3 旧友
尾瀬佳代子が指定した飲食店は、わたしの家から電車を乗り継いで三十分弱の駅の近くだ。そこから徒歩で数分の位置にひっそりと佇む隠れ家的なイタリア料理店。ネットの地図で調べた店に至る路地に差しかかり、その概観を一瞥しただけで、わたしの胸が悪くなる。さらに入店し、瀟洒な店の造りがはっきりして来ると、涙さえ浮かび上がりそうになる。
何故なら、そこがいかにも当時の尾瀬康裕が好みそうな趣味に溢れていたからだ。
わたしは瞬時、尾瀬佳代子を激しく恨み、かつ途方に暮れる。尾瀬佳代子の真意がわからない。これは彼女の、わたしに対する当て擦りなのか。それとも彼女の意図とは無関係に、わたしの前に顕れてしまった過去の亡霊なのだろうか。
「良くいらしてくれたわ、瑠衣子さん」
若くてスラリとして足の長い今風醤油顔のウエイターに案内され、すでに尾瀬佳代子が陣取っていた席の向かい席にわたしが座ると開口一番、彼女が言う。
「来てくれて嬉しいわ」
満面に笑みを湛えているからには、その言葉に嘘はないのだろうが、やはりわたしには彼女の真意が掴めない。からかわれているのか、それとも齢を重ねて当時以上に無邪気な性格に退行してしまったのか。いくら化粧で隠しても隠し切れない小太りの老女の表情に、わたしは何を読み取れば良いのだろう。
「あなたは若いわね、瑠衣子さん。わたしの方はすっかり歳を取ってしまったというのに……」
自分の真向かいの席に座った痩せぎすのわたしの容姿をゆったりと見やりながら尾瀬佳代子が言う。
「違うわよ。わたしだって普通に歳を取ったわ。少なくとも、佳代子さんと同程度には」
だから、わたしは相手の言葉に合わせてそう答える。だがその言葉は、あたかも事実を事実として認識することを拒むかのように、わたしの胸に響く。
「このお店のフルコースは素敵なのだけれど、それはまた次の機会にして……。そうねえ、単品のお料理だったら豚フィレローストのローズペッパー風味をお勧めするわ。お魚料理だったらメカジキのカプリ風を……」
わたしたち二人の前にメニューが配られると、それを開きながら尾瀬佳代子がわたしに店の自慢料理を勧めはじめる。けれども、わたしはまったく食欲を感じない。だからメニューの中から軽めのものを探す。
「わたしはミネストローネがいいわ。トスカーナ風のミネストローネ。実はお腹があまり空いていないのよ。でも、トーストを付けて頂こうかしら」
「あらまあ、小食だこと。だからいつまでもその体型を維持できるのね。羨ましいわ」
そう言ってから尾瀬佳代子は、ついさっきわたしに勧めたメニューではなく、ルッコラのサラダを前菜にしたパルミジャーノチーズのリゾットを注文する。
「瑠衣子さん、お水は」
「そうね、せっかくだからガス入りの天然水をいただくわ」
「食後はコーヒー、それともお紅茶」
「実を言うとね、佳代子さん。わたし、コーヒーが飲めないのよ」
そんな会話を続けながら、気怠い晩冬の午後を過ごすわたしたち二人の姿は店の歳若いウエイターにはいったいどのように映っているのだろう。仲の良い女友だちのように見えるか、それとも長年の時を隔て、やっと再開できた嘗ての親友たちのように見えるのか。
ある意味、わたしたち二人は親友とも呼べる。何故なら二人にとり最も近しいものを、自分たち二人が最も愛した人間を――たとえ一時的にとはいえ――共有したことがあるのだから。
「わたしたち、お友だちになれなかったのが残念ね」
そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、尾瀬佳代子が残念そうにそう呟く。ついで、わたしたちが陣取ったお洒落でアンティークなテーブルにそれぞれがオーダーした食事が運ばれる。しばらくの間、ゆったりとした摂食の時間が流れゆく。
十数分後、自分の料理をほぼ味わい終えたところで、尾瀬佳代子がわたしの不意を突く。
「実はね、瑠衣子さん。尾瀬は癌なのよ。もう助からないの」
「えっ」
突然そんなことを言われても、わたしには返す言葉がない。
「だから尾瀬は癌なんです。お医者様は持ってもあと半年くらいだろうと仰っているわ」
突然の彼女の告白に、わたしは言うべき言葉を失ってしまう。けれどもそんなわたしに尾瀬佳代子は淡々とした口調で続ける。
「もう時効だと思えるから、瑠衣子さん、あなたに教えてあげるけれど、尾瀬とわたしの仲はわずか数年で冷え切ってしまったのよ。理由はいろいろあるけど、子どもがいないことがその理由のひとつだとも思うけれど、今ではそれはもうどうでもいいの。こんなこと、はじめて聞くあなたには信じられないかもしれないけれど、尾瀬は浮気を繰り返したのよ。わたしとまだ情が通い合っていたときでさえ、尾瀬は日常的に浮気をしていたわ。最初の頃、わたしは泣きながら尾瀬に改心を迫ったわ。その度に尾瀬はそれを誓い、でも半年と経たないうちにまた浮気の虫が疼いて元の木阿弥となり……。
わたしはもう疲れ切ってしまい、尾瀬に離婚を求めたの。だけど尾瀬がそれに応じない。もちろん尾瀬がわたしと別れたくなかった理由は、浮気をし、飽いてしまった女たちを捨てる口実にしたかったからよ。世間体とかそんなこともあったのかもしれませんけど、主な理由はそれね。それでとうとう、わたしたちは仮面夫婦になってしまったのよ。お互いがお互いの偽者の役を演じる仮面夫婦に……。
そのうちわたしは尾瀬のことも自分のことも、それにその他のことも、もうすべてのことがどうでも良くなってしまって、まったく無意識のうちに仮面夫婦を演じ続けていたのね。でもよ、瑠衣子さん、不思議なものでね。そうやって一旦、尾瀬のことを諦めてしまうと、仮面夫婦でいるのが気持ち良くなってきてしまったのよ。尾瀬って、ほら、仕事柄付き合いが多いでしょう。性格があんなだから友だちも多くて……。
そんな尾瀬のお友だちを大勢家に招いて、その間、わたしは暢気で幸せな奥さん役を演じるの。そうすると、わたしは自分が本当に暢気で幸せな奥さんのような気がしてきて、自分でうっとりとしてしまうの。もちろん、そのときの尾瀬は完璧な夫で、わたしに対して惜しみなく愛情を注いでくれるわ。だからそのうち尾瀬の側に理由はないのに、わたしの方から尾瀬にホームパーティーをせがむようになったのよ。おかしいでしょう。でもね、その席でならば、わたしは幸せでいられたから。その席でだけは、わたしは夫に愛された可愛い奥さんでいられたから……」
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