「The female――絆は捩れて」を書き終えて 

(一)はじめに

 親友同士の母親から生まれた幼馴染の二人の運命を描いた「The female――絆は捩れて」をこのほどようやく脱稿した。

 二〇二〇年十二月にmonogatary.comで連載を初めてから三年二ヶ月。字数にして十六万字。

 根気がなく停滞中の作品だらけの自分としては現時点で完結させられた最長の作品になる。

 ちなみに完結作品の中で次に長いのはルーマニアを舞台にした「ティミショアラ、薫って」の四万字なので、その四倍も塗り替えた計算である。

(二)作品の時代背景とトランスジェンダーを巡る近況

 この作品は想定としては二〇〇三年四月五日の第一章に始まり、二〇二三年四月二日の第三十章に終わる。

 後半の三年間は現実としてはコロナ禍に入るが、作中世界ではテーマを明確に描く上でコロナによる社会的影響は敢えて排除した。

 なお、二〇〇三年は筆者がファンであり、生前はクィア、ジェンダーレスなポップ・アイコンだった張國榮レスリー・チャンが亡くなった年である。

 彼の命日である四月一日を挟む格好で本作の主人公である美生子と陽希は生まれた設定にした。

 劇中でも美生子はレスリーの代表作である「覇王別姫」(一九九三年、陳凱歌監督)を偶然観てファンになり、また、性的マイノリティとして世間からしばしば冷笑や排斥に晒され自ら命を絶った彼に共鳴して苦悩を深める。

 美生子はいわゆる「トランス男性」(トランス男性をFemale ​to Male、略してFTM、トランス女性をMale ​to Feale、略してMTFとも呼ぶそうだが、字面として紛らわしいので本稿では『トランス男性』『トランス女性』の呼称を採用する)、性同一性障害の身体女性だが、筆者は昨今国際社会を席巻し、日本でも影響力を強めるようになったトランスジェンダリズムへの懐疑からこの人物を創造した。

 自己批判を込めて明かすが、自分も当初は「トランス女性は女性です」「トランス男性は男性です」という主張に賛同していた。

 しかし、身体男性の女子スポーツへの相次ぐチーティング的な進出*1や海外刑務所で起きた自称女性の身体男性囚人による他の女性囚人への性暴力事案、そして身体女性を透明化する風潮に疑問を示したJ.K.ローリングへのメディア総出のリンチを目撃するに至ってトランスジェンダリズムを支持できなくなった。

 日本でも「女消メケし」とトランスジェンダリズムを身体女性を透明化するものと批判して弾圧された笙野頼子のような女性作家がいる。

 そもそも、「トランスジェンダー」としてメディアに登場する、派手派手しく取り上げられるのはいずれも「トランス女性」、生得的には身体男性の人たちである。

 筆者は未見だが、草彅剛が主演して話題を読んだ「ミッドナイトスワン」(二〇二〇年、内田英治監督)などコンテンツでもトランス女性が主体の作品が目立つ。

 「トランス男性」、生得的には身体女性である人たちはオマケのようにしか扱われない。

 そこにセクシャルマイノリティとはいえ結局は身体男性を身体女性より優先する男尊女卑を感じずにいられなかった。

 前述したように身体女性の透明化、軽視に疑問を示した女性作家のJ.K.ローリングは欧米のメディアで総バッシングされた。

 しかし、実際には欧米にもトランスジェンダリズムに否定的な見解を示す男性の著名人は少なからずおり、彼らはローリングほどの攻撃は受けていない。

 これが新手の女性蔑視でなくて何なのだろうか。

 実際、欧米では「トランスウィドウ(transwidow)」なる言葉が出来ている。

 これは夫が「自分の心は女性」と主張して「女性」として生活し始め、そこに理解あるパートナーとして寄り添い続ける生活を余儀なくされる妻を指す造語だという。

 “widow”とは本来は「未亡人」を意味する言葉であり、夫が女性としてのアイデンティティを主張することで妻が実質的に「夫を失った女性」になってしまった状況をこの造語は表現している。

 かつて欧米の未亡人は先立った夫への貞節を尽くすことを社会的に強いられたが、今は夫がトランス女性になった妻も理解と協力を強いられ続けるという皮肉もこの言葉からは感じられる。

 なお、「妻側が男性としてのアイデンティティを主張し始めて苦悩する夫」に該当する造語は目立った所では見当たらない。

 恐らく欧米でも「女性としてのアイデンティティを主張しつつそれまでの妻との婚姻関係は維持しようとする夫と苦悩しつつ積極的に離婚はしない妻」と比べると、逆は少ないのだろう。

