一九八二年生まれ、一日本人女性として――キム・ジヨンとフェミ彼女(前編)
私は一九八二年生まれだ。チョ・ナムジュのベストセラー「八二年生まれ、キム・ジヨン」(以下『キム・ジヨン』と略します)のヒロインとは同い年である。
ちなみにキム・ジヨンは四月一日エイプリルフール生まれ、私は四月十二日生まれなので誕生日まで半月も違わない。
これは前にも書いたが、最初にリアルタイムで観たオリンピックは一九八八年のソウル五輪であり、それはキム・ジヨンも同様だろうと思う。
もしかしたら日本で「テレビの中の外国でのイベント」として視聴した私よりもキム・ジヨンの方が祖国で初めて開催されたオリンピックとして大人たちの熱狂と興奮の中で目にしたかもしれない。
ちなみに「キム・ジヨン」とは同じ一九八二年に韓国で生まれた女児の名で一番多いことから取った命名だそうだ。
このネーミングからも明らかなように彼女は「同世代の平均的な韓国女性」を意図した造形である。
劇中では結婚出産後に精神不安定になった彼女がイタコ(韓国にも同種の職業はあるのだろうか)さながら周囲の女性たち(母親など本来は世代の異なる相手も含む)の魂を代弁する。
これは本来が突出した個性(という名の平均からの逸脱)を持たない、一種空虚な人物だからこそ他者を憑依させられる両義性の現れだろう。
小説の単行本の表紙は、顔の部分が空白で背景の荒涼たる景色がそのまま透けて見える女性の絵だ。
これはヒロインが具体的な顔という個性を持たない(ただし、『二重瞼に整形すれば美人になる』と取引先の男性からセクハラ発言されるエピソードからして東アジア系に多い一重瞼と察せられる。これも平均的な容姿の描写ではあろう。ちなみに『キム・ジヨン』は二〇一九年に映画化され、そちらは未見だが、主演のチョン・ユミは一見してはっきりした二重瞼の目の大きい美人顔なのでスチールだけでも違和感を覚える)、だからこそ誰にでも共感されやすい、むしろ誰もがキム・ジヨンになり得るという作り手のメッセージだろう。
描かれた人物の顔の部分に穴が開いていてそこに自分の顔を当てはめて写真を撮るパネルは日本の観光地など定番スポットによくある。
顔の部分が空白になった「キム・ジヨン」の表紙絵は、日本とよく似た男尊女卑大国である韓国の皮肉な穴開きパネルなのだろうか。
「キム・ジヨン」には同い年の日本人女性の私にも共感できるエピソードばかりだ。
小学生時代に男子のクラスメイトから繰り返し嫌がらせを受けて教師に訴えても
「あの子は君を好きだからいじめる。男の子はそういうものだ」
とまともに取り合ってもらえない。
これは日本でもよくある話だ。男児から女児への加害行為は矮小化・黙認され、被害女児がひたすら忍耐を強いられやすい現実は日韓で共通している。
また、大学時代にサークルの先輩男子が恋人と別れたばかりの自分について「他人が吐き捨てたガム」と侮辱する言葉を吐くのを耳にしてヒロインがショックを受けるエピソードもある。
自分も大学時代にサークルの合宿で近くに寝ている女子たちが半ば聞いている可能性を知りながら声高にサークルで一緒の女子たちの容姿の品評などをしていた男子学生たちの仕打ちを今でも覚えている。
さすがにすぐ近くにいる私本人を直接侮辱する発言はなかったものの、それからは、彼らと顔を合わせて話していても
「この人はあの時こう言っていた」
とフッと思い出して以前の信頼が本当には戻ることがなかった。
「この人だってわざわざ寝ている私たちのすぐ近くで品評していたんだからこちらの信頼が壊れても構わないとバカにしきっていたんでしょ」
とこちらの方でも突き放す目でも眺めるようになった。
むろん、自分の大学時代はスーパーフリー事件が起きた正にその時期であり、同世代の元女子学生にはそれこそ輪姦や昏睡レイプといった被害に遭った人もいる。私やキム・ジヨンの受けた経験は決して警察に訴え出るレベルの話ではない。
それでも、思い出した時に当事者を超えた男性全体への信頼が確実に目減りした事件なのだ。
なお、キム・ジヨンが最初に付き合った恋人と別れるきっかけは彼の兵役であり、そこは日本の男女とは多少事情は異なるものの、男子学生が女子学生より就職でも有利であり(面接でセクハラへの反応を試すような質問をされるもののどのような回答をした女子学生も結局は全員落とされている皮肉なエピソードも出てくる)、企業社会も結局は男性優位である現実は日韓で共通している。
そもそもキム・ジヨンが精神に破綻を来してイタコ的な言動をし始めるのは結婚出産を機に職場での退職を余儀なくされ(広告代理店に勤務中も妊娠して電車で見ず知らずの女子大生から罵倒されるなど迫害を受ける)、幼い子供もいる状態ではまともな再就職も望めず、息抜きに外でコーヒーを飲んだだけで見ず知らずのサラリーマンから「ママ虫」(韓国での子持ちの専業主婦を寄生虫扱いする蔑称)と罵倒される境遇に疲弊したためである。
ちなみに、キム・ジヨンの退職後に元の職場では警備員による女子トイレの盗撮事件が起きている。男性の社員たちがネットのポルノサイトに投稿された盗撮動画を共有して盗撮犯共々警察の取り調べを受けたにも関わらず、社長は隠蔽しようとする。その顛末をキム・ジヨンは元の同僚女性から知らされる。
教えてくれた同僚女性を含めて被害に遭った女性社員たちは盗撮被害はもちろん画像を共有していた同僚男性たちへの不信に陥り、精神を病んで退職したり心療内科に通ったりしているという。
これはキム・ジヨンが仮に独身子無しで働き続けた場合でもそこには落とし穴が待ち受けていたであろう将来を示唆するエピソードである。
というより、キム・ジヨン本人も在職中は知らずに被害に遭っていた可能性もあるわけで(同僚女性は盗撮カメラが仕掛けられたのはジヨンの退職後だと説明しているが確実な保証はない)、そうした底知れない恐怖と不信も心を壊す一要因になっているのだろう。
付記すると、「キム・ジヨン」は二〇一六年発表だが、韓国では二〇二〇年に「n番部屋事件」が発覚した。これは加害男性たちが被害女性たちに強要して入手した性的画像や動画をネットの男性たちが会員制のSNSで共有して被害女性たちへのさらなる虐待や侮辱を煽るコメントをしていた大規模なデジタル性犯罪事件である。
キム・ジヨンの元の職場での盗撮事件のエピソードはいわばミニ「n番部屋事件」であり、実際の大規模な事件を予兆するものだったと言えよう。
話は変わって、作者のチョ・ナムジュは一九七八年生まれ。作中のヒロインより四歳年長である。韓国の名門、梨花女子大学(日本ならお茶の水女子大と津田塾大を併せたような位置付けだろうか。ちなみにこの大学は韓国のフェミニズムを学術的に牽引する役割を果たしている。前述したように作中では妊娠したヒロインを電車で罵倒する女子大生が出てくるが、これはわざわざ大学名の入ったジャンパーを着ていることからして梨花女子大生である可能性が高い。韓国では近年、非婚非産を掲げる若いフェミニストのグループが台頭しており、そうした後輩の女性たちへの作者の危惧を示したものだろうか)を卒業し、テレビ局で放送作家として十年ほど活動した後、二〇一一年に小説家デビューしたという。
「キム・ジヨン」には二つ上(つまり一九八〇年生まれ)の姉のウニョンがおり、妹を優しく見守るこの姉は作者自身の投影とも察せられる。
小説中では成績優秀な姉のウニョンが当初は首都のソウルの大学に進んで放送局のディレクターになることを志望する。
しかし、母親の「学校の先生は結婚出産後も女性の働ける仕事だから」という意向を受け入れて最終的にはこの姉は地方の教育大学に進む。
この辺りは日本の女性の進学・就職事情と似通っているが、恐らくは作者のチョ・ナムジュも進学に際してはウニョンと同じような言葉をかけられた経験があったのだろうし、そうした同級生の女子を見かけることもあったのかもしれない。
地方の教育大学に進んで教職を目指す道を選んだウニョンは作者自身が想定したもう一つの人生でもあるのだろう。
ちなみに、キム・ジヨンが心を壊すきっかけになった見ず知らずの男性から「ママ虫」と罵倒されたエピソードは、チョ・ナムジュ自身の経験が元になっているそうだ。
キム・ジヨンと姉のウニョンはいずれも作者の分身と言えよう。
作中のキム・ジヨンに焦点を戻すと、彼女は二つ上の姉ウニョンと五つ下の弟(名前は出てこない。作中の男性キャラクターには夫であるチョン・デヒョンを除いて名前を与えられておらず、『父』『弟』『彼氏』等ヒロインにとっての関係性でしか呼ばれない。巻末の伊東順子氏が解説でも指摘しているように、これは女性を周辺の男性にとっての『母』『姉または妹』『彼女』という付属物として扱う韓国社会のミラーリングだろう)がいる次女であり、この家庭内でのポジションが根本的な自己肯定感の低さに繋がっている。
幼少期から韓国の男尊女卑に染まった家庭において(ただし、娘二人には飽くまで本人たちの意志を聞いて大学まで出すなど韓国としてはそこまで極端な女性蔑視、虐待家庭ではない。男児を望む祖母や父親も同世代の韓国人としては平均的なタイプだろう)、姉にとっては未熟で幼い妹であるにも関わらず、年の離れた弟に対しては世話を焼く姉であることを要請され続ける。
ジヨンは末っ子の弟より尊重されない自分を子供時代から認識せざるを得ない。
なお、「キム・ジヨン」では母親のオ・ミスクも重要な役割を占めており、娘の幼少期と並行して母親の受けた苦しみも描かれる。
実際には医師になった兄たちよりも優秀だったにも関わらず国民学校(日本の小学校に該当する)を出た後は長姉(つまりオ・ミスク自身も次女である。韓国人家庭において男児はもちろん長女と比べても序列の低い女児という位置付けであろう)と共に工場の劣悪な環境で働いて兄や弟の学費を稼ぎ、兄弟たちは当たり前に大学を卒業する一方で本人は苦学して高卒資格を取った母親。結婚後は手先の器用さを活かして内職や出張美容師で家計を支え、最終的にはお粥屋を出して繁盛させる。
途中で幼い娘に
「(教育大学に行った弟と同じように)本当は学校の先生になりたかった」
と挫折を語る場面はあるものの、全体としてこの母親はむしろ「強く逞しい女性」像である。
だが、彼女には恐らく娘たちには語っていない、語れないであろう傷もある。
次女のジヨンを出産した翌年、オ・ミスクはまたも妊娠するが、産婦人科では女児と告げられる。夫や姑の言葉から次こそは男児を期待されており、女児は望まれていないと絶望した彼女はジヨンにとっては本来は年子の妹になるはずの胎児を中絶し、心に深い傷を負う。
日本でも中絶手術は実際には三十代前後の既婚女性が受けるケースが多いというが、韓国でも恐らくは事情は同様なのだろう。
のみならず、文中では一九八〇年代の韓国で女児の中絶が数多く行われ、第三子以降は男児が女児の二倍以上だった現実が指摘されている。
つまり、キム・ジヨンが生まれた一九八〇年代の韓国においては女児は間引かれる対象であり、状況が一つ違えばジヨンも姉のウニョンも生まれる前に中絶されていたかもしれないのである。
「キム・ジヨン」でヒロインが最初に憑依して本心を語るのがこの実母なのは、この実母や同世代の韓国人女性たちはもちろん生まれる前に殺された女児たちの怨念を代弁させる意図もあったように思える。
ちなみに、二番目に憑依するのは三歳年上(一九七九年生まれ)の先輩女性だが、こちらは前年に二番目の子を出産して亡くなっている。お腹の子供が生まれるのと引き換えに殺された女性の死霊と言えようか。
本来は夫と同い年で学生時代には片想いして告白したこともあったはずの先輩女性の魂は
「ジヨンは今は追い込まれているから夫のあなたが労らなくていけない」
と語る。
何となくこの女性本人も周囲からの有形無形の抑圧や夫からの無理解に擦り減らされる結婚生活の果てに亡くなったのではないかと思わせる点も悲しい。
キム・ジヨンの夫のチョン・デヒョン――妻の三歳年長なので一九七九年生まれ――は同世代の韓国人男性はもちろん日本人男性にとっても共感できる人物だろう。
彼は本人の意識上においては妻や一人娘に愛情を持って大事にしているのであり、決して身体的な暴力を振るったり侮辱を繰り返したりしている訳ではない。
キム・ジヨンの母親が女児を産んだり家計を支えるべく内職をしたりする度に否定的な言葉を投げ付けた父親と比べれば、この夫はまだ男尊女卑の薄くなった世代の韓国人男性と言える。
しかし、キム・ジヨンは「自分も家事や育児を手伝うよ」(これは進歩的なつもりでいる日本人男性からも良く出る言葉だ)という夫の言葉から、
「ここはあなたの家庭なのにどうして他人に施しをしてやるような言い方をするのか」
と彼の無意識の傲慢さを感じ取る。
また、実母のオ・ミスクが娘に憑依する形でこの夫が妻同伴で自分の実家には長らく帰省する――キム・ジヨンはいわゆる舅・姑である夫の両親の言動に抑圧を覚えている――一方で妻の実家には訪れてもすぐ帰ってしまう身勝手さが非難されている。
夫のチョン・デヒョンは一見すると旧世代の男尊女卑から脱した愛妻家の韓国人男性に潜む無意識の女性蔑視を象徴する人物である。
あらゆる抑圧的な経験から他の女性が憑依する言動を繰り返すようになった妻の言動をこの夫は「精神異常」と捉え、心療内科に通わせる。
そのカウンセリングのカルテが序章と最終章になっているのが「キム・ジヨン」の小説としての構成である。
中国の文豪魯迅の代表作の一つに精神異常者の日記という体裁で当時の中国社会の旧弊を告発した「狂人日記」がある。いわばこれは韓国女性版の「狂人日記」であり、他の女性が憑依して夫を批判するヒロインの言動が社会的に異常の烙印を押された結果と言える。
ヒロインを心療内科に通わせる夫は彼の意識上では育児疲れした妻を心配している。
しかし、それは同時に自分を非難する妻の言葉を真正面から受け止めず、むしろ妻側を矯正すべき異常者にカテゴライズする無意識の女性蔑視でもあるのだ。
なお、「キム・ジヨン」の最終章はヒロインのカウンセリングを担当した男性精神科医本人の内面も描いている。
それまでヒロインが受けた有形無形の女性差別に満腔の同情と理解を寄せる彼。
しかし、物語は家では専業主婦で明らかに精神的な疲弊の見える妻に子育てを丸投げし、同僚の女性医師が出産を機に退職するに当たって
「子持ちの女性は色々難しいから新しいスタッフには未婚女性を雇おう」
と考える欺瞞に満ちたこの男性精神科医の姿を映し出して終わる。
結局は彼もまた男尊女卑的な社会構造に加担する韓国人男性の一人なのだ。
これは単純に知識層を含め韓国人男性全体への諷刺である以上に、カウンセリングや精神医学を盲信する風潮への皮肉にも思える。
フロイトを代表格とする十九世紀後半から二十世紀前半の精神医学は女性を歪曲するものであったとしてフェミニストが非難する動きも二十世紀の後半には起きている。
無意識の男尊女卑を温存している男性精神科医の姿はアカデミズムの場にも根を張っているミソジニーの象徴にも見える。
話をキム・ジヨン本人に戻すと、物語は二〇一六年、男性精神科医のカルテでは回復に向かいつつある三十四歳の彼女の姿で終わっている。
今年二〇二二年、韓国では
選挙中は女性家族部の廃止を掲げて女性団体から批判された、韓国のフェミニズムにとっては逆風になりそうな指導者だ。
韓国初の女性大統領だったが批判の絶えなかった
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