綿矢りさ「パッキパキ北京」を読んで

 増刷即売り切れで話題になった「すばる」二〇二三年六月号に収録された、綿矢りさの新作中編「パッキパキ北京」を読んだ。

 最初に断っておくと、私は同世代(筆者は一九八二年生まれ、綿矢氏は一九八四年の早生まれで一学年違いです)のこの著名作家の良い読者ではない。

 今まできちんと読んだのはデビュー作の「インストール」、最年少の芥川賞受賞が話題になった「蹴りたい背中」、そして芸能界の内幕ものである「夢を与える」の三作のみだ。

 率直に言って、“not for me”というか、読んでいて何かが過剰であったり肝心なところでリアリティが無くなったりする感じがどうにも苦手で敬遠するようになった作家である。

 ただし、芥川賞を同時に受賞した金原ひとみと並んで同世代の女性作家の中では常にメディアから注目されてきた人であり、時代を映す作家ではあるだろうとは評価してきた。

 加えて私は故・張國榮レスリー・チャンのファンで大学院進学して現代中国文学や映画、ドラマの研究までした人間だが、子供たちが生まれたここ十年ばかりはすっかり最新の中華コンテンツからは遠ざかっている。

 Twitterを見ていて「陳情令」や「山河令」といった古装のブロマンス劇、レスリーの「覇王別姫」へのオマージュを込めた「君、花海棠の紅にあらず」(原題:鬓边不是海棠红)といった民国劇が日本でも人気を呼んでいることは知っていたが、いずれも未見である。新しく出て来て活躍している若い俳優さんの名前すら分からなくなった。

 レスリーも生きていれば今年六十七歳。世間的にはもう孫のいるお爺ちゃんの年配である。

 彼と同時期に活躍して私が作品をよく観た梁朝偉トニー・レオン劉徳華アンディ・ラウといった人たちも還暦を迎えた。

 何よりレスリーが四十六歳で自殺した時に二十歳だった自分がもう四十一歳。当時の二倍の年齢だ。

 このままだとどんどん時代からも世間からも置いてかれる。

 漠然とそんな危機感すら覚えて近所の書店で一冊だけ残った「すばる」を見つけて買ってきたのである。

 私はどちらかというと中国本土では戦前は租界で洗練された都市文化が花開いた上海に興味があり、そちらには二度ほど訪れたが、首都の北京には大学時代の二〇〇四年にゼミの発表会で一度訪れたきりだ。書いていて自分でも驚いたが、もう二十年近くも前の話である。

 当時の北京について覚えていることと言うと、とにかく道路の幅が広かったことと、万里の長城を歩きながら果てしない行軍のように感じたこと、そして故宮を訪れてどこも自分と同じような外国人観光客ばかりだったのに思いがけず誰もいないひっそりとした部屋に足を踏み入れたことくらいだ。

 「パッキパキ北京」には二度の五輪と三年にも渡るコロナ禍を経た、自分の知らない今の大陸の帝都の姿が描かれている。

 期待を抱いてページをめくった。

 以下の記述では、混乱を防ぐため「パッキパキ北京」本文からの直接引用及びアルファベット表記はダブルコーテーション(“”)で示し、それ以外は必要に応じてカギ括弧(「」)等を使用する。中国語に関しては基本的に簡体字ではなく日本漢字表記である。

 コロナ禍の北京の都市風景は確かに鮮やかに描出されており、中国の色彩の多様性や芸能人の年配による雰囲気の変化への分析は興味深い。

 厳寒の冬に対応して薄い衣服にも日本より密度の高い裏起毛が施されている。

 日本で買ったロエベのような外国の高級ブランドのコートよりも北京現地で買った安物のダウンコートの方がよほど暖かく有用である。

 また雑誌が書店になくコンビニエンスストアかキオスクでなければ入手できない(つまり雑誌という足の早い書物はかの地においては他の書籍とは一線を引いた商品として流通している)。

 春節期間の北京の気温は平均して氷点下で外でアイスをかじると知覚過敏が発動して両耳まで痛くなり、また、呼吸のせいでマスクの内側に溜まった結露がすぐ冷たくなって氷になりそうになる。

 こうした現実は実際に現地に足を運ばなければなかなか見えづらい、体感しづらいものではないだろうか。

 恐らくはこれから北京を旅行しようと考えている読者によるガイドブック的な消費も意識してヒロインの目を通して有名どころのスポットを活写し(北京を歴史的に国都たらしめた故宮にだけは興味が湧かず行っていないが丸暗記したガイドブックの文章をヒロインが口にするという皮肉な描写も含む)、外資系ブランドが集まった巨大ショッピングビルSKPなどのショッピング情報ばかりでなくグルメ情報もふんだんに盛り込まれている。

 北京ダックといった定番の料理はもちろん“洒落たレストランで突如出てくる雲南省の鯉一匹丸ごとぶつ切りで入った火鍋”“ウズラの尾頭付き”“高級北京料理店で食べたアヒルの脳”といった文字にしただけでもかなり強烈なメニューで「一度は食べてみたいかな」と怖いもの見たさも混ざった興味を引かれる。