 そこに既に男女の非対称が見える。

 日本でも、夫が中年以降に「自分の心は女性」と人前でも主張して妻より派手な化粧や服、肌着を楽しみトランスジェンダーとしての講演活動までする一方で炊事や洗濯など家事は相変わらず妻に丸投げして生活し、妻側は苦しんでいるケースがメディアで取り上げられたことがある。

 「The female」連載中にも痛ましい事件が起きた。

 これは著名なタレント夫妻の夫側が「自分の心は女性」と主張して一児を儲けた妻と離婚、それまでもイメージとしてジェンダーレスではあったがより女性らしい装いでメディアに出てくるようになり、

「それまでの妻子を愛する発言は偽りだったのか」

「夫として父親として無責任である」

とネットを中心に非難された結果、二十七歳の若さで自殺してしまった事案である。*2

 率直に言って、自分も生前のこの元夫タレントによる離婚以降の言動に好意的な見方は出来なかった。

 しかし、まだ三十歳にもならない彼(男性として誰に強いられたわけでもなく女性と数年に渡る交際、結婚、子供まで儲けた人を『彼女』と呼ぶことは私にはもう出来ません。女性という性別への冒涜でしょう)が自ら死を選ぶに至ったのはやはり痛ましい。

 故人が自分のセクシュアリティにずっと悩んでこなかったとは思わない。

 昨今のトランスジェンダリズムが煽っておかしくしてしまった人のように思う。

 トランスジェンダーの著名人についてもう少し言及すると、ネット検索する内に万次郎さんというトランス男性のタレントがいることも判った。*3

 一九七六年生まれだから一九八二年生まれの筆者の六歳年長である。

 この人がEテレの番組で男湯に入った際の画像もトランス関連の記事ではよく見かける。

 万次郎さんは顔だけならば髪の毛を刈り上げた男性的な印象ではあるが、服を脱げば肌白く(この人は雪国北海道の出身である)乳房も膨らんだ女性そのものの体つきである。

 画像では周囲の男性客たちが好奇の目、もっとはっきり言えば自分たちのテリトリーに闖入してきた物珍しい「女体」として眺める目を注いでいる表情がはっきり映されていた。

 むろん、テレビカメラが入っているため彼らがあからさまな侮辱や加害行為に出ることはないものの、画像を見るこちらが居心地の悪さを覚えた。

「もし自分がこの万次郎さんの姉妹や友人だったら、果たして男湯や男子更衣室に入って他の男性たちに女性としての身体を晒す行動を積極的に支持できるだろうか」

 繰り返し自問自答した。

「無理だ。危険過ぎる」

「いつか他の男性から何らか加害される可能性が高いし、そうなった時に『やはり反対すれば良かった』と自分は悔やむだろう」

「というより万次郎さんご本人がそうした危険を一番良く知っているのではないか」

というのが率直な感慨だ。

 以前にも別な稿で取り上げたが、ヒラリー・スワンク主演で話題を読んだ「ボーイズ・ドント・クライ」(一九九九年、キンバリー・ピアース監督)は身体女性と知られて友人だった男性たちから性暴行され殺害された実在のトランス男性の事件を基にしている。

 モデルとなったブランドン・ティーナは一九七二年に生まれ、一九九三年の大晦日に二十一歳になったばかりの若さで命を落とした。*4

 四歳下の万次郎さんにとってもこの事件は決して他人事では有り得ないだろう。

 性自認がどうであれ身体女性には常に危険が付きまとうのだ。ティーナの死から三十年経ってもそれは変わらない。

 そもそも近年に入って“Lesbian(レズビアン)”、“Gay(ゲイ)”、“By-sexual(バイセクシャル)”、“Trans(トランス)”を併せて“LGBT”と総称されるようになったが、元から同性愛者、特に“L”に該当する女性同性愛者の人たちは当初からトランスには否定的な反応が目立った。

 これは一つにはトランスと呼ばれる中に“MTFレズビアン”、つまり「トランス女性の同性愛者」と称してビアン女性に性的接触を求める身体男性も含まれていたためである。

 身体的には異性である相手を性的対象としている時点でれっきとした異性愛者ではないかと私も思うが、日本のみならず海外でもこうした人たちは少なからずいるようだ。

 二〇一六年、これもアメリカでダナ・リバース、本名はデヴィッド・ウォーフィールドというトランス女性の活動家がビアン活動家のカップルとその養子である十九歳の黒人青年を惨殺する事件も起きている。*5

 殺害されたビアンカップル活動家は主宰したビアンフェスティバルへの身体男性の参加を拒否しており、その報復だという。

 ちなみにトランス男性が身体女性を拒否するゲイ男性を殺傷したといった事件は目立つ所では起きていないようだ。

 なお、前掲のデヴィッド・ウォーフィールドは女子刑務所に収監されたそうだが、トランス男性こと身体女性が率先して男子刑務所を希望して収監されたケースは見当たらない。

 むしろ、トランス男性ではあっても服役は身体的性別に沿って女子刑務所を希望して収監されたケースの記事を読んだことがある。

 ここからも明らかなように“T”、“Trans”といっても一般にメディアでも取り上げられる実質的な主体は「トランス女性」こと身体男性である。

 そして、昨今のトランスジェンダリズムの台頭は“L”こと“Lesbian”、女性同性愛者にとっては身体男性の受け入れを強要される、これまでも彼女らが絶えず男社会から晒されてきた矯正レイプを正当化する思想だったために反発されたのである。

 なお、トランスジェンダリズムに早期から危機感を覚えて身体男性の女子スポーツへの進出や女子トイレや女子更衣室の使用への反対を唱えていた女性たちはトランスジェンダリズムの活動家やその支持者から“ターフ(TERF、trans-exclusionary radical feministの略、『トランス排除的ラディカルフェミニスト』の意味”と呼ばれ、激しい攻撃に晒された。J.K.ローリングもそうした一人である。

 昨今のトランスジェンダリズムには身体女性の透明化、これに抗する女性への「魔女狩り」といった面があったのは否定出来ない。

 拙作はトランスジェンダーを扱いつつ身体女性の生きづらさに焦点を当てるコンセプトで書いた。

(三)作品及び作中人物について

 先述したようにこの作品の主人公はトランス男性の美生子だ。

 しかし、本人の性自認が男性であっても二次性徴の時期が来れば初潮を迎え、母親の陽子に似たグラマラスな体つきになり、本人が望まない形であっても男性と性交渉を持てば妊娠する。

 このキャラクターは常に女性としての身体の現実に向き合わざるを得ない運命にある。

 美生子の風貌は敢えて小柄、華奢、天然パーマにピンクの勝った肌、成長後は乳房も臀部も豊かというフェミニンな設定にした。

 その方が心と体の矛盾に悩むキャラクターとして相応しいからでもあるが、一般的なトランス男性のステレオタイプに抗する意図もある。

 例えば、色黒のショートカットで男子に伍してサッカーに興じ、最終的には医学部に進学することからして理数系科目が得意な雅貴のガールフレンドの「カヨ」(劇中では直接登場しないので明らかにしていませんが、漢字にすると『佳世』です)の方が「男勝り」とか「男脳」とか世間的には形容されるタイプであり、漠然としたトランス男性のイメージにも合致しているかもしれない。

 だが生得的男性にもスポーツが得意でも好きでもない人や文系科目の方が得意で興味のある人が少なからずいるように、性自認男性も資質や興味の方向は様々であるはずだ。

 だから、拙作でも一見すると髪を長くしてバレエを習う文学少女の美生子が実は性自認男性で、サッカー少年じみた秀才の佳世が同級生男子と恋愛して交際する女性という設定にしている。

 作中での美生子はいわゆるクローゼットであり、彼女(この代名詞を用いるのは作者として未だに抵抗を覚えなくもないが)の本当のセクシュアリティを知って共有しているのは共に育った幼馴染の陽希だけである。

 陽希は美生子に恋するがゆえに誠実なアライであろうとするが、恋するがゆえに最後にはそれが破綻してしまう。そこに悲劇がある。

 陽希はこの物語のもう一人の主人公だ。

 セクシュアリティの面では幼馴染の美生子に恋する一方でバレエ教室の年上の女性であるターシャにも憧れ、思春期に入ると二人を融合させた風な面影の女性が出てくるポルノ動画を好んで視聴するようなシスジェンダー男性である。

 だが、彼も実母の清海から愛されず、また生まれた時から実父の洋亮とも断絶しているという、美生子とは別な形で不幸な境遇に育っている。

 陽希の視点からは第三者の目には女性らしく成長していく美生子の姿を浮かび上がらせると同時に男性の生きづらさも描出した。

 そもそも母親の清海が陽希を根源的に受け入れられなかったのは、夫の洋亮からの性暴力の結果としての子供だったことに加えて加害者の洋亮に似た面影を持つ男児だったためである。

 習い事のバレエ(バレエを習うのは九割以上が女子*6)の教室でも身体女性である美生子は多数派に紛れ込んでいるものの陽希は数少ない男子生徒として通っており、そのことで学校でも「男のくせにバレエを習うなんておかしい」「オカマ」とイジメに遭う(そもそも元から母子家庭であるためにイジメに遭っている事情もあるが)。

 なお、母子家庭の子供を嘲笑したり陽希のような肌白く柔和な風貌の男子を「女みてえ」「オカマ」と揶揄したりするイジメは四十代前半で地方出身の筆者が実際に繰り返し目にしたものだ。

 身体女性である美生子は自分の好きな群青のランドセルを買ってもらえるが、本当の男児である陽希に与えられるのは必ずしも本人の好きな色ではない黒のランドセルである。

 むろん、これには陽子と清海というそれぞれの母親の資質も影響しているだろうが、現在小学生の娘二人を持つ母親として横浜で生活している筆者の見る限りでも、ピンク、紫、水色、キャメルなど多彩な女児のランドセルに対して男児は明らかに黒か一見すると黒に近い濃紺が多い。

 髪の長さも女性の「おかっぱ頭」「セミロング」が男性の「長髪」に相当し、長髪の男性はショートカットの女性よりも本来の性別にそぐわないスタイルとして冷笑されやすい。

 生得的男性である陽希はそうした抑圧の下に生活している。

 だが、何よりも陽希の生きづらさの決定打になったのは、思春期に入り二次性徴を迎えた時に実母の清海が浴びせ掛けた拒絶と罵倒である。

 清海は成長した息子にかつて自分に襲い掛かった夫の姿を重ね、錯乱する。

「お前なんか死ね、地獄に堕ちろ」

 これは本来は自分を凌辱した夫に向けられた言葉である。

 だが、陽希にとっては自分の出生そのものへの否定であった。

 絶望の淵から美生子に救われた陽希だが、恋しても男性としての自分が受け入れられることは望めない間柄が彼の中にある自己否定の闇を深めていく。

 陽希の母である清海は本作の影のヒロインとでも言うべき存在であり、彼女の死から葬儀を描いた第十五章までが物語の前編だ。後編でも、死してなお息子の陽希の心に影を落とし続ける怨霊じみた存在である。

 陽希からすれば清海はわざわざ母子家庭で社会的経済的に苦しい状態*7で産んだのに自分を愛しもせず拒絶し続ける理不尽な毒母としか言いようがない。

 しかし、清海とて本来は偏屈な子供嫌いだったり底冷たい人となりだったりした訳ではない。

 夫に絶望する前は彼との子供を欲しがっており、陽希の前の子供は流産してそのことにショックを受けている。

 美生子や雅貴といった他の女性の子供に対しては飽くまで常識的に接しており、年を経て生まれた従姪の詩乃に対しては慈しむような態度すら見せる。

 夫の洋亮が妻を含む女性たちを玩具のように扱う人間でなければ清海も絶望から壊れることもなく、陽希も幸福な子供時代を送れたかもしれないのである。美生子とももっと違った関係性になっていただろう。

 清海の従姉である貴海と雅希の母子は清海と陽希にも本来有り得た姿として登場させた。

 雅希と詩乃は二人兄妹にしてはやや年齢差(十歳半)があるが、こちらも雅希のすぐ後に妊娠した子供は流産し、その後は貴海夫妻も第二子は諦めていたものの十年目に思いがけず妊娠して無事に生まれたのが詩乃という設定である。

 さて、本作の中で最も重要なキャラクターの一人であり、また作者としても一番書くのが難しかったのは、やはり美生子の母であり、清海の親友でもある陽子だった。

 彼女は決して悪辣でも愚鈍でもない。むしろ不幸な他人に手を差し伸べる女性であり、他者の良い可能性を信じる人でもある(陽子が作中で例外的に敵意を示すのは清海の前夫である洋亮だけだが、これは清海や陽希といった自分にとって大切な人たちを深く傷付けた加害者だと認識しているためであり、洋亮側も侮蔑的な態度で応じている)。

 しかし、というか、だからこそ、相手の抱えている本当の闇や歪みから隔てられてしまう運命にもある。

 共に子供を産んだはずの親友の清海が息子の陽希を愛せず苦しんでいることにも気付けない。

 これはそもそも清海が陽子にすら夫に絶望した挙げ句望まない妊娠をした真相を打ち明けていないからでもあるが、結果的に清海は産み落とした陽希と不幸な母子関係しか築けず苦悩の後半生の果てに事故で命を落とす。

 かつて清海を死の瀬戸際で救ったはずの陽子は今度はその死を目の当たりにすることになる。

 清海にとっては陽子に看取られて死ぬのは本望であっても、残された陽子にとっては悲劇である。

 また、これが物語の決定打になる点だが、陽子は他ならぬ腹を痛めて産んだ我が子である美生子のセクシュアリティとその苦悩も見過ごしてしまう。

 これは陽子本人がシスジェンダー女性であるため、自分と似通った面影を持つ我が子が性的マイノリティだとは想定外だったためである。

 作中の母親世代である陽子と清海は一九七四年生まれ、雅希と詩乃の母である貴海が二つ上の一九七二年生まれである。

 前節で取り上げたブランドン・ティーナ(一九七二年生まれ)や万次郎さん(一九七六年生まれ)と同世代になるが、この世代の人たちの子供時代にはそもそも当事者にすら「性同一性障害」という概念が普及していなかったのではないだろうか。

 一九八二年生まれの筆者が「性同一性障害」という言葉を知ったのは映画「ボーイズ・ドント・クライ」が日本でも話題になった高校生の頃である。

 そのモデルとなったブランドン・ティーナも当初は自分をインターセクシャル(性未分化疾患)と考えていたようである。*8

 日本で「性同一性障害」の知名度向上に貢献したのは上戸彩が性同一性障害の生徒を演じて注目された二〇〇一〜二〇〇二年放送の「金八先生」第六シリーズだろう。

 しかし、この頃には作中人物たちは既に三十歳前後で子供を持つ直前の既婚女性であり、これから生まれてくる我が子もそうなる可能性を考えるほどのリアリティを持ち得たかは疑問である(上戸彩出演のシリーズに限らず、『金八先生』シリーズが教育現場を理想化した綺麗事、夢物語だという批判はしばしば主演俳優の武田鉄矢への揶揄や冷笑込みで語られることだ)。

 そういう私もこのシリーズは未見だが、十九歳の浪人中に上戸彩が学ランを着た番宣を観て

「男子用の制服を親に作ってもらって当たり前に学校に通える時点で随分恵まれてるだろ」

「現実に二次性徴を迎える時期の女の子が男子用の制服を作ろうとしても親がまず反対するだろうし、業者からも受け入れられないのでは」

「実際のところは中性的な美少女タレントに男装させて倒錯した魅力を目玉にしたあざとい客寄せだ」

と嘘っぽさや白々しさを覚えた記憶がある。

 それはそれとして陽子にとって「同性愛者」「性同一性障害」とは「自殺した香港俳優のレスリー・チャン」とか「テレビに出てくる女装家やオネエ言葉のタレント」、あるいは「映画やドラマで著名な俳優が演じて話題になったキャラクター」であって、いわばどれも自分の日常からは切り離された存在だったはずである。

 だからこそ、自分と似た面影を持つ娘の美生子については「妙なこだわりの強い子だ」としか認識できなかったのである。

 付記すると、陽子は決してゴリゴリのジェンダー規範に染まった人ではない。美生子の幼少期から運動着や制服といった個人の嗜好が許されないものでなければ、普段は子供の好きな青系の服を着せてズボンを履かせ、幼稚園にも我が子の望む青地に電車柄の手提げを持たせてやっている。

 バレエのようなジェンダー規範の強い、女性への抑圧も強い古典舞踊を習わせるのも飽くまで美生子が希望したからであり、陽子本人が強いたものではない。*9

 物語は陽子が自らも妊娠出産を終えた美生子の挙動に漸く違和感が芽生えたところで終わる。

 しかし、もし、美生子が作中のどこかのタイミングで自分のセクシュアリティをカミングアウトしたとしても陽子自身はあるいは受け入れたかもしれないのだ。

 先述したように自分も二女の母である。

「もし自分が陽子の立場だったら美生子にどう接するのだろうか」

「もし娘たちが美生子のようなセクシュアリティだったら自分はどう感じ、どう接するのだろうか」

 陽子というキャラクターは常に自問自答しながらの描出になった。

 私は鬱気質で陽子のような朗らかさや他人を容れる度量の広さには乏しい人間なので、その意味でも描くのは難しかった。

 脇筋の人物に言及すると、先述したように貴海と雅希は清海と陽希の本来有り得た姿として出した。

 貴海は不幸な結婚生活に終わった従妹とその息子に何くれと手を差し伸べる、陽子と並んで心優しい女性である。

 当初は清海の実姉という設定で考えていたが、そうすると、

「お姉ちゃんは無事に子供も生まれて結婚生活を続けているのに何故妹のお前は妊娠したまま離婚するのか」

と両親が姉妹やその子供たちを比べて貴海と清海との関係にも亀裂が入る気がしたので従姉妹というワンクッション置いた血縁にした。

 ちなみに母親同士が姉妹で幼い頃から一緒に旅行したり雛祭りのお祝いをしたり親しく行き来していた設定である。

 雅希は幼年期はややわがままのきらいがあるものの、決して意地の悪い性格ではなく陽希に対しても兄貴分として基本は優しく接する。

 そもそも子供時代の彼がわがままで直情なのは両親から愛されて確固たる信頼関係が築かれているからであり、陽希のように拒絶的な、もっとはっきり言えばモラハラ的な母親の顔色を常に窺わざるを得ない子供よりも健全に育っている証左である。

 成長後は女性主体の古典舞踊であるバレエを習う陽希に対して雅希は男性が圧倒的多数の集団競技であるサッカーに没頭する。*10

 陽希より世間が求める「男(の子)らしさ」に合致していると言えるが、「女性は男性より劣っていなくてはならない」といったマッチョタイプでは決してなく少年期は自分よりサッカーも学力も上で風貌も男性的な佳世と交際し、大学入学後は年長で恐らく学問的にも上の女子院生と付き合う。

 筆者としては俗に言う「リア充」でありかつ自分より優秀な女性を認められる公平な視点を持ったキャラクターとして描いたつもりだ。

 ただし、それは常に不遇な中での成長を余儀なくされた陽希に対して彼が恵まれた環境にあったからこそ成し得たものでもある。

 雅希の妹の詩乃は「幸福な女児」というか、女児に生まれた自分に疑問や違和感を持たず、また女性の色とされるピンクやスカート、リボンを好んで喜ぶ、むしろシスジェンダーの女児としても却って少ないような直球の女の子らしい女の子として描いた(実際の女児は小学校の一年生にもなると、『ピンクは女の子の色』という通念に反発して対極の水色や中間色の紫といったカラーを好む場合も多い。筆者の次女も幼稚園の年長まではピンクが一番好きだったが、小一の終わりに近付いた今は『水色が一番好き。ピンクは二番目』と言う)。

 ただし、兄の雅希と同様、決して排斥的な性格ではなく、生得的には男児であるにも関わらず髪を伸ばしピンクのランドセルを背負った、名前も女の子のような「ミチル君」とも仲良くする。*11

 性的マイノリティのアライになれる資質を持った子供と言えるが、二次性徴を迎える頃になれば詩乃とミチル君の関係もどのように転じるかは不明である。

 また、詩乃本人がやがて大人になり思慕を寄せていた陽希と美生子の真相を知った時にどのような思いを抱くだろうか。

 筆者としても、作中の詩乃が無邪気であればあるほど結末の後の彼女を想像すると痛ましい。

 美生子と陽希の子供時代を巡る人物としてはターシャ(タチャーナ)とサーシャ(アレクサンドル)のロシア人姉弟も重要だ。

 こちらはロシアがバレエ大国であり、また、人名として愛称になると「ターシャ」「サーシャ」と性差が無くなる文化圏であることから創られた。

 夢のように美しい異邦人の姉弟という役割だが、異邦人であるが故にこちらのことも悪意なく誤解しているという皮肉な展開を迎える。

 なお、美生子と陽希の両方から憧れられる姉のターシャの風貌は李香蘭こと山口淑子さんの手記に登場する幼馴染のロシア人女性のリューバさんにヒントを得た。

 ストイックでどこか表情に冷たさや険しさの見える人も少なくないバレリーナよりも古き良き朗らかなロシア美人のイメージである。

 弟のサーシャは「ひたすら美しい少年」という方向で出した。昔、テレビで偶然見たヨーロッパの少年バレエダンサーやソ連時代の芸術映画で目にした子役の少年などの風貌を融合させたイメージだ。

 美生子と陽希が中高生時代に入ってからは地元の坊ちゃまで秀才の大河が登場する。生家の宮澤家は旧家で、地元のトップ校の橘高から慶應義塾大学*12に進学する。

 これは「イケメン、秀才、バスケ部のキャプテンでお金持ちの坊ちゃま」という少女漫画のヒーローキャラのステレオタイプを敢えて借りている(ただし、風貌は陽希とは対蹠的で純粋な容姿としては必ずしも上ではない)。「不戦勝の男」といった位置付けのキャラクターだ。

 決して鼻持ちならない嫌な性格とかいう訳でもなく、むしろ誰に対しても鷹揚で寛大な人となりである。

 しかし、それ故に、同性の陽希からは敬意を持たれるものの、本来は異性であるはずの美生子からは密かに反発されるというこれも皮肉な役回りの人物である。

 大河は気付いていないが、性自認が男性の美生子にとって彼は片想いの相手である紗奈を奪った恋敵である。

 しかし、大河にとっての美生子は「同じ中学の同級生で同じ英語塾にも通っていた女の子」「付き合っている彼女の女友達の一人」であり、敵愾心を燃やす程の間柄でも存在でもない。

 それが美生子の劣等感や不全感を掻き立てる。

 陽希は大河に劣等感は覚えはしても自分に飽くまで鷹揚に接する彼に根本的な敵意を燃やすには至らないが、これは美生子と彼の間には恋愛の生じる可能性がない、恋する美生子を奪われる危険性がないためである。

 紗奈と大河のカップルはハロウィンパーティの仮装通り、「もののけ姫」のサンとアシタカにヒントを得た。

 ジブリ作品に登場するカップルの中でもこの二人は髪型も風貌も似たり寄ったりで性差もあまり感じられず恋人というより双子の姉弟か兄妹に見えた記憶を反映した。

 大河の従妹で勝ち気な少女、果那かなは当初はハロウィンパーティの大河の台詞に名前を出すだけで、美生子とテディの美術館デートの場面でも本来は大河だけ出る予定だった。

 しかし、大河は彼としては美生子とは間接的で希薄な間柄であり(美生子も表面的には彼に敵意を示す態度は取っていない)、ことさら他人に皮肉や当て擦りを言うようなキャラクターでもない。

