少年と衛星兵器と二五〇円

文咲 零字

第1話

財布の中には、五〇〇円玉が一枚きり。

夏期講習の帰り道、アスファルトをこんがりと焼きあげる午後の日差しに追われて、彼はコンビニへと逃げ込んだ。しばらく涼んだ後、世界で一有名なコーラを手に取りレジで会計。

自らの懐事情に驚いたのはその時だった。

今日の授業で出てきた「経済危機」という単語が脳裏をよぎる。いろいろな国の偉い人がどうしたかはなんとなく思い出せたが、役に立つ情報はなさそうだった。

テープが貼られたコーラと全財産三五〇円を受け取る時、レジの横にある募金箱が目に入った。「一〇〇円で救える命があります!」そんなキャッチコピーが書かれたそれには、なんと五〇〇〇円札が入っていた。

少し、うらめしくなる。

店を出るのもそこそこにコーラのキャップを開けると、ぷしゅりと小気味よい音。口に運ぶと、しゅわりとした心地よさが喉をくぐりぬけていく。

おもわず、ため息が出た。

これで残金は三五〇円。

バイトの給料日までは、あと一週間もある。

追ってもうひとつ、ため息が出た。


彼がコンビニの隣の近くの小さな公園にふらふらと足を踏み入れると、木々の隙間からわずかに心地よい風が吹いた。

世の中、お金はあるところにはある。募金箱の五〇〇〇円札は、それを雄弁に物語っていた。どこかに割のいいバイトは落ちていないだろうか。楽で当日払いで、できれば時給一〇〇万円くらいの――

「あります!」

「え?」

モノローグに話しかける声が、すぐ後ろからした。頬に熱を感じながら振り返るも、目の前にはだれもいない。

「時給一〇〇万円のあるばいと、ごしょうかいします!」

視線を落とすと、声の主はそこにいた。白いレースのワンピースを着た少女。

背丈は彼のへその高さほど、おそらく小学校低学年。赤いリボンの麦わら帽子から、黒々としたつやのある髪があふれ、今の季節の花のような笑顔でこちらを見上げている。

「……どうしたの?」

「人をさがしているんです!」

「おかーさん?はぐれたの?」

「ちがいます!こども扱いしないでください! きゅうじん、です!」

いたいけな少女の一言から「求人」という二文字を連想するには、少し時間が必要だった。

「……なんの?」

「時給一〇〇万円です!」

少女は、嬉しそうに両手を上げて。

彼は、なんだか泣きたくなっていた。

金がない金がないと無意識のうちに口に出してしまい、公園で小学生にからかわれている全財産三五〇円の男。ちょっと、というかかなりみじめだった。

「どうです?」

期待のまなざしでこちらを見つめる少女を「僕ちょっと忙しいから」といなして立ち去ろうとすると、少女は「ほんじつじめのほんじつばらいですよ?」と、食い下がってきた。……一体、どこでそんな言葉を覚えたんだろうか。

「あ、うたぐってます?」

疑うも何も、それ以前だった。

「そういうのは友達とやって、ね?」

「むー、どうしたら信じてくれます?」

少女は眉毛をハの字にして、うつむきながら「うーん」とうなりだした。

信じないよ。はいはい――と、彼はその隙に立ち去ろうとしたが、気づかれてしまう。「にげるな、ていっつ!」と少女にハリセンのようなものではたかれ、「何すんだよ!」と怒ろうとし……そうして、気づいた。少女の手に、説得力が握られていることに。