 加えて、何も知らずに渡航した日本人のヒロインがネットショッピングサイトの淘宝網タオバオと美容情報アプリ小紅書シャオホンシューを活用して現地での消費生活を楽しむ展開もいかにも現代的である。

 この作者はデビュー作の「インストール」でネットチャットをテーマにしており、内幕ものの「夢を与える」でも人気俳優のヒロインが性行為動画のインターネット流出で転落する等、元からインターネットへの関心が強いのでそれが本作でも活かされた印象だ。

 また、著名建築家のザハ・ハディットにより建てられ二〇一四年に開業した超高層ビルであり、恐らくは北京の都市風景の新たなシンボルとなった望京ワンジンSOHOをいわゆるオナニーグッズであるTENGAに喩えるくだりがある。

 これは一九九七年に女性作家の衛慧ウェイフイが発表してセンセーションを引き起こした「上海ベイビー」(原題:上海宝貝)でやはり改革開放後の上海の新たな象徴となった東方明珠タワーを男性器に見立てる記述を連想させた。

 というより、九〇年代に都会的な洗練と危険さを併せ持つ「魔都」として再生した上海を舞台にした先行作品から換骨した表現かと思われる。

 なお、衛慧は一九七三年生まれ、中国の名門、復旦大学を卒業。やはり現代上海を舞台にして話題になった「上海キャンディ」*1の作者の棉棉ミェンミェン、シンガポールを舞台に本土出身の女子留学生の転落と怨念を描いた「ドラゴン・ガール」*2を発表した九丹ジウ・ダンらと並び才色兼備の「美女作家」として九十年代後半のメディアで持て囃された一人である。

 この九十年代後半の中国本土の「美女作家」ブームは二〇〇三年の芥川賞の同時受賞で注目された綿矢りさと金原ひとみを連想させる。

 時系列としては一九九〇年代後半の改革開放で豊かになった中国が先に七〇年代生まれの大学を出て間もないような年若い女性作家を流行させた。

 その後、二〇〇〇年代初頭に入って日本がより若い八〇年代生まれ、大学入りたての年頃の女性作家を持て囃したのである。

 衛慧の「上海ベイビー」も綿矢りさの「蹴りたい背中」も金原ひとみの「蛇にピアス」もそれぞれベストセラーになった。

 ただし、作家を女性としての若さ美しさと結び付けて宣伝するメディア産業のコマーシャリズムには当然反発も起きる。

 中国の「美女作家」たちは「純粋な作品や文学性ではなく本人の若い女性としての容色や目先の過激さが売りの破廉恥な表現者」と攻撃された。*3

 綿矢りさや金原ひとみ、前後して文壇に出てきた島本理生も当時流行していた女性アイドルグループとだぶらせて「文壇モーニング娘」と一部から冷笑された。

 そんな顛末も似ている。

 なお、衛慧は自分より年少の日本人女性作家たちの存在を知っていて好意を抱いているようで、金原ひとみの作品の翻訳書が出版された際に自分が推薦文を書いたと語っている記事を読んだことがある。

 二〇二三年の「パッキパキ北京」は地名を入れたタイトルからしても四半世紀前に日本でもセンセーションを起こした「上海ベイビー」の向こうを張った印象も受ける。

 現地の中国人女性作家がきらびやかな「魔都」として再生した二十世紀末の上海を活写した「上海ベイビー」。

 これに対し、「パッキパキ北京」は二十一世紀に入って名実共に中国というかアジアに君臨する「帝都」に返り咲いた北京を飽くまで異邦人である日本人の目で混沌を含めて描出している。

 街を見下ろす巨大なベンツのマークを“鈍重な風見鶏”とドイツのベンツに代表される外資系企業が進出先の風向き次第で方針を変える国際ビジネスの酷薄さの象徴としてまず示す。

 その上で、その巨大なマークが現地のベンツ所有者の自己肯定感を高揚させているであろう効果も察する。

 これは異邦人、覇権国家に成長した中国に対して低迷する日本から来た人間だからこそ持てる視点ではないだろうか。

 なお、「パッキパキ」とは冬の北京で池がスケート場として利用されるほど厚く氷の張った様子を形容した擬態語であり、それを地名の「北京ペキン」と音の上で掛け合わせたタイトルである。

 ちなみに「北京」は本来の標準中国語では“Beijing”、カタカナにすれば「ベイチン」と読む。

 日本で一般的な「ペキン」は英語読みの“Peking”に準拠したものだ。これも元は広東語読みの「パッキン」など中国南方の方言に由来するようだが、かの地を「ペキン」と呼ぶのは取りも直さず目線が日本人である証左である。

