5 過去
わたしと出会ったときの尾瀬は財閥系企業傘下の商社マンで、わたしは中小の研究開発系企業のエンジニアだ。わたしたち二人は、わたしの会社の一部商品が含まれるODA(政府開発援助 Official Development Assistance)を通じて知り合う。
今では世界情勢の変転もあり事情が大きく変わったが、わたしたちが出会った当時のODAは殆どが落札企業(=商社)丸投げの状態で、例えば医療用機器や器具及び関連製品の割合や機器等提供メーカーの選定も事実上、落札企業が行ったのだ。だから落札経験の高い企業との――癒着や談合ではないが限りなくそれに近い犯罪行為すれすれの――提携や、そこまで行かなくとも友好的な付き合いは、わたしたちの会社のような輸出に頼る中小企業の死活問題でもあったのだ。日本のODAというと道路や橋および鉄道や発電所などのハードインフラ整備の占める割合が大きいという印象があり、また実際にそうだったとも言えるが、必ずしもそればかりではなかったというわけだ。
もっともそれらのことが頭の中にあったにせよ、当事のわたしは機器およびケミカルソフトを扱う一介のエンジニアで、社内の国際部の部員とともにインドネシアに渡ったのも現地で機器の研修を行う支援要員としてだ。
尾瀬康裕とわたしが最初に出会ったのは東京の官庁街だが、最初に濃厚な日々を過ごしたのはジャカルタの観光地だ。ジャワ島の熱風と情熱が、わたしたち二人を官能的に包み込み、民衆舞踊クトゥック・ティルのリズムと動きが、わたしたち二人をめくるめく夢の世界に誘ったのだ。インドネシア滞在中の一月ほどの間に、わたしたち二人は行政区分で言えば、ジャワ島からティモール島、ジャカルタ首都特別州以外に、スマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島からパプアに含まれる種々の島々を巡り――決して仕事をおろそかにしたと言いたくないが――後で国際部員からやんわりと厭味を言われる程度に情熱を解放していたようだ。尾瀬の口から聞かされてはいないので彼が現地で行動を共にしていた外務官僚から厭味を言われたかどうか知らないが、その可能性は高かっただろう、と今ではわたしも思っている。
誰の人生においても二度と訪れない体験があるものだ。わたしにとって――そして願わくば尾瀬康裕においても――それがあのときの体験だったと信じたい。
帰国してからも、わたしたち二人は逢瀬を続ける。時代はまだ――バラ色とは言えないが――未来を夢見られた華やかな空気に包まれ、その後に社会を襲う長期的な不況や社会自体の疲弊は――先見の明ある学者の世間に無視された論文の中にしか――見受けられない。小型の携帯電話機もなければ、インターネットが普及していたわけでもないが、あの時代を体験した大半の人間は少なくとも一日のうち数時間、夢見るような快楽を追い求めて過ごしたと回想するのではなかろうか。
だが悲しいかな、わたしは理系の会社の研究開発部員だ。週休二日制がはじまるのもまだ先の話。土曜日を半ドンで帰るもの、日曜日に休日出勤(もちろんサービス残業)しないのも、社会人としてのわたしの胸を責め苛む。けれども一目尾瀬に会えば、わたしの生業上の悩みはたちまちのうちに棚上げされ、わたしの身体が甘い歓喜の炎に包まれる。
それまでに男性経験がなかったわけではないし、また理屈ではなく身体の恋に溺れかけたこともあったが、尾瀬との逢瀬は、わたしの過去の経験を完全に塗り変えてしまう。わたしは尾瀬に溺れ、少なくとも最初の数ヶ月間は、尾瀬もわたしに溺れていたはずだ。身体がヘトヘトになり、腕も足も腰もお腹も疲労で動かなくなくなるまで何度も何度も交わったものだ。身体中が筋肉痛やそれ以外の痛さで悲鳴を上げてもなお、わたしと尾瀬は睦み合う。わたしの中で尾瀬が何度も果て、尾瀬の中でわたしが何度も天に昇る。わたしと尾瀬の瞳の中には微笑を浮かべた尾瀬とわたしの姿だけが映り、今ではもちろん恋の魔法だと理解できるが、それが死ぬまで――死が二人を別つまで――永遠に続くものだと信じている。