「先にげんぶつを見せればよかったですね」

ちいさな手が握っていたハリセンは、なんとこの国の最高紙幣の束。白い紙帯でくくられた、一〇〇万円のご本尊だった。

「うそ!」

彼がひったくるようにして手に取ると、めくれどめくれど福沢諭吉の金太郎飴。まごうことなき一〇〇万円だった。

「あ、どろぼーです!ごーとーです!」

「え、あ、ああ。ごめん……」

少女のあどけない抗議に、彼はふと我にもどり、少女に一〇〇万円を返却した。

「で、え、なにこれ?どうして小学生がこんな大金を……」

「あと小学生じゃありません! これはバイト代です! わたしは立派なこよー主です!」

少女が遮るように答えた。

「バイト?なんの?」

「……小学生じゃないです!!」

「へ?」

「だから、私は小学生じゃないです!」

「あー、わかったわかった。小学生じゃないです」

「中学生でもありませんよ?」

「はいはいわかりました。雇用主ですよ社長」

「わかればよいです」

少女は満足げに鼻を鳴らした。

「で、バイト?」

「やることは簡単です。このスイッチを押してください!」

いつのまにか少女の手には、マッチ箱くらいの黒い箱が握られていた。てっぺんには赤い、丸いボタンがついている。

「それで?」

「一〇〇万円です」

「…‥それだけ?」

「それだけです」

「ほんとに?」

「ほんとう、です!」

少女は元気よくうなずいた。

「……何のスイッチ?」

「んーと、ちょっと持っててください」

少女は彼に一〇〇万円とスイッチを渡すと、くるりと後ろを振り向いた。

「……何やってるんだ?」

「たいむ!」

「は?」

「ちょっとたいむです!いまのこれはちょっとなしです!」

少女は背中を丸めて何かを隠しながら何かをやっており――どうやら、こちらに見えないように何かを読んでいるようだ。彼はやれやれ、とため息をついた。

――今のスキに一〇〇万円を持ち逃げしてしまおうか。

などと、彼の頭に邪念がよぎる。

いかんいかん、一息つこうとコーラを一口。すると、少女がくるりと振り向いて――

「これは××××に隕石を落とすスイッチです!」

彼はむせた。

「は?」

××××はこれ以降、現在まで世界経済の中心都市として機能している――

そんなことを、ちょうど今日塾で習ったところだった。

「つうしょう、『かみのいかづち』。とあるくにが……えっと……はかいりょくが……で、あとくりーんなへいき……」

すらすら言えたのは最初だけで、どうも要領を得ない。

「……大丈夫か?」

「……だめかも」

「また待つ?」

少女はすこし考えてから、ぽんと手を打った。

「ということで、説明は以上です!くわしくはこれを読んでください!」

「……はいはい」

うまい逃げ方だった。

彼は少女に一〇〇万円とスイッチを一旦返し、かわりに少女が読んでいたA4サイズの紙ばさみを受け取った。賞状で使われるような高級そうな用紙に、プリントされた文字が踊っている。中々凝った作りだ。筆記体で「The switch」というタイトルが書かれ、やや大仰な言い回しで、次のようなことが書かれていた。

・このスイッチは、衛星軌道上に配備された質量兵器を誤作動させるスイッチである。

・質量兵器の通称は「神の雷」某国が極秘裏に開発した、人口隕石を落とす兵器である。

・破壊力は広島型原子爆弾二十三個分。放射能や環境に対する影響はない。

・スイッチを押すためには、事実の認識のため「安全装置」を解除しなくてはならない。

・「安全装置」の解除は、安全をのため椅子に座って行うこと。

・スイッチを押した者には、報酬として金一〇〇万円が支払われる。

一番下には、流暢な筆記体で「The world must be switched by a man atanytime」と一文が記されている。意味はよくわからなかった。デタラメなのかもしれない。

ごっこ遊びのオモチャにしては、出来すぎなほどによく出来ている。

「よく作ったね、これ」

そういえば、一〇〇万円といいスイッチといいこの説明書といい、彼女はどこに隠し持っていたのだろうか。見たところワンピースにポケットはないし、鞄も持っていない。

「やりすぎかも、っていってました」

「コレ作ったのきみじゃないの?」

「あ、こっちの話です。で!どうします?」

「どうって?」

「押します?」

すっかり感心していたが、そういえばそういう遊びだった。

彼は、少し興味がわいていた。

ここに書かれていることはもちろん作り話だろうけれども、それにしてもよくできていた。こんな子供に大金を持たせるほどに人間がいるのだ。お近づきになれば、何かいいこともあるかもしれない。

