第2話 実世界にて
やわらかな、晩冬の日差しが朝の訪れを告げる。
こんな詩的な光景は創作の世界なら『希望に満ちた一日の始まり』なのかも知れない。しかし、現実に生きる灰原タクヤにとっては不愉快極まる日常でしかなかった。
睡眠不足の頭を抱え、布団の上に這いつくばって『もう少し、少しだけで良いから寝かせておくれ。時よ、止まれるのならば止まっておくれ』と祈ってみる。そんな願いが届くのは6畳1間の天井までで、はるか彼方のお天道さんには届きはしない。そんなことは先刻承知。ため息ひとつで覚悟を決めて、鉛でも詰まったみたいに重たい頭を「ふんぬ」と気合いを入れて持ち上げた。まだちょっとぬくい毛布を名残り惜しそうに引き剥がす。すると、昨晩寝しなに読んでいたライトノベルが転がり落ちる。睡眠不足の原因はこいつだ。「あーこれ、面白かったな」と内容を反芻しようと試みるが、思い出そうにも内容をほとんど覚えていない。とりあえず、この表紙の女の子が「あり得ないくらいに可愛かった」という記憶だけを引っ張り出すことができた。貴重な睡眠時間の対価としては、あまりにも少ない報酬だ。機会があれば不正取引を申し立ててみよう。しかし、本棚にきっちりと納められている夥しい量のライトノベルを見渡しても、内容を思い出せるものは数冊程度だ。ひょっとすると娯楽小説とはそういうものなのかも知れない。読んでいるその時に楽しければ、それで良い。きっと、そういうものなのだろう。などと達観した気分にひたりながら時計を見てみると、そろそろ家を出なければ間に合わない。寝間着をベッド脇に脱ぎ捨てながら洗面台へ向かう。クイック洗顔からのクイック髭剃り、そして歯ブラシを咥えたままスーツへ袖を通す。そこから光速歯磨きをして、洗面台の鏡の前で身だしなみを見つつ、歯磨き粉を吐きだし、口をすすいで家を出る。起床から自宅を出るまで、実に400秒。ここから最寄りのコンビニまで140秒、真っ直ぐおにぎりの棚へ向かって10秒でおにぎり二つとお茶を選んで、不健康そうな顔色の店員へ10秒でちょうどの金額を渡し、それを食べながら駅へと向かう。
昨日と変わらぬ朝の風景。昨日とそっくりな一日の始まり。昨日と同じように出勤をして、昨日と同じようにデスクへつき、昨日と同じようにリーダーの黒田に怒られていた。黒田零子────この会社の立ち上げメンバーの一人で、ロジカルなチーム運営とクールな顔に似合わぬ剛腕な営業スタイルで会社を今の規模まで育てた立役者の一人である。新卒で創業に加わった────と聞いているので創業年数から数えて30代前半くらいだろうか。女性としては長身で細身でほどよく鍛えられた筋肉質な体型の持ち主で、その磨き抜かれた宝石のような肉体からだろうか、それとも研ぎ澄まされた刃物のような人柄からだろうか、どこか冷たい印象を受ける美人だ。それだけでも充分過ぎるほどにキャリアウーマン然としているのに、さらに綺麗な黒髪ロングをアップにまとめ、黒いタイトスカートのスーツをビシッと着込み、メタルフレームの眼鏡にグラスチェーンという完全な出で立ち。360度どこからどう見てもキャリアウーマンである。彼女のあまりに典型的過ぎるキャリアウーマンっぷりに常々キャリアウーマンもののコスプレAVに出てくる女優のようだと思っている。
「まったく……君はどうして、いつもそうなのだ?愚直な仕事ぶりは評価している。しかし、今は月末に向けて数字を確定させていかなければならないタイミングなんだ。それなのに、快く検収を翌月に流すことを受け入れたり、足の長い案件のフォローにばかり回ったりと────」
「しかし、お客様には納得してもらいたいですし、まずは満足していただかなければ────」
