だまし絵の魅惑――エッシャーとアルチンボルド
ヨーロッパの古城や回廊の忠実なスケッチかと思わせて、仔細に眺めると柱の遠近や階段の上下の狂った灰色の絵。
あるいは、色鮮やかな野菜や果物、花を組み合わせて人体を模した肖像画。
エッシャーやアルチンボルドの名は知らなくても、多くの人が一度は彼らの作品を目にしたことがあるのではないだろうか。
先日、渋谷のBunkamuraで開催された「進化するだまし絵」でも、一九八四年に発表された実写映像とアニメーションを組み合わせたバンドa-haの「Take on me」のミュージックビデオやいかにも現代美術的なオブジェに混ざって(企画展に出された作品が全てそうだったわけではないが、現代美術の作品には『既成概念に囚われない斬新さ』よりも『作者の主張次第で何でもアートの括りに入れられてしまう安直さ、胡散臭さ』を覚えるものが少なくないように思う)、この二人の絵が展示されていた。
エッシャーのモノトーンの絵は、鉛筆書きのスケッチのように写実的でありながら現実には決してあり得ない光景を描いている点で「だまし絵」である。
企画展で観たものばかりでなく、一般に広く知られているエッシャーの作品は、写真が登場する以前の歴史書に挿まれたペン画や白黒写真そのものを彷彿させるタッチで描かれている。
このため、現実的な三次元の理屈では成立し得ない風景を描いているにも関わらず、「飽くまでこの絵に描出された世界では疑問なく成立している」という奇妙な現実感が漂う。
というより、エッシャーの絵は、私たちの生活する三次元とは異なる次元、いわばパラレルワールドにおける現実を写した世界に見えるのだ。
話は変わって、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」は、原版ではジョン・テニエルのペン画による挿絵が付いていた。
これも、画家の名は知らなくても絵を一度は目にしたことのある人が多いと思う。
時代としてはテニエルの方がエッシャーより少し先だが、帽子屋と三月ウサギが「何でもない日」を茶会で祝い、ハンプティ・ダンプティが塀の上に陣取るパラレルワールドをモノトーンのペン画で飽くまで写実的に描いた絵には、不気味さと現実感が奇妙に同居している。
もっと突っ込んだ言い方をすれば、描写の上でのリアリティが不気味さを増幅させる効果を果たしているのだ。
エッシャーの絵は物語の挿絵ではなく、飽くまでそれ自体が独立した作品だ。
しかし、彼の絵には、寓話やファンタジー小説の一場面を切り取ったような物語性が感じられる。
観れば観るほど上下の方向性が限りなく曖昧になってくる回廊を描いた作品は、回廊の中に配された、個別の顔を持たない中世風の歩兵たちが永遠に黙してそこを歩き続けるのではないかと思わせる。
柱の遠近が狂った見張りやぐらに出入りする人々は、これもトランプの挿絵のような中世風の装いを与えられているが、彼らは何を思い、何を語らいながら、そこから見える風景を眺めるのだろうか。
そして、彼らの視線の先には、どのような景色が広がっているのだろうか。
画面は異世界の一端を示しはしても、全容を明かすことはない。
エッシャーの絵に漂うのは、「アリス」の異空間の住人たちやカフカの世界にもどこか通じる不気味さである。
ちなみに、ルイス・キャロル及びジョン・テニエル、カフカ、そしてエッシャーはいずれも十九世紀後半から二十世紀前半にかけてヨーロッパで活躍した人たちだが、表現の媒体は違っても、不条理や虚無感には似通ったものが感じられる。
実際、ハウステンボスを訪れた際に、エッシャーのだまし絵をモチーフにした、アリス風の少女が不思議な世界を冒険する短編映画のアトラクションを観た記憶がある。
彼のだまし絵の内包する物語性がストーリーを後発させた好例だろう。