そんな俗っぽいことを少し考えて、それからしばらく考えるふりをして、わざとらしくうーんとうなって、返事をした。

「わかりました。押します」

彼なりに、この高級なごっこ遊びに精一杯付き合ったつもりだった。

「ほんとです!?」

甲斐あって少女は、ほころぶようにほほえんだ。

「ほんとうです。やらせてください、アルバイト」

彼はそのスイッチを受け取った。

「えっと、まずは安全装置を外すんだよな?」

しげしげとボタンを見回すと、ボタンと箱の間に、無色透明の小さなピンが差さっていた。おそらくこれが引っかかって、ボタンが誤って押されないようになっているのだろう。

またよくできていた。

「これを抜けばいいのか?」

「あ、まってください!あぶないです!」

「ん、ああ、そうか」

座ってから解除しろ、と書かれていたような気がする。

「これ、なにが起こるんだ?」

ごっこ遊びなのだから、少女の世界に付き合ってやる必要がある。しかし、少女は「引き抜けばわかるです」としか答えなかった。

「はいはい、わかりましたよ」

彼はベンチ腰掛け、脇にコーラを置くと、安全装置を引き抜いた。

――そして彼は、事実を認識した。



ミラーガラスの中の、見知らぬ男と目が合った。

ひどい耳鳴りがしている。

「……え?」

自分と同じように男が慌てる。驚いて手を見ると、肌の色からして自分のものではない。視点はいつもよりやや高く、来ている服も灰色のカジュアルスーツだった。

彼はミラーガラスの中にいる男に、知りもしない「彼」になっていた。

そして、灰色の街に居た。目につく文字、漂う空気のにおい。あらゆるものが彼の町とは違う。そしてそれは、映画やニュースで見たことがある街だった。

××××。それが、その街の名前だ。そしておそらく、これは「彼」の住んでいる街だった。

耳鳴りが、大きくなる。

唯一の共通点は、コーラだ。さっきの彼が飲んでいたのと同じコーラを、今の「彼」も持っていた。しかし、そのラベルに書かれた文字は、日本語ではない。

「なんだ、これ……?」

声を出しても、その声は聞こえない。

もう、彼には耳鳴りしか聞こえなくなっていた。

しかし、その問いかけに返事があった。

雲を切り裂いた隕石が、世界を満たす轟音。それが、答えだった。

そしてその街は、まるごと消滅した。

痛みすら、感じなかった。

「死んだ……今、死んだのか?」

彼の遺体は気化した。分子レベルで変化が起こり、空気中に飛び散った。しかし、どうしてか意識が残っていた。どうしようもなく取り返しのつかない、ただ失われていく感覚がする。

それは多分、死、そのものだった。

周囲には赤黒く溶けた大地が、地球が耐え切れずに戻した吐瀉物のように横たわっている。それは、アスファルトにこぼした液体のように、じわりじわりと広がっていく。

何かが燃える音がした。

気化した体が大気中に拡散し、薄くなっていくにつれて、彼は今の自分が「見る」ことも「聞く」こともできることに気づいた。眼球も鼓膜も、脳すらも微粒子に成り果てていたが、触れたものを知ることができたのだ。意識と感覚だけが、空気中に投げ出されていた。

何かが焦げる臭いもした。

それは、さっきまでの自分が焦げる臭いかもしれなかった。


そして、声が聞こえた。

「今のは、あなたの死ではありません」

それは少女の声ではい。似ていたが、もっと大人びていた。それは、救いのように響いた。

「いまのは、そのスイッチで一番最初に死ぬ男の感覚です」

おぞましい感覚が蘇る。

「ほとんど同時に沢山の人が死ぬのだけれど、その最初。今の『死』が、それです」

その『死』は彼のものではなかったが、間違いなく人が死ぬときの感覚だった。

「理解出来ましたか?」

理解を通り越して、怖くなった。

理論や理屈ではなく、その結果を感覚で知った。もう充分だ。もう嫌だ。元に戻りたい。帰りたい。これ以上見たくない。怖い。嫌だ――

口を持たない彼の願いを、声の主は聞いてくれなかった。

「はじまります」

そして、一陣の突風が吹いた。

その風に乗って彼の遺体は、彼の意識と感覚は、はじけるように広がりだした。

「わっ!」

拡散した彼自身は、街があった場所の周りにある、爆風で破壊された住宅街を包みこんだ。窓ガラスはすべて割れ、屋根もほとんど吹き飛んでいた。完全に崩れている家もあった。