 それはそれとして、「パッキパキ北京」を読んで全体としてはどうにも読んでいて違和感というか、はっきり言って不快感がどうにも拭えなかった。

 最大の原因は本編のヒロインで物語の視点となる菖蒲あやめ*4の造型にある。

 彼女は三十六歳。二〇二二年秋から二〇二三年春までの物語であることからして恐らく一九八六、七年の生まれであり、作者の綿矢りさ自身より二、三歳下に設定されている。

 元は銀座のクラブホステスで恐らくは客として二十歳年長の離婚歴のある駐在員と知り合い、後妻になったようである。

 綿矢りさ本人はよく知られているように高校生で作家デビューして私大の雄である早稲田大学に進学し、基本的に文筆業を継続してきた。

 「パッキパキ北京」のヒロインは作者の綿矢りさ本人との同一視、そこから来る攻撃を避けるための予防線として敢えて年齢も若干下、経歴的にも全く異なる設定にされた印象を受ける。

 これは「上海ベイビー」でヒロインのココが年齢も経歴も作者の衛慧本人とほぼ一致しており、「ヒロイン=作者自身」と読者に思わせる書き方をしていたのと実に対照的である。

 もっと踏み込んで言えば、「上海ベイビー」で作家のココが自分の書く小説中のヒロインを「実際の自分より賢く強い」という理由で愛着するのに対して、「パッキパキ北京」の菖蒲は高学歴で小説家という知的職業を早くから営んできた作者から明らかに格下、下層の人間として蔑視されている。

 菖蒲はそもそも結婚当初から夫が駐在している中国に興味もなく中国語も話せないばかりか、夫の語る魯迅も「阿Q正伝」も知らないような無知無教養な女性である*5。

 しかし、魯迅の短編「故郷」は中学国語の教科書に掲載されており、菖蒲より五歳年長の私は中学国語で「故郷」、高校現代文でやはり魯迅作の「藤野先生」を読んだ記憶がある。

 一学年下の綿矢さんも恐らく一緒だろう。

 ネットで検索したところ、一九七五年版から中学国語教科書を刊行する全会社で「故郷」を採用しているという。

 つまり、一九八六−七年生まれの菖蒲は本来は義務教育で学んだはずの知識すらないということになる。

 これは「十七歳からピルを飲んで恐らくは男性と日常的に性関係を持ち、元は水商売をしていた、教育に恵まれない女性だから無知無教養、低偏差値」という造型なのだろう。

 しかし、「銀座のクラブホステス」といえば現代の花魁というか、正に同種の夜職女性の中でも最上位クラスの代名詞である。

 「銀座のホステスは七紙読む」という言葉は真偽はさておき彼女らが常に社会経済を学んで客である財界人や名士たちと話せるだけの知識と教養を身に着けていることから生まれたものだ。

 資料としては古いかもしれないが、一九八四年の「夜の底に生きる」は銀座のクラブのママだった作者の山口洋子が実際に目にした同業者たちの姿を描いた回想録というか実録小説である。

 その中に赤坂から銀座に進出したクラブのママが元から銀座にいる同業者たちから「格下の土地から来た新参者」と端から見下され、自分の店にいるホステスからも「ママはお客の前では知ったかぶりしているけれど、こんなことも知らない」と裏では無教養を見透かされて冷笑されるエピソードがあったのを記憶している。

 これは銀座のホステスやママとして働く女性たちが赤坂のような他の高級とされる地域の同業者を大きく引き離す教養や才覚を誇っていた事実を良く示している。

 今は昭和の「夜の底に生きる」から四十年経った令和の時代だが、それでも教科書に載っている文豪の名も知らない無教養な女性の過去として「銀座のクラブホステスだった」という設定は果たして妥当なのだろうか。

 なお、魯迅も知らない菖蒲の専らの関心事はファッションでシャネルなどハイブランドの服飾品を買って身に着け、他人の目にそうした自分を見せることを好むというより自我を保つ手段にしている。

 愛犬には“ペイペイ”と電子マネーの名を付けている皮肉な描写もある(作中では当初はこの犬の名は『ペペ』だったが、電子マネーの『PayPay』を使うようになってから『ペイペイ』と呼ぶようになってしまったと説明されている)。

 これは「ハイブランド好きの虚栄心の強い拝金主義の女」「俗悪で欲深な娼婦」という水商売女性に対して彼女たちを消費する立場の男性たちが伝統的に与えてきたミソジニックなステレオタイプそのものの人格だろう。

 また、好みのブランドがシャネルというハイブランドには全く縁のない私にすらパッと思いつくブランド名なのが何ともベタ過ぎて却って嘘くさく見えてしまう。

 菖蒲の思考や行動は「水商売の女なんかこんなもんだろ」とバカにし切っている人たちの中にある矮小な女性像そのものである。

 ちなみに作中にはヒロインが銀座で働いていた頃の後輩で“美杏ミア”という妹分的な友人も登場し、ラストはヒロインと日本にいる彼女とのやり取りである。

 アイデンティティは明示されないがどことなく中国的な字面の名(ちなみに中国語読みすると『メイシン【meixing】』)を持つこのキャラクターも三十路(三十六歳の菖蒲より五歳下と説明されているので三十一歳)を過ぎて恐らくは金もなさそうなろくでもない男と付き合っては捨てられる、言動は菖蒲よりもっと無知で教養もなさそうな描写をされている。

