ベトナム映画「第三夫人の髪飾り」を観て――九〇年代のアジア映画と共に
二〇一八年公開、ベトナムの女性監督アッシュ・メイフェアによる映画「第三夫人の髪飾り」をAmazon Primeで観た。
これは三年前に渋谷Bunkamuraのル・シネマで上映しており、美術展帰りに知って興味は抱いたものの時間的に観る余裕がなく、売店でパンフレットだけを買って帰った作品だ。
セル化はされたもののDVDは高いので、家のAmazon Primeで観られると分かった時にはとても嬉しかった。
映画の舞台は一九世紀のベトナム。十四歳のあどけない少女メイが旧家の第三夫人として嫁ぐ。
夫は父娘ほども年の離れた中年男性。
既に大きな息子のいる第一夫人ハ(日本語にするとカタカナ一文字だけの名は違和感があるが字幕では『ハ奥様』『ハ夫人』『ハさん』等と呼ばれている)は成熟した気品ある中年女性。
幼い三人の娘のいる第二夫人スアンはまだ年若く歌も巧みな艶やかな美女。
映画はこの三人の妻を中心にした女性たちの愛と哀しみの物語である。
中国の
こちらは鞏俐演じる十九歳の女子学生が実父の死により大学を中退して父親ほど年の離れた旧家の主人に第四夫人として嫁ぐ。
成人した息子のいる第一夫人はもはや老婆の風貌であり、娘のいる第二夫人は品の良い中年女性、幼い息子を持つ第三夫人はまだ若く艶やかな、元は京劇俳優の美人である。
「第三夫人の髪飾り」は「紅夢」の女性たちをもう一世代若く(ヒロインに関しては幼く)したリメイクじみて見える。
ちなみに「第三夫人の髪飾り」には「紅夢」より妻が一人減った代わりに第一夫人より年配の女中頭ラオが出てくる。
祭事でも普段の家事でもそつなく動く彼女は
「男の子を産まなければ駄目ですよ」
「男の子を産んでないスアンさん(第二夫人)は奥様とは言えない」
とまだ幼い第三夫人のメイに告げる。
彼女は使用人ではあるが一家の家政に欠かせない存在であり、三人の妻たちにとっては無碍に出来ない、ある意味、姑に近い役割と言えよう。子供たちの乳母役も務めており、祖母的な立場でもある。
「第三夫人の髪飾り」は、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を取った中国の「紅夢」はもちろん、一九九三年に公開されて日本でも話題を呼びベトナム映画の金字塔となった「青いパパイヤの香り」等、九〇年代アジア映画のオマージュといった印象が全般にある。
パンフレットを確認したところ、そもそも「青いパパイヤの香り」のトラン・アン・ユン監督が美術監修を務めていたと分かった。
しかし、中国の「紅夢」が四人の妻及び女中が一家の主人の寵愛を巡って陰湿な争いを繰り広げるのに対し、ベトナムの「第三夫人の髪飾り」に登場する妻同士はむしろお互いを思いやる和やかな間柄である。
十四歳のヒロインは第二夫人の娘(二人いる娘の内、長女のリエンは劇の前半で初潮を迎えることからして恐らくは十二、三歳。本来は第三夫人のヒロインと大差ない年頃のはずである。そもそもヒロインが十四歳で嫁いだのも初潮を機に成人扱いされ縁談が舞い込んだ結果と考えられる)に髪の
これは中国とベトナムの国民性の違いであろうか。
ちなみに前者は中国の男性作家、
パンフレットでも「他の夫人と競争したり嫉妬したりしなかったのか」との監督の問いに対して曾祖母が「当時は生活するだけで大変で妻同士で助け合わなければ成り立たなかった」「社会の抑圧が厳しく女性同士で痛みを分かち合うしかなかった」との趣旨を答えた記述があった。
男性によるフィクションでは女性たちが一人の男性の寵愛を巡って敵対するが、女性が女性にヒアリングして作ったフィクションではむしろ女性たちが一人の男性を共有するかのように寄り添う。
むろん、十九世紀のベトナムの一夫多妻制家庭においても「紅夢」のような妻たちが陰湿な諍いを繰り返す家庭、陥れるべくしのぎを削る関係性はあっただろう。