僕は素直に「どうして、いつもそうなんだ?」について答えた。このやりとりはいつものことだし、黒田としても聞き飽きた回答だろう。
「あぁ……分かっている。君の顧客第一主義は充分に理解している。しかし、いくら君が、お客様中心に考えたところで、うちのチーム全体で数字を達成していかなければ、君の受け持っている顧客も担当替えになってしまう可能性だってある。そうすると、君の思う『心を尽した顧客対応』が出来なくなってしまうかも知れない。来月からは、その辺りをしっかり考えて動けるようになってもらいたい。ところで君の持っているリードのうち今月受注予定のまま未確定の案件はどれくらい有る?」
この後、未確定の案件を洗い出して黒田にリストを提出した。すると、黒田はリストに片っ端から架電して当日アポを取りつけていった。黒田は僕を連れて嵐のように往訪し、次々と受注を確定していった。全ての往訪が終わって帰社する頃には、とっくに退社時刻は過ぎており社内に人はまばらであった。当の黒田は重要顧客との会食の予定があると言って直帰した。一方の僕は疲れきっているのに残業確定である。当月中に数字を積むには回収してきた注文書を請求書に直して今日中に回しておく必要があるためだ。
「あぁ……今日……帰れるかな────」
思わず声に出してしまっていた。就職難のこのご時世、Fラン大学出身の僕が定職にありつけているだけでも御の字といえばそうなのだけれど、時々「しんどいな」と思うこともある。入社した時は「昇り調子のITベンチャー」って、なんだかキラキラしているなって思っていた。だけど、入ってみてすぐに気付いた。ベンチャー企業は少いリソースで大手の企業に追いつくために寝食を忘れてハードワークをしている人達の集まりで、いくら人手があっても足りないから僕のような人間のクズでも雇ってくれたのだ。入社してからは嵐のようなハードワークの毎日で、何もかもがあっと言う間だった。そのペースに巻き込まれて働いているうちに3年が過ぎようとしていた。それこそ「瞼を閉じて次に開いた時には3年の月日が過ぎていた」かのようであった。比喩的表現を使ったが、あながち比喩ではないのかも知れない。正直にいって、この3年間、何をしていたのか、ほとんど記憶がないからだ。
「お、灰原クンじゃん?精がでるねぇ」
缶ビールを片手にオフィスをウロウロしていた白井姫子が声をかけてきた。いつも白系統のフリフリした服を着ており、幼さの残る顔立ちと細身ながらもうっすら脂肪のついた柔らかそうな体型から、ただのほんわかした合法ロリにしか見えないのだが、こう見えて開発本部の部長である。彼女は業界でも名高いスーパープログラマで、うちの主力商品はほとんど彼女のソースコードでできあがっていると言っても過言ではないらしい。さらに、彼女はスーパープログラマである以上に人心掌握に長け、チーム運営技術も高いと聞く。
「注文書……これも注文書……これもこれも……すげぇじゃん!!灰原クンはスーパー営業マンじゃん!!さすが、黒田ちゃんのお気に入りだけあるねぇ」
いつの間にかデスクの横に立って、脇に置いていた注文書をパラパラとめくりはじめた。
「いや、これは『僕がとってきた』というよりは、黒田さんが同行して捩じ込んできた案件です」
「はははッ!!相変わらずの剛腕だな黒田も。なるほどね〜月末だしね〜……ま、灰原クンが普段からお客さんとニギリをしっかりしていたから、急な往訪も取り付けられたし、捩じ込めたんだよ。だから、灰原クンの手柄で間違いないよ。で、この注文書を請求書に書き換えるのが面倒クサくてウンザリしていた訳だ」
「はい、そうなんですよ。今日のうちに書類回しておいて、朝イチで処理してもらわないと間に合わないから────」
