7 恋人

 駅前の隣接道路でいったん信号待ちをし、わたしたち二人を乗せたタクシーが大学病院の敷地内に入る。広くはないロータリーをまわり、正面出入口前で止まる。

「着いたわ」

 尾瀬佳代子がそう宣言し、タクシー運転手に代金を支払い、彼女に促され、わたしが先にタクシーを降りる。それから二人並んでエントランスを抜け、大学病院の奥に入る。

「久しぶりだわ。でも全然変わってないのね」

 外来患者と入院患者、面会者、医師と看護婦、受付嬢と事務員、警備員やその他の者たちでごった返すロビーを見やりつつ、わたしが言う。

「あら、ご親戚でも入院されたことがおありなの」

「母方の叔母が、透析関連でお世話になったことがあって」

 わたしの答えに首肯きながら尾瀬佳代子がロビーを抜け、エレベーターがある場所に向かう。わたしがそれに戸惑いながら付き従う。

 エレベーターの前には見舞客らしい十数人の男女と看護婦二名がいて、わたしたちが後ろに並ぶとすぐに地階からエレベーターが上がり、扉を開く。並んだ全員が乗り込む中、尾瀬佳代子が押した停止階のボタンは十四階。どうやら他の見舞客の何人かもそこが目的階のようだ。

 エレベーターが上階に昇るわずかな重力加速度の影響で、わたしは自分の胃がぎゅうと締め付けられる感覚を味わう。それが先ほどまでの過度な緊張と相まって、わたしの気分を最悪にする。けれどもそんな情けない自分の姿を尾瀬に見せたくない一心から、わたしは背筋をピンと伸ばし、今現在自分を襲う苦痛に耐え抜こうと決意する。それは大昔に尾瀬と架空の約束をした再会時に果たさねばならない義務のようなものだ。

「そうそう、その調子よ、瑠衣子さん。やっと、あなたらしくなってきたわね」

 わたしの傍らで尾瀬佳代子が無責任にそんなことを口走る。だからわたしは「あなたにわたしの何がわかるというの」と心の中で毒づいてみる。けれどもそれと同時に、もしかしたら尾瀬佳代子の方がわたしの心の迷いや葛藤をより深く理解しているのではないかと思い直し、ぞっとする。そしてすぐさま「いや、決してそんなことはないのだ」と首を左右に振りつつ、その思いを否定する。見知らぬ誰かにならば、わたしは心の裏側を曝け出せるかもしれない。だが、その相手は尾瀬佳代子ではない。わたしの尾瀬に対する想いをすべて知り尽くす、尾瀬佳代子では厭なのだ。

 一四一六号室は立派な個室で、わたしは尾瀬の社会的な成功をつくづくと感じる。最初に尾瀬佳代子が個室のドアをスライドして病室に入り、ついでわたしがそれに従う。病室に人が入ってくる気配を感じたのだろう、部屋の奥から、

「ああ、佳代子か。良く来てくれたね」

 と言う尾瀬康裕の声が聞こえてくる。その声からは当時わたしが知っていた彼特有の魅力的な張り失われているが、わたしには訊き違えようのない尾瀬康裕本人の声だ。わたしは自分の胸がどうしようもなく熱くなるのを感じる。

「あなた、お加減はいかがですか」

 と先ほどの尾瀬の言葉を受け、尾瀬佳代子が夫に言う。

「今日は珍しいお客さんを連れてきましたよ。さあ、ご挨拶してくださいな」

 立派な個室といっても所詮病室だ。妻に続いてもう一人の誰かが入ってきたことには、当然尾瀬も気づいたはずだ。妻の求めに応じ、改めてベッドの上に座り直し、わたしを見た尾瀬の表情に驚きの色が現れる。それはまるで南の海で難破し、命からがらボートに飛び乗った船客が、長い漂流の果てに孤島の影を見つけたときのようだ。

「おお、本当に珍しいお客さんだな。瑠衣子……さん、ずいぶんとお久しぶりです。お元気でしたか」

 尾瀬がわたしの顔を真正面からじっと見つめ、そう挨拶する。それから訝しげに妻の方をチラリと見、その視線をまたわたしに戻す。

「はい。歳なりに身体は動かなくなりましたが、それ以外に大きな変化はありません」

 わたしも尾瀬の顔を真正面からじっと見つめつつ、挨拶を返す。わたしの想像の産物ではない本物の尾瀬の姿を目の当たりにし、わたしは先ほどまで自分を苦しめていた心の動揺や葛藤がまるで嘘のように思えてくる。そして「ああ、これが歳月の効果なのだろうか」と頭の隅でぼんやりと考える。

「そうですか、それは何よりだ。変わりないのが一番ですからね」

 ワンテンポずれた感じで尾瀬がわたしに応え、妻の方を一瞥する。

「しかし、あなたがここに現れたとなると、ぼくの病気はやはり芳しい展開を見せていないことになるか。なあ、おい、そうなんだろう」

 とわたしの頭を飛び越え、尾瀬が妻に問いかける。

「瑠衣子さん、佳代子は、ぼくに病状を教えてくれないんだよ。まるでそれを教えなければ、ぼくが長生きするとでもいうように」

 そんな夫の抗議に妻が応える。

「あなた、何を言っているんですか。そんなことを言ったら瑠衣子さんが心配するじゃありませんか」

「だが、教えてくれないのは事実だろう。ぼくは意気地なしだから最後まで覚悟はできないだろうが、それにしたって死期がわからなければ対応のしようがないだろう」

「瑠衣子さん、この人の言葉を真に受けちゃダメですよ。この人は心配症なだけなんです。これまで一度も大きな病気を経験せずに過ごしたから、わずかの体調不良で、すっかり自信をなくしてしまっただけなんです」

 それから尾瀬佳代子が急に口調を変え、

「あら、いやだ!」

 と小さく叫ぶ。

「どうかしたか?」

 と尾瀬が妻に問いかける。

「いえ、紅茶を切らしてしまったみたいで……。済みません。これから買ってきますから、瑠衣子さん、その間、尾瀬の相手をしてあげてね」

 そう言うが早いか、尾瀬佳代子が一四一六号室を後にする。当然の結果として病室内に、わたしと尾瀬康裕だけが残される。

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