8 交換
しばらくの間、わたしたち二人は互いに言葉を交わそうとはしない。だが、その沈黙は気詰まりを感じさせるようなものではない。不思議と心を開放してくれるようなものだ。
「本当に久しぶりだな、瑠衣子さん」
と、それがわたしに対する義務であるかのように尾瀬が先に口を開く。
「あなたが今ここにいるのが嘘のようだ」
そんな尾瀬に調子を合わせ、わたしが答える。
「はい。わたしもおそらく尾瀬さんと同じ気持ちを感じています」
「で、いったい佳代子はどんな冗談を企んでいるのだね。あなたはそれに加担したのかな」
「加担したのかどうかはわかりませんが、ここまで強引に連れて来られました」
「そうか、だが良く来てくれた。あなたにそんな義理はないのだからな。それで、ぼくは死ぬのかい。あと半年くらいで……」
「わたしはその質問にはお答えできません」
「まあいいさ、あなたに強要はしないよ。それにどの道、ぼくは知っているんだ。ここの担当医はぼくの大学時代の知り合いでね。あいつの顔色を見れば自分がどんな病気のステージにいるか、すぐにわかるさ」
「仮にたとえそうだとしても、最後までしっかりと生き抜いてください」
「大丈夫。ぼくには死に急ぐ気はないよ。しかし、あれは何を考えているのだろうな。瑠衣子さん、迷惑だっただろう。今更、当事のことを謝っても詮無いので、それは棚上げにするが、あなたにとってぼくは酷い男だったはずだ。当事、相当ぼくのことを恨んだだろう。それなのに、あなたは今日ぼくに会いに来てくれた。ありがとう、本当に感謝するよ」
「そんなことを仰らないでください。尾瀬さんがあのときわたしを選ばなかったことは歴然とした過去の事実ですし、今は尾瀬さんを前に不思議と落ち着いた気持ちでいますが、いつあなたのことを殺したいと感じるようになるかわからないんです。奥様の佳代子さんに押し切られる形で、わたしは今日ノコノコとここまでやって来てしまいましたが、ここに来てもなお、わたしは自分がどうして良いのか、何を感じて良いのか、誰を恨んで良いのか、よくわからないのです」
「恨むのなら、心変わりしたぼくを恨めばいい。当然のこととしてね。だが当事もあなたは佳代子に恨みの矛先を向けなかった。それには感謝しているんだ」
「だって、奥様はわたしたちの関係に直接関わってはいないじゃありませんか。当事、あなたが偶々結婚相手に選ばれたのが佳代子さんでしたが、それが他の女の人だったとして、あなたはわたしに別れ話を切り出し、結局のところ、わたしを捨ててその人の元へ行ってしまわれたわけでしょう。違いますか」
「もちろん、それはあなたが言う通りだが、世間一般の男女はそんなふうには考えないものだ。自分から恋人を奪った相手がわかっていれば、その人間がいなくなれば恋人が自分の元に戻って来ると考える。恋人が自分から去り、相手のところに向かったのは、一時の気の迷いだろうと考える。だから、その相手を排除しようと行動する」
「でも実際には――心の本当の奥底では――そんなことは稀にしか起こらないのではなかろうかとみんな知っているんです。多くの人々がそう信じたがるように人の心は動きません。一度、失われてしまった関係は決して元の鞘には納まらないのです。お互いが相手に対して吐く優しい嘘でしかないんです」
「確かにそうだな。そして当事、ぼくたちは自分たちそれぞれが持つ世界観に正直だった。でも今なら相手のそれが理解できる。相手の世界観を尊重できる」
「止めてください。わたしとあなたとの関係は、もう三十年も前に終わったんです。もしもあなたに今ならばそれが修復できそうな気がするなら、それはただ懐かしさに欺かれた間違った判断に過ぎません」
「あなたのそういった立ち位置は昔も今も変わりないな。当時のぼくには、あなたのそれが徐々にぼくを威嚇し、男の世界において自分が発揮できる能力やその他の力を萎縮させるものだとしか映らなかった。だがどうだ。時代が変わり、頭の固い連中は無論まだ大勢残ってはいるものの、あなたが示したあの態度が、今では特に珍しいものではなくなっている。だからこそ、ぼくは思うんだよ。今ならばもし、と思ってしまうことは本当に許されないことなのだろうか、とね」
「病気であろうとなかろうといずれは訪れる尾瀬さんの死は奥様の佳代子さんに看取っていただきます。わたしが看取るのは厭です。それでは、あまりにも辛過ぎます」
「普通に考えれば当然そういうことになるだろうな。無理強いはしないよ。それが今のわたしにできる、あなたに対する愛の形だ」
「本当にもう止めてください。今のわたしには主人も子供もいます。確かにわたしの主人に対する想いは愛ではないかもしれません。ですがこの歳になり、家族を裏切ることはできません。世間に顔向けできないような真似をすることはできません」
「だが、それはあなたの嘘だな。ぼくにはわかる」
「嘘でも何でも構いません。わたしのことをわかったりしないでください。わたしはもう厭なんです。もう一回あれに耐えられるはずがないんです。そんなことになったら、わたしは毀れてしまいます。いいですか、尾瀬さん。わたしは世間では普通におばあさんなのですよ」
「それをいったら、ぼくは世間ではおじいさんだよ。あなたより十歳ほど年上のね。だが、ぼくたちの年齢の比は当時と今では異なっている。今の方が少ないんだよ」
「その事実は、わたしたちの関係の何の保障にもなりません。わたしはあなたに若かった頃のわたしを夢見るなとはいいません。事実、わたしはこれまでずっとそうやって粛々と日々を生きてきたのですから。でも、それをもう一度やり直すのは無理なんです。今のわたしにはそれを背負うだけの自信がありません。気力がありません。想いがありません」
「ならば問うが、あなたはそうやってあなたの家族に囲まれながら無為に齢を重ねていって幸せなのか。それで死を迎えて幸せなのか」
「わたしは今の主人と結婚をすることに決めたとき、幸せを生活と交換しました。愛情を日常と熱情を平穏と交換しました。地獄を天国と痛みを青空と、凍った鉄路を豊かな緑地と自分を覆い隠すものを優しい微笑みと交換しました」
「だが、それであなたが得たのは、ただの偽りの人生だったのじゃないか。ぼくには、そう思えてならないな。そこであなたは英雄を幽霊に交換し、生き甲斐を燃え滓に、真実を嘘に、変化を永遠の午後に交換したんだ。充実した悲惨な生涯を空虚に、身を引き裂く北風を真空に……。その交換レートは安過ぎる。あなたは自分の心を他人の心と交換した。自分の偽りを他人の誠実と交換した。違いますか」
「そんなことをここで言われても困ります。わたしに答える言葉がないのを知っているくせにそれを問うなんて残酷です。わたしはもう尾瀬さんとは何の関係もないんです。残酷な言葉を誰かに浴びせかけたいなら、それは奥様か、あるいはあなたがかつて弄んだ他の女たちの誰かにしてください。わたしはあなたに、それをするなとは言いません。わたしはあなたに何ひとつだって求めません」
「やれやれ、佳代子はそんなことまであなたに話していたのかい。まいったな。確かに、ぼくは佳代子の良い夫ではなかったよ。だが、そんな夫にぼくを変える原因を作ったのは佳代子の方なんだ。無論、彼女に責任を擦りつけるつもりはさらさらないが、ぼくは佳代子があんなに嫉妬深い女だとは思ってもいなかったんだ。彼女と結婚してから何年も、ぼくは彼女に誠実だった。だが、それが佳代子に伝わらない。穏やかな仮面の後ろにはいつだって夜叉が隠れ潜んでいる。留衣子さん、あなたに想像できるかどうかわからないが、毎日空気がピリピリと張り詰めた家で暮らすのが、どのくらいのストレスになるのか見当がつくかな。それは相当な精神的地獄だよ」
「でもその原因は結局、尾瀬さんの側にあったのでしょう」
「ふん、ぼくが女性にモテるのがぼくの責任だと。佳代子が勘ぐった、どの女性たちとも、ぼくは仕事上の付き合いしかしていない。少なくとも、ぼくが自分の家の緊張に耐え切れなくなるまではそうだったよ」
「でも、佳代子さんを選んだのは尾瀬さんなんです。だから尾瀬さんは最後の最後まで佳代子さんを愛し続けなければいけないんです。あるいはごく早い時点で離婚を考えなければいけなかったんです。おそらく尾瀬さんよりは弱くて脆い佳代子さんの精神が毀れはじめてしまう前に……」
「ぼくが自分の人生で判断を誤ったことは数回あるが、確かに早期に佳代子と離婚しなかったのは、その際たるものかもしれないな。だが、もう遅いよ。いまさらぼくは誠実な夫には戻れない。佳代子にとって理想的な夫には戻れない。だがしかし、そんなぼくでも誠実に誰かを愛することはできるはずだ。もちろん瑠衣子さんが望まなければ無理強いはしないがね。今のぼくにはそんな気力はないし、しかもぼくには時間さえない」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます