第389話 蝸牛の舌 4-3 ニアムが行方不明
ワインと血が混ざり、床を染める。
ドレイソはその赤い液体を踏む前に、抜き身の短剣とゴブレットを持ったまま、猫めいて部屋から出た。
アパートを出るときに、慎重に周囲を確認した。幸いにもツェーデは人通りを避けるために、裏道沿いのアパートを借りていたので、誰にも見られていないように感じた。塔の周辺をぐるぐる迷っているうちに誰もいない井戸があったので、ゴブレットと短剣を捨ててしまった。塔を見ながらそこらを一周し、またコルテ事務所の前へ戻ってきた。
ドレイソは今度こそ事務所を訪れ、一刻ほど待った後に奥へ通されたので、とにかくバソ村の現状を訴えた。そして厳重に抗議した。事務所では、けっこうそういった苦情があると云い、ドレイソを驚かせた。
「都市政府と一緒に、いま、対策を検討中なんです」
事務所の苦情担当のような、よく日焼けした壮年の男性が、濃いひげを動かしながら説明する。
「たぶん、遠くないうちに、コルテは機構改革で、もっとガリア遣いたちをうまく使うようになります。それまでは、ガリア遣いの取り締まり官のようなものを派遣するしか」
「ぜひ、お願いします。うちはまだ、狼藉を働いているわけではありませんが……いつまでも居座られて迷惑には変わりありません。そのうち、調子に乗って金品を要求して来たら」
「分かってます、分かってます」
濃い髭面が、目鼻が見えなくなるほどくしゃくしゃにしかめっ面となったので、そうとう苦情が殺到しているのではないかとドレイソは感じた。
事実、二年を待たずに、コルテは可能性鑑定の結果ごとにモクスル、コーヴ、カルマの三つに分かれ、サラティス政府保証の竜退治請負ガリア遣いを「バスク」と呼び、また可能性の少ないガリア遣いのために補佐としてセチュ階層も制定された。この四つの階層に所属しないモグリのガリア遣い、あるいは素行不良で登録を抹消されたガリア遣いは、都市政府が徹底的に干し、逆にバスクは特に金銭面で手厚く保護した。また経歴詐称があった場合はカルマやコーヴが報奨金をつけて容赦なく討伐したため、悪徳ガリア遣いは自然と淘汰されたのである。
「近いうちに、凄腕のガリア遣いが三人を迎えに行くと、村長やラカッサたちにお伝えください。召喚状が出るでしょう。それで、どうかする連中ではないと思いますので、すぐに村を出るでしょう……」
「だとよいですけれども」
ドレイソは色々と不安だった。既にニアムを殺してしまっている。よもやドレイソの仕業とは思わないだろうが、ラカッサがどう出るか。召喚状などで、素直にサラティスへ帰るだろうか。懲罰もあるに違いない。自棄になって、何かしでかさないだろうか。
「もし……もしですよ」
ドレイソは身を乗り出した。
「ラカッサたちが狼藉を働いて……村人が抵抗したら……正当防衛は認められますか」
「ガリア遣いが、自己防衛以外で一般民にガリアを遣ったら、処罰の対象です。少なくともサラティスでは」
「自己防衛……誰が証明するのでしょう」
「誰も証明はできません」
そりゃそうだ。目撃者がいなければ、ガリア遣いが先に村人へ手を出したのか、ガリア遣いが襲われたのか、分かろうはずがない。
「よろしくお願いします」
ドレイソはコルテの事務所を出た。夕刻に近かったが、この時期は日没が遅く明るい。泊まりもせずに、さっそく、バソへ戻る。
村を出て十一日後に、ひっそりとドレイソが戻ってきたので、ダブリーは驚いて出迎えた。身を隠すために、深夜に村へ入るという周到さも見せたのは、ストゥーリアで揉まれた成果だった。
「よく無事だったな!」
寝間着姿で、ダブリーは公宅の奥の部屋へ現れた。
「で、どうだった?」
ドレイソは髭の苦情係のことだけを伝えた。ニアムや、ツェーデのことは、云わなかった。しかし、ダブリーの眼が光った。
「ニアムに合わなかった……いや、襲われなかったか?」
「ガリア遣いが、どうかしましたか?」
「どうも、行方不明らしい。ラカッサやベルケーラの様子もおかしいんだ」
ドレイソは緊張で唾をのんだ。
「街道の途中で……襲われました」
「やはり、な。どうして、最初にそれを云わない」
ドレイソは黙った。ダブリーの瞳を鋭く見つめる。ドレイソは、こういう目を持つ人間を、ストゥーリアで何人も見た。たいていは暗殺に関与する殺人者だ。
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