4 依頼
そんなふうに淡々と自分と尾瀬の真実を語る尾瀬佳代子の言葉に、わたしはただ圧倒されてしまい、今度こそ本当に言うべき言葉を失ってしまう。
「お食事が進んでいないようね。……ごめんなさいね。きっと、わたしが可笑しな話を聞かせたからだわ。申し訳ありません」
どこまで本気の謝罪なのか、わたしにはまるで見当がつかない。けれども尾瀬佳代子がわたしに穏やかな笑みを向ける。
「いえ、佳代子さんに謝ってもらう必要はないのだけれど」
だから、わたしが一言を返す。ここで何か言葉を返さなければ、二度と再び彼女とは口が利けなくなるという強迫観念に駆られ、やっとのことでわたしはそれだけを口にする。
その直後、わたしは咽がカラカラに渇き、また身体中の皮膚がそれとは逆にじっとりとした汗にまみれるのを感じる。けれどもしばらくじっとしていると、そんな自分の状態が自分自身で把握できるようになり、それまで自分が感じていた緊張感が嘘のようにゆっくりと自分の中から退くのが把握できる。すると彼女の話を聞いていた間ずっと、自分がまともに呼吸さえしていなかったのではないかと気づかされる。
「でもね、瑠衣子さん。こんなお話ができるのは、あなたしかいないのよ」
わたしの顔にははっきりと懐疑の念が浮かび上がっていただろう。明らかにそれを読み取り、尾瀬佳代子が言う。
「だって尾瀬と結婚して、わたしはそれまで持っていた、わたし自身の友だちとの絆を失ってしまったから。尾瀬と結婚するということは、尾瀬の友だちがわたしの友だちモドキになってしまうということで、さらに尾瀬との仲が冷えてしまった後は恥ずかしくて、悔しくて、それに自分の演じる幸せな奥さん役にボロが出るのが怖過ぎて、わたしはますます昔の友だちに会えなくなってしまったのよ」
「そんな」
「当時のわたしの友だちは、わたしがあなたから尾瀬を奪ったことなんて知りもしなかったし、またわたし自身は貧乏な家から玉の輿に乗った娘だったわけだから、自分からそのイメージを塗り変えるような真似もできなかったわ」
「だけど、それにしたって」
「昔の友だちと尾瀬の知り合いの他にわたしが知っている女たちの集団は尾瀬の浮気相手ばかりなのよ。若いのもいたし、歳取ったのもいたし、一回だけなのも、くっ付いては離れるを繰り返す腐れ縁なのもいたけれど、まさか、そんな人たちとお友だちになれるわけがないでしょう。それは瑠衣子さん、あなたにだってわかってもらえますよね」
「でもだからといって、何でそれがわたしなのよ。訳がわからないわ。きちんと理由を説明して」
「だって、あなたは尾瀬が本当に愛した女(ひと)じゃないの。浮気じゃなくて本気で愛した」
「違うわよ。それは佳代子さん、あなた自身でしょう。尾瀬が選んだのはわたしではなく、あなたなのよ」
わたしがここぞとばかりに主張する。
「確かに今のお話を聞く限り、ご結婚後の生活はお幸せではなかったかもしれないけど、でもそれは、わたしの知ったことじゃない」
尾瀬佳代子の語る話の真意が未だに読み取れず、わたしは苛つきはじめ、遂に口調を荒らげる。
「佳代子さん、あなたはわたしにいったいどうして欲しいの」
すると尾瀬佳代子は深い溜息を吐きながら、わたしの問いに答えるのだ。
「もちろん、こんなことをお願いするのが虫の良い話だってことは、いくら世間知らずのわたしだって十分心得てはいるわ。でもね、瑠衣子さん、わたしは、あなたに尾瀬に会ってもらいたいのよ。尾瀬に最後の命の輝きを取り戻させるために、あなたに尾瀬に会ってもらいたいのよ」
そんな彼女の頼みごとをわたしが一蹴。
「昔から洒落者の尾瀬が、こんなおばあさんになったわたしに会いたいものですか」
だが尾瀬佳代子が、そんなわたしの言葉で怯むはずもない。
