「大きい獲物を釣るためには、大きい餌が必要でした」

 翌日、俺とルーキはおっちゃんの案内で、朝早くから街の外へと出ていた。

 向かう先は昨日俺達が越えた森の中だった。

「ところで、どこまで行くつもりなんだ……?」

 ルーキは新たに貰った深緑の軽装に身を包み、少し疲れたような顔で聞く。

 するとおっちゃんはにっこりと笑って、手に持っていた釣竿を揺らした。

「もう少し行ったところに、知る人ぞ知る湖があってな……今日はそこで釣りの予定だ!」

 おっちゃんが言ったその瞬間、目の前の木々が開けていく。

 そしてそこには、綺麗な青に染まる、広大な湖があった。

 透き通ったその水面には、所々に黒い影が浮かんでいた。

「なるほどな、これなら食い付いたかどうか、わかりやすそうだ」

 俺は引いていた荷車を止め、そこから三つあったバケツを取り出す。

 そしてそれを、湖の縁に並べていく。

 するとおっちゃんは一つ頷いて、俺とルーキに釣竿を渡す。

「じゃあ勝負しようか。昼までに一番沢山釣った人の勝ちってことで!」

 おっちゃんは座り込みながら、そう宣言する。

 そして慣れた手捌きで、釣り針の先に餌を付ける。

「ふふん、面白いじゃないか! 勝者はこのルーキだ!」

 そう叫んだルーキはどっと座って、下手な手付きで餌を付けようとする。

 だが中々上手く付けられずに、渋い顔になっていく。

「……釣り場で叫ぶもんじゃねえよ」

 俺は呆れて呟きながら、指で揺れる釣り針を捕まえる。

 そして釣竿を腋に抱え、釣り針に丸い餌を引っ掛ける。

 それが簡単に外れないことを確認すると、竿を軽く振った。

 軽く飛んでゆき、湖面に波紋が浮かぶのを見届けて、俺はその場に座り込んだ。

 ちくちくと突き刺す草の感触に不快感を覚えて、座り直しながら胡座をかく。

 そして糸が描き出す波紋をじっと見て、意識をそこへと集めていく。

 神経を研ぎ澄まし、竿に伝わってくる動きを触覚に捉える。

 水面の動き、風のざわめき、それがまるで手に取るようにわかってくる。

 それらの中で小さな、まるでつつかれるような素早い動き。

 じっとしてその動きを感じていると急に、ぐっと引っ張るような動きへと変わる。

 俺はその瞬間に手首へ力を入れ、感覚のままにリールを回そうとする。

 しかしこの竿にそんなものはなく、手は何もない所をすり抜けて、ただ竿がしなるのみだった。

「一本釣りとか、そんなのしたことねえんだよな……!」

 俺は歯を食い縛って立ち上がると、竿を腋にしっかりと挟む。

 そして水しぶきをあげるその場所をじっと見ながら、竿をゆっくりと引っ張っていく。

 一気に引けば確実に糸が切れる、その恐怖にも似た感覚が俺の力を押さえつける。

 慎重に、そして確実に引き上げなくてはいけない。

 俺は唾を飲み込んで、魚の力を見極めていく。

 勢いよく水しぶきの上がる中、たった一瞬だけ抵抗が弱まるタイミング。

 その瞬間に俺は力を込め、釣竿を持ち上げるように引っ張る。

「これで終わりだああっ!」

 弾かれたように抵抗が消え去り、俺は尻餅をつく。

 そして俺の頭をすれすれで通り過ぎる、光を反射し銀に輝く影。

 生臭い香りが鼻を突き、俺が横を見ると、そこには元気に跳ね動く魚がいた。

「……っ、よし!」

 俺は喜びに震える身体を抑えて、魚を両手で掴む。

 そして用意していたバケツの中へと、丁寧に放り込んだ。

「ははは、やっと一匹か! 正直言うと、後一時間も無いぞ?」

 おっちゃんは俺を見ながら、大きく笑って言う。

 その言葉に俺ははっとして、空を見上げる。

 雲一つ無い真っ青な空、太陽はそこにぽつんと浮かんでいた。

 もうだいぶ高い位置、あと三十分あるかどうかのように見える。

 集中し過ぎたという気だるさと、もう手遅れだという現実がのしかかってくる。

 するとルーキが業を煮やしたかのように、唸り声を上げる。

「何故釣れぬのだ、正也にすら釣れたというのに……」

 そう言いながら、細めた目で自分のバケツを覗き込んだ。

 その中は空っぽで、張られた水が揺れるだけだった。

「あれだけ意気込んでいたルーキは、一匹すら釣れてないのかよ。ここから巻き返すのなら、二分に一匹を釣る位じゃないとな……」

 俺は苦笑いしながら、渋い顔のルーキを見る。

 するとルーキは髪を掻き回して、ぴたりと止まる。

 そして手をだらんと下ろすと、一つ頷いてから、いつもの自信満々な表情へと戻る。

「そうだ、それならば間に合うではないか。我こそが真の王者だ!」

 ルーキはそう叫び、釣竿を投げ出して、その場で軽く跳び跳ねる。

 次の瞬間、ルーキは湖へとその身を投げ出した。

 激しい水飛沫を散らして、上半身から湖面へと吸い込まれていくルーキ。

 そこからは細い影が、鋭く水面を走っていった。

 その五秒後、湖の真ん中に移動した影が、勢いよく突き上がってくる。

 出てきたルーキは、その右手に一匹の魚を掴み、こちらへと見せつけてくる。

「どうだ、これが一番簡単な手だ!」