隕石が巻き起こした事実が、彼に流れこんでくる。

「これは……」

「あなたは、事実の認識をしなくてはなりません」

崩れた家の下から、人間の声が聞こえた。

ガラスが目に突き刺さりもだえる人から、血と泥のにおいがした。

母を探して泣きじゃくる少年の、涙が彼にふれた。

その途方も無さに、彼は何度も叫んだ。しかし、彼の拡散は止まることがない。それどころか、広がるスピードは加速度的に上がっていく。気が付けば、時間の感覚まで早くなっていた。

彼が住宅街すべてを包み込むまでには一昼夜が過ぎていたが、五分足らずにしか感じられなかった。

家族の死に耐えきれず、心が壊れてしまった人がいた。暴動が起こり、巻き込まれて死ぬ子供が居た。その「隕石」への恨みの声は、数え切れないほど聞こえた。

誰が死ぬのか、誰が苦しむのか。彼は胎児の一人まですべて認識し出来た。

彼に脳が残っていたら、確実に発狂していただろう。脳がなくても、ほとんど狂いそうだった。

途方も無い数の怨嗟の声が、彼の意識に雪崩れ込んでくる。彼はさらに広がっていき、ついに近くの地域すべてを覆い――そして、奇妙な声を聞いた。


隕石に、感謝する人が現れたのだ。

最初は、爆心地の高利貸しへの借金で、首をくくろうとしていた初老の男性。

彼は首を吊る縄を握りながらニュースを端目して、呆然。ぽつりと「神よ」と漏らした。彼の娘も、また救われた。

次は、爆心地の会社に搾取されていた貧しい人々。経済社会にはじき出され、飢えか病で死ぬ人達が救われた。

隣の地域、さらに隣の地域、隣の国、そのまた隣の国……遠くなるごとに、隕石に命を救われた人の数は増えていく。彼が拡散するスピードと同じように。加速度的に。

海を渡ると、もう救われる命の方が圧倒的に多かった。権益を独占していた企業は、文字通り消え去るか、その影響で崩壊していた。経済は良い方向に転がり、世界の食糧事情は劇的に改善されていく。

すべて、隕石の結果だった。

彼の意識に流れこんでくるのは、隕石の引き起こした結果だけだ。

最後に、一歳に満たない乳児が見えた。ミルクをおいしそうに飲んでいた。隕石がなければ干からびて死ぬ赤ちゃんなのだろう。

そして、世界が暗転した。

闇の中で、声が響く。

「世界は、理不尽です。理不尽で、よく、出来ています」

それで、最後だった。

彼は、すべてを理解した。

隕石の死の輝きを希望の光として扱う人々は、それを呪う人の数より多い。

スイッチを押すと、106532人が命を落とし――そして、52035921人の命が救われる。

すべての結果が、確信的に理解できた。予測ではない。未来の事実だった。

一人の誤差も出ないだろう。疑うことは、もう不可能だった。

これは、彼の手に握られている安っぽいプラスチックの塊は、多くの人の命を救う殺戮装置だった。


うだるような暑さを、肌に感じた。

右手には、引きぬかれた透明のピンがあった。

全て本物だった。

猛烈な目眩を覚えて、彼はベンチの背もたれに倒れ込んだ。

「どうでした?」

少女は、軽く咳払いしながら隣に腰掛けた。

「ヒッ」と間抜けな声が喉から漏れる。逃げ出そうとしたが、腰が抜けて立ちあがれなかった。呼吸が、うまくできなかった。

少女は、相変わらずひまわりのようにきらきらした笑顔で笑っている。それが恐ろしかった。

息が荒い。

喉が、乾く。

コーラを飲もうとしたが、取り落としてしまう。倒れて転がりベンチから落ちて、こぼれた黒い液体が焼き上がったアスファルトにじわりと広がっていく。

「どうすします?」

少女が微笑みかける。

「お、押せるわけ無いだろ!」

声が裏返る。

「何人死ぬんだよ!それに……」

少女は、不思議そうに首をかしげた。何も言わなかったが、何を言いたいかは分かる。

このスイッチを押さなくても、死ぬ人がいるのだ。

「それに……」

彼は沈黙した。

このスイッチを押すのは、人を殺すことだ。それは間違いない。でも押さないと、もっと多くの人が死ぬ。今もだって死んでいる。106532と52035921、どちらが多いかというのは、一目でわかる。桁は多いけど、算数以前の問題だ。