しかし、離婚が容易でなかった、一度嫁げば婚家に永続的な従属が強いられる社会においては、妻同士がむしろうまく付き合っていこうとする場合も多かっただろうし、その方が自然でもあるように思う。
日常的に顔を合わせていれば、嫁いできた女性が他の妻の子供たちと親しく関わるようになる方が現実的な反応でもある。
「第三夫人の髪飾り」の年齢的にはまだ少女のメイを含む三人の妻たちが夫との性生活を語り合って秘密を共有するくだりなどは、何となく性愛で夫を操縦する共犯関係というか、ホモソーシャルの女性版めいた印象すら受ける。
前述したベトナム映画の名作「青いパパイヤの香り」で初々しいヒロインを演じたトラン・ヌー・イェン・ケー。
彼女が「第三夫人の髪飾り」では穏やかでありながら家族の一人一人に目を配り家政に采配を揮う第一夫人ハを好演し、画面を引き締めている。
過去の代表作では身分の低い女中から初恋のエリート音楽家の妻になり最後には身籠るヒロインに扮した俳優が、この作品では一人息子の将来を案じつつまだ年若い妾たちが驕らないようにそれとなく釘を刺す正妻を演じる。そこに時代の流れと共に皮肉も見える(なお、トラン・ヌー・イェン・ケーは『青いパパイヤの香り』のトラン・アン・ユン監督作品の常連俳優であるばかりでなく実生活でも結婚している。正にベトナム映画界における正妻と言えよう)。
ちなみに、「紅夢」のヒロインを演じた鞏俐が一九六五年生まれ、「紅夢」出演時二十六歳。
トラン・ヌー・イェン・ケーは一九六八年生まれ、「青いパパイヤの香り」出演時二十五歳。
一九九〇年代のアジア映画で鮮烈なヒロインを演じたこの二人はほぼ同世代である。
「第三夫人の髪飾り」でヒロインのメイを演じたグエン・フォン・チャー・ミーは撮影当時十三歳。九〇年代のヒロインたちのほぼ半分の年齢だ。
彼女がこれからも演技者の道を歩むかは定かでないが、何となく劇中で壮年の主人がまだ少女の妻を迎えるのに似た、芸能界における俳優の「青田買い」、もっとはっきり言えば児童労働的な搾取といった印象も受ける(後述するベトナム本国での作品炎上もここに端を発している)。
それはそれとして、「第三夫人の髪飾り」はキャスティングもそうだが、冒頭の民族楽器の演奏が流れる伝統的な結婚式の場面や蚕の蠢く官能性を帯びた描写など諸処に「青いパパイヤの香り」というかトラン・アン・ユン作品を意識した演出が見える。
これは前述したようにそもそもトラン・アン・ユンその人が美術監修に携わっているのが大きいが、メイフェア監督自身の先達へのリスペクトの表れだろう。
ただ、初夜を含む夫ハンとまだ少女であるメイとの性行為の描写はやや露骨で果たして作品としても必要なのか、むしろ損なっているのではないかとの印象を受けた。
他の人物たちの性の描写も全般にあからさまで煽情的に感じた。
「紅夢」では妻たちがそれぞれの閨房に迎え入れる夫の素顔を敢えて明確には映し出さず、彼を妻たちの生殺与奪の権利を握る不気味な存在として観客に印象付ける演出が取られていた(これは妻たちが血道を上げて寵愛を競うのは生殺与奪の権利を握られた恐怖からであって具体的な顔、人格を備えた夫を愛しているからではないという、夫にとっても実は残酷な現実を示す演出でもある)。
また、「青いパパイヤの香り」では性の描き方はもっと暗示的でそこに却って匂い立つような官能性や美学を感じた。
それだけに「第三夫人の髪飾り」の露悪的な描写は表現の後退に思えて残念だった。
あるいはまだ幼い妻を欲望の対象にする壮年の夫のハン(複数の妻たちとの官能的な生活を楽しむ一方で私通した使用人を鞭打つエゴイスティックな面も併せ持つ。これが当時の旧家の男性としてはリアルな姿だろう。家父長として一家に君臨する彼の中で二つは矛盾した行動ではないのだ)や道ならぬ恋に溺れる息子のソン、そして官能的な女性たちの姿を隠さずに映すことで血肉を備えた人間を描きたかったのかもしれないが、率直に言って、ポルノグラフィ的な印象が拭えない。