 ルーキが嬉しそうに言うと、おっちゃんが血相を変えて口を開く。

「おいルーキ、今すぐ戻ってこい! この湖に飛び込むのは自殺行為だ!」

 おっちゃんのその言葉に、ルーキは不思議そうに首を傾げる。

 そしてむっとして、左腕も突き上げる。

「確かに底は深いが、この程度で溺れるようなルーキではない!」

 抗議の叫びをあげるルーキに、おっちゃんは焦りを強める。

「そういうことじゃない、この湖には……」

 叫ぶおっちゃんの声、その時ルーキの下に何か白い影が揺らめく。

 次の瞬間、牙が水面から突き出て、ルーキの周りへと並ぶ。

 その直後、ガチンと固い音が響き、ルーキの姿は牙の中へと包まれて消えた。

「……しまった! しっかりと説明をするべきだった! おい正也、荷車の中の斧を取ってくれ!」

 おっちゃんは俺に向かい呼び掛けるも、何が起こっているのかわからない俺はすぐに動き出すことができなかった。

 焦るおっちゃんはそれを理解すると、自ら荷車へと駆け寄り、そこからボロボロの斧を取り出す。

 そして湖の中へと、ジャプジャプと入っていく。

 すると水面に白い影が浮かび上がり、おっちゃんへと揺らめきながら近づいていく。

 水が裂けて鰭が出て、その次に全形が見えてくる。

 見た目は白い鯰のようで、目は赤く染まり、口からは鋭い牙が覗いていた。

 その魚は口をゆっくりと開き、おっちゃんへと食らいつこうとする。

「こいつは湖の主、まあ相当強い相手だ!」

 おっちゃんはそう呟きながら、斧で上顎を捉えて、弾くように振り上げる。

 するとその斧は強靭な歯に食い止められるも、勢いに顔ごとはね上げさせる。

 主もそれがわかったのだろう、胴体を反らせて、後ろへと倒れていく。

 そして水の中へと、すっと吸い込まれていった。

「くそっ、一撃で仕留められなかったか! これでは、俺も飛び込むしか……」

 おっちゃんは口を歪め、水面をじっと睨み付けていた。

 そうして二秒ほど経過すると、湖の中心からぼんやりと白い陰が覗く。

 勢いよく水面から飛び出し、びくんと跳ねる主。

 その口からは赤い血が少し噴き出していた。

「……どういうことだ、主が跳ねることなんて、普通じゃないぞ」

 おっちゃんが低い声で、不思議そうに呟く。

 すると主は湖へと雑に飛び込み、目に見えるぐらいの浅い所を泳いでいく。

 そして勢いを保ったまま、湖の岸へと乗り上げた。

「……これは、よくわからんが、好機と見た!」

 おっちゃんはそう言いながら、陸で動かない主へと駆けていく。

 やっと理解が追い付いてきた俺も、その後を追っていった。

 主はぴくりとも動かず、虚ろな目で空を向いていた。

「死んでる、のか? とにかく腹を掻っ捌いて、ルーキを出さないと……」

 おっちゃんが斧を構えて、ゆっくりと近付いていくと、急に主がびくんと跳ねる。

 そして何度かびくびくと震えたかと思うと、その腹が膨らんでいく。

 その部分から、血で赤く染まった細い腕が、ずぼっと生えてくる。

 腕はまるで外気を感じ取るかのように蠢き、ゆっくりと腹を引き裂いていく。

 ぐちゃぐちゃと音を立てて、その裂け目からルーキが出てくる。

「ぷはぁ……うっ、やはり生臭いな……だから魚はあまり好かんのだ」

ルーキはそう愚痴りながら、裂け目を抜け出す。

 そして驚いた顔のおっちゃんへと近付き、軽く目を反らす。

「……すまんな、あの制止がこういう意味と察せなくてな……慢心していた」

 ばつが悪そうな顔で、少し頭を下げるルーキ。

 するとおっちゃんは丸い目をそのままに、首を横に振った。

「いやいや、慢心って……実際湖の主を倒したじゃないか! 俺でも相当苦労するし、まさか腹の中から攻撃するとは、その発想は無かったぜ!」

 おっちゃんは横目で湖の主を見て、嬉しそうに言った。

 するとルーキはもじもじとしながら、頬を赤く染める。

「そっ、そうか! それならば良かった……ところで、あれの腹の中にこんなものがあったんだが……」

 ルーキはそう言いながら、手に持っている血に濡れた青い石を差し出す。

 それを見たおっちゃんは、軽く頷きながらウインクをした。

「おお、それか! そうだな、まあ主を倒した報酬として取っておけ!」

 おっちゃんがそう言うと、ルーキはにっこりと笑って、石を抱き寄せる。

 それはまるで、プレゼントを受け取った少女のような笑みだった。

「ところで、対決の結果だがな……ルーキは主を捕まえたし、まあ一番が妥当だろうな。後は匹数で考えるとすると、正也が帰りの荷車担当だな! 主もいるし、これは骨が折れるぞー!」

 おっちゃんは太陽を見上げて、大声で笑っていた。

 俺はあっけにとられながら、倒れている主の方を見る。

 五メートルはあるであろうその身体、そして座礁した時に抉られたと思われるその下の地面が重さを物語っていた。

「ち……畜生があぁぁあ!」

 俺は頭を抱えながら、そう叫ぶしかなかった。

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