そういって僕が大きな溜息をつくと、白井は僕の脇で中腰になって僕のノートパソコンのフォルダの中身を見始めた。身体を乗り出して真剣な表情でディスプレイを覗き込んでいるせいで、服の隙間から童貞の目には色々と毒なものがチラついているし、息遣いさえ届きそうな距離まで近付いてきている。そのせいか動くたびに、ふわっとよい香がする。シャンプーの香りだろうか?人工的ではあるが、どこか優しくて、懐しくて、ちょっと落ち着く匂いだ。ちょっとドキドキする。
「このフォルダの中身のExcelファイルが今日の分の注文書?で、こっちが請求書のテンプレート?それと、流石に注文書だから請求書に直す時に内容や条件の訂正は無いよね?」
そう言いながら,こちらを真っ直ぐと覗き込む。
「ああ、はい。そのフォルダの中の殆どが今日の分ですね。何個か当月受注できなかったものもありますが。請求書のテンプレートはそれですね。それと請求書の内容は注文書の内容、そのままでOKです」
「それじゃあさ。これ、わたしが20分以内に請求書にしちゃうから、終わったら飮みにいくの付き合ってよ。で、はじめの一杯は灰原クンのオゴりね。あー、このPC借りるから20分くらいしたら戻ってきて。どっかでコーヒーでも飲んでてよ」
そう言うと白井はメモ帳を開いて「Option Explicit」などと入力し始めた。昔、ちょっとだけ齧ったことがあるので覚えている。VBScriptというやつだ。VBScriptというのはWindowsのGUIアプリケーションを作るために設計された専用言語であるところのVisualBasicを元に作られたスクリプト言語でWindows上での操作を自動化するために使用するものだ。他の利用方法としてはIISというWindows用のWebサーバー上で動的なWebページを配信するためにも使われる。本の受け売りで、ほとんど意味は分からないのだけれど。朧げで曖昧な知識と白井の独り言を元に考えると、どうやらVBScriptからCOMオブジェクトを利用してExcelの注文書のデータを読み出して、そこからWordの請求書をジェネレートする────ということのようだ。
白井に仕事を押し付けてしまったみたいで少しうしろめたさを感じるが、ここに居てもできることはないし、お言葉に甘えて席を外すこととした。とりあえず、会社のビルの隣にあるコンビニへと向かった。ホットコーヒーのLサイズとSサイズを1つずつ買った。Sサイズのコーヒーは白井への差し入れである。その場で少し飮みながらiPhoneでメールチェックをした。当たり前だが、全部仕事関係のメールだ。平日の夜に僕にメールを送ってくるような友達なんていない。LINEだってひとりも友達を登録していないから、僕にとっては毎朝天気予報を届けてくれるアプリだ。
さて、10分くらい潰しただろうか。差し入れのコーヒーが冷めてしまうのも勿体ないので、一度デスクへ戻ることにした。まだ作業中なら、差し入れをしてすぐに席を外すつもりだ。
「うわぁーできたぁー」
席へ戻ると白井が奇声をあげていた。どうやら予定の半分の10分でできてしまったようだ。
「お、灰原クン。ちょうど終わったところだよ。早く中身を確認して申請に回しちゃてよ。そんで飲みに行こうよ〜」
と言いながら、肩をバシバシと叩いてくる。
「おお、本当に出来てる!!ありがとうございます!これ回し終わったら、何軒でも付き合いますよ。急いで確認しちゃうので。そのコーヒー飲みながら少し待っててください」
「ほい、サンキュー……って、これ缶ビールとコーヒーを交互に飲まないとダメ?」