そもそも、ハウステンボス自体が、日本の長崎県の中に近世オランダの街並みを再現するという、奇妙な現実感を残したコンセプトのテーマパークだ。
そこに時代としては現代オランダを生きたエッシャーの世界が間借りしているというタイムパラドックス的な感触も、矛盾を孕んだ彼のだまし絵の世界と妙に似つかわしく思えた。
ただ、個人的に一番、エッシャーの作品で印象深いのは、掌に載せられた水晶玉に初老の男と応接間が映りこんでいる絵だ。
描写されている光景が建築学的にあり得ないといった意味での「だまし絵」には該当しないかもしれない。
だが、水晶玉の中に映りこんでいるのはこの玉を手にしている男性本人であり、いわば、水晶玉を通した向こうの風景ではなく、本来は水晶玉と向かい合う男性の側、ひいてはこの絵を眺める私たちの側に存在する光景を鏡のように反射しているという事実に気付く。
原理としては、スプーンを手に持った時にその先に曲がった形で映り込む顔と同じだと言える。
実際、画中の水晶玉の向こう側は、何も描かれていない灰色の壁だ。
あるいはこの男は壁に向かって水晶玉をかざし、湾曲した面に映った自分の姿を見ているのかもしれないが、手にした水晶玉の向こうに広がるのは「無」そのものの世界に見える。
何より、この絵を一見して印象付けられるのは、水晶玉に映った男の虚無的な表情だ。
出窓から灯りが差し込む中、壁には絵を飾り、書棚には本が並び、ソファをあちこちに配した瀟洒な部屋にいながら、というより、そうした部屋にたった一人でいるからこそ、彼の孤独や空しさが浮かび上がる。
どこか互い違いな向きに置かれているソファの様子から、この応接間には元は男以外の人物が数人いたのではないかと察せられる。
だが、それらの人々は男を残して去ってしまったのか、それとも男が追い出したのか、あるいは第三者の手で連れ去られたのか、今は水晶玉を手にした彼しか残っていない。
ウィキペディアに掲載されている本人の写真とどこか似た面影を持たされているから、これはもしかするとエッシャーの自画像かもしれない。
絵という表現自体が、紙や布の上に描出された虚構だが、だまし絵の場合はその虚構の中に更に仕掛けを施した、いわば入れ子式の虚構である。
水晶玉に映りこんだ初老の男のどこか凍った表情は、描き手のエッシャー自身が虚構の中に閉じ込められていく苦悩の現われに見える。
誰も居なくなった部屋は、親しくしていた友人一家をナチス・ドイツに殺害され、本人も流転を余儀なくされ、晩年は妻にも去られて、養老院で息を引き取った、実人生の孤独の反映ででもあろうか。
さて、前述したBunkamuraの「進化するだまし絵」の広告には、本やしおりを組み合わせて人物画の体裁を取ったアルチンボルドの「司書」が使われていた。
この十六世紀の画家が、いわばだまし絵の元祖、古典として捉えられている事実を裏書していると言えよう。
アルチンボルドの色鮮やかな油彩画は、一見して人物画と思わせて、仔細に眺めると、野菜や果物、あるいは本を寄せ集めたオブジェであるという、別な現実を浮かび上がらせる点が「だまし絵」である。
更に言えば、彼の作品からは、本来は感情を持たないはずの植物や道具が色彩も含めて写実的に描かれた上で人の形に組み合わせられているため、全体としては事物に宿る精神を具現化した精霊的な存在、くだけた言い方をすれば「お化け」に見える。
のみならず、色彩豊かで精緻な描写からは、全体を構成する一つ一つの事物が人間的な意思を持ち始めたかのような不気味さや生々しさも浮かび上がってくる。
人体を模した形に組み合わされた静物画であるにも関わらず、眺めている内に本当に意思を持って動き出し、話し始めるのではないかと思わせる。
むろん、不自然な格好に寄せ集められた事物には、次の瞬間には音を立てて崩れ落ちそうな危うさも強く感じられる。