 そこで上京した美生子の変化を批判的に指摘する役割でこの少女を登場させた。

 かつて陽希に片思いしていた果那はいつも一緒にいる美生子と陽希を恋人同士と誤認しており(作中には他にも同様の誤認をしている人が少なくない)、そこからテディと一緒にいる美生子の変貌を批判する。

 誤解した前提なりにある面では真相を突き付ける役どころである。少女ゆえの未熟さ、それゆえの純粋さ、残酷さを持つキャラクターだ。

 十八歳の大学に入りたての美生子にとっても自分より年少の少女から欺瞞を喝破されるのは痛恨の一撃であった。

 大河との関係についてもう少し述べると、父親同士が兄弟で(フルネームは『宮澤果那』)、大学から上京させた大河の家に対して果那の家はより教育熱心で中学から娘を東京の私学に入れた設定である。

 なお、字面は投稿時は「佳奈」としていたが、雅希のガールフレンド「佳世」や大河と付き合う「紗奈」と紛らわしいので「果那」に変更した(この辺りの脇筋の女性名が似通ってしまったのは作者としても自覚がある)。

 美生子が女性としての装いを辞める決定打になるのは旧知である大河と果那に続いて大学で片想いしていた美咲との遭遇だ。

 この美咲に関しては「横浜のお嬢さん」という設定で描いた。

 筆者は横浜に住んでもう十六年になるが、未だにこの洗練された港街にとって自分はお上りさんというか他所者なのだという感覚が消えない。

 十九歳まで山に囲まれた福島で育った自分は「ハマっ子」ではないし、この街で生まれ育った娘二人とも世代を超えて価値観が異なるように思う。

 美咲には洗練された港街で裕福に育った、飽くまで明るいキャラクターを意識した。

 祖父がアメリカ人のダブルという設定は李香蘭のライバル歌手だった渡辺はま子やファッションモデルのマギーといった横浜出身の女性著名人複数を意識したが、もともと横浜という都市自体が歴史的に欧米化された港街である投影でもある。

 付記すると、筆者は福島の公務員家庭から東京の私大に進学したが、首都圏出身の同期や先輩にはやはりお洒落な人が多く、また、実家も段違いに裕福な人が多かった。

 そうした経験も美咲の造型には反映されている。

 美生子が一時期交際する香港人男性テディ・タム、中国名「譚嘉明タム・ガーミン」はレスリーのライバル歌手だった譚詠麟アラン・タムから姓は拝借した。

 なお、当初の中国名は「譚家明タム・カーミン」だったが、同名の著名監督(レスリーが青年期に主演した『烈火青春』なども手掛けている)がいると判ったので名前の方は「嘉明」に改めた。

 劇中での彼は語らないが、黄色い傘をLINEのアイコンにしていることからして思想的には民主化運動を支持する側であり、だからこそ日本に留学という形で退避しているのかもしれないのである。

 陽希が指摘しているように三十歳にもなる彼が一回りも年の離れた、まだ少女といっても良い美生子と交際して性関係を仄めかす誘い掛けをするのはやや不良外国人的ではある。

 しかし、自分を恋愛の対象として受け入れられない美生子の苦悩を知ると、飽くまで大人として受け止める良識を持った人として出した。

 むろん、実際には香港人にも色々な人がいるだろうし、レスリーのような性的マイノリティに対しては拒絶的な反応を示す人は彼の生前も少なくはなかった。

 だが、筆者としてはレスリーと同郷で彼の死を現地でリアルタイムで観ていたテディというキャラクターを醜悪に描きたくなかった。

(四)終わりに

 十六万字という文庫本にすれば三百ページ程度の分量は書き手としては長いが、ジェンダーや性的マイノリティの問題を書き切るにはあまりにも短過ぎる。

 これが当事者の問題を解決するものであるとは作者としても考えていない。

 それでも、より多くの人にこの作品を読んで、ジェンダーや性的マイノリティの問題を考える一助となれば幸いである。 


*1 こちらに関しては筆者は当初から賛同していなかった。こうした女子スポーツで表彰台中央に立つ生得的男性のアスリートと次点の生得的女性のアスリートたちの体格を比べれば不公正は明らかだからだ。生得的男性アスリートの記録が女子スポーツの公式から抹消されるのは時間の問題であり、率直に言って、生得的女性の枠を奪う形で彼らの出場を認めたことはスポーツ史上の汚点になるだろう。何より、身体男性に奨学金や出場の枠を奪われた女子アスリートたちの競技人生上の損失は取り返しがつかない。