僕はひとつずつ内容を確認して、申請へと回していく。プログラムによる単純なデータコピーであったため印刷しようとすると印刷枠に入りきらない箇所もあり、多少の修正が必要であったが、おおむね問題なかった。手作業でコピーしていては終電コースだったことを考えると恐るべき省力化である。白井は僕が微修正しているのを見ると「そういうのも有るのかッ!!」とか「なるほど、勉強になるッ!!」などとブツブツ言いながらメモをとっていた。
「ふーッ終わりました。9時半っすね。ちょっと遅くなっちゃいましたが────」
「よしッ!!行こうッ!!」
白井に連れられて会社の近所のバーに入る。白井は他の常連客とおぼしき客に挨拶をしている。どうやら行き付けの店らしい。白井が男連れでいることが珍しいらしく他の常連客がチラチラとこちらを見ている。
「『一軒目からバーかよ』って顔しているね。このお店はフードもそれなりにあるから好きなのを頼んで。マスターわたしギネス1パイント。灰原クンも同じので良い?」
しばらくするとギネスと塩豆の小皿が運ばれてきた。塩豆がお通しのようなものだろうか。僕が早速とばかりに乾杯しようとすると、白井は手の平をこちらに向けて制止してきた。
「だ〜め。待ちなさい。ギネスは中の気泡がしっかり泡になるまで待ってから口をつけるの。それが一番美味しいタイミング。一番美味しいタイミングで飲むのが全身全霊でサーブしてくれたバーテンダーとビールを醸造してくれた職人さんへの礼儀。これは忘れちゃダメ。もうちょい待って………お、そろそろ良いんじゃないかな?じゃ、かんぱーい」
白井がひと息にグラスの半分くらい飮み干す。僕もグラスの4分の1くらいをガブリと飲んだ。
「灰原クン、そういえばフードは要らないの?若いんだから食べないとダメよ」
日頃から夕食を食べない僕としては、あまり食欲はなかったのだが、なにも食べずに、この一杯だけ飲んで帰ってしまうのも白井に対して申し訳ないような気がした。
「そうですね、軽いモノを姫井さんのオススメで」
「よし、じゃあ、チーズの盛り合わせとオリーブもらおうか」
白井はチーズとオリーブをつまみながら次々と杯を空けていく。こちらが二杯目のギネスを空けてほろ酔いになる頃には白井は顔をほんのりと赤くして、日頃のハキハキとした喋り方はどこへ消えたのか甘ったるく間延びした喋り方になっていた。
「灰原クンねぇ、わたしはねぇ。さっきみたいな業務効率化に、もっとリソースを回したいの。ああいうのいっぱい有ると思うんだよねぇ。でもね経営陣としては『そんな瑣末なコストカットよりも、売り物を作り続ける方が儲かる』ってねぇ……社内でしんどい思いをしている人達のためにリソースを回せないの。だって、さっきの20分くらいだったじゃん?そのくらい良くない?なんだかね、分かるんだけど、なんだかね」
とか、
「黒田ちゃんのことはね〜本当に尊敬しているの。ホントに〜あらゆる意味で正しくてね。でもね、あんなに正しいとね一回でも間違えたら誰もついていかなくなっちゃう。もうなんていうかね、うちの会社のことを、まだベンチャーだと思ってるんだと思う。みんなが自分と同じように『世界を変えるんだ』って真っ直ぐに前を見てると思ってるの。一心不乱に前しか見てないんだと思ってるんだよ、きっと。もう会社も大きくなって『そういうのじゃない人』も増えてきてるから、正しいだけじゃダメなのに。もっと自分で間違えて、チームメンバーに自分のことを助けさせないとダメなのに」
