10 生還

「危ない、お母さん!」

 わたしの自殺を引き止めたのは娘の美緒だ。半分はわたしによってこの世に生を受けた娘のから差し伸ばされた両腕が、皮肉にもわたしをこの世に引き戻す。

 直後――

 ゴオオオオォォォ……

 という身を切るような冷たさの烈風をともなう轟音ともに電車がホームに到着し、わたしの今しがたの行為が未遂に終わる。

「お母さん、ほら、しっかりしてよ。お母さん」

 娘の美緒がわたしの頬を軽くぺちぺちと叩く。わたしは大きく息を吸い、状況を自分なりに確認すると娘に言う。

「ありがとう。もう大丈夫だわ」

「お母さん、びっくりさせないでよ」

「ごめんなさいね、心配かけたわ。ちょっとぼおっとしてしまって」

「まあ、いいわ。話は後ね。歩ける。座る。それとも……」

「大丈夫、次の電車で帰るわ」

 帰宅ラッシュにはまだ時間があったが、それでもかなりの数の人々で溢れ返る駅のホーム。その場でつい今し方、己に為そうとした行為が無に帰してしまう。娘がわたしを死から生に引き戻した直後、わたしの行為を偶然目撃したかもしれない人々はもういない。その中の何人かは、わたしのことを心配してくれただろうか。困ったな。わたしは一つの解決策を台無しにしたのだ。すぐに次のそれを思いつくことはできないだろう。

「でも、お母さん、どうしてここに……」

「そんなこと言ったら何で美緒がここにいるのよ」

「いやだな、わたしの職場はこの近くなのよ。本当にいろんなことに関心がないんだから……。それで」

「ああ、旧い知り合いのお見舞いに来たのよ。自分でも気がつかないうちにショックを受けてしまったのね。その方の病状が芳しくなかったものだから」

「でも、だからといってお母さんの方が死んじゃったら元も子もないでしょう。その方だって喜びはしないわ」

「ええ、そうよね。美緒、ありがとうね。でも、このことはお父さんには内緒ね」

「うん、わかったわ。わたしたち二人だけの秘密にしましょう」

 結局、娘の美緒はわたしを家まで送り届け、さらに自分の夫に連絡を入れ、わたしの家の本日の家事まで肩代わりしてくれる。その意味では我が子ながら良くできた娘だと感心する。けれども美緒は、わたしの遺伝子の半分を確実に受け継いでいる。もしかしたらわたしのあのときの行為の意味と、さらにその背後に隠されたわたしの想いを見破られたのではないか。そう考えるとぞっとする。心がざわざわと怖くなる。もちろん娘がわたしのそんな想いを第三者に漏らすことはないだろう。わたしが偶然知ってしまった娘の浮気を第三者には決して漏らさないように……。

 娘の浮気相手は今では落ちぶれ果てた高校時代の演劇部スターだ。名は結城久貢。高校卒業後も熱心に芝居を続け、せっかく入った有名国立大学を中退し、とある劇団に研究生として入団する。けれども最終的に結城はその劇団には残れず、職を転々とし、一度は大衆演劇の照明の仕事で生計を立てたものの、今では闇金融の取立て屋が主な生業となっている。ときにはタブロイド誌にいかがわしい醜聞記事を載せることもあるらしい。種々の才能に恵まれてはいたものの、結城久貢はそれを大輪の華に育て上げることに失敗したのだ。

 人生は様々だ。

 娘の美緒が夫の柏木壮太を愛しているのは間違いない。だが浮気相手の結城久貢との関係は壮太との結婚以前から続いているのだ。結城に呼び出されると美緒はそれを断れない。美緒が重ねる様々な嘘を柏木壮太は疑わない。少なくとも本質的に善人な壮太がはじめての浮気を経験するまで美緒の嘘に気づくことはないだろう。

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