作品の時代背景に言及すると、「青いパパイヤの香り」の舞台が一九五〇年代のフランスからの独立間もない時期のベトナム、南部にある国内最大都市のサイゴンであるのに対して、「第三夫人の髪飾り」は封建的な一夫多妻制が機能する一九世紀のベトナム、しかも山河の深い北部のチャンアンだ。
パンフレットの地図で確かめると、チャンアンは同じベトナム北部の首都ハノイや南部の都市サイゴンよりも隣国のラオスに近い。
つまり、「第三夫人の髪飾り」の舞台となる時代は先行作品の「青いパパイヤの香り」より更に過去に遡っており、しかも未開(という言葉を使うべきではないかもしれないが)の地域にスライドしている。
いかにもベトナムの伝統的な服飾や音楽を盛り込んだ結婚式や祭事、花嫁の処女性の証明となる初夜の破瓜の血が着いた敷布を吊るす翌朝の描写などそれ自体の魅力や神秘性を認めるとしても海外の観客を意識したオリエンタリズムへの迎合と言えなくはない。
実際、「第三夫人の髪飾り」はベトナム本国では公開前から猛烈な批判を浴び、公開四日で打ち切りになったとの記事をネットで目にした。
表面上は
「まだ少女である主演俳優に刺激の強い性愛の場面を演じさせるのは虐待である。そのような作品に我が子を出演させた主演俳優の母親は金のために娘を売った人非人だ」
といった非難だが、本質的にはベトナム社会の旧悪を強調した作品への反発だろう。
ちなみに「紅夢」の張芸謀監督も国内では「中国の旧弊な面ばかり強調する作品を撮って外国に媚びている」という批判を受け続けてきた。
張芸謀と鞏俐がコンビを組んだ作品を観た当時は中高生だった自分はそのようには感じなかったが、今、四十歳になってオマージュを込めた「第三夫人の髪飾り」を観るとそうしたあざとさをやはり感じ取るようになった。
とはいえ、「第三夫人の髪飾り」には「紅夢」や「青いパパイヤの香り」といった先行作品にはない独自性もかなり見受けられる。
第二夫人の次女ニャンは
「私は大きくなったら男になって奥さんを沢山もらう」
と語る。
これは実母のスアンを含めた父の妻たちの抑圧された立場はもちろん、この次女自身がいわば妾腹の娘で跡継ぎである異母兄のソンより格段に軽んじられる境遇から生じたやるせなさの現れだろう。
祖父は第二夫人の娘たちを孫として可愛がりはするし、異母兄も腹違いの幼い妹たちを馬に乗せてやるなど決して険悪な間柄ではない。
だが、子供たちの中で経済的に常に優先されるのは家の跡継ぎと目された第一夫人の長男ソンである。
しかし、異母妹たちより優遇される跡取り息子の長男ソンとて本当の意味では自由ではない。
物語の後半は、密かに父親の第二夫人スアンと道ならぬ関係に陥っているソンの結婚を巡る悲劇がメインになっている。
スアンへの想いが断ち切れない彼は親同士が決めた結婚で嫁いできたまだ幼い花嫁トゥエットとの初夜を拒否する。
夫となる相手からも実の父親からも「家名に泥を塗った」と拒絶された少女は川の畔の木の枝で首を吊った。
死に化粧を施された眠っているかのようなあどけない死に顔に蛾が留まって這う場面は本当に痛ましい。
主人の子を妊娠したメイは繭を作る蚕のイメージと重ね合わされるが、純潔の身のまま死の世界に旅立つトゥエットは蒼白い
幼い花嫁を拒絶する青年ソン(あどけない風貌ではあるが、スアンと繰り返し性関係を持っており、彼女の末娘を自分の子と考えていた描写からしてももう少年の括りではないだろう)。
彼は確かに親から望まない結婚を強いられた犠牲者ではあるが、それはトゥエットも同様である(余談だが、元SMAPのメンバーである俳優の稲垣吾郎氏がコラムでこの映画を取り上げ、ソンについて『グダグダいうだけのポンコツでどうしようもない』『本当の被害者は自殺した少女だ』と一刀両断していたのを覚えている。稲垣氏は男性だが、子供時代からショウビズの世界に身を置いて消費や搾取にも遭ったであろう彼には、周囲のエゴでモノのように扱われ、孤独の中で死んでいく少女の痛みの方がより共感できたのだろうか)。
短い命を絶った彼女には本人の意思で人生を歩む何の選択肢もなかった。