などと白井は一方的に話かけてきた。それは酔っぱらっているからというのもあるのだろうが、それ以上に不安でたまらない人の喋り方のようにも感じられた。僕の家庭は、上に姉が3人で僕が末っ子だ。家庭内は、典型的な女権社会で、男の父と僕は、いつも端っこに追いやられていて必要な時に取り出せる便利な道具でしかなかった。僕が家庭で見てきた『女』という生き物は「権力」と「立ち位置」というものに非常に強いこだわりを持ち、家庭内ですらそれは例外ではないようだった。自分の立ち位置を少しでもよくするために、よく嘘を吐くし、言い訳ばかりしているし、相手をバカにできる隙があれば「あなたは私の下なのよ」をはっきりさせるためにバカにする。僕はそれらの火の粉がかからぬように目立たぬように生きてきた。この時の白井の喋り方は、姉妹の中で一番立場の弱かった次女が酔っ払って帰ってきた時に僕を部屋へ呼んでする話し方に似ていた。「答えは聞いていない。お前を味方につけたいと思っている訳でもない。不安だから、しがらみの無いお前にただ聞いて欲しいだけ」というヤツだと思う。僕は無意識のうちに次女の話を聞いていた時のように相槌を打ちながら聞き流していた。すると白井は急に話のトーンを変え、こちらに答えを求めるような口調で問いかけてきた。
「灰原クンは黒田ちゃんのこと嫌いじゃない?んー違うか……みんな黒田ちゃんのことを嫌いじゃないか……みんな黒田ちゃんのことを好きで、尊敬しながら、正しいと思いながら『でも、こっちはお前みたいになんでもできる訳じゃねーよ、そこまで求めてくるなよ』って思っているのか……黒田ちゃんにうんざりしていない?」
僕は急な問いかけにびっくりして、答えに窮していると。白井はそのままカウンターにつっぷしてそのまま眠ってしまった。何度か起こそうとしてみたものの起きる気配がない。途方にくれていると常連さんの一人が苦笑しながら声をかけてきた。
「姫子ちゃんは一回寝たら起きないよ。"今日は"君が連れて帰るしかないよ」
僕はお会計を済ませ、お店に頼んでタクシーを呼んでもらった。この状態の白井を連れて電車に乗る訳には行かないし、白井の家は分からないのでタクシーの行き先は当然、僕の家である。初めて家に入れた女の子が泥酔した会社の重役で世間でいうところの「お持ち帰り」状態なのは、自分でもどうしたものか、という気分ではあるが、いたし方ない。泥酔してちっとも自分で動く気配のない白井をやっとの思いで部屋へあげ、ベッドに寝かしつけた。普段、自分が寝ているベッドの上で、気分良さそうに眠る白井の姿を見て複雑な気持になったところで途方に暮れた。
「さて、僕はどこで寝よう」
毛布一枚くらいなら押し入れの中に有ったはずだ。押入の中から毛布を引っ張りだして、座布団を枕代わりにして眠ることにした。ほろ酔いも手伝い、睡魔はすぐに襲ってきた。やっと寝付いた……と思った時、ベッドの方から悲鳴の声が聞こえてきた。
「ブラきっついぃー」
という声と共にミルクっぽい匂いのする生温かい布が顔に降ってきた。驚いてベッドを見てみると布団をはだけて乳房を丸出しにしたまま寝ている白井の姿があった。まるで、こちらの視線を感じとって乳房を隠すかのように、ゆっくりと寝返りをうった。こちらには背を向けている。酒で血行が良くなり、うっすらと赤みのさした白い肌が眩しい。ほどよくついた脂肪が女性らしい柔らかさを伝える。生唾を飮み込む。これは背中にそっと触れるくらい構わないのではないだろうか?いや、むしろ前に手を回して、その柔らかそうな胸を揉みしだくくらい、許されるのではないだろうか?今、この部屋にいるのは僕と白井さんだけだ。そして、その白井さんは寝ている。背中に触れたくらいでは目を覚まさないだろう。ならば、背中に触れたり胸を揉んだりしたところで、それは発生したことであり発生しなかったことでもあり発生したことと発生しなかったことが同居している状態なのだ。言うなればシュレイディンガーのおっぱいであり、ラプラスのおっぱいであり、フェルマーの最終おっぱいだ。もう一度、生唾を飮み込み、背中へ手を伸ばす。もはや一周回って、おっぱいとか、エロスとかはどうでも良いのだ。欲しいのは母性だ。その細い背中を抱き締めて、その柔らかさに顔を埋めて眠ってしまいたいのだ。そして、おっぱいに手を回し、揉みしだきながら、もう一周回って、やっぱりエロスが重要だったことに気付くのだ。自分でも何を言っているのか分からなくなってきたので、ひとつ深呼吸をして落ち着く。そして、白井さんに布団をかけ直すとトイレに駆け込んだ。僕はそこで眠りについた。