でも選ぶのは、数字ではなくて、人だ。

「どうします?」

少女が笑う。そこには、悪意も善意も無かった。徹頭徹尾、少女はただ少女だった。

立ち上がり、彼が落としたコーラを拾い上げると。ちゃぷりと音がした。

「一口もらいますね」

「え……」

彼の間の抜けた返事は、少女に向けてしたものではない。

声が、聞こえた気がした。コーラの水音に重なって、『安全装置』の中で聞いた声が。

それは一音も明確に聞き取れなかったが、はっとした閃きのように彼の記憶をつなげていき、一つの事実を映し出した。

このコーラは『安全装置』で助かる命と引き換えに、手に入れたものだ。

今まで無意識のうちに無数の選択をしていたことに、彼は気づいた。

レジに募金箱があった。彼にとってそれは、物好きな金持ちが五〇〇〇円を捨てた事実を伝えるだけの恨めしいものだった。しかしそれは、世界の裏側にいる隕石に救われる人たちを助ける希望でもあったのだ。彼はそこに一五〇円を入れれば、救うこともできた。でも彼はそれを選択せず、コーラを買った。のどを潤した。

選択していたのだ。もう、すでに。

少女はペットボトルのキャップをあけ、ごくりとコーラを一口飲んだ。

「おいしい」

ぞくりと、彼の背筋を冷たいものが通り抜けた。ただそれだけの行為が、ひどくおぞましく感じられた。

「いいんですか?一〇〇万円。スイッチ、押すだけですよ」

誘惑というには、あまりにもシンプルだった。

当たり前のことを、当たり前にするように促すように、少女は告げた。

いつもしていることなのだ。世界の裏側の人を殺して、自分の快感を得る。おぞましくて、当たり前のことだ。いつもより、すこし規模が大きいだけ。

しかも、助かる人がいるのだ。目の届かないところにある悲劇は、見ないでいることができた。見えなければ、するりと見捨てることができた。しかし、知ってしまった。

五〇〇〇万人か、一〇〇万人か。

どちらにせよ、人殺しだ。

だから、理性ではもうわかっていた。自分に関係ない平等な命なら、多いほうが助かる方がいいに決まっている。四九〇〇万人を、救うのだ。

彼の親指は、理性によって動いた。スイッチを手のひらに握られた一〇〇万人を押しつぶすために、力を入れた。


――でもそれは、あまりに弱い力だった。

感情が、指を反対から押していた。

理性はそれに打ち勝ったけれども、その後に残った指の力は、何かを変えるにはか弱すぎた。

スイッチを支える小さなスプリングを押し込むことすら、出来ない力だった。


どちらも間違いだ。

停止したバランスがそう語っている。

でも、その間違いが現実なのだ。

だから答えは、永遠に出なかった。


しかし炎天下、少女の問いかけで、彼にとっての永遠が過ぎた。

「押さなくて、いいんです?」

少年は答えた。

「ああ……」

決意したというより、諦めるように。

「いいんです?」

「よくないよ。たぶん。でも、押せないんだ」

「安全装置、はずれてますよね?」

「そうじゃないんだ。そうじゃ、ない」

「よくわかんないです」

「僕にも、わかんないかな……」

彼は少しうつむいて、それからくしゃりと笑った。

じっと、地面にこぼれたコーラのしみを見ていた。それはもう広がることをやめ、だんだんと乾きだしている。

「優しいのね、君」

どこかで聞いた声がした。

今朝の夢に出てきたような声だ。

彼は、少し救われた気がした。


「えっと、ええと……」

ふと我に返ると、少女が必死だった。

いつのまにか、若い女の人が立っていた。少女と同じようなレースのワンピースで、これまた同じような麦わら帽子。ただしリボンは青かった。少女がこのまま成長したような女性だ。

