2 連絡
和泉佳代子がわたしの人生に登場するのは、わたしと尾瀬との蜜月がはじまって三月ほど経った頃だ。彼女は尾瀬の職場の――今で言うところの――派遣社員で経理を担当する、ただそれだけの存在だったはずだ。尾瀬はわたしの会社の商品も取り扱う大手商社の人間で――わたしの自惚れではなく――出会ったときから互いに恋に落ちる。だから和泉佳代子の姿を尾瀬の背後に薄く見かけてはいたものの、わたしにとって彼女は壁の染みのような存在だ。よもや彼女がこのわたしから尾瀬を奪う女になろうとは夢にも思わない。
ただあのときのことを今更のように思い返すと、頭の片隅に「清楚なお嬢さんがいるな」と感じた記憶が確かにある。だからわたしの中に自然に備わった防御回路は、そのときわたしに警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
どうやって調べたのか知らないが、あれから一週間後、尾瀬佳代子からわたしの家の固定電話に連絡が入る。そのとき、わたしは洗濯物を干しに二階に上がっている。だから、その電話を最初に受けたのは夫の悟史だ。夫は通話相手がわたしの知り合いだとわかると、階段の下から二階のわたしに一声かけ、その後通話を子機に切り換えてくれる。
「またしても、ごめんなさいね。お洗濯のお邪魔をしてしまって」
そう謝る尾瀬佳代子の声に、しかし恐縮した調子は微塵もない。
「いいえ、そんなことは構わないのだけど、ご用件は何かしら」
わたしが籠に入った洗濯物を畳の上に置き、諦めたような声で応えると、前回同様、尾瀬佳代子の態度がまたよそよそしく変わるのを感じる。目の前に相手がいない、ただの通話だというのに、そんな雰囲気がひしひしと伝わってくる。それで、わたしが軽い眩暈を覚える。だから言葉を繰り返す。
「わざわざこの家にまで連絡してきたってことは、佳代子さん、わたしに用があるのでしょう。このわたしに何か言いたいことがあるのでしょう」
だが送受機の向こうの尾瀬佳代子は無言のままだ。押し黙ったまま何も言わない。すると、わたしに閃いた想いがある。その無言に覚えがあると、不意に思い出したのだ。
尾瀬に急な別れを告げられ、惨めにも狼狽し喚き散らし、その後自殺未遂まで図った当時のわたしをさらに追い詰めた毎晩の無言電話。一度あのときのことを思い出すと、今までその記憶が自分の中で封印されていたことが急に滑稽に思われてくる。自分では尾瀬に纏わるすべての記憶を一つ残らず追体験し、それら記憶を生々しいまま自分の中で生かし続けてきたつもりだが、記憶は見事に風化していたようだ。あまりにも無残に失われている。
けれどもその事実への認識がわたしに呼び覚ましたのは絶望ではなく、どこか突き抜けたような諦念だ。無駄な努力をどんなに懸命に続けたところで、自分の尾瀬への想いを墓場にまで持っていけないのだという悟りと言い換えても良い。数年後か、あるいは十数年後にわたしが死ぬとき、わたしの脳細胞内の記憶配列は尾瀬への想いを外部に伝達可能かもしれない。だがその配列さえ、わたしが荼毘に付された瞬間、すべて無に帰してしまうのだ。
「そうね、今わかったわ。あのときの無言電話の主は佳代子さんだったのね」
自分と尾瀬佳代子が形作る重い膜のような沈黙を打ち破りたくて、わたしは咽の奥から無理矢理声を引きずり出す。
「あら、やっと瑠衣子さん、それに気がつかれたのね。遅いわよ」
そう答える尾瀬佳代子の声に気後れしたような感じは微塵もない。
「でも、どうして」
とわたしが問う、
「あの時点であなたはわたしに勝利していたのだし、あなたの性格からして、わたしがあれ以上尾瀬に食い下がるとは考えもしなかったと思えるのだけど」
「うふふ。そこのところも含めて、瑠衣子さん、今度どこかでゆっくりとお話をしましょうよ。いえ、もし良ければ今からでも、場所を設定させていただくわ」
「不意にそんなことを言われても無理よ。これから主人にお昼ご飯を作らなければならないし」
「あらあら、今頃になってご主人のことを持ち出すなんて卑怯だわ。そんな人のことなど、放っておけばいいじゃないの。どうせ愛してはいないのでしょう。あなたが今でも愛しているのは尾瀬康裕だけなのでしょう。違う」
「佳代子さん、その質問にはお答えできないわ。少なくとも、今ここでは……。いいわ、ではこうしましょう。わたしは洗濯物を干した後、主人の食事の用意をし、それからあなたに会いに出かけます。それで良ければ、場所を教えて」
「いつまでも律儀なのね、瑠衣子さんは……」
尾瀬佳代子が最後に放った言葉の意味がわたしにはわからなかったが、彼女は臆するでもなく待合わせ場所を指定し、自分の携帯電話番号を教える。
「では、そのときに……。待っているわよ、瑠衣子さん」
プツリと音がし、回線が切れる。わたしがその場で深く溜息を吐く。だが、すぐに首を左右に振り、やるべき仕事を粛々と遂行する。
何故今頃になって尾瀬佳代子はわたしに会いたがっているのだろう。それがまったくわからない。常識的に考えれば、あの日、ジャッピーと散歩をしていたわたしに偶然出会い、郷愁の念を呼び覚まされた、と理解することもできるだろう。尾瀬康裕に対する勝者である彼女の立場からすれば、そう考えてもおかしくない。
それはいじめっ子といじめられっ子との関係にも等しい。大抵のいじめっ子は自分が為したいじめ行為を憶えていない。それは単なる遊びで、己の前に連綿と連なる永遠の午後をわずかでも消費するための退屈しのぎに過ぎないからだ。けれども、いじめられっ子の方はいじめられた事実を生涯に渡り決して忘れることなく憶えている。大人になり、その記憶が他の数多くの記憶の中に埋もれ、薄く引き延ばされたとしても、何らかのきっかけでその事実が頭の中に思い浮かべば瞬く間に濃度が取り戻される。迫真の光景として昔日に受けたいじめの記憶が目蓋の裏に展開されるのだ。
「わたし、これから出かけますから」
洗濯物を干し終え、簡単な昼ご飯の用意をしながら夫に言う。
「そうか。わかった」
わたしの言葉に対する夫の返答がそれだ。それ以上でも、それ以下でもない、わたしたち夫婦の現在の関係を示すかのような、あってもなくても構わないような必要最低限の返答。わたしたち夫婦のこれまでの関係を示すかのような無味無臭の会話。
「そんなに遅くならないとは思いますが、遅くなるときには連絡を入れます」
夫がそれ以上何も尋ねてこないので、仕方なくわたしの方からそう添える。すると夫が「ああ、うん」とチラリとわたしを盗み見しつつ言う。ついで夫はそのときわたしが把握していなかった、それまで自分が継続していた何らかの行為に戻っていく。
それは、あってなくても構わないような会話。それは、あってもなくても構わないようなわたしたち二人の関係性。
もしかしたら、わたしと夫の関係がこうなってしまった原因の一部もしくはすべてはわたしの側にあるのかもしれない。だが、それにしたところで、夫にはその関係性を修復する権利があったはずだ。その権利を行使する機会があったはずだ。
それともそうではなかったのだろうか。
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