翌朝、トイレで寝ていたはずの僕は毛布と座布団の即席の寝床で目を覚ました。思い出してみると、白井がトイレに起きた時に追い出されたのである。
「灰原クーン、ご飯できたよ〜。冷蔵庫勝手に開けちゃったけど」
白井は、昨晩あれだけ飲んでいたはずなのに随分と目覚めが良いようで、とっとと目を覚まして朝食を作っていた。二人で食卓につくと、白井がとんでもないことを言いだした。
「灰原クン。昨日、わたしの寝込みを襲わなかったんだね?よく酔い潰れて男の人の家で目を覚ますことが有るんだけど、だいたい朝に『そのつもりは無かったのだけれど、寝姿がエロ過ぎて襲った。ごめん』って謝られることが多かったから」
思わず味噌汁を吹き出しそうになったがすんでのところで堪えた。
「いや、すごく頑張って我慢しましたよ」
他にも色々言いたいことはあったはずなのに言えたのはこれだけだった。
「で、トイレでち○ぽ握って寝ていたと……なんか、ゴメン……」
白井は、本当に申し訳無さそうに呟いた。僕は、これ以降食事が喉を通らなくなり折角作ってもらった食事を残してしまった。白井に「二重の意味で据え膳食わぬマッドオナニスト」みたいな噂は立てないでくれと頼むのが精一杯だった。
いつもより大分早く家を出て「二人で出社しよう」という白井をなんとか宥め、最寄り駅まで一緒に行く。変な噂を立てられても嫌なので、白井を先に出社させ、僕は喫茶店でコーヒーを一杯飲んでから出社した。出社すると既に黒田がデスクで仕事をしていた。
「灰原、今日の夜、時間有るか?切羽詰まっていたとはいえ君の持っていた案件をまとめて私の数字に積んでしまったからな。お詫びも兼ねて夕食をご馳走しようと思ってね」
ほとんどの進行中の案件は入金待ちの状態なので、今日の僕の作業は来月の案件の精査が中心であった。特に急ぐ仕事でもないから黒田の誘いを断わらなかった。二日続けて妙齢の女性(美人)と二人きりで飮みに行くことになるとは思っていなかった。これはモテ期が巡ってきたのか?とニヤケ顔になったが冷静に考えると普通に上司と飲んでいるだけであることに気付いて、ニヤケ顔は真顔にもどった。
なにごともなく定時まで勤めあげると黒田が声をかけてきた。
「じゃ、灰原。行くか。特に希望がなければ、私の行き着けの場所に行くが」
そう言って連れてこられたのが、昨日のバーだった。
「『一軒目からバーかよ』って顔をしているな。ここはフードも充実している。
好きなのを頼むと良い。今日は私の奢りだ。一応、灰原がとんでもない酒豪だった場合困るから言っておくが、ある程度は手加減してくれよ。あ、私はマティーニで。灰原は何が良い?」
「じゃあ、遠慮なく。ギネスの1パイントで」
しばらくするとギネスとマティーニが出てきた。僕は黒田がすぐに乾杯しようとするのを制して、こう言った。
「すいません。乾杯はギネスの泡が落ち着くまで待ってください。あと、ちょっと……そろそろ良いかな?じゃあ、乾杯で……」
こう言うと、黒田がクスっと笑った。
「灰原は白井みたいなことをいうのだな。酒は好きなのか?」
グラスを当ててチンと鳴らすとマティーニの上に飾られたオリーブを指でつまんでパクりと食べながらこう言った。