しかし、ひとたび動き出すと、何となく全体としては崩れ去りながらも、残った体が地を這って迫ってくるような、撃たれても死なないゾンビを彷彿させる禍々しさが肖像画全体を支配している。
このホラー映画に似たグロテスクな感触が、単なる「だまし絵」としての意匠を超えた、アルチンボルドの絵の魅力だろう。
肖像画という観点からすると、広告に使われた「司書」のように、本やしおり、あるいははたきといった、職業や身分として常に触れる道具を組み合わせて人体を模すことで、生身の人間を直接描くよりも、その職業や身分の本質をより強く打ち出す面も、作品の魅力として挙げられるだろう。
「司書」に描出された像はどこか頑固そうな初老の男性の風情があるが、これはこの職業から連想される人物像のステレオタイプである。
「進化するだまし絵」展では、ビヤ樽の胴体にグラスを組み合わせた顔を載せ、大きな皿の肩を持つ「ソムリエ(ウエイター)」と題された肖像画も出されていたが、こちらもほろ酔い加減で赤くなった顔に酒肥りした体の中年男という雰囲気で、あまり上品でない酒場のウエイターに相応しい。
個人名を冠した肖像画では、果物や花を組み合わせた「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ二世」が有名だ。
ウェルトゥムヌスは果樹園と庭園を支配するローマ神話の神であり、果物や花はその神性を表象していると思われる。
絵はローマ神話の男神そのものでも、また神聖ローマ皇帝としてのルドルフ二世その人でもなく、「男神に扮した皇帝」という既に虚構の衣を纏った人物の姿を果物や花に置き換えて描くという、二重の虚構のフィルターを通して成り立っている。
皇帝の髪や頬を形作る葡萄や桃といった瑞々しい果実や襟元を飾る艶やかな花々だけが、「これが現実だ」と主張するかのように色鮮やかで生命力に満ちている。
あるいはそれこそが、モデルとなった皇帝の人柄を象徴する意図を持たされて描かれたものなのかもしれないが、画家もモデルとなった人物も遥か昔に死去した現代の私たちの目には、画中の植物が鮮やかで瑞々しくあればあるほど、「生の儚さ、空しさ」が浮かび上がってきてしまう。
画家がこの絵を描く際に参考に目にしたであろう果物も花も、とうの昔に腐り落ちて跡形もなくなってしまった。
この自然の摂理が、植物よりは確実に寿命は長い人の生の儚さまでも強調する作用をもたらしているのだ。
実際、モデルとなったルドルフ二世は文化人としては優れていたものの、政治的には無能で実弟のマティウスからクーデターを起こされて失脚し、失意の内に病死した。
政治史の上では明らかに敗者であり、淘汰される側の存在である。
また、生涯独身で子供もおらず、血筋も断絶したという点でも、この皇帝の生の儚さが感じられる。
この肖像画が描かれた頃、モデルとなった皇帝は壮年であり、失脚の兆しはまだ見えていなかった。
だが、画家は既に病魔に犯されており、この作品は死の少し前に描き上げられたものだったと言う。
画中に瑞々しく鮮やかに描かれた花や果物は、死の予感に駆られた画家自身の生への絶ちがたい未練や執着の表れだったのかもしれない。
そう思ってこの絵を見直すと、ほのかに微笑んで見える人物の表情が、優しくも切ないものに映ってくる。
率直に言って、アルチンボルドの絵は「だまし絵」としてのテクニックは至極単純であり、エッシャー的な「だまし絵」の描き方もネット上にはマニュアルらしきものが見つからないわけではない。
しかし、単なる「だまし絵」としてのトリックを超えて眺める側の心情に訴えかける点において、この両者を超える存在はまだ出てきていないように思う。
*この文章は2014年10月16日に「小説家になろう」に投稿したものの転載です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます