ゆれる
り(PN)
1 再会
時間がすべてを解決してくれるというのは誤魔化しに過ぎない。
時間が記憶を薄れさせてゆくというのも誤魔化しに過ぎない。
それは、そうやって想いを捨て去ることができた人たちの言い分だ。
それは、そうやって新しい自分と対面できた人たちの言い分だ。
何故なら、わたしは未だに思い出しただけで泣けてきてしまうから。
何故なら、わたしはあの人のことがわずかに心の中を過ぎっただけで切ない思いにさせられてしまうから。
月日の経過は残酷だ。鏡の中の自分の顔に若さはない。少なくとも尾瀬と過ごした二十代最後の歳から三十代最初の歳にかけて自分の中に確かにあったはずの濃密な若さは、今のわたしには微塵もないように感じられる。だが今回、残酷だが紛れもないその事実をわたしに突きつけたのは、鏡台の鏡の中からわたしの顔を見つめ返す、すでに肌の張りを失ったもうひとりの自分の顔ではない。それはかつてわたしの恋人だった尾瀬康裕の妻、旧姓、和泉佳代子との突然の再会によってもたらされる。
そのとき、わたしは犬を散歩させている。
シーズー犬のジャッピーは娘の美緒とその夫の柏木壮太の飼い犬だが、子供のいない娘夫婦が年に数回国内や海外旅行に出かける際、我が家で預る慣例となる。若い夫婦の願いを最初に聞いてから数年経ち、慣例行事となったのだ。
「お母さんたちもたまには一緒にどこかへ出かければいいのに」
「そうですよ。行き先の相談には乗りますから」
娘夫婦がジャッピーを家に預けに来るとき、わたしたち老夫婦は必ず彼女らにそう言われる。これも恒例行事。
「いいのよ。お父さんも、お母さんも、どっちも旅行は好きじゃないから。ねえ、そうでしょう」
「ああ、ご近所をゆっくり散歩するだけで十分だ」
わたしと夫の悟史の娘夫婦に対する答えも恒例だ。
「いつだって同じなんだから」
「そんなこと言ったって、この歳になってから変わるのは大変よ」
「いくら大変だからといって、そんなふうにいつも尻込みしていたら、新しい出会いなんかひとつも訪れないわよ」
「いいのよ。お母さんは毎日をただ粛々と生きているのだから。今さら足掻こうなんて思わないわ」
実際、わたしの心は三十年前のあの夏の日から変わっていない。だから、わたしの中から尾瀬康裕に対する想いを消し去ってしまえば、わたしの中には何ひとつの感情も残らないだろう。そのからっぽの心を纏った人間はわたしではない。わたしに姿形が似ているだけの、ただの残骸だ。
「あら、瑠衣子さん。お久しぶり」
それは晩冬の寒い朝で土曜日のことだ。
長かった冬もようやく終わりが見え、三寒四温の言葉通り、季節は日々寒暖を繰り返す。
朝の清々しい空気の作用もあり、久しぶりのジャッピーと一緒の散歩はわたしの心に穏やかな安らぎをもたらしている。それで少し遠出をし、区の境界を越えた住宅街にまで足を踏み入れたのだ。その区域をしばらく歩いたところで路の前方から声をかけられる。見ればそこに黒いオーバーコートに身を包む、小太りの老女が立っている。
「もしかして、佳代子さん」
とわたしは自分のいた場所から数メートル先に立つ、尾瀬佳代子に問いかける。
彼女は昔と何一つ変わらない――少なくともわたしには何を考えているのか皆目見当がつかない――曖昧な笑顔を浮かべている。
あのときわたしは「もしかして」と口にしたが、実は一目で彼女が、あれから三十年の歳月を経た尾瀬佳代子であると見抜いている。
「懐かしいわね。瑠衣子さん、お散歩」
「ええ、そうなの」
「可愛らしいワンちゃんね」
わたしとの会話のきっかけを探るように、尾瀬佳代子がわたしの足元にまとわりつくジャッピーを褒める。その場に腰を下ろしてジャッピーの頭を撫ぜ、気を牽こうとする。ジャッピーは元々人見知りしない犬だが、そのときもまた気持ち良さそうに彼女に撫でられるままになっている。やがて、ゆっくりと立ち上がった尾瀬佳代子がわたしに問う。
「瑠衣子さんのお宅って、この辺りだったかしら」
「いえ、もっとずっと先の方よ」
とわたしはこれまで歩いてきた路の方を振り返り、答える。だが家の場所を特定できるように一定の方向を指し示したりはしない。
「今日は、いつもより足を延ばしてしまったのよ。朝の空気のせいかしらね」
けれども、そんなわたしの言葉が聞こえなかったかのように尾瀬佳代子がわたしに言う。
「でも、そんなに遠くじゃないわよね。一遍、お宅に伺いたいわ」
「家に来たって面白いところは少しもないわよ。だから、それは勘弁してね」
尾瀬佳代子の申し出に、わたしはやんわりと断りを入れる。すると彼女はすぐさま話題を変える。
「瑠衣子さん、ご結婚は」
「もちろん、しているわよ。約三十年前に……。娘も一人いて、この子は娘夫婦の犬。名前はジャッピーっていうの」
自分の名前が呼ばれたことが嬉しいのか、ジャッピーがそのとき尾瀬佳代子に向かってワンと吼える。元気いっぱいだ。路端で立ち止まり会話する、わたしたち二人の足元をちょこまかと動く。
「あら、そうだったの。娘さんがいらっしゃるのね。知らなかったわ」
教えてはいないのだから、尾瀬佳代子がわたしに娘がいることを知らなくても不思議はない。だが、わたしは彼女がそれを知らないことにわずかな悲しみを覚える。何故なら、尾瀬佳代子がそれを知らないということは、尾瀬康裕もそれを知らないということで、彼のわたしに対する関心のなさが浮き彫りにされてしまったように感じさせられたからだ。
「佳代子さん、お子さんは」
このままでは、その場で涙ぐんでしまいそうになる。だから、わたしは尾瀬佳代子にそう尋ねる。間接的にとはいえ、わたしが自分から尾瀬に関する何かを訪ねたのは三十年振りのことだ。
「わたしたち夫婦に家族はないわ。広い家にわたしたち二人。何十年もずっと、わたしたち二人だけ。でも、それも……」
そこまでを口にし、尾瀬佳代子が不意に口を閉ざす。だから、わたしは多くのことを想像してしまう。尾瀬康裕に関する様々なことが頭の中を飛びまわってしまう。
「どうされたの、佳代子さん」
わたしは話の続きが聞きたくて、つい尾瀬佳代子を促してしまう。尾瀬康裕について、ただ一つの情報でも良いから知りたくて、尾瀬佳代子に話の続きを促してしまう。
「いえ、何でもないのよ」
まさか、そんなわたしの心の動きを察したのでもなかろうが、尾瀬佳代子が急にわたしに対してよそよそしい態度を取りはじめる。
「ごめんなさいね、瑠衣子さん。お散歩の邪魔をしてしまって。わたし、今日はもう行くわ。今度、何処かでゆっくりとお話をしましょうね」
そう言い残し、尾瀬佳代子が先ほどわたしがジャッピーと散歩して来た住宅街の路を、その方向にスタスタと歩いて行ってしまう。その場に独り取り残され、呆然としているわたしを勇気付けるかのように靴の上に前足を乗せ、わたしの顔を見上げながらジャッピーが可愛らしくワンと吼える。
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