尾瀬の背後に女の影がチラつきはじめたのは、今にして思えば、尾瀬との付き合いが三月を過ぎた頃だったろうか。けれども当事、わたしがそれを感じたのは半年以上経ってからだ。
わたしたちの関係は初期の灼熱の熱愛期を経て情熱的な安定期に入った、とそのときわたしは思っている。職業柄、現場の病院や今で言うところのブランチ(検査センターの出先店)および検査センターや大学などに開発試作品の評価やトラブルもしくは販売促進用デモの技術支援部員として、あるいはクレーム対応――最も厭だった――などで予定外に出向く際、尾瀬とのデートが突然キャンセルされても気持ちを切り換え、どうにか耐えられるようになっていたからだ。けれども結果的に、その感情はわたし独りが持っていたものらしいとしることになる。尾瀬の心の中から、わたしに関する拘りの感情がまったく消えてしまったとは思えないが、自分が完全に自由に扱うことが出来ない女に対する苛立ちが募っていたのは事実だろう。
哀れな家父長制度に呪いあれ。日本的封建社会に呪いあれ。
もちろんそれらにどっぷりと漬かっていたにせよ、それは尾瀬自身のせいではないだろう。ただしそれが正しいと言えるのは、そんな日本固有の文化を認識し、歩みはじめた最初の数歩だけなのだ。
さらに他にも、わたしに対する尾瀬の苛立ちがあったかもしれない。
さすがに語学では敵わないが、わたしは彼より豊富な理系の知識を持っている。文学や商学や社会情勢を見極める視点など、尾瀬にはわたしにはない幾つもの長所を持つが、それらの知識はわたしと共有してどうなるというものではない。そんなふうに想いを馳せると、復興の兆しが仄見えもしない、疲弊し、望みが不透明な、今のこの世の中が持つ別のありがたみが浮かび上がって来る気もするが、今更そんなことを言ったところで、すべては後の祭りだろう。
当時のわたしが自分に対する尾瀬の変化を感じていなかったといえば嘘になる。もっとも旧姓、和泉佳代子がわたしに語ったような不誠実さを、わたしは当事の尾瀬から微塵も感じていない。むろん、わたしがそれに気づかなかったという観点に立つのは可能だが、現時点でもわたしは当時のわたしの見解を支持する。
尾瀬がわたしに別れを切り出したのが水族館だ、というのがその理由だ。いつも待ち合わせに利用したターミナル駅地下の喫茶店ではない。そのことを持って、わたしは尾瀬の当時の誠実の証としよう。あるいは尾瀬はわたしに最後の思い出をプレゼントしようとしただけかもしれないし、または喫茶店での修羅場を避けたかっただけかもしれないが……。
だが仮にそうだとすれば、思い出作りのデートが終わった時点で尾瀬が別れ話を切り出すのが筋だ。水族館デートの終了時。あるいは、その後の食事の終了時。あるいは――可能性は少ないとはいえ――その後のセックスの終了時に告げれば良い。けれども尾瀬は水族館デートの途中、わたしに別れ話を切り出している。全長が十数メートルもある巨大水槽の中を無数のカツオが勢い良く周遊する光景にわたしが目を奪われた直後に告げたのだ。おそらく、その先一秒たりとも尾瀬はわたしに対する自分の偽り行為が許せなかったのだろう。
「好きな人がいる。別れてくれないか」
尾瀬が口にしたのは、そんなシンプルなフレーズだ。
「えっ」
わたしは最初、自分の三半規管か鼓膜の調子が悪く、間違った声音を聞いたのだと信じる。けれども逃げるようにわたしを見つめる尾瀬の目の動きを確認すれば、わたしはそれが現実に尾瀬が放った言葉であると理解しないわけにはいかない。
そのとき、尾瀬の瞳の中にわたしは映っていない。尾瀬の瞳は虚ろにわたしを擦り抜けて、まるで玩具の玻璃玉のように周遊するカツオの姿を次々と映し出すのみだ。
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