短編「茜色のむこうに」
第443話 茜色のむこうに 1 ウガマールのけだるい午後
1
午後の強い日差しを避け、河畔より吹きこむ涼しい風をよく通す建物の三階の角部屋で、アートはハンモックに揺られ、昼寝を楽しんでいた。大柄な身体をすっぽりとくるむ麻布のゆったりとしたこの地方特有の衣服は、それだけで涼しい。街の喧騒もこの神殿の奥深くまでは届かず、茶色い大河ウガンを往来する大小の帆船の鐘の音がときおり風に乗って聴こえるていどだった。
「おい、起きろ」
アートを訪れた客が、あまりに無防備な姿に呆れ、ぶっきらぼうに声をかける。
「起きないか」
その声はアルトのA音に響いて美しく、抑揚のあまりない木管楽器めいたよく通る声だった。
「起きろよ」
声がややくだけ、人物は勝手に部屋へ入ると、足蹴にしてハンモックをひっくり返した。
豪快に床へ転げ落ち、流石にアートが目を覚ます。
来客に気づき、寝癖のついた黒髪をかきあげて嘆息した。
「アーリー……」
「気抜けていすぎやしないか、アート」
サラティスで竜退治組織の頂点である「カルマ」を率いる赤竜のダール・アーリーが、珍しく微笑を浮かべ、腰に手を当ててアートを見下ろしている。その古い騎士装束にも似た男装に、並の男以上の筋肉が躍動しているのが分かる。暑いからか、燃えるような赤髪をひっつめて髷のようにまとめ、火色の眼が優しく盟友を見ていた。
「いつ、来たんだよ」
アートが立ち上がり、アーリーと軽く拳を打ち合った。いつもの挨拶だ。
ウガマール
「さっきだ。みな忙しく立ちはたらいているというのに、昼寝とはよい身分だな」
「仕事がないんだよ」
アーリーは苦笑し、勝手にそこらの椅子を引いて腰かけ、長い脚を組み、肘あてに右肘をついて頬へあてた。
「お前が教導するほどの相手が、誰もいないということか?」
「なんとでも云え」
アートは召使を呼び、赤ワインとつまみを用意させた。すぐに、若い女の給仕が二人、それぞれ盆とワイン壺を持って現れる。
「このまえ、イワシがたくさん揚がったので油漬にさせたんだ。うまいぞ」
「この十倍あるとたすかるんだが」
アーリーが素焼きの盆を覗きこみ、にやっと笑う。
「自分で用意しやがれ」
美しい高級な色ガラス製の杯へ葡萄酒を注ぎ、再開を祝し二人は杯を掲げた。
「ウガマールの酒もうまいだろう」
「慣れたよ」
「なに云ってやがる……」
ここでは、井戸水があまり衛生的ではなく、酒は水代わりで、あまり度数が高くない。アーリーは、そのことを云っているのだった。サラティスの高級ワインに比べると、本当に水のようなものだ。
「ところで、何の用だ?」
椰子の木の串でイワシをつまみ、アートが今更ながら、聴いた。
「サラティスへ行ってもらう」
アーリーの声が、にわかに引き締まった。
アートも、
「……ついに」
「そのようだ」
「神官長が?」
そう云ったのか? という意味だ。アーリ-、答える代わりに、眼でうなずく。
「どいつだ?」
「……髪の黒い、眼の悪い子だ」
アートが小首をかしげた。
「そんなの、いたっけ?」
「目立たない、おとなしい子だからな……次の調整で、おそらく、生まれ変わるだろう」
「生まれ変わる……」
アートが大きな嘆息をついて、杯を持ったまま窓の外へ目線を移す。
「……そうだな。まさに、生まれ変わるだろう。人間がダールへ変化するように。もう、違う人間になる。いや……人間じゃなくなる」
「いったい、何に、なると?」
「知らないね」
アートの顔が、嫌悪に歪む。
「忘れるなよ、アーリー。おれも、お前も、同罪だ」
アーリーはそっと目をつむった。
「分かっている」
その声は、重く、苦しい。
強い日差しがまぶしかった。
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