*2 元妻である女性タレントは現役で活動中であり、小さなお子さんもいらっしゃるので当事者のお名前を出すのは本稿では控えます。

*3 トランス男性芸能人の有名どころでは中山咲月なかやまさつきさんという一九九八年生まれのモデル、俳優もいる。ただし、この人は当初は少女雑誌「ピチレモン」の専属モデルとしてデビューし、途中までは身体性別通りの女性として活動した上でのカミングアウトである。芸名(検索しても本名かどうかは不明だが『ピチレモン』時代から『中山咲月』名義で活動している)の「咲月さつき」も一般には女性の名である。俳優としての演技は未見だが、本人のSNSの写真を見る限り、宝塚の男役に近いような「マニッシュな女性モデル」といった印象を個人的には受けた。メディアでの扱いも「イケメンすぎる女子」など宝塚の男役が従来担ってきたイメージに近い消費である。生得的な男性に見えるかと言えば、率直に言って見えない。なお、この人はトランスジェンダーであると同時に無性愛者であることも公表している。

*4 ブランドン・ティーナについては以下のwikipediaを参照した。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A

*5  ダナ・リヴァースことデヴィッド・ウォーフィールドについては以下のwikipediaを参照した。

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Dana_Rivers

*6 日本国内のバレエ教室の男女比は「一対三〇」という試算がある。つまり九割以上は女子の習い事である。

https://www.huffingtonpost.jp/entry/dance-dance-danseur_jp_623e7768e4b090818b3728d9

*7 ただし、陽希は母方の祖父母が同居する家庭で育っており、実母の清海の死後は祖母(本編では名前を出していないがこの祖母の名は『泉』)が主たる養育者となる展開であり、また、実父の洋亮も養育費は払っており死後には遺産まで残すので、母子家庭の子弟としては恵まれた方である。なお、日本の離婚母子家庭の七割は養育費を受け取っていない。

*8 *4のwikipedia参照。

*9 他の舞踊より極端な痩身を強要されるバレリーナに摂食障害が多いのは昔から有名であり、シーラ・ジェフリーズの「美とミソジニー」(二〇〇五年発表、邦訳は二〇二二年刊行)でも指摘されるように女性にのみ着用が強制されるトゥシューズは足を締め付ける実質纏足と変わらないものである。

*10 日本ではサッカー競技人口に占める女子の比率は約三パーセントで圧倒的に男子のスポーツである。https://www.weltfc.com/post/%E3%80%90%E6%BF%80%E7%99%BD%EF%BC%81%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%80%91%E7%BF%92%E3%81%84%E4%BA%8B%E3%81%A7%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%8C%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%92%E9%81%B8%E3%81%B9%E3%81%AA%E3%81%84%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1

*11 「ミチル(みちる)」という名の男性著名人には城みちるさんという筆者が生まれる前の一九七〇年代に活躍した歌手がいるが、この人も検索する限りは中性的なイメージで売っていた人であり、漫画「ちびまる子ちゃん」で彼が出てくるエピソードでもそのように描かれている。本名は「晃太郎こうたろう」と一見して男性的な名であり、「みちる」は明らかにジェンダーレスなイメージで売り出すために付けられた芸名である。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%82%8B

*12 作中の人物では大河の進学先だけ実在の大学名を出しているが、これはいわゆる裕福で育ちの良い「慶應ボーイ」のイメージをこのキャラクターに付与するためである。大河は大学から入ったので幼稚舎から生え抜きのという意味での「慶應ボーイ」には該当しないが、大学の学科試験をクリアした意味で偏差値的な優秀さはより確かである。ちなみに美生子の通う大学は筆者の卒業した早稲田大学をモデルにしている。だが、筆者が在籍したのは二十年も前であり、卒業後に学部の再編やキャンパス自体の増改築もあったようで今の早大の実情には必ずしも見合わないので作中では大学名は伏せた。雅希が進学した「京都の私大」は同志社、立命館辺りを想定している。こちらも必死に受験勉強して入った中で一番良い学校に進学した設定である。なお、作中の舞台となる美生子や陽希の地元は筆者の郷里である福島県福島市をモデルにはしているが、母子家庭への偏見や小学校でのイジメなどネガティヴな描写も多く、また、二〇一一年(作中では美生子と陽希が八歳になる年)の東日本大震災による壊滅的な被害など作中に反映しづらい出来事も起きているため(ちなみに筆者は震災時は既に横浜に住んでいたため実家の家族からの伝聞でしか当時の状況は知らない)、特定の地名を出すのは敢えて避けた(そもそも清海のような性被害者、美生子のような性的マイノリティの生きづらさは特定の地域性に起因するものではないので)。「蓮女」「橘高」「梅苑」といったこの土地の学校名もいずれも架空である。

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