手にクールキャラをあてがう奴も多いけど、るんは明るい。
私もうるさいタイプだからタイガイだけど、るんはいつもからっとしている。私のほうがねちっこくてインシツだ。うじうじ悩むことも多い。
るんのほうがシンプルにまとまっていて、きれいな形をした人格だと思う。
お姉ちゃんの私が言うんだから、間違いない。
小っちゃい頃、私にはそれがるんるんしているように思えたので、私は『るん』と呼ぶようになって、いつしかそのまんま定着した。
対抗意識を燃やしたかわいい弟は、当時泣き虫だった私を、エンエン泣くからという理由で『エン』と呼ぶようになった。
それを聞いた保が、俺がつけた名前をぞんざいにすんなって怒り狂ったので、保とママの
県外の地方都市にある進学校で一番を取るような優等生のるんと、地元のバカ高に通う私。
親に限らず、親戚だとか色んな人に比較されまくったけど、るんのことは別に恨んでない。
イヤミなとこがなくて、天然な明るさがあるるんは、比較されて泣く私をいつも慰めてくれたから。
僕は勉強しかできないけど、エンには他に色んないいところがあるのにね、とか言いながら。
保や篠美ちゃんともそれなりにうまくやっているみたいだけど(特に篠美ちゃんはるんラブで、るんに超甘く、エコヒイキが結構エグかったりした)、るんは私の味方だった。
でも、元がいい子だからきっと私が駆け落ちすることを知ったら、いい顔はしなかっただろうから、申し訳ないけどるんにも黙って出てきた。
私はきっとこの先、この写真を何回も眺めることになると思う。携帯の番号とメアドは写真の裏にメモってるけど、会うのはたぶん、難しくなると思うから。
「わっかんねえ」
横で寛軌先輩が苦々しく呟いた。顔を向けると、先輩が嫌そうな顔をしながら私を見てた。
「何でお前、弟の写真なんか持ってくんの?」
先輩と私の、思いっきり真逆なところ。
それは、比較対象とされている兄弟と、仲がいいかどうか。先輩は、お兄さんともそりが合わないらしい。
小さい頃からそうだからなのか、兄弟同士の仲がいいっていうシチュエーションが、どうも気持ち悪いらしい。
何か先輩の偏ったジョーシキを勝手に押しつけられた気がして、ちょっとイヤな気分になったけど、こんな駆け落ちの道中で険悪になるのは良くない。
私は手帳をぱん、と閉め、ごめん、と謝った。
感情を押し殺して、ただ謝るのは偏屈で高圧的な保のせいで慣れっこだ。
あいつはよく素直に謝れ、と言ってきていた。
だけど、素直に自分の気持ちに従っていたら、謝れるはず、ないんだよな、と思う。謝りながら、それを思い出す。
ここに挟んだ弟と会うのは、先輩が見てない時にしよう。それで済む。
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