ふんわりと柔らかい表情で、あくまでやさしく少女の頭をぽんぽんと撫でているのだが、少女の表情は凍りついている。

「で、なにをやったの?」

「えっと……」

少女の姉くらいの年齢だが、母親のようにも見えた。

「もう、目を離すとすぐこれなんだから……」

「ごめんなさい……」

彼女があきれたため息をつくと、少女はしゅんとしおれてしまった。

「あの……」

「ああ、キミ。うちの子の遊び相手になってくれたんでしょう?」

「いや……まあ、はい」

「目を離すとすぐこうなの。作ったおもちゃで遊んでくれる人がほしいみたいで……」

「おもちゃ?」

「ほら、たとえばこれとか」

女性は、彼の膝にある一〇〇万円を手に取った。

「お金の勉強した時に作ったらしいんだけどね」

「え……」

目を見開いた。女性の手には、確かに一〇〇万円が握られている。しかし、それは藁半紙できており、印刷も手書き。おもちゃにしても出来の悪い一〇〇万円だった。

「それ、さっきまでは本物で……」

「やっぱりやさしいのね」

「え?」

「こんな小さな子が一〇〇万円なんて、持ってるわけないじゃない」

彼女はくすりと笑い、続けた。

「付き合ってくれたんでしょう、ごっこ遊びに」

正論だった。正論なのだが、いましがたの体験は正論では納得できない。

「それはそうですけど、そう、このスイッチ!これはどうなるんです。見たんですよ、僕!」

彼が手を開いてスイッチを見せると、彼女はきょとんとして首を傾げた。そしてそのスイッチを受け取り、尋ねた。

「見たって、何を?」

「えっと、それは――」

彼は回答に詰まった。『安全装置』の体験を、言葉に落とし込むことができなかったのだ。

彼がまごついているうちに、彼女はスイッチを手の中で転がすように弄り――

突然赤いスイッチを押した。

「あ!」

乾いた金属の音が響くと、一瞬の静寂が流れた。

そのスイッチで起こるのは、それだけだった。

「ただのガラクタよ」

「そ、そ、そうです!ただのがらくたなんです!」

「静かにしてなさい?」

「はい……です……」

少女はまたうなだれた。

「そんなわけで、どうもありがとう」

「え……」

「この子と遊んでくれて」

「あ、はい……」

まだ彼は呆然としていた。

「じゃあ、これで。このあたりに来たらまた遊んであげてね」

少女は、彼女に促されて「ばいばい」と手を振った。

二人が公園から立ち去ろうとして、ようやく我に返った。

「あ、ちょっと!」

彼女だけが、こちらに振り返った。

ロングヘアーが、夏の日差しできらめく。

「なにかしら?」

公園の入り口のあたりから、声を張った返事がきた。

「見たんです!そのスイッチで!」

「なにを?」

「スイッチを押した結果です!」

「なにも起こらないわよ」

「そうじゃないんです!なにも起こらなくても、なにか起こっているんです。今だってきっと、何か起こっているんです!それが見えたんです、そのスイッチで!」

「気のせいよ。これは、ただのおもちゃだもの」

彼女はスイッチを握った右手を軽く掲げると、またかちかちとまたスイッチを押した。

もちろん、なにも起こらない。

「でも、ありがとう」

そういうと彼女はまた軽く手を振り、少女に小さく耳打ちすると、公園から出て路地を曲がって見えなくなった。

「待ってください!」

彼は追いかけた。公園を出て路地を曲がった。

しかし、そこに二人はいなかった。

目の前には、コンクリートの塀だけが広がっていた。壁際には、小さなたんぽぽがアスファルトに咲いていた。

路地はどこにも繋がっていない、行き止まりだった。


こうして、彼の白昼夢は終わりを告げた。



結局、彼に残ったのは、二五〇円だけだった。

コンビニの募金箱に、一〇〇円玉を募金箱に放り込んだのだ。

それは先に入っていた五千円札の上にそれは着地し、音もなく募金箱に飲み込まれた。

カチャリと小銭がなる音すらしなかった。

でも、彼はそれでよいと思っている。

たぶんきっと、そういうものなのだ。

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少年と衛星兵器と二五〇円 文咲 零字 @LAZY_FUMISAKI

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