第5部「死の再生者」

第452話 序 薄い空

 序


 空が薄い。

 カンナは、これまでに感じたことのない、とてつもない疲労と寒さに苦しんでいた。


 思い起こしてみれば、サラティスからバソ村へ向かっていた際の寒さと標高の高さでもうへばっていた。じっさいにこうしてパウゲン連山の合間を縫って、石だらけの高山地帯を十日も旅をするにあたって、慣れぬ者が途中で力尽きるという話も、にわかに現実味を帯びてくる。事実、神山へ捧げられた生贄めいた見たくもない白骨や生乾きのミイラが、そこら中に転がっている。誰も片づけないし、片づける意味も価値もないので、何百年にわたって自然の風雪によって風化し、神の山と同化するにまかせられている。彼ら、彼女らにとって、パウゲンは墓地であり、魂の帰るところだった。


 カンナは、周囲を見ずに、ひたすら前のみを見つめて歩いた。


 とにかく頭痛だ。そして寒い。吸っても吸っても空気が無い。道は険しく、岩場を延々と登らなくてはならない。吐き気と戦い、体中の筋肉痛を堪え、意識朦朧に耐える。


 幸い、登山でパウゲンの頂上を目指しているわけではない。道は、緩やかに峠を越えるが、これ以上、極端に高くなることはない。この状態に慣れてしまいさえすれば、峠の上の集落で休憩できる。


 「ほれ、カンナよ、しっかりいたせ」


 ガルドゥーンと呼ばれる、竜へ乗るガリア遣いであるディスケル=スタル帝国はカンチュルク藩王国クイン地方の領主一族の姫であるパオン=ミ、竜へ乗って飛行するため、高地の薄い空気や寒さに強く、カンナを補佐するため同行していた。愛竜である緑眼竜りょくがんりゅうのスーリーは、上空を偵察しつつ、つかず離れずパウゲン連山のどこかにいる。こちら側の人間にとって竜は退治の対象であるため、あまり目立っては事が大きくなるのも心配だ。


 さて、しかしカンナより重症なのはスティッキィだった。スターラから出たことがないスティッキィ、装備を整え、仲間がいても、どうしても遅れがちになる。カンナが心配して足を止め、仕方なくパオン=ミも休みながらゆっくりと山道を行く。


 スティッキィは道端の手ごろな石へ座りこみ、その蒼い眼を苦悩に剥いて、息も絶え絶えに喘いでいた。


 「しっかりして、スティッキィ」

 そういうカンナも涙目だった。


 スティッキィ、答えることすらできない。双子の姉のマレッティは、いくら逃避行だったといえ、よく一人でこの山を越えてサラティスまで逃げたと感心する。


 「二人とも、あと一日も歩けば、峠の村に着く。そこで、しばし休憩したならば、あとは峠を下るだけぞ」


 竹筒より水を飲み、防寒装備も厳重なパオン=ミ、すまし顔で云う。彼女にとってこの程度の寒さと空気の薄さは、寒いうち、空気が薄いうちに入らない。それゆえ、パウゲン越えの経験者が誰もおらずとも、パオン=ミがいれば大丈夫だろうというアーリーの判断だった。


 いま、山間街道は彼女ら三人のほかは誰も歩いていないが、先日はかなり隊商がすれ違った。また、追い抜いてゆく商人の列も多い。みな、身軽な格好で、よほどの事情がない限り、交易物を運ぶ隊商は山越えをしない。商用でも、交渉事を行う商人や、ガリア遣いが多い。


 休んで息を落ちつけていると、上空を渡り鳥が北へ戻ってゆくのが見えた。冬をサラティスやウガマールで越えた鳥たちが、繁殖のためにスターラや、もっと北へ帰ってゆく。その第一陣が、雄大なパウゲンを越えている。


 もう、春だった。



 第一章


 1


 ホルポスと北方竜の生き残りは、ひとまず極北へ戻った。戻るときに、密かにアーリーとホルポスがトロンバー近郊で会談をしたというが、カンナは一足先にまっすぐスターラへ戻ったのでわからない。パオン=ミがトロンバーへ行き、スティッキィと二人、ガイアゲンでしばし静養した。およそひと月後、アーリーたちがスターラへ戻ってきた。みな疲れ果てており、特にフルトたちは三分の一以下に減っていた。みな、ホルポスの強力な幻像攻撃に倒された。あの、じっさいに肉体が傷つき、死んでしまうほどに言語を絶する強力な暗示に。


 ガイアゲン本部へアーリーとマレッティが入る。パオン=ミは何処かへ行ったものか、現れなかった。


 さっそくガイアゲン筆頭女番頭にして新生暗殺者集団メストの首領となったレブラッシュが迎える。


 なんとか竜の大軍団を追い返したということで、スターラの人々は安堵し、ガイアゲン商会の株は上がって、都市政府より五十年償還の莫大な年利付貸付金返済を受け取ることになった。また、政府によりこれまでライバルであるグラントローメラ商会がほぼ握っていた政府御用達商権利や免許の半分近くを任されることになった。これが大きい。


 それはそうと、戻ってきて早々、アーリーは風呂にも入らずに、打ち合わせを依頼した。


 せっかく、レブラッシュが敷地内で眠っていた古代の遺跡めいたサラティス風呂へ白湯を用意して待っていたのに。これは、カンナ達が「再発見」して改修し、この風呂文化の無いスターラでも遠慮なくサラティスにいたときのように好きなだけ風呂へ入れるようにしたものだ。


 「そうですよ、アーリーさん、まずお風呂でゆっくりしてください」

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