この悲劇はヒロインのメイの出産と並行して描かれる。
既に主人の子を孕んでいたメイは第二夫人と長男の密かな関係をある晩に偶然目にして知るものの、ひたすら沈黙して一連の悲劇を傍観するしか出来ない。
首を吊るトゥエットはメイよりもう少し幼いと思われる年配の少女である。
少しタイミングが違えば、父親の第三夫人として嫁いで寵愛され出産したのはトゥエットだったかもしれないし、長男に嫁いで拒絶され死に追い込まれたのはメイだったかもしれないのである。
他の夫人たちと老女中のラオに助けられて娘を出産するメイと一人首を吊るトゥエットの姿が交錯する形で映し出される演出は、そんな個人の資質を離れた運命の理不尽さを浮かび上がらせているように思える。
トゥエットの棺が川を下っていくのを生まれたばかりの娘を抱いて見送るメイの脳裏に嫁いできてからの日々が蘇り、涙が溢れる。
泣き止まない赤ん坊の娘に疲弊した彼女の目にふと傍らに咲いた黄色い花が映る。
これは第一夫人が瀕死の馬を安楽死させるために食ませた毒草だ。
今、これを赤ん坊に噛ませれば自分たちと同じ女として苦しむ生を送らなくて済むのだ。
黄色い花を摘み取って赤子の口元に近付けるメイ。
しかし、その瞬間、赤ん坊の娘はまるで生きたいという意思表示のように泣き止んで口を閉じる。
そして、周囲の女性たちの悲しみと苦しみを具に見ていた第二夫人の次女ニャンは女性の象徴である長い髪を切って川に流し、どこか挑むような眼差しで視聴者のいるこちらを見据える。
これが映画のラストシーンである。
いつもは女性たちが沐浴に使う、そして、本来は自分の義姉になるはずだった少女がその畔で首を吊った川に自らの髪を切って流す幼いニャン。彼女の本心はもはや「男になりたい」ではなく「女でいたくない」だろう。
だが、現実的に考えてニャンの近い将来に待ち受けているのは、メイやトゥエットと同じ、親の決めた相手との結婚である。姉のリエンには既に嫁ぐ予定が決まっている。これも親が決めたということ以外には何も知らない、会ったことすらない相手への嫁入りである。
それは実母である第二夫人や息子に望まない結婚を強いた第一夫人もかつては強いられた運命であった。
使用人たちも若い女中の一人は恋人の下男の子を身籠ったまま家を追い出されて寺に入った。
独身のまま奉公人生を送った老女中のラオは若い頃に漁師だった恋人と結ばれず、彼がくれた石のペンダントを今も形見に身に着けている。
「第三夫人の髪飾り」に登場するのは、いずれも悲しい女性たちばかりだ。
「青いパパイヤの香り」はヒロインが使用人の立場から想いが叶って初恋の相手の妻になり、夫の手解きで文字を覚えて理知的な女性に成長し、腹に新たな命を宿した希望溢れるラストであった。
このラストは正に「全てを手に入れた幸福なミセス・サイゴン」というか「ミス・サイゴン」に代表される欧米産の「悲劇のベトナム(あるいはアジア)女性」像からの脱却である。
「第三夫人の髪飾り」のラストは旧い社会に閉じ込められた悲しい女性たちの姿であり、「青いパパイヤの香り」の新しい女性のイメージからむしろ退却しているように見える。
これには十四歳(映画のヒロインが生家を出て嫁ぐのと同じ年である)でベトナムを離れ、欧米で教育を受けたメイフェア監督の未だ旧弊の残る祖国への愁いが反映されているのだろうか。
中国の「紅夢」では、出入りの医師との密通が露見した第三夫人が家の掟として殺害され、その現場を目撃したヒロインの第四夫人は精神に異常を来たす。
そして、季節はまた巡ってまだ少女のようにあどけない第五夫人が嫁いでくる。
抹殺された第三夫人(と発狂した第四夫人)の穴埋めとして嫁いできた彼女は虚ろな目で邸の中を徘徊するヒロインの痛ましい姿を目撃する。
この新しい幼な妻も恐らくは先に嫁いできたヒロインたちのような犠牲者になる将来が予感される幕切れである。
「第三夫人の髪飾り」と「紅夢」の決定的な違いは、本来は義理の息子と密通した、当時の社会からすれば重罪人であるはずの第二夫人スアンが現実的な制裁を受けず、代わりに罪なき息子の花嫁が自殺に追い込まれる点だろう。