「いえ、実は昨日、白井さんに、ここに連れてきてもらったんです。それで、白井さんの真似をしてみました。」
「なるほど、白井と灰原が飲んでたのか。面白い組み合わせだな。ところで、タバコ吸って良いか?」
黒田は、そう言いながらアメリカンスピリットのメンソールライトの箱をこちらに見せてきた。
「ええ、どうぞ。しかし、黒田さんタバコ吸うのですね?意外です」
「意外か?まあ、最近、吸うようになったばかりだからな。それに、一日に数本、酒を飲んでいる時に吸うくらいだ」
そう言いながら、カルティエのライターをキーンと鳴らしてタバコに火を点けると、とても最近吸うようになった人とは思えないくらい深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。僕はその様を見て「この人は、タバコの吸い方ですら、この人らしいのだな」と思った。きっと仕事だけでなく、プライベートでも、趣味でも、こんな調子なのだろう。黒田は、ゲームはやるのだろうか?もし、レースゲームやシューティングゲームでもやらせてみたら、どこまでも突き詰めてしまうことだろう。そして、この人にとっては「それが当然のことであり、当然の姿勢であり、誰もがそうである」と思い込んでいる。昨日、白井が言っていたのはそういうことなのだ。この人に惚れる男の人はさぞ大変なことだろうと考えながら、黒田の綺麗な横顔を見ていた。
「なんだ?私の顔になにか付いているか?ところで、今月の数字がちゃんと今のまま確定すれば、次の株主総会のタイミングで役員入りすることになっている。実は、これも君のおかげによるところが大きいと、私は考えている。」
「え?よく分からないのですが、なんで僕のおかげなんですか?」
「君も気付いている通り、うちのチームは私と同じような最前線のプレイヤーばかりだからね。毎月の数値を捻じ込むのは得意でも、君のようにバックオフィスで丁寧な握りをして、リードを維持してくれるタイプのプレイヤーがいなければすぐに案件が枯渇してしまう。数字に追われていると、そのことを忘れて『なんで、お前も捻じ込まない?』と叱ってばかりになってしまって申し訳ない。本当は感謝しているんだ」
「はぁ……」
「私自身、自分がチームの運営に向いているとは思っていない。『戦略を立てて現場に落とす』か、もしくは『自分が最前線に立つ』かのどちらかしか出来ないタイプの人間だ。なので役員になって戦略を立てたり、株主の最前線に出て説得したりするようになるのは会社にとっても良いことなのだと思う。そこで、もし嫌じゃなければ……なのだが、私の直轄の部下として、まず君についてきて欲しいと考えている。君は、何より、私の足りない視野を持っているところ、それと私を怖がらずに真っ直ぐ意見を言えるところ、そして最後は折れながらバランスをとった施策を考えてくれるところだ」
たった、これだけの話をする間に黒田はマティーニを4杯も空けていた。部下に『自分の弱味はここだと思っている』という部分を見せたり『お前を頼りにしている』という話をすることに慣れていないのだろう。黒田は『人間関係には、そういうウェットな部分が必要である』ということを理解しながらも、それを否定することで多くの無駄を省いて生きてきたのだ。僕自身、そのウェットな部分は見てみぬフリをしながら生きてきた。それを直視してしまえば火だるまになる家庭環境だったからだ。ただ、この黒田が酒の力を借りてまで、敢えてその領域に突っ込んできたのだ。これを見てみぬフリをする訳にはいかない。
「黒田さんが20分足らずでマティーニを4杯も空けながら酒の力を借りて一生懸命頼みごとをしてきてるのに、僕が断われると思いますか?」
