昭和は遠く、まだ近く
これまでも繰り返し書いたことだが、私は一九八二年、昭和五十七年生まれである。
小学校入学は平成元年なので、義務教育以降は平成の世代ということになる。
平成も二十年以上経った現在では、「昭和」というと戦前・戦中でなければ「三丁目の夕日」に代表されるような高度成長期を想定している場合が多いように思う。
いずれも、三十四歳で社会では中堅世代に該当する私がまだ生まれていなかった頃だ。
「昭和」といっても六十年余りも続いた時代なので、昭和初期に生まれた世代と自分のような末期に生まれた世代とでは祖父母と孫ほどの開きがある。
この五月に演出家の蜷川幸雄氏が亡くなった。一九三五年、すなわち昭和十年生まれ、満八十歳での訃報である。
私は蜷川氏の名前を知っているだけで一度も舞台を観たことがないが、この人は舞台の完成度の高さばかりでなく、起用した俳優たちへの暴力も辞さない厳しい指導でも有名だったようだ。
葬儀では同じ昭和初期生まれの平幹二郎や高度成長期生まれの大竹しのぶ、吉田鋼太郎に並んで、小栗旬や藤原竜也といった私と同世代の俳優たちも弔辞を読んだ。
それぞれの全文が記載された記事を見た。
以下、一部を抜粋する。
平幹二郎
「でもあなたは一度も僕の演技を褒めてはくれませんでした。シャイだと言うことは分かっていましたが、僕は何とかあなたから褒めことばを引き出したく、熱演に熱演をつづけました。肺を痛めてしまうまで」
大竹しのぶ
「こうしている今も、私は蜷川さんに出会えた喜びと感謝の言葉しか浮かんできません。稽古場に響き渡るあの怒鳴り声。他では決して味わえることができない、 あの心地よい緊張感。いい芝居をしたときに見せてくださるあの最高の笑顔。それらはこれからの私の演劇人生の中で色あせることなく輝き続けることでしょう」
吉田鋼太郎
「僕がこんなに超売れっ子俳優になったのは蜷川さんの責任です。責任とって下さい。しーんとした稽古場は嫌だけど、つまんないジョークに笑わなくていいぞと、蜷川さんがそういうお顔をしていましたね」
「もう少ししたらいきます。シェークスピアも混ぜてやって、一緒に芝居つくりましょう。もう少し待っていて下さい」
小栗旬
「なんででしょうね。輝かしい思い出の日々のはずなのに、怒られたことばっかりが出てきます。本当にお前みたいな不感症とは二度と仕事したくない。下手くそ。雰囲気。単細胞。変態。はぁー、君おじさんになったね、なんかデブじゃない? デブだよ、デブ。なぁ、りえちゃん、そう思わない? ピスタチオみたいな顔。あ、この最後のは(藤原)竜也にいわれた言葉でした。もっとうまい文句もいろいろ言われたのですが、そのへんは右から左に流していたので忘れてしまいました」
藤原竜也
「先日ね、公園で1人、ハムレットの稽古の録音テープを聞き返してみましたよ。恐ろしいほどのダメ出しの数でした。瞬間にして心が折れました」
「1997年、蜷川さん、あなたは僕を生みました。奇しくも蜷川さん、昨日は僕の誕生日でした。19年間、苦しくも、まぁほぼ憎しみでしかないんですけどね、蜷川さんに対しては。本当に最高の演劇人生をありがとうございました」
むろん、これらはいずれも弔辞の一部を抜粋したものであり、私の目に付いた部分を拾ったバイアスが懸かっているかもしれない。
だが、小栗旬や藤原竜也のコメントからは、明らかに他の年長者三人よりも、故人の指導法に対して反発や受け入れがたい思いを抱いていた様子が浮かび上がる。
もっと、はっきり言えば、二人の発言からはパワハラ被害者の加害者に対する怒りや怨念が感じられる。
もちろん、芸能界はそもそも特殊な業界であり、少年期からそうした世界で活動している彼らと一般人の自分とでは完全に同じ感覚ではないかもしれない。
しかし、昭和末期に生まれ、平成初頭に教育を受けた私たちの世代にとっては、義務教育の段階で既に「体罰・暴力はいけないこと」が共通の認識であり、更には相手の容姿や体形を嘲るといった「言葉の暴力」も明確に「暴力」のカテゴリに入れられていた。
また、二十代に入って多くの人が社会に出る頃には、「セクハラ」はもちろん「パワハラ」の弊害も明確に概念化され、一般の職場では部下が上司を訴えるケースも珍しくなくなった。
そうした世代の感覚からすれば、蜷川氏の行動は指導的な立場を利用した「体罰・暴力」「パワハラ」といった性格の強いものであり、決して全肯定できるものではない。
芸能界という特殊な業界だからこそ成り立った旧弊である。
率直に言って、蜷川氏や平幹二郎のような戦前生まれの世代にとって上の立場の人間からの体罰や暴力は子供の頃から日常茶飯事だったと推察される。
元は俳優だった蜷川氏にしても若い頃は本人が理不尽な暴力に晒され続けた結果、自分もそうした指導を取ることに疑問を抱かなかったのかもしれない。
大竹しのぶや吉田鋼太郎のような高度成長期生まれの世代にとっても、むろん目上の相手からの仕打ちに理不尽を覚える瞬間はあったにせよ、「パワハラ」という概念が一般的ではなかったため、本人の意識の上でも相手の非を訴える方向には動けなかったのかもしれない。
世代の異なる五人の俳優たちの弔辞に漂う温度差は、「昭和」と「平成」の間に横たわる溝の深さともどこかで繋がっているように思える。
話は変わって、先日、上海ディズニーランドがオープンした。
一九八三年の東京、二〇〇五年の香港に続いて、アジアでは三番目のディズニーランドの開園である。
だが、日本での報道は開園待ちの一般客の様子を映し出して「中国人のマナーの悪さ」の例として紹介したり「初日からアトラクションに不備が見つかった」と設備や安全管理の未熟さを強調したり、率直に言って、ネガティヴキャンペーンの匂いのするものが目立った。
むろん、中国本土出身者にマナーの悪い人がいたり、また、現地の安全管理に未熟な面があったりする側面は否定しない。
しかし、十年ほど前、香港に開園した際はここまで執拗に貶める空気ではなかった(当時も『東京ディズニーランドと比べるとアトラクションの規模がやや劣る』『本土からマナーの悪い客が来る懸念』といった否定的な報道はあったが、ここでも香港や香港市民よりも本