6 病院

「もうそろそろ、あなたの物想いの世界にわたしが登場してくる頃合じゃないかしら」

 わたしの傍らで尾瀬佳代子がふいに言葉を紡ぐ。

「そうね、確かにその通りかもしれないわ」

 わたしは答え、ふうと溜息を吐く。

 わたしと尾瀬佳代子はタクシーに乗り、尾瀬康裕が入院する大学病院に向かっている。むろん、わたしが尾瀬に面会するためだ。

 尾瀬佳代子に尾瀬への面会話を持ちかけられたとき、わたしはそれを後日にしてくれと懇願する。心の準備がないままの尾瀬と再会を避けるためだ。

「ダメよ、瑠衣子さん。逃げてはダメ。これからすぐ尾瀬を見舞いに行きましょう」

 だが間髪入れずに尾瀬佳代子にそうゴリ押しされ、わたしがすっかり怯んでしまう。

「だって今日は本当に普段着を着ていて、お洒落だってしていないし、お見舞いに行ったら家に帰るのが遅くなってしまうし、それに……」

 わたしは咄嗟に頭に浮かんだいくつかの言葉を口にしたが、それが言訳でしかないことを自分自身で知っている。

 もちろん昔の恋人に会いに行くわけだから、恋人にわずかでもがっかりされないように身繕いして出かけたいのは本心だ。そんな乙女心はすっかりおばあさんになってしまったわたしの心の中にもまだ生きている。元が美人ではないので――そういう言い方をすれば和泉佳代子は極めて清楚な美人だったが――身繕いをしたからといえ、取り立てて綺麗になるわけではない。だが今でもわたしを規範する当事の自分らしさを演出することくらいはできるだろう。問題は、そのとき化粧ともに自分が仮面か鎧を付けたり纏ったりしてしまうのではなかろうかという懸念だけだ。けれども、そのことを尾瀬佳代子はすでにお見通しだったようだ。

「瑠衣子さん、あなたが尾瀬の前で素敵な女性を演じたいというあなたの気持ちは良くわかるわ。わたしだってホームパーティーのときには、いつでもそうだったのですから。でもね、瑠衣子さん、そんなことに意味はないのよ。プライドなんて捨ててしまえばいいのです。瑠衣子さんは普通にしているだけでも可愛らしいから、そのままのあなたでいいのです。ただ毅然として尾瀬に会えばいいのです。そのままのあなたで尾瀬に会い、そのとき心に憎しみを感じたら恨み言をいえばいいし、愛を感じたならば愛の言葉を告げればいいのよ。でも今ここから逃げ出し、家に帰ってしまったら、あなたの心はきっと膜を張ってしまう。膜を張り、自分の心を尾瀬から見えなくしようと画策するに決まっている。何故って、そのときあなたの目の前にいるのは三十年にも亘るあなたの願望の具現としての尾瀬康裕ではないのだから。あなたがこれまで、きっといく晩も密かに期待してきたナイトではない。自分が置かれた日常世界から颯爽とあなたを救い出してくれる人ではないのですから……。そのことが頭の中ではもうわかっているから、瑠衣子さん、時間が経てば経つほど、あなたが本当の尾瀬を見る目が失われてしまうのよ。だから決断は今しなくてはダメ。瑠衣子さん。あなたが正直な気持ちで尾瀬に会えるチャンスはこれ一回きり。次はないの」

 結局、そんな尾瀬佳代子の断定に押しやられ、わたしは遅い昼食後の尾瀬との面会に同意する。同意してから、自分の気持ちを再確認しようと深呼吸をする。心臓の上に両掌を充てがうと動悸がだんだんと速くなる。ついで様々な情動がわあっと自分の胸に押し寄せ、不覚にも涙してしまう。

 ただの末期癌の患者に、その妻とともに会いに行くだけだというのに。その男の愛情を再び自分のものにできると決まったわけでもないのに。

 尾瀬は確かにわたしの元恋人だったかもしれないが、その恋人期間は実質一年にも満たないのだ。さらに尾瀬佳代子によれば、その後の尾瀬の女出入りは激しかったという。そんな男が三十年も昔に付き合った美人でもない女のことを憶えていたりするものだろうか。よしんば憶えていたとして、再会したときに抱く感情はただの懐かしさではなかろうか。

 肉体関係があったから、それは確かに小学生や中学生時分に体験した淡い恋とは違うだろう。しかし、それら恋の間に本当に大きな違いがあるのだろうか。三十年の歳月が過ぎ去り開かれたクラス会で、すっかり容貌が変わり衰えさえも感じさせる昔の恋人を発見し、淡いレモンの香りを嗅ぐ瞬間と、それはそんなに違うものなのか。

 大学病院に着く間に、わたしの心が様々な想いに移ろう。けれども、その移ろいの中に自分なりの答を見出すことができない。

「瑠衣子さん、ほら、そんなに緊張しなくたって大丈夫よ。あなた、ガチガチになっているじゃないの。さあ、リラックスして、リラックス……」

 けれど尾瀬佳代子にいくらそう励まされても、彼女と二人で乗ったタクシーが尾瀬の入院する病院に近づくにつれ、わたしの緊張は厭が応でも高まっていく。

「うふふ。瑠衣子さん、まるで小さな女の子みたいよ。可愛いわね。もう五分もすれば病院よ」

 尾瀬佳代子がそんなわたしの緊張をからかうように声を出す。自分自身も若やいだように、わたしを冷やかす。

「ああ、ちょっと待って。やっぱりダメかもしれない。わたし、ダメ。やっぱり今度にした方が良いかもしれない」

 極度の緊張から思わずわたしは口にしたが、本心では自分が尾瀬康弘に会わずに家へ帰ることはありえないだろうと知っている。もう後戻りはできないのだ。

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