「紅夢」でも第四夫人のヒロインが年の近い正妻の長男に惹かれるものの相手から拒絶される展開になっているが、一夫多妻制で年老いた夫に嫁がされた若い女性が身近にいる若い男性と通じるケースは現実に少なくなかったことだろう(ちなみに中国の近世には舅が息子の嫁に手を出すことを意味する『灰を掻く』という隠語があった。『紅楼夢』でも舅との密通の露見した女性が自殺するエピソードがある。こちらも家父長制の大家族家庭では少なくなかったのだろう。『第三夫人の髪飾り』でも主人の老父が自分の身辺の世話をする息子の嫁たちの体に親しげに触れる等、危うさを感じさせる描写が出てくる)。
しかし、「紅夢」で出入りの医師との密通が露見した第三夫人梅珊には夫の命で使用人たちから殺害されるという制裁が待ち受けていた。
前述したように「第三夫人の髪飾り」の劇中でも使用人同士の私通により妊娠した女性側は解雇だけでは済まず頭を丸めてお腹の子供共々寺に入れられ、男性側は主人から鞭で打たれるものの家に残されるエピソードも出てくる。
第二夫人スアンと跡取り息子ソンの密通が露見した場合、主人の実子かつ男性であるソンはさておき、スアンは離縁どころか主人から殺害された可能性すらある(二人の密通を目撃したメイが飽くまで見て見ぬふりをして沈黙するのは家内の平穏のためでもあるが、自分に優しくしてくれる、そして同性愛的な思慕を寄せているスアンを現実的に守るためでもあろう)。
義理の息子ソンとも通じ、本来は夫の寵愛を競う相手であるはずの幼い第三夫人メイとも唇を重ねる、官能の申し子のような第二夫人スアン。
パンフレットを見ると、この役を演じたマイ・トゥー・フォンは元はモデルで本国では歌手として活躍している人のようだ。
劇中で彼女が歌う場面がよく出てくるのは本来は人気歌手であるという本国での扱いの反映だろう。
三人の妻の中でも一際背が高く、率直に言って、密通の相手であるソン青年と大差ない体格だ。
パンフレットではモデル出身の彼女の身長は一七四センチ。これは平均身長一五六センチで日本人女性よりももう少し小柄なベトナム女性としては破格の長身だろう。
伝統衣装を着ていても、あるいは川で沐浴をしていても、スアンの表情や肢体にはどこか欧米のファッションモデルじみた洗練された雰囲気が漂う。
この艷麗なキャラクターは第一夫人や女中頭のような家や社会の規範に忠実な女性たちからの逸脱を意図した存在であろうか。
夫以外の男性とも関係を持つ女性自体は「金瓶梅」の
考えてみれば、異性との結婚を否応なしにさせられる社会でも当然同性愛者がいたように両性愛者もいたはずである。
そうした気付きを観客に与える点でも高く評価したい。
先行作品の「紅夢」との相違点をもう少し挙げると、ヒロイン自身の顛末も大きく異なる。
中国の「紅夢」のヒロインは夫の子を身籠ることは敵わないまま発狂し、末尾では「元第四夫人」と使用人に呼ばれることからして妻としては廃位され、日々邸の中を徘徊するだけの座敷牢の住人にされたと察せられる。
「第三夫人の髪飾り」のヒロインは無事に出産し、ラストでも精神の均衡を失うには至らない。
産まれたのは女児で「男児を産むべし」という周囲からの要請をクリアしてはいないものの、まだ若い彼女の妻としての地位は保全されている。手にした毒草を赤ん坊の娘に噛ませようとして結局どうしたのかは敢えて示さず観客の想像に委ねるラストだが、決定的な破滅を印象づける結末ではない。
何はともあれ、ラストで生き残った三人の妻たちも、髪を切り落とした次女も、その後はそれぞれの形で強かに生きていったのかもしれない。
というより、彼女らが生き抜いて次世代に命を繋いだからこそ、「実話に基づいた作品」としてこの映画が生まれたのだろう。
決してハッピーエンドではないものの、そんな光明も感じさせる作品である。
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