 率直に言って美杏のキャラクターは昭和コンテンツの「場末のバーやスナックのオネエチャン」といった、同じ水商売の中でもランクの低い女性のそれにこそ相応しい雰囲気だ。

 作者は果たして銀座のクラブホステス経験者たちの実態を把握した上で菖蒲や美杏を描いたのだろうか。

 夜職経験のない私が読んですら嘘っぽさしか感じない。

 これは銀座のクラブホステスはもちろん水商売経験者の女性全体への偏見と蔑視に基づく造型ではないのか。

 恐らくは敢えてそうしたのだろうが、いわゆるキラキラネーム的な“美杏ミア”に対して“菖蒲あやめ”は字面も響きもむしろ異質に古風な名前であり*6、その一方でヒロインの肉親はどのような人たちなのか具体的には明らかにされていない点も気に懸かった(渡航前に飼い犬のペイペイを実家に預けることも思案していたとの独白からしてヒロインには一応は連絡を取る実家の家族がいる)。

 なお、後述するように美脚が自慢の菖蒲に対して美杏は“小岩が二つくっついているような巨乳”の持ち主と描写されている。

 これも「胸の大きな女は頭が悪い」というマリリン・モンローの時代から連綿と続く偏見を踏襲した印象を受ける(作中では念の入ったことに美杏の胸が豊胸手術などを経たものではなく飽くまで生まれつきの体質の結果であることも記されている)。

 付記すると、文中では無知無教養な設定である菖蒲の語りを通して、日本と中国の両方にアイデンティティを持つという意味で“ハーフ”という今は差別用語として避けられる表現が使われている。

 その後の記述でも現地で大量普及している電動自転車について“スクーターと自転車のハーフ”と表現している。

 これもやはり作中人物の無知をエクスキューズにせず「ダブル」等の表現にすべきだろう。

 もっとはっきり言えば、差別的な表現を改めずに使い続ける方便として視点となる人物を無知な設定にすべきではない。

 細かい点になるが、ヒロインの菖蒲はこと中国に関して無知ではあるが、海外旅行が好きで他の国には多数訪れており、過去に訪れた外国に言及する記述も作中には出て来る。

 以下、抜粋する。

“春節が迫ってくると、北京の街全体にじわじわと赤が増えて染み出す。今日のスーパーでは発光してるんじゃないかと思うほど鮮やかな赤のソックスを買ってる人がいて心が躍った。Buon Anno! 新年のイタリアに行ったときも年跨ぎは赤い下着を着てって感じで、街のランジェリーショップのショーウィンドウには男女の赤い下着が飾られてたけど、もっと上品で情熱的な色合いの赤だった。中国は、めでたい! 縁起! って感じ全開の赤で、けばけばしくはあるけど人間の奥に眠ってるニンニクの香るハッスルを呼び覚ます作用がある。”

 “イタリア”と国名でのみ書かれているが、ヒロインは具体的にはイタリアのどこを訪れたのであろうか。

 都市名の“北京”に対して国名の“イタリア”では比較上、明らかに不均衡である。

 中国に北京や青島(作中ではこちらに滞在する場面も出て来る)、上海、天津、大連、西安、広州といったそれぞれの個性を持つ都市があるようにイタリアにもローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ナポリといった個々の趣を備えた都市がある。

 日本だって東京と大阪、札幌と那覇では「日本」の括りではあっても全く雰囲気は異なるだろう。

 ヒロインが実際にイタリアのどこかを訪れたのならば、「ローマ」とか「フィレンツェ」とか具体的な地域名を挙げる方が“北京”と比較する上で自然だし、世界各国を訪れているのならばそれこそ「ローマではこうだったけどミラノではああだった」という風に同じ国の中でももっと具体的に細分化した記憶になるのではないだろうか。

 繰り返すように細かい点ではあるが、こうした処理の雑さで結果的にヒロインの人物像や物語全体の奥行を平板にしているのが残念であった。

 人物造型の不自然さやミソジニーについては富裕層の女性たちとして登場するキャラクターやヒロインとの関係性も同様である。

 まず、冒頭のペニンシュラ東京*7での富裕な女友達“由紀乃”“瑞穂”二人とのやり取り。

 子無しとはいえ三十六歳にもなる菖蒲は自分だけミニスカートを履いた出で立ちで現れ、感心しない様子の他の二人に対して

「自分は容姿が良いから何歳になってもミニスカートが似合う」

という趣旨を告げて挑発する。

 作者としては「金持ちマダム同士の鞘当て」「女の敵は女」という意図で描いているようだが、

「何、このヒロイン。こんな痛い人がどこにいるの?」

「相手の二人もよく付き合ってくれるな」

と一読して感じた。

 露骨に挑発的なヒロインと明らかに彼女を好意的に見ていない様子の他の二人が何故付き合いを続けているのか(由紀乃はヒロインの北京移住後もわざわざメールで連絡を寄越す)、全くリアリティがない。

 そもそもこの三人は“昔同じジムに通っていた”と文中で説明されているが、「子供同士が学校の同級生で嫌でも顔を合わせざるを得ない」等の事情でもない限り互いに不快感や反発を覚えている相手とは極力付き合わない、関わらないのが普通である。そこに性別は関係ない。

 少なくとも私は顔を合わせればこちらの容姿や加齢を侮辱したり挑発したりしてくる人と定期的に会って食事をする関係など続けたくない。

 少しばかり高級な店でも嫌い合っている相手と顔を突き合わせて取る食事ほど不味まずいものはないからだ。何の罰ゲームかと思う。

 顔を合わせるたびに不愉快で外国に去ってくれて内心喜ばしいと感じる相手に渡航後にわざわざメールを送ったりもしない。何でそんな相手と自分から繋がりを持たなくてはならないのか。

 大体、五つ星ホテルでランチを楽しむような上流層の女性たちならば、TPOを無視した出で立ちで現れるヒロインのような、平たく言って非常識な相手とはその時点で関わりを避けるのではないだろうか(話を戻すようだが、銀座のクラブホステスでいわば接客のプロだったはずの菖蒲がそんなにもTPOの分からない装いで高級ホテルのレストランに現れる行動も不自然である)。

 この冒頭のランチのシーンは「女同士の付き合いなんてこんなもんでしょ」という作者からの冷笑やミソジニーめいた目線の浮かび上がる場面だが、こちらは読んでいてひたすら作者が頭の中で捏ね上げた噓臭さしか感じられなかった。

 三人が何故付き合い続けているのか一番理解していないのは作者だろう。

 次に、現地で知り合って交流してきた大学院生カップルの男性にヒロインが遊び半分でちょっかいを出して女性側の怒る反応を楽しむくだりがある。

 このエピソードは率直に言ってヒロインのいじましさを印象付けるものであった。

 現地で知り合った年少の相手を故意に弄ぶ行動からそこはかとなく漂う中国人蔑視に読んでいて不愉快にさせられた。

 そもそもヒロインはれっきとした既婚者なので若い中国人男性を誘惑するのは明らかな不倫でもあり、現地で苦闘する夫への侮辱でもある。

 あるいはそういう行動をさせることでヒロインに「奔放な魔性の女」「魅惑的な悪女」といったイメージを作者は付与したいのかもしれない。

 だが、中国語も良く話せない日本人のヒロインに付き添ってあちこちに同行してくれた年若い同性を嘲弄して悦に入る様子がいかにも「異国の若い男性を狙うゲスでさもしい男好きの中年女」といった矮小な印象で、ヒロインのイメージを損なうことはあっても向上させることはない。

 相手の女子大学院生が罵るように正に“イタいオバサン”である。

“おあとがよろしいようで。”という落語めかした語りでこのエピソードは締め括られているが、

「面白いつもりで書いてるの、これ?」

と読んでいるこちらは苦々しくなった。

 話はまた変わって、先ほど「パッキパキ北京」で中国の芸能人の年配による雰囲気の変化への分析は興味深いと書いた。

 だが、言及されているのは若い女性芸能人、若い男性芸能人、中高年以降の男性芸能人であり、中高年以降の女性芸能人についてはまるで存在しないかのようにスルーされている点に不満と違和感を覚えた。

 例えば日本でも知名度の高い俳優の鞏俐コン・リーは今年五十八歳、章子怡チャン・ツィイーも今年四十五歳だからいずれも実年齢としては中高年である。

 彼女らのような中高年以降の女性芸能人の風貌についての言及がなされないのはいかにも不自然だ。

 菖蒲自身も三十六歳のいわば中年女性なのだから同世代以上の同性を意識する方が物語としても自然だろう。

「このヒロインは若い女と張り合って男を取り合うことしか基本的に興味がないから中高年以上の女性芸能人は視野に入らない」というエクスキューズの下に中高年以降の女性芸能人を無視、透明化するのはエイジズムによる蔑視ではないだろうか。

 これ以外にも菖蒲の思考や言動は三十六歳の女性として読んでいて違和感を覚える描写が多い。

 高齢出産は三十五歳からなので彼女は妊娠出産を考える上ではもうタイムリミットに近付いている。

 しかも、夫は五十六歳である。

 彼から子供が欲しいと告げられて拒否するものの

“身重にならず、身軽なまんまでいたい”

“私は気まぐれだから。いつか産むかもしれない”

と考えるのはこの年配の女性としてはあまりにも幼過ぎるというか全くリアルでない。

 歌手の倖田來未が「(高齢出産の基準年齢である)三十五歳を過ぎると羊水が腐る」と発言して物議を醸したのは二〇〇八年。菖蒲が二十一、二歳の年である。

 むろん医学的には全くの誤りで倖田來未はほどなくメディアに向けて陳謝したが、これは当時二十五歳(倖田來未は一九八二年生まれ。綿矢りさの一学年上、ほぼ同世代である)、まだ若かった彼女が適齢期を過ぎての妊娠出産を否定的に見る、もっとはっきり言えば高齢の妊産婦を蔑視する環境にいた証左である。

 仮にこの事件を知らなくても*8、水商売で常に他の女性との競争を強いられる環境にあったのならば、菖蒲は自分の女性としての老化にはむしろもっと過敏なはずである。

 小紅書で知ったコンシーラーで目尻の皺を効果的に隠す方法を試しているくらいなのに何故妊娠出産に対してだけはそんなに自分の老化に鈍感なのであろうか。

 そもそも作者は本人が三十六歳の時には妊娠出産をどのように捉えていたのだろうか。

「私は違うけど水商売やってた女なんてどうせ自分がいつまでも若いと思ってる、先の見えないバカでしょ」

と考えて作中人物にこんな思考をさせているのならばそうした経歴を持つ女性をあまりにも見くびっている。

 現に子供時代から芸能活動をして一般に高い教育を受けたとは言えないであろう倖田來未も高齢出産に危惧を抱いていた。

 銀座のクラブホステスから駐在員の後妻に収まるようなやり手の女性がそこまで無知蒙昧な訳がない。

 他人をコケにするのもいい加減にしろと言いたい。

 付記すると、五十六歳で離婚した前妻との間に既に一男一女いるはずの夫が何故ヒロインと新たに子供を儲けようと強く望むのか腑に落ちなかった。

 むしろ、その状況ならば

「今、子供が生まれても成人するまでに自分は生きられるか」

「前妻の子たちとの財産分与はどうするか」

と懸念して後妻との子供を持つ行動には慎重になる方が自然だろう。

 若い後妻が働かずにペニンシュラのような最高級ホテルで食事したりロエベのコートのようなハイブランドを買ったりしている生活が出来るレベルの資産家なら、そうした将来も想定するはずだ。

 夫についてもう少し言及すると、このキャラクターの造型にも最初から強い違和感を覚えた。

 ヒロインより二十歳上の夫は逆算して一九六六−七年生まれ、いわゆるバブル世代に該当する年配だ。

 著名人で言うと、織田裕二、江口洋介と同世代である(この二人はいずれも一九六七年生まれ)。

 以下、作中での夫の台詞を一部抜粋する。

“あのチワワを見ていると、僕は濡れて狂暴化したグレムリンを思い出すんだ”

“少々喉が痛くてね”

“最終的に日本へ戻すとしても、彼の中国での奮闘を見てきてる私に葛藤が生まれるのは当たり前のことだろ”

“君に相談した私が馬鹿だった”

“ほう。それは魯迅が『阿Q正伝』で書いた、精神勝利法だな。どうやら君は阿Q精神勝利法を自然に体得しているらしい。日本人の女性にしては、めずらしいメンタリティだ。君は魯迅を読んだことはあるか?”

“もし北京在住を継続してくれたら、君が前から欲しがっていたシャネルのクラシックハンドバッグを購入してもいい。我が社の駐在員の大半にとっては妻子帯同は当然のことだから、周りからは甘やかしすぎだと言われるかもしれないが、私と君との関係性は他に理解されなくてもいい。他の人がどう見るかは分からないが、君がある意味でクレバーなのを私は気づいている”

“もし君が妊活もしない、北京にも残らないというのなら、残念ながら僕に考えがある。お互いの人生をこれ以上無駄にしないよう対策を取るつもりだ。とりあえず手始めに僕たちの東京のマンションは手放す予定だ。僕はまだまだ、日本には帰れそうにないから”

 織田裕二や江口洋介が現代ドラマやあるいは役を離れた本人としてのインタビューでこんな口調で話すだろうか(一般のバブル世代男性でもこんな妙な話し方の人にはお目にかかったことがない)。

 仮に「取り澄ました鼻持ちならないエリート」という設定でももう少し違った言い回しになるのではないだろうか。

 そもそもこの抜粋部分だけでも話し言葉として堅過ぎたり説明的過ぎたりして違和感を覚える表現が目に付く。

 抜粋した台詞は全て妻であるヒロインに向けたものだが、“僕”“私”と一人称がちょくちょく変わるのもおかしい。

 大体、義務教育レベルの知識も怪しい妻に向かって話すのに“体得”“帯同”といった堅い表現を噛み砕かずにそのまま使うのも一応は三年以上も夫婦として過ごしている相手とのコミュニケーションとして不自然である(あるいはそれがこの夫婦の齟齬の表現なのかもしれないが)。

 作者はこの夫を恐らく「駐在員として長らく海外生活を続けている知的でプライドの高いエリート」として描いているのだろうが、正直、彼が登場する度に「いちいち勿体付けた変な口調でしゃべる人」「またアレクサみたいな説明男が出てきた」という印象を受けた。

