一九八二年生まれ、一日本人女性として――キム・ジヨンとフェミ彼女(後編)
二〇一六年に発表されて日本でもベストセラーになった「八二年生まれ、キム・ジヨン」に続き、韓国発のフェミニズム小説として新たに話題を集めているのが今年二〇二二年の三月にイースト・プレスから邦訳が出たばかりの「僕の狂ったフェミ彼女」だ。
二〇一九年に出版されたこの作品は、二〇一八年、「キム・ジヨン」から五年後の韓国を舞台にしている。
作者のミン・ジヒョンは一九八六生まれ、日本の東北大学に留学し、自主映画を制作を経てテレビドラマの脚本家をしていたキャリアの持ち主だ。
一九七八年生まれのチョ・ナムジュとは間にキム・ジヨンを挟む形でちょうど四歳ずつ離れた世代である。
物語は男主人公のキム・スンジュンの目を通してアメリカ留学を前に最愛の恋人に別れを告げられる場面から始まる。
韓国に帰国後、彼はフェミニズムを主張する女性たちのデモ行進の列にかつての恋人の姿を見つける。
再会した彼女は何と男主人公やその友人たちが冷笑するところのフェミニストになっていたのである。
そこからまだ彼女に未練を抱く彼とフェミニズムを主張する彼女の恋(と呼ぶべきなのだろうか)のいわば第二章が始まる。
二〇〇三年に日本でも公開されヒットした「猟奇的な彼女」という作品がある。「エキセントリックな女性に男主人公が翻弄される」ラブコメディであり、これは韓流コンテンツの一典型になった。
「僕の狂ったフェミ彼女」はタイトルもプロットもそうしたラブコメディのパロディといった印象を受ける。
実際、訳者による後書きでも「猟奇的な彼女」に影響を受けて書かれた旨が記されていた。
加えて、「僕の狂ったフェミ彼女」(以下、『フェミ彼女』と省略します)には「八二年生まれ、キム・ジヨン」を始めとするチョ・ナムジュ作品の影響というか本歌取り的な設定が所々に見られる。
まず、「フェミ彼女」には男主人公には「キム・スンジュン」という姓名が与えられ、同性の友人たちにも「ミニョク」「ドンヨン」「テウ」「ギヒョン」等と固有の名を与えられているが(この友人たちの一人であるギヒョンの結婚式が物語のクライマックスにもなる)、ヒロインを始めとする女性キャラクターたちの名は基本的に出てこない。
友人のミニョクが自分の妻を呼ぶ時も「チャギ」と英語の「ハニー」や「ダーリン」に該当する愛称にされており、この妻自身の本名は不明なままである。
例外は終盤で男主人公が親のセッティングで見合いをする相手の女性で、男主人公が「ヘヨンさん」と呼んでいることから名前が分かる。
これは「キム・ジヨン」のヒロインの名を捩った印象を受けるし、実際見合い相手として難のない代わりに、いかにも平均的、没個性的な女性である(ただし、本心では別れた恋人に未練を残す男主人公の気のない様子を見透かして『私にはもったいない方なので』という模範解答で断ってくる行動からは平凡ななりの賢さというか『新世代のキム・ジヨン』といった印象もある)。
一連の女性キャラクターたちの扱いは「キム・ジヨン」が作品のタイトルが既にヒロインの姓名であり、作中では夫のチョン・デヒョンを覗く男性キャラクターに固有の名前を持たせていない設定を明らかに意識して裏返したものだ。
ヒロインを始めとする韓国女性たちが「母」「姉または妹」「妻または彼女」といった男性の付属物として扱われる韓国社会を象徴すると同時に、固有の名前を持たせないことで誰もが彼女らの立場になり得る可能性を示したものであろう。
男主人公の「キム・スンジュン」という名にしても「キム・ジヨン」と同じ「平均的な韓国男性」といった命名ではないだろうか。
ちなみにこの姓名も再会したヒロインが
「よ、キム・スンジュン。久しぶりじゃん?」
と呼び掛ける台詞で初めて読者には明らかになる。
これはチョ・ナムジュの短編「ヒョンナムオッパヘ」でヒロインが自分を長らく抑圧してきた恋人に向かって
「カン・ヒョンナムのばっかやろ!」
とフルネームで罵倒して決別するラストの独白を連想させる。
「ヒョンナムオッパヘ」は三十歳になったヒロインが長すぎた春の恋人と決別する筋書きだが、「フェミ彼女」は三十歳になる元恋人同士が再会して恋の駆け引きを繰り返す筋書きである。
「フェミ彼女」では男主人公がしばしば同い年のヒロインに対して「オッパ」(ご存知の方も多いだろうが、これは『お兄さん』を意味する韓国語で女性が年上の恋人を呼ぶ場合にも使われる)を自称して世話を焼き、主導権を握ろうとする。そこにどこか「ヒョンナムオッパヘ」の続編じみた印象も受ける。そもそも「ヒョンナムオッパへ」の男性にとっても結婚するはずだったヒロインが最後に突きつける三行半は青天の霹靂であるはずだ。
「フェミ彼女」ではフェミニズムを主張する再会後のヒロインが男主人公側には「狂っている」「異常」としか認識できず、それがタイトルの「僕の狂ったフェミ彼女」に繋がっている。
これは、「キム・ジヨン」で他の女性が憑依する妻の言動を単なる錯乱、精神異常としか認識できず心療内科に行かせる夫、そしてヒロインを診察する精神科医ら韓国人男性の無意識の欺瞞や根底にある男尊女卑の継承である。
ちなみに「フェミ彼女」の最後まで名前を持たないヒロインの職業は出版社の編集者だが、これも「キム・ジヨン」のヒロインの広告代理店勤務、その作者のチョ・ナムジュのテレビ局勤務を想起させる。
恐らくは同じメディア産業でいわゆる「虚業」の広告代理店(広告には都合の悪い現実を隠蔽して実態を粉飾する面がどうしても付き纏う)や公共の電波として中立性が求められるテレビ局よりもう少し思想、イデオロギー的に先鋭化した出版社の編集者にすることで、キム・ジヨンより目覚めた女性像を描こうとしたのだろう。
だが、後半ではその編集者の職も担当した著名な男性ベストセラー作家(高級品を身に着けマセラティを乗り回す中年のこの男性作家パク・ミンジェは何となく業界での立場からして日本の村上春樹を連想させるがモデルがいるのだろうか)からの度重なるセクハラに苦しんで退職に追い込まれる。そこに韓国社会の根深い男尊女卑が浮き彫りになる展開だ。
さて、キム・ジヨンに姉のウニョンがいるように「フェミ彼女」のヒロインにも姉がいる(つまりは『フェミ彼女』のヒロインも次女である。ただし、両親揃って五歳下の弟と父方の祖母も同居する家庭に育ったキム・ジヨンに対して『フェミ彼女』は離婚母子家庭の二人姉妹であり、より純粋な女系家族にされている。ちなみに、前述したように『フェミ彼女』のヒロイン姉妹には固有の名が与えられていないが、代わりに姉妹の会話から後述する姉の一人息子の名が『ウンス』らしいと判る)。
後半で出版社を退職したヒロインと彼女に寄り添う男主人公の前に姿を現すこの姉は息子が一人いる既婚者で普段は実家の近くに住んで実母に子供を預けて働いている。
名刺に「韓国一の大企業の青いロゴが刻まれていた」ことからしてサムスンの勤務であろう。天下のサムスンに就職し、結婚して息子までいるのだから、当世の韓国女性としては正に勝ち組である。
この設定はやはりチョ・ナムジュの短編集「彼女の名前は」に収録された「ジンミョンの父さん《あなた》へ」(以下『あなたへ』と略す)を明らかに本歌取りしたものだ。
この短編は「この国で一番と言われる大手企業に勤めてる」実の娘(と息子の妻)から孫たちを預かって子守をしている老年女性が亡くなった夫に手紙で語りかける形式を取っており、文中では実の娘が母親に打診もせずに隣のアパートに引っ越してきて強引に子供たちを預けた経緯も説明されている。
「キム・ジヨン」でも上司である既婚子持ち女性の課長キム・ウンシルは実母と同居して一人娘の育児を任せて働いてきたとの記述がある(キム・ウンシル課長とキム・ジヨンの子供が同じ一人娘なのは、キム・ジヨンももし夫の同意を得て実母と同居できればキャリアを築けたというもう一つの未来像をこの女性課長に投影したと推察される。両者の姓が同じ『キム』にされているのもそのせいだろう)。
「あなたへ」では孫たちの世話に追われて疲弊した老年女性が「私の人生は、どこにあるんだろう」と虚無感を漏らす。
「フェミ彼女」では妹であるヒロインに
「甥っ子の世話でお母さんは死にかけてる」
「実家にいたら、子守も家事も全部手伝わされてた」
と語らせることで自分たち夫婦の共稼ぎ、自分のキャリア形成のために身内の女性を搾取する姉のエゴイズムが明確に批判されている。
ただし、この姉や似たような境遇の韓国のワーキングマザー(この言葉自体が既に子持ちの女性が働くことをイレギュラーなものとする性差別的な発想から生まれたものだが)がこうした行動に出ざるを得ないのは社会的な保育制度の不備が大きいだろう。
ネットで検索したところ、韓国にも「オリニチプ」と呼ばれる保育園があり、共稼ぎ家庭でも専業主婦家庭でも子供を預けること自体は一般的なようだ。
実際、「キム・ジヨン」でも専業主婦のヒロインが幼い長女を昼間は保育園に預けている描写があり、「あなたへ」でも祖母であるヒロインが孫たちを一応は保育園に通わせてはいるものの保育時間の短さ、その後の自分が子守をする時間の長さを嘆いている。
「フェミ彼女」のヒロインの甥っ子も恐らく昼間はオリニチプに通った上で祖母に預けられていると推察される。
「あなたへ」では、孫たちを預かるヒロインの周囲にも同様の境遇の老年女性たちが多く、近所の公園で彼女らが孫の子守をしつつ交流する描写がある。
「フェミ彼女」でも男主人公が
「うちの職場でもそういう(ヒロインの姉のように実母に子供を預けて働く)女性の先輩は多い」
と発言している。
これは今の韓国で共稼ぎ夫婦の子供たちがオリニチプと祖母の下で過ごすパターンが多い現実を裏書きしている。
なお、「自分の職場にも実母に子供を預けて働く女性の先輩は多い」と語る男主人公にヒロインの姉は詫びるように告げる。
「彼女たちを悪く思わないで下さい」
これは男主人公個人というより彼の背後に広がる韓国社会全体に向けての言葉ではないだろうか。
「キム・ジヨン」でも同居の実母に一人娘の育児を任せていた女性課長キム・ウンシルは「母親なのに仕事を優先して家庭や子供を疎かにした」と陰では非難されている。
恐らくはこの姉も日に蔭にそうした批判に晒されているのだろう。
「フェミ彼女」のヒロインが非婚を貫こうとするのは既婚子持ち女性である実姉の置かれた抑圧や結果的に実母を犠牲にしている現実を目の当たりにしたのも一因と察せられる。
ちなみに、「キム・ジヨン」と同じく「フェミ彼女」にもヒロインの上司として女性課長が登場する。
しかし、髪をカールさせて小柄な体にタイトスカートとハイヒールを履いた、「女らしさ」を強調させた装いのこの女性課長は、人気作家パク・ミンジェからのセクハラ被害を訴える部下のヒロインに対して
「あなたが色目を使ったのではないかと皆、噂している」
「あの先生はセクハラするような人ではない」
「相手を訴え出るな」
と二次加害して退職に追い込む仕打ちに出る。
「キム・ジヨン」で女子トイレ盗撮事件を受けて揉み消そうとする社長を批判し他の女性部下たちと独立しようとするキム・ウンシル課長とは対照的である。
これは展開として「キム・ジヨン」との差異化を図るためでもあろうが、いわゆる「名誉男性」、男社会に迎合して同性を抑圧する女性の役割を「フェミ彼女」の課長には与えたのだろう。この女性上司にしてもかつては被害者だったのかもしれないのである。
男主人公の家庭環境に目を向けると、彼はまず韓国でも男尊女卑の強さで有名な
ちなみに「キム・ジヨン」のヒロインの夫チョン・デヒョンは釜山出身だ。
ネットで検索すると、「
チョン・デヒョンが一見優しい愛妻家のように見えて妻を無意識に抑圧する一人である展開は「釜山男子」的なメンタリティへの皮肉とも読める。
「フェミ彼女」のキム・スンジュンの出身地はこうした地域性への批判をより推し進めた設定と言えよう。
アメリカ留学して帰国し、韓国映画よりマーヴェルやクリストファー・ノーラン監督の作品を好む、休暇には香港旅行をしようと計画する等、男主人公はむしろ表面的には平均より海外志向の韓国人男性と言える。
「アメリカにいた一年の間、韓国人、日本人、アメリカ人と、国籍を問わず多くの女性たちと付き合った」と独白しているように(同じ韓国人や日本人といった男尊女卑の強い国のアジア女性が多いことからアメリカでも彼が無意識の男尊女卑を温存していた姿が読者には透けて見えるが)、ヒロイン以外の女性との恋愛経験も少なからずあり、決して無知なわけでもない(ただ、個人的には『Aライン』『Hライン』といった女性向けの服飾品の用語を当たり前に知っていて使う、色付きのリップクリームを買ってそれとなくヒロインに化粧させるように仕向ける等の男主人公の描写には違和感というかキャラクターの設定を超えた女性作者故のバイアスといった印象を覚えなくもなかった。筆者は女性だが、ファッションに疎いせいもあり、『Aライン』という言葉は見聞きしたことがあったが、『Hライン』はこの作品を読んで初めて知った。色付きリップクリームのくだりは『キム・ジヨン』で職場を退職したヒロインを訪ねた元同僚の女性が口紅をプレゼントするエピソードに着想を得たと思われるが、これは元が女性同士の話である)。
それでも、彼にはフェミニズムを主張するヒロインの心理が理解できない。
「自分は性暴力どころか女性に手を上げたことすらないのに、どうして自分までが罵られて性犯罪者予備軍のように扱われなくてはいけないのか」
「男だって大変なんだから」
「フェミニズムを主張する女は駄々をこねているだけだ」
等々、キム・スンジュンの主張は日本のネットでも公正中立を標榜する男性たちのそれとして良く見掛けるものだ。
一方で自分は煙草を吸っているのに再会後のヒロインが喫煙しているのを知ると驚く(韓国の喫煙率は男性が三割を超える一方で女性は五%に満たない。これは日本と同じく『女性の喫煙ははしたない、不品行だ』という男尊女卑の反映である)、一晩を共にした彼女から復縁を拒否されると「関係を持った後に曖昧にするのは(男性である)自分の役割のはずだった」と愕然とする等、彼の行動や思考からは無意識の男尊女卑が浮かび上がる。
ただし、作者は男主人公のキム・スンジュンを決してゴリゴリの男尊女卑、家父長制の権化として描くことはしていない。
前半のクライマックスは、彼の祖父の傘寿祝いに親族が集まるエピソードである。
三十歳でアメリカ帰り、普段はソウルに住み、しかもフェミニストになった元恋人のヒロインと再会して交流を持つキム・スンジュンには、祖父や父親、伯父たちといった大邸の親族の年長男性たちの言動がもはや旧弊な、疑問を覚えるものとしか感じられない。
七十坪のリゾートを借り、子供や孫たちに囲まれて長寿を祝われる八十歳の祖父の姿は古い韓国の家父長制的な価値観からすれば紛うことなく勝ち組であるはずだ。
しかし、三十歳の孫息子にはそれが虚しい、空々しいものとしか映らない。
これは祖父と孫の年齢差である半世紀間の韓国人男性の価値観変化を象徴するエピソードであろう。
ちなみにこのエピソードでは男主人公の独身の末の叔父も印象深い人物として出てくる。
首都圏で大学教授をするこの叔父は「男性は妻子を持ってこそ一人前だ」という価値観の親族の間では軽んじられており、本人も滅多に親族の集まりには顔を出さないとの記述がある。
男主人公からの電話でこの叔父について聞いたヒロインは同性愛者、無性愛者といった性的マイノリティの可能性を指摘する。
飽くまで問い質さずに傍観する男主人公目線の劇中においてこの叔父の真相は不明である。
この叔父はそれこそヒロインに失恋してその後は独身を貫いた男主人公の未来の姿かもしれない。
しかし、「男女が結婚して子供を儲けるのが健全な人生だ」という家父長制を基底にした異性愛規範がヒロインのような女性ばかりでなく性的マイノリティの人々を苦しめてきた、というよりリアルタイムで苦しめている現実を示唆する点で興味深いキャラクターである。
祖父や父たちのような大家族的な家父長制には齟齬を覚えるキム・スンジュンだが、しかし、戦後の自由主義と共に定着したロマンティック・ラブ・イデオロギーは信奉している。
そもそもロマンティック・ラブ・イデオロギーの信奉者だからこそ、冒頭で知人の紹介でデートしていた年下の女性(年長の男主人公を素直に『オッパ』と呼んでいる)や終盤で親を介してお見合いした「ヘヨンさん」のような結婚するには無難な女性たちには飽き足らず、かつては自分を振って去り再会した時には冷笑すべきフェミニストになっていたヒロインと執拗なまでに復縁しようとしたのである。
それがクライマックスの友人ギヒョンの結婚式にヒロインを同行するエピソードに繋がる。「何だかんだで幸せなカップルを見れば、彼女も好きな人と結婚して家庭を築く人並みの幸福に目覚めるのでは」と期待したのである。
しかし、結果は黒いスラックスの男装じみた出で立ちで現れたヒロインが同じ結婚式に招待客として出席している男主人公の友人たちと会話して彼らの男尊女卑的な欺瞞を真正面から批判するという、スンジュン(や彼の友人たち)にとって悪夢のような事態を引き起こす。
この終盤の結婚式のエピソードは、「キム・ジヨン」序盤の夫の実家でヒロインが夫側の親族の横暴を批判するエピソードの拡大再生産といった印象を受ける。
「キム・ジヨン」のヒロインが実母の魂が憑依する形で夫たちを非難するのに対して「フェミ彼女」のヒロインは飽くまで本人の言葉として同世代の男性たちを批判する。
そこに女性として進化した主体性が打ち出されている。
結果、ヒロインの言葉に触発された友人の妻たちも夫に対して率直な意見を表明するようになる。
これは夫たちからすれば「ろくでもないフェミに染まった」だが、妻たちからすれば元からずっと感じていて抑圧から口にすることが出来なかった疑問や不満を言葉にする切っ掛けを得たのである。
彼女は結局、変わらない。ヒロインと結婚して家庭を築くというロマンティック・ラブ・イデオロギーの敗北を余儀なくされたスンジュンは絶望し、彼女に別れを告げる。
そして、既に出版社を辞しているヒロインは数年前に中絶が合法化したアイルランドで尽力した人々や若い女性たちへの影響を取材すべく旅立つラストを迎える。
彼女が出発する日、偶然同じ日にアメリカから帰国する両親を迎えるべく空港を訪れた男主人公はふと目を閉じて理解できなかった彼女、そして彼女を理解できなかった自分自身と向き合うように闇を見詰めるのだった。
新しい思想を啓くことを「啓蒙」、「蒙を啓く」と書く。
ここでは逆に目を閉じるという行為に「自分が目を逸してきた闇と向き合う」意味が付与されている。
フェミニストになったヒロインと別れた韓国人男性キム・スンジュンにとってフェミニズムとは光明を見出す救済ではなく闇と向き合う教訓なのである。
さて、本来ならば一番字数を割いて語るべき「フェミ彼女」のヒロインについてだが、自分は修士までは出たものの社会人としてははっきり言って落第組で職場を転々とし、今は結婚出産して専業主婦をしている人間なので、共感よりも隔たりを感じる場面の方が多かった。
フェミニストになった彼女が煙草を吸う描写を読んで、「女性が煙草を吸う行為をはしたないとして抑圧する男尊女卑社会へのレジスタンス」という意味合いはあるにせよ、それ自体が既に古い、前時代的な印象を受けた。
煙草の毒性は「キム・ジヨン」と同い年の私が子供の頃から国際的に繰り返し指摘されており、公共の場でも禁煙の流れになっている。
それは日本も韓国も同様だろうし、男主人公側が禁煙しようとしているのは煙草が本来は健康に害だと認識しているからだろう。
この状況でヒロインというか日本にも留学した作者のミン・ジヒョンが喫煙を有害で健康的には自傷行為だと知らないわけはない。
あるいは敢えて自傷行為的に繰り返し煙草を吸わせることで彼女が抱えている傷や苦しみの深さを示そうとしたのかもしれないが、二十一世紀の現代に生きる人間として古い印象が拭えない。
フェミニストになった彼女は髪を短く切り、男主人公と会う時もトレーナーにジーンズ、終盤の結婚式に客として参加する際にも黒いスラックスを履いて現れる。
これは近年の韓国のフェミニズム運動である「脱コル」こと「脱コルセット運動」、化粧やスカート等「女性らしい」とされる装いを止めることで抑圧から解放される試みを示したものだろう。
しかし、ヒロインはそうした男性と見紛うような出で立ちをするようになった経緯を「著名作家からの度重なるセクハラ被害の結果、女らしい服は着なくなった」と語っている。
これは解放というより新たな抑圧の現れではないだろうか。
日本でも性被害に遭った女性に対し、「男性を挑発するような肌の露出の多い服装をしていたのではないか」と女性らしい服装を理由に二次加害が起きる場面は少なくない。
このヒロインの服装の変化もフェミニズムというよりむしろ従来の女性への抑圧の一形態に思える。
それはそれとして「フェミ彼女」のヒロインというか作品が「キム・ジヨン」等の先行作品と決定的に異なるのはマスターベーションを含めた女性の性のあり方を露悪的なまでに切り込んで描いている点だろう。
「キム・ジヨン」では交際相手と別れたヒロインについて先輩の男子が「他人のかんで捨てたガム」と暗に処女性の喪失を侮辱する場面はあるが、夫を含めた男性との性行為や自慰行為等が描かれることはない。
これはテレビ局の放送作家出身のチョ・ナムジュがテレビの放送コードに抵触するような直接的な性の描写を小説を書く上でも忌避したと考えられる。
「フェミ彼女」では語り手である男主人公の目を通してヒロインとの性行為が描かれるばかりでなく、ヒロインが自室にあるオナニーグッズを彼に見せて説明する場面も出てくる。
後者に関しては韓国はもちろん日本のテレビドラマなどでもちょっと放映には差し障りがあるのではないだろうか。
女性の性については男性との性行為より自慰行為の方がコンテンツの中ではタブーとして避けられやすいように思う。
自分も読んでいて少し抵抗を覚えた。
前述したように「フェミ彼女」の作者ミン・ジヒョンは自主映画の出身であり、率直に言って公共の電波を介するテレビドラマなどよりアングラの性格が強いジャンルなので、小説でも赤裸々に描く方向性になったと思われる。
最後に、先にも書いたように「フェミ彼女」のヒロインはアイルランドに発つ。
韓国も儒教による男尊女卑社会で有名だが、アイルランドもカトリックによる中絶や離婚の禁止、女性は外で飲酒も自由に出来ない等の激烈な女性蔑視の歴史で知られている。
数年前に中絶が合法化されたとはいえ、女性への抑圧が未だ強い地域であろうことは訪れたことのない人間にも容易に推察できる。
男主人公やその両親が訪れるアメリカのような先進性の代表的な地域ではなく、そうした後進性の未だ根強く残る、だからこそ克服しようと尽力するエネルギッシュな女性たちのいる地域を敢えて目指す所にヒロインの茨の道を突き進む覚悟が見えるように思う。
彼女とキム・スンジュンが今度は良き友人として再会できる日が来ることを日本の読者としては願ってやまない。
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