4 誘

 何かと騒いで行動の遅い社員たちを尻目に居酒屋を早めに抜け出し、駅のタクシー乗り場に向かう。

 時間的にまだ遅くなく、電車も動いているから、さほど人は並んでいない。


 わたしたちの動きを見ていた社員もいただろうが、誰も気にしなかったようだ。

 単に帰る家の方向が同じだと思ったか。


 玖珂さんの不倫シチュエーションその一だ。


「何処に行きたい」


「どこでも。お勧めはありますか」


「ぼくの行きつけのバーで良いかな」


「面白そうですね」


「では、そういうことで」


 玖珂さんがタクシー運転手に行き先を告げる。

 結構遠い。


「ご自宅の近くなんですか」


 と尋ねると、


「ぼくの家はもっと田舎だよ」


 と答える。


「月島さんは」


「西調布です。高速の近く。保育園もあるな」


「それならきみの家の方がずっと近いぞ」


 玖珂さんに連れて行かれたのは調布のバーだ。


 玖珂さん自身は橋本に住んでいる。


「わたしと不倫ごっこをしていないで早く帰った方が身のためじゃありませんか」


「まあ、たまにはいいじゃない」


 パーティー会場が会社から離れたホテル内だったので、二次会の居酒屋もその近くだ。

 電車を乗り継げば調布に着くが、会社帰りにひょいと降りるといった経路ではない。

 だからタクシーで二十分以上もかかるのだ。


 夜で道が空いていたので、その所要時間だが、昼で込んでいれば予想が付かない。


「酔いが醒めてきましたね。これで冗談ではなく玖珂さんと不倫したら言訳できないな」


「酔い潰れた女を襲うなんて、ぼくは厭だよ」


「玖珂さん、紳士ですね」


「当然だろ」


 そんな感じでポツリポツリと会話をしていると、やがてタクシーが玖珂さん指定の場所に到着。


「あら、地下じゃないんだ」


 玖珂さん行きつけのバーはビルの二階だ。


「飲み過ぎたら階段が危ないですね」


「……だと思ったら飲み過ぎないことだ」


 店に入ってダイキリとモスコミュールを注文する。

 玖珂さんがダイキリで、わたしがモスコミュールだ。


 ちなみにモスコミュールはモスクワのラバ=強情者の意。


 玖珂さんとわたしは個人的な知り合いではないのでタクシーの中で話題が尽き、その先は仕事の話になる。

 もはや色気ゼロだ。


「ちょっと失敬」


 一杯目を飲み終えると玖珂さんがトイレに立つ。


 今もってわたしには大抵の男が持っている『この女を抱きたいスイッチ』が男の中でいつオンになるのかわからないが、このとき久我さんは家に「遅くなるから」と電話をしたそうだ。

 ついでにホテルの予約も済ませている。


 玖珂さんが席に戻ったタイミングでわたしもトイレに向かう。


 二杯目はマンハッタンとホワイトレディーでどちらもアルコールが二十五度。

 つまり強い。


「このホワイトレディーはベースのドライジン――元々はペパーミントリキュールなんですけど――をブランデーに代えるとサイドカーに、ウオッカに代えるとバラライカに、ラムに代えるとX・Y・Zになります」


「へえ、そんなことを知ってるの」


「どうでも良いけど覚えてしまいました」


「月島さんは面白いね」


 三杯目はビトウィーン・ザ・シーツとマルガリータ。

 これで〆だ。


「ベッドに入って(Between the sheets)って本気ですか」


 とわたしが問うと、


「月島さんの真珠の肌が見たい」


 と答える。


 わたしの頼んだマルガリータからの連想だろう。


 マルガリータはスペイン語の女性名だが、語源はギリシャ語の margarite (真珠)だから。


「実際に見たらがっかりするかもしれませんよ」


「それは見てからのお愉しみだな。きみが欲しい」


「はい」


 わたしの目は潤んでいただろう。


 客観的に見直せば色っぽくも何ともないシーンだが、玖珂さんと一緒という場の雰囲気にわたしが酔ったのかもしれない。


「覚悟はいいね」


「いやだ、逃げますよ」


 駅近くのシティーホテルの部屋に向かうまでは良かったが、中に入ると少し怯える。


「月島さん、大丈夫」


「武者震いですよ」


「それならいいが」


「本当です」


 本当は嘘だ。

 怖くて震える。


 もちろん覚悟はできている。

 半分は自分で久我さんを誘ったようなものだから……。


 残念なのはウチに来ませんか、と見得を切れなかったことだが、酔った足で夜道を歩くうち、酒が冷めたら勇気が退けそうだから正解だったのか。


「先にシャワーを浴びてベッドの中で待っていなさい」


 玖珂さんが少し命令口調でわたしに言う。


「はい」


 と素直にわたしがそれに従う。

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