第566話 第3章 3-3 虚無

 カンナが朝にその六つ並んだ右端の調整槽を出て、レラはその日の午後、左端の槽に入れられた。蛍光翡翠色のカンナと異なり、その調整水はガリアの力へ反応し、青白く光っている。この水は特別な溶液などではなく、精製水に食塩を入れたもの……生理食塩水とよべるものだった。周囲に並ぶ石塔からも線が床を這い、それぞれの槽につながっている。槽は一枚岩を彫りこんだ造りで水漏れは絶対にないが、種々の線がつながっているところは穴が開いているので、瀝青れきせいでふさがれていた。


 周囲へ不規則に立ち並ぶ石塔には、これも特殊な水槽が埋められており、これは専用の溶液と金属板が設置されている。つまり、これは原始的ながら電池であり、微弱な電流を補助で利用している。


 着るものを全て脱がされたレラ、傷の手当てもなく、全身痣だらけのまま水の中に横たえられる。調整の過程でレラとマイカのガリアの力、なにより融合されたバグルスの血肉が、この程度の傷などたちまち修復する。だが、レラは少し治りが遅い。


 水の中のレラへ、博士たちが次々に、所定の場所へ先端に針のついた管を容赦なく刺してゆく。血が薄く水に混じり、その苦痛に顔を歪めながらも、すぐに苦痛は和らぎ、呼吸をする必要も無く、レラは全身の浮遊に身をゆだねる。


 あとは、終わるのを待つだけだ。



 レラの調整は、一日で終わった。レラもこれが最終調整だった。翌日の夕刻、博士と技官が数名でレラを調整槽より出し、貫頭衣を着せ、輿へ乗せて通りを挟んだ反対側の施設へ連れてゆく。レラ専用の屋敷だった。到着すると博士たちは何処かへ去り、レラはあてがわれた質素な食事を一人で摂ると、まだ薄明るいうちに早々に寝床へ身を横たえた。いままでずっと寝ていたのに、疲れが取れないのか、異様にねむい。


 槽と違って、重力に慣れない。自らが操るガリアの力で、レラはいつも無意識のうちに身体を少し浮かせて寝る。その夜も寝入ったころには、レラは少し浮いていた。薄いシーツが、レラの細く小さい体ごと少しだけ浮き上がる。


 給仕兼見張りの女が、恐ろし気に、かつ気味悪げに入り口よりそれを凝視していた。


 カンナたちが出発する前日。

 レラは一足早く奥院宮おくいんのみやを出た。

 既に、ムルンベや神官長など、主だったものは先発している。


 アートも足が悪いので、輿で既に向かっていた。キギノは役目が終わったので、あの足でウガマールを出たという。


 レラは、一人でアテォレ神殿へ向かう。


 いつものことだった。いつも、レラは一人だ。秘神官見習い生徒だったころの記憶は日に日に薄れてゆく。もう一、二回、腕慣らしをして神殿へ来るようにアートからの指示が残されていた。


 「……フン」


 レラはいつも通り、階段から屋上へ上がると、ガリアの力を開放した。突風が吹きこんで一気に飛び上がる。風の力だけではない。重力が薄くなり、推進に風を利用している。ゴゥ! 竜巻めいて風が回転し、レラはその中に入ってウガマールの晴天に向かって消えた。


 この風に包まれていると、すべての感情が殺意に変わってゆく。それは憎しみを伴ってはいるが、もっともっと純粋に、ただ何でもいいからとにかく殺したいという、無機的な殺意だった。およそ人間の感情の入る余地がない、本能の殺意。虫の殺意に近い。いや、虫ですら空腹であるとか、自分の巣を護るためとか、殺意に理由はある。レラには何もなかった。虚無が……虚無が殺意となってレラの中に存在した。すべての命を呑みこむ、暗黒の深い穴として。


 風鳴りの音を伴って空が鳴る。この一か月ほど、レラは南部王国まで足を延ばしそこらじゅうの寒村を襲い、竜と戦い、実戦を積み、キギノにその殺人武術「しん天心てんしん八剣流はっけんりゅう」を習い、さらにそれを実戦で自らのモノにした。突貫のにわか仕込みではあったが、元より伝承者になる修行ではない。その殺人術の、ほんのを身につけるかつけないかで、トドメがさせるかさせないかの違いだった。


 急激に、悪神が村を滅ぼしているという噂が原住民の間に広まった。風の悪い竜神は、じっさいにウガマールの古い神話にいる。縁起の悪いことに雷の竜神と戦って負けるというオチがついているが、勝って雷竜を追放したという異聞も残っている。どちらが勝ってもおかしくはない。


 おかしくはないのだ!


 レラは殺意の中に、怒りを溜めた。誰に対する怒りなのか、自分でもわかっていた。


 


 誰でもいいのだ。カンナがどうとか、ウガマールがどうとか、ムルンベが、神官長がどうとか、どうでもよい。この殺意だけを満足させてくれたら。

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