 ヒロインと夫のやり取りを見ていてまず感じるのは

「こんなにも相容れないのに何故この二人は結婚したのか、今も婚姻継続しているのか」

という疑問だ。

 この夫婦は夫側には現実的なメリットよりデメリットの方がはるかに大きい結婚のはずだ。

 これまでも繰り返し書いたようにヒロインは客観的には水商売上がりで教養レベルは平均未満、ブランド狂い、浪費癖のある女性である。

 既に離婚歴があり二十も年上とはいえエリート駐在員にとって本来は結婚に相応しい相手ではない。

 というより、夫にもし親族がいればまず

「そんな女はろくでもない。やめろ」

「どうせ金目当てに擦り寄ってきただけだ」

と猛反対されるだろう。

 実際、コロナ禍の中国で適応障害に陥った彼がヒロインに渡航を求めた時も彼女の感慨は

“夫がSOSを出してるときに駆けつけなければ、私は離婚されてしまうかもしれない。離婚はまずい、食いぶちがなくなる。”

と金目当て丸出しである。

 渡航後も彼の苦衷に寄り添うわけでもなくむしろ彼の制止に背いてコロナ禍の街を遊び歩いて若い男と浮気までしようとする。絵に描いたような悪妻である。

 加えてヒロインが日本から連れてきた愛犬は元から夫にとっては苦手で避けたい存在であった。

 一連の描写を見る限り、この二人は知的レベルも趣味も嗜好も全く一致しない。妻にとって夫は金蔓であり、夫も年若い後妻をそこまで熱愛しているようには見えない。そもそも読んでいてこの夫のようなプライドの高いエリートはヒロインのような無知で俗悪な女性を嫌いこそすれ好むことはないようにも思える。子供が欲しいから若い女性と再婚したにせよ、夫が選べる中にヒロインよりもっと条件の良い人は当たり前にいるのではないだろうか。何故二人が結婚に至ったのか全くの不思議である。

 それでも夫婦でコロナ発症した時にはヒロインは熱に苦しむ夫を懸命に看病し、回復後の彼が電話で話す姿を目にして思う。

“相手は仕事先の人だったみたいで、急に口調がしっかりして、てきぱきと部下に指示する夫を見ていると、ふと思った。いつか彼がこんな風にできなくなるのを見る日が来るんだろうな。そのときは、私が支えてやる。それが夫婦ってもんだ。できなくなってからが、本番だ。”

 この独白の限りではヒロインは夫に愛情を持っているように思える。あるいは病を共に乗り越えたことで遅まきながら情が芽生えたのだろうか。

 だが、子供が欲しいと告げた夫を彼女が拒否すると、彼は離婚をほのめかす。

 ラストは菖蒲が日本にいる妹分の美杏とスマートフォンでテレビ電話する場面だ。

 彼女は日本への帰国の意思を美杏に伝えたうえで「男紹介して」と頼む。

 もはや夫は菖蒲の中で別れる前提の存在であり、より都合の良い男性を新たに探すことにしたのである。一時でも彼を支えようとした情はあっけなく消えたようだ。

 この夫婦にとって結婚とは、配偶者とは何なのか。何とも寒々しい顛末である。

 しかし、妹分と対話するヒロインの中には虚しさも芽生え始めたようで、一度も魯迅の小説には目を通さないまま、夫の口を通して聞いた阿Qの精神勝利法に思いを馳せる。

 以下は菖蒲が美杏に最後に告げる台詞の抜粋である。

“決めた、私のこれからの人生目標”

“シャネルが無くても完全勝利できる女になる”

“つまりさぁ、男も高級バッグも経歴も魅力も持ってないのに勝ってるのが、勝ってると思い込んでる女が、一番強いんだよ。シャネルも持たないで女も磨かずに、この私のままで、永久に世界に完全勝利するの”

“精神勝利法を極めるの。こんな難しいことできる人、他にいる?”

 これに対して日本にいる妹分は笑って告げる。

“お姉ちゃん、アタマ大丈夫?”

 そこでこの作品は終わっている。

 ヒロインがずっと男性を金蔓、寄生先にしてブランド物を買い漁ることに血道を上げてきた自分の俗悪な生活に虚しさを覚えて決別しようとしているラストと取れるし、そう読まれることを作者も多分期待している気がする。

 しかし、それまでの徹頭徹尾浅はかで俗悪な彼女の姿を見せられ続けたこちらとしては

「どうせまた日本に帰れば、新たに金蔓になりそうな男性に近付いてシャネルだのブルガリだの買って他人に見せびらかそうとするんでしょ」

と白けた感慨を覚えた。

 あるいは妹分が尋ねた通り、菖蒲は本当に心が折れて精神に異常を来してしまったのかもしれない。

 だとすれば、なおさらこの結末の後に続く彼女の未来を希望あるものとは捉えられない。

 美杏の最後の問い掛けはやはり魯迅の代表作品の一つである「狂人日記」を連想させる。

 この作品は周囲から狂人と見做された主人公の日記という体裁を取っており、

「子供を救え」

という社会の腐敗から次世代を救済しようとする叫びで終わっている。

“産まないのも親心。”