僕は、ただ素直に引き受けるのも癪なので捻った返しをした。すると黒田は一瞬きょとんとすると顔を真っ赤にして俯き、眼鏡を外して軽く目を拭った。数瞬のち、眼鏡をかけ直してこちらに向き直ると笑顔で「ありがとう」とだけ言った。そこから、黒田は酒の力を借りるためにまとめて飲んだアルコールの回るに任せて、さらに飮みつつ、自分のことをひたすら喋り倒すだけ喋り倒して、その場で寝てしまった。起こそうとして揺さ振ってみたが起きる気配はない。なんというデジャブ──────お店の人にタクシーを呼んでもらった。水を飮みながら、しばらく待っているとタクシーが着いたので黒田を連れて店を出ようとした。すると、昨日もいた常連さんに冷やかされた。
「おい、今日もベッピンさんのお持ち帰りかい?やるねぇ、兄ちゃん」
僕は表情と会釈だけで曖昧な返答をして、黒田をタクシーへ押し込んで家へ向かってもらう。なんとか黒田を部屋にあげて、眼鏡だけ外させるとベッドへ寝かしつけた。昨日と同じ要領で、僕は座布団を枕にして毛布にくるまって寝ることにした。ほろ酔いも手伝い、睡魔はすぐに襲ってきた。
「あっついぃーッ」
という声と共に、色々と生温かい布類が降ってきた。なんというデジャヴ────どうやらスーツにブラウス、ストッキングを一瞬にして脱ぎ散らかしたようだ。僕はしかたなく、それらをハンガーにかけて皺を伸ばしておいた。ふとベッドの方を見ると黒田はすっかり布団をはだけていた。あれでは風邪をひいてしまいそうだ。布団をかけ直すことにした。ベッドに近付くと酒の香と女性特有の甘い匂いでいっぱいだった。少しドキドキしながらベッドを見下ろすと、そこにはシンプルなデザインながらも高級感溢れる素材の下着一枚で身体をくねらせる黒田の姿があった。女性らしさを失なわない程度にほどよく筋肉質で引き締まった身体────深い寝息と共に上下する胸。その胸はブラジャーが少しずれており、呼吸による上下の律動にあわせて胸の先端(否、ここでは敢えて尖端と呼ぼう)が一瞬姿を見せては隠れてをしている。まるで、出方をうかがっているかのようだ。古来より、否、人類が生まれた有史以前から今まで、そして人類が人類である限り未来永劫、男を魅了し続けてやまないであろう尖端である。今、ここには僕と黒田さんしかいない。そして、黒田さんの胸に宿るこの魔性の『尖端』に触れたところで、恐らく目を覚まさない。ならば、触れたところで、僕は嬉しいが黒田さんは困らない。言い変えれば、それは「起きたこと」であると同時に「起きなかったこと」でもあるのだ。小難しく言い変える必要があったのかは分からない。僕はバーから家まで、やっとの思いで黒田さんを連れて帰ってきた功労者である。ならば、それくらいの役得があっても良いのではないだろうか?今、僕は魅惑の『尖端』という花に誘われた蜜蜂でしかないのだ。眼鏡を外した黒田さんの寝顔は、いつもの凛とした印象を軽く残しながらも、どこか少女のようなあどけなさも感じさせた。あどけない少女のような黒田さんの『尖端』を指の腹で優しくこねる、指の先で軽く押す、爪の先で軽く弾く、くらいのことをしても良いのでないだろうか?なぜならば、それは誰も抗うことのできぬ『尖端』だからだ。どんな凶悪なテロリストも核兵器も『国』そのものを滅ぼすことは出来なかったが、この『尖端』は幾度となく『国』を滅ぼしてきた。その悪魔的魅力には抗えなくて当然なのだ。『尖端』へ思わず手を伸ばしそうになった時、僕は目を閉じ、深呼吸をして、トイレに駆け込んだ。昨日は未遂に終わったから、その分たっぷりと────と意を決っしてズボンを脱ごうとした瞬間、トレイが光に包まれた。僕は異世界に転生した。
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