9 未来

 尾瀬がそう言い切ったときのことだ。

「いえ、あなたにはまだ十分な時間がありますよ。瑠衣子さんと愛情を確かめ合うくらいの時間は十分に……」

 いつの間に買い物から戻ってきたのか、わたしの背後から尾瀬佳代子の声が聞こえてくる。

「必要なのは、あなたたち二人の決心だけなのですよ。わたしはもうあなたたちのことをすっかり赦していますから、後はあなたたち二人だけの問題なのですよ。何でしたら、今ここであなたたちは愛を交しあったって構わないのですよ」

 尾瀬佳代子の常道を逸した発言に尾瀬とわたしが思わず顔を見合わせる。するとそれを目にして尾瀬佳代子が勝ち誇ったように、わたしたち二人にこう告げる。

「ほら、あなたたちにはもう情が通っているではないですか。お互いが相手のことを欲しているではないですか」

 それから尾瀬とわたしが対峙するベッドの近くまでゆっくりと近寄り、こう告げる。

「あなたたち二人をわずかに遠ざけているのは、おそらくわたしの存在でしょう。違いますか。いいえ、違いませんよね」

 有無を言わせぬ口調でそう告げると尾瀬とわたしの双方の手を取り、さらに続ける。

「でもわたしのことなんか、ちっとも気にしなくていいのですよ。無視してくれていいのですよ。わたしに対する罪悪感か、それとも優越感かは知りませんが、わたしはあなたたち二人をすでに赦しているのですから。あなたたち二人が何も気に病むことはないのですよ」

「止めてください」

 と、わたしが尾瀬佳代子に抗議する。

「尾瀬さんとわたしは、この先どうにもなりません。それに尾瀬さんが大切に思っていらっしゃるのは、佳代子さん、あなたのことなんです」

「だって尾瀬は、はっきりもう遅いって自分で認めているじゃないですか。わたしとの関係が修復不可能なことを知っているじゃないですか。それなのに何故、瑠衣子さんはそんなことを仰るの」

「それは尾瀬さんが佳代子さんの嫉妬の重圧に耐え切れなくなったと感じたとき、わたしの元を訪れなかったからです。その頃わたしは確かに今の夫と結婚していたはずですが、尾瀬さんがあの頃のわたしを迎えに来れば、わたしは何の迷いもなく尾瀬さんについて行ったでしょう。でも、尾瀬さんはそう為されなかった。ただ浮気を繰り返しただけです」

「まあ、すごい自惚れ屋さんなのね、瑠衣子さんは……。でも、そんなことはもうどうだっていいのですよ。過去は過去。それは取り換えようがありません。でもね、瑠衣子さん。わたしが今あなたたち二人に問いかけているのは今現在のお話なのです。過去のことなんて、どうでもいいのです。あなたたち二人にとって大切なのは未来です。必要なのは、これからです。そしてその未来の時間は十分にありますが、決して永遠ではありません」

 声高にそう宣言すると尾瀬佳代子は自分の両掌の中にあった尾瀬とわたしの手と手をゆっくりと握らせる。

 尾瀬佳代子のそんな行為と言葉にどう答えようかとわたしが逡巡していると、わたしと彼女の間に割って入るようにして尾瀬康裕が発言する。

「佳代子、少し口を慎んだらどうだ。瑠衣子さんが面食らっているだろう」

 と妻を諭す。もちろん無理やり握らされたわたしの手を離してからだ。だが尾瀬の妻は自分の夫の言葉に逆らう。

「あなたは黙っていてくださいな。実際、あなたの心はもう決まっているじゃないですか。ですから邪魔をしないでくださいな。あなたはこの先瑠衣子さんと添い遂げたいのでしょう。もうそう決心なさったのでしょう。だったら、わたしを邪魔だてしないでくださいな。瑠衣子さんへの説得を続けさせてくださいな」

「だが佳代子……」

 と尾瀬は言葉を発したが、そのままゴホゴホと咳き込みはじめ、咳が止まらなくなる。慌てて尾瀬佳代子がベッド頭部にあるナースコールを飛びつくように押す。ついで慣れた手つきで尾瀬の背中を摩りはじめる。

 ほどなく看護婦が現れ、尾瀬に対する処置をてきぱきと実行する。わたしは自分の居場所を失う。

「悪いわね、佳代子さん、尾瀬さん、わたしはこれで失礼するわ」

 顔色を真っ赤に変え、咳の発作に苦しむ尾瀬とその妻の姿に一礼し、わたしが大学病院の一室から退散する。部屋を去りながら、わたしはこの先どう生きていけば良いのか、まったくわからなくなってしまう。わたしは今でも尾瀬を愛している。その感情が間違いなく確認されたのだ。しかもわたしが愛している尾瀬は、わたしの空想の中でわたしを何度も抱きしめ狂わせた尾瀬ではなく、一度咳が出れば、それが止まらなくなるくらい衰弱しきった老人なのだ。

 大学病院を出ると辺りはすっかり暗くなっている。わたしは力なく、また機械的に病院最寄りのJR線改札口に向かう。二百メートルほどをゆっくりと歩く。だがこのまま電車に乗って家に帰れば良いのか、それともたった今後にした尾瀬の病室に戻れば良いのか、あるいは他の行動を選べば良いのか、まったく決断ができない。

 けれどもそんな自分の心に鞭打ち、わたしが駅の改札口を抜ける。階段を昇り、ホームに向おう。やがてホームに立ち、電車を待っていると、

「そうか、このままいなくなってしまえばいいんだ」

 そんな考えが電撃的に心に浮かぶ。

 わたしはすでに老人となってしまった老い先短い尾瀬を愛していたが、それは尾瀬佳代子にしても同じなのだ。言葉でどんな感情を語ろうと、わたしにはそれが痛いほど良くわかる。尾瀬佳代子はわたしの決断に賭けている。彼女が尾瀬から再び愛を得られる方法が、それ一つしかないからだ。だが、わたしは尾瀬佳代子が尾瀬の愛を再び取り戻すもう一つの方法をたった今思いつく。わたしが死ねば良い。わたしたち三人は今日会って短いながらも――それと反比例するかのような――濃厚な時間を過ごしたのだ。互いの嘘と真実を探り合い、そのことにより三人は現在強い絆で結ばれている。だからそこに一人欠員が生じれば、行き場を失った愛情は、きっと残された者二人の上に舞い降りるだろう。それがわたしに対する追悼か、あるいはそれ以外の想いになるか知らないが、二人に共通するその想いが後押しし、残された二人を分かちがたく結びつける。

 そうなのだ。厄介者は、このわたしなのだ。ならば、わたしが消えてしまえば良い。

 そう考えながら、わたしは今まさにホームに入って来た電車を見つめ、ホームを線路の方向に向かって歩みはじめる。

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