と子供を持った後の将来を悲観して産むことを拒否する菖蒲も子孫繁栄を至上とする中国はもちろん日本を含む東アジアの伝統的な家族観からすれば一種の狂人(それとも母性という社会がこぞって求める正しい心を持たない『狂女』と呼ぶべきか)であり、だからこそ夫からの離婚という社会的な制裁をされたとも言える。

 そもそも夫の話では敢えて伏せられているが、精神勝利法で自分の本当の問題から逃避し続けた阿Qに待ち受けていたのは本人にも理解できない罪を着せられての刑死、社会からの抹殺である。

 夫の話でしか「阿Q正伝」を知らない菖蒲は末尾の場面でもこの真相を知らない。物語の最後に至っても彼女は作者から依然として無知の中に置き去りにされているのだ。

 何とも釈然としない結末であった。

 欲深なヒロインが目も眩むような消費生活の果てに自業自得の孤独と虚無に陥る話なのかもしれないが、こんなひたすら利己的で前時代的な虚栄心の強い蒙昧なヒロイン像を通して日本人女性そのものを貶めて外国におもねる感じは評価できない。

「風景や風俗の描写、ちょっと見の事象の観察は巧いけれど、いざ人物を掘り下げて書く段になると急におかしくなる作家」というこれまでこの作者に抱いていた印象を再確認した感じは拭えない。

 中国という巨大な隣人の「今」を切り取った力作ではあるが、そこに身を置く日本人女性を描く上ではもっと別な切り口が求められているように思う。


*1 原題は「糖」で単に「キャンディ」の意味である。邦訳に当たってヒットした先行作品の「上海ベイビー」と敢えてだぶらせるように「上海」と舞台の地名を入れたと推察される。

*2 原題は「烏鴉」。これは本来「カラス」の意味だが、シンガポールでは本土出身の娼婦を指す隠語でもある。

*3  ただし、「美女作家」の中には前掲の九丹のように本人も一種の炎上商法的なパフォーマンスなのか、文壇で既に地位を築いた年長の女性作家や他の「美女作家」と目された作家に侮辱や挑発を繰り返す人もいた。棉棉も自作の「上海キャンディ」が衛慧の「上海ベイビー」の模倣扱いされたことに怒りを表明し、両者は決裂した。

*4 花の名であり「しょうぶ」(音として『勝負』に通じる)とも読める。ちなみに菖蒲の花は中国語でも同じく「菖蒲」と書き、読みは「チャンプー(changpu)」。

*5 夫の言う映画「グレムリン」のキャラクターも知らなければ、カンヌ映画祭でグランプリを獲って世界的に注目されたレスリー主演の傑作映画「覇王別姫」も知らず、夫の口にした「ハオーベッキ」というタイトルを珍妙な音声の羅列として聞き流している。イタリアの巨匠ベルトリッチ監督による大作「ラストエンペラー」(一九八七年公開。先日亡くなった坂本龍一が音楽を担当してアカデミー作曲賞を受賞し、また、甘粕正彦役で出演していることでも知られる)もガイドブックの故宮の紹介文に載っていた文句として観たように語っただけで、実際には故宮に一度も足を運んでいないように恐らく映画も観たことはない。ただし、一九八四年の「グレムリン」及び一九九〇年の続編「グレムリン2」は日本でもヒットして繰り返し地上波でも放送しており、作中キャラクターのぬいぐるみも多数販売された。一九八六-七年生まれの菖蒲が知らないのはむしろ不自然である。一九九三年の「覇王別姫」も日本では熱狂的なファンの多い作品でリバイバル上映やセル再販を繰り返している。何より主演のレスリーが日本でも知名度の高いスターだったのだから、二〇〇三年の彼の死亡時に高校生だったはずのヒロインがこの作品を知らない描写はやはり違和感を覚えた。作者は菖蒲を必要以上に無知な設定にしている。

*6 俳優の剛力彩芽ごうりきあやめ(一九九二年生まれ。作中ヒロインより一世代下)も姓名共に特異な印象で一般には認識されている。また、彼女の場合、読みは「あやめ」でも「彩芽」、「色彩鮮やかな芽」といった明朗な印象を与える字面である。

*7 ペニンシュラ香港はバブル期にも人気作家の森瑤子が「淺水湾リパルスベイの月」など作品の舞台に繰り返し選んだ香港を代表する高級ホテルである。ペニンシュラ東京は二〇〇七年に開業されたその姉妹店であり、この舞台が既に日本の首都の一角を浸食する小さな中華圏というか租界、植民地じみた印象を与える。

*8  作中で精神勝利法のイメージでお笑い芸人の宮迫博之を思い浮かべていることからして菖蒲は日本の芸能人については決して無知でない(なお、筆者は宮迫博之氏の名前は著名なタレントの一人として知ってはいても彼の出演番組での言動の詳細までは知りませんでした)。倖田來未に関しては正に青春期に流行った歌手のはずであり、羊水発言を含めて知らない方が不自然である。

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