「ここ数年で尾瀬はめっきり老け込んだわ。今では七十過ぎの、もっと言えば八十近い総白髪のおじいさんにしか見えないわよ」
「それなら逆に言いたいけど、佳代子さん、そんな老いさらばえた尾瀬にわたしを引き会わせ、あなたはわたしがこれまでわたしの中で大切に守り通してきた尾瀬への想いをぶち毀したいというわけなのね」
「瑠衣子さん、落ち着いて考えてみて。あなたは尾瀬に会いたくはないの。本当に尾瀬を一目だけでも見たくはないの。今更会って怨み言を言うのか、それとも不滅の愛を告げるのか、わたしにはまったくわからないけれど、でもあなたは尾瀬にどうしても会いたいはずよ」
尾瀬佳代子の口調はそれまでと変わらず淡々としていたが、同時にわたしに有無を言わせぬ迫力が籠る。
「いい、よく聞いて、瑠衣子さん。ここであなたが尾瀬に会うことを断ったら、あなたはもう二度と尾瀬に会うことができなくなるのよ。あなたはわたしたちの家がどこにあるかを知らないし、尾瀬が何処の病院に入院しているかも知らないし、あなたの性格からして自分から尾瀬を探し出そうなんて絶対にしないでしょう。あのときの、三十年前のあなたの決断とまったく同じに……。けれどもわたしと一緒だったら、あなたは尾瀬と会うことができるのよ。昔の知り合いの一人として……」
「そんな」
「三十年なんて頑なな想いの前には、ほんの短い時間でしかないわ。あなたのプライドはかつて尾瀬の瞳の中に自分が映っていないと気づかされたとき、尾瀬と金輪際、会わないと決めた。尾瀬に関するたった一つの噂さえ求めないようにと。違う、瑠衣子さん。当時のわたしには、そんなあなたの頑なさが理解できなかった。いったんは引き下がったように見せかけて、わたしの知らないところで、いつ尾瀬の肉体を蕩けさせるような真似を仕出かすか心配で不安で仕方がなかった。だから、わたしはあなたに無言電話をかけたのよ。あなたの精神をズタズタにしてやりたくて、わたしの精神をわずかでも不安から遠ざけるために。でも今は……」
尾瀬佳代子の一瞬の精神の怯みに、わたしが空かさず攻撃をする。
「佳代子さん、結局のところ、あなたはまだ尾瀬のことを愛しているのよ。だから、そんな惨い頼みごとをわたしにすることができるのだわ。違う」
「いいえ、今のわたしに尾瀬への愛はないわ。あるのは哀れみだけよ。だから、あなたが望むなら尾瀬はあげるわ。はっきり言って、今の尾瀬を愛することができる人がいるとしたら、瑠衣子さん、おそらく世界中にあなた一人しかいないでしょう。三十年も尾瀬の妻を勤めたわたしが言うのだから間違いないわ」
「それならどうして、佳代子さん。もっとずっと前にわたしにその言葉をくれなかったの。尾瀬の命があと半年で尽きるとわかる前に、どうしてわたしにそのことを話してくれなかったのよ。結局、あなたはまたしてもわたしから尾瀬を奪おうとしているのだわ。わたしがこれまで大切にしてきた想い出の尾瀬を老いさらばえた尾瀬と交換させ、そしてその老いさらばえた尾瀬を今度は死体の尾瀬と交換させてわたしに与えようだなんて惨過ぎる」
「だけど、瑠衣子さん。そうすれば、あなたは尾瀬の魂を手に入れることができるのよ。永遠に変わらない死者の魂を手に入れることができるのよ。生きている人間の心なんて移ろうだけよ。一人の人間をいつまでも愛し続けることなんてできるはずもないわ。それができるのは相手が死者の場合だけよ」
「そしてあなたは尾瀬にわたしとの愛を許すことで、あなた自身も尾瀬からの愛を手に入れようというわけね。慈悲なる愛を……。佳代子さん、それではあまりにも虫が良過ぎるわよ」
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