5 相
「噂を聞いたよ。恋人が泊まりに来てるんだって」
海外出張から帰った玖珂部長がわたしに問う。
昼休みの給湯室だ。
「止めてくださいよ、玖珂さんまで。部屋に知り合いが泊まっているのは事実ですが、女性です」
「確認しに行きたいな」
「美人で吃驚しますよ」
「月島さんよりも」
「わたしはビューティーじゃありません」
「そんなことはないだろう」
通りかかった社員の一人がそれを聞いて思わず吹く。
だから、わたしは苦笑するしかない。
玖珂国際部長とわたしは入社以来仲が良い。
もちろん性的な意味は除いてだ。
馬が合うというのか、一緒にいて気にならない。
冗談も言い合える。
本来わたしは聞き上手だ。
だから、人の話を妨げない。
またどこで相槌を打てば良いか、そのタイミングも心得ている。
けれども、それが久我部長の前では変わってしまう。
仕事では別だが、それ以外の久我部長との会話では思わず口を差し挟んでしまうのだ。
だから二人だけで話しているとボケとツッコミのような会話になる。
結果的にわたしの入社当初からのそんな関係が煙幕となり、玖珂部長とわたしの不倫に気づく者が誰もいないのだろう。
同じ事業所内で一人にも疑われないのだ。
わたしにはそれが信じられない。
絶対に誰かが気づいていると感じている。
単に見て見ぬ振りをしているだけと思っているのだ。
もっとも玖珂部長の場合はそれでも心配がないだろう。
彼は大人だし、守るべき家庭があるからだ。
わたしとのことを誰かに漏らすとも思えない。
また単にわたしの願望かもしれないが、不倫を自慢するタイプにも思えない。
態度も、もちろんポーカーフェイスだ。
一方のわたしは、見た目はクールかもしれないが、自信がない。
玖珂部長とのこと以外ならばクールを自負するわたしだが、しかし彼とのことでは自信がない。
とてもポーカーフェイスではいられないのだ。
だから見る人が見れば、わたし変貌ぶりは明らかだろう。
ところが幸いなことに、わたしに興味を示す男性社員が事業所内に誰もいない。
会社全体の中にはいたが、その態度も極端ではない。
研修や創立記念式典などの用事でこちらの事業所に来たとき、デートに誘って来るくらいだ。
その誘いにわたしがオーケーを出し、会社帰りに二人きりで何処かへ出かけたことはこれまでない。
わたしの都合が悪くないとき、複数人で飲み行ったことはあるが……。
その同期入社の男は以前、社用メールでわたしに誘いをかけてきたことがある。
もっともわたしが無視すると、それ一回で来なくなる。
もしかしたら上司にバレて怒られたのかもしれない。
彼からの迷惑がなくなり、わたしはホッとしたが、自分自身の乾いた感情とは裏腹に、もっと押せよ、情けないな、あのとき思う。
わたしの場合ほぼライバルがいないから、本気で口説き落としたいなら攻めるしかないだろうと感じたわけだ。
その後すぐ、その気もないのに尊大な女だなと反省する。
「本当に一遍、その女性のご尊顔を拝見しに行こうかな」
「止してくださいよ、ご冗談は」
そのときの玖珂部長との会話はそれで終わったが、わたしが会社を退けてアパートの部屋に帰る途中、
「やはり、その女性の顔を見てみたいんだが」
とわたしの携帯に連絡が入る。
「物好きですね。いらっしゃりたいのなら構いませんよ。彼女にはそれとなく玖珂さんのことを話してありますから……。三人で一緒に食事をしますか」
「信用できるのかな」
「さあ。でもウチの会社の人間に知り合いはいないでしょう」
「わかった。何時頃がいいかな」
「一緒にご飯を食べるおつもりならば八時半から九時頃でしょうね」
「仕事にもう少しかかりそうだな」
「では事前にご連絡をください」
「わかった。では」
「はい、待っています」
玖珂さんとの通話を終え、わたしが駅のホームで次の電車を待っていると、
「あれ、月島さんじゃない、お久し振り」
そこに現れたのが大学時代の先輩だ。
一学年上で名を城戸壮太という。
「帰宅中かな」
「当然、そうです」
「この辺りに住んでるの」
「もっと先ですが、沿線です」
「家は出たんだ」
「まあ、ずるするといても仕方がないので」
「親御さん、心配したでしょ」
「父は嫌がりましたね。母は賛成でした。灯は一人にでもしないと男友だちができませんよ。そうしたら結婚もありませんよ、と父を説得して。ウチの親、頭が可笑しいでしょ」
「月島さんのお父さん、怖いからなあ」
「その節はご迷惑をおかけしました」
「月島さんの彼氏……じゃないな馬の骨と間違われてね」
その辺りで電車が来る。
「乗りますか」
「乗るよ」
というアイコンタクトがあり、二人が順に電車に乗る。
「城戸さんもこっちの方に越したんですか」
「いや、別用。未だに猿楽町に住んでるよ」
「そうなんですか。では、お友だちのところとか」
「……といった感じ」
「彼女ですか」
「うん、と肯定できないところが微妙だな」
そうこうする内、西調布駅に着いてしまう。
「あの、わたしここですから」
「そう、じゃ、またね」
「では」
と、わたしが電車を降りる。
城戸さんに向かい、ドアの外から軽く頭を垂れる。
城戸さん大学をは卒業後、外資系の会社に勤めている。
会う機会がないので、その後も同じところに勤めているかどうか知らないが、関単に止められる時勢でもないだろう。
「ただいま」
アパートの部屋に辿り着き、ドアを開けて薫に言う。
「お帰りなさい」
と薫が答える。
荷物を置き、着替えながら、
「遅くに彼が来るわよ」
と薫に告げる。
「じゃあ、わたしは何処かに逃げないと」
「いいのよ。薫の顔が見たいんだってさ」
「変わった人ですね」
「わたしの彼だからね」
「何か曰(いわく)付きみたい」
「会えばわかるよ」
それにしても何故、玖珂さんは薫の顔を見たいと考えたのだろう。
想像を飛躍させれば実は玖珂さんが薫の恋人で、薫を妾宅に囲っていたがつまらないことで喧嘩をし……、と昭和の小説のように想像するが、その可能性は低いだろう。
「そういえば帰りに城戸先輩に会ったよ」
わたしが口にすると薫の顔が一瞬、曇る。
だが、すぐ元に戻り、
「城戸先輩って誰でしたっけ」
と首を傾げる。
「そうか。わたしの学科の先輩だけど、薫が知ってるとは限らないわね」
「どんな人ですか」
「当時も今もすっきりとしたタイプのイケメンだよ。ただし足は短いかな。身体が細いから気にならないけど」
「月島さんが、かつて好きだった人だったりして」
「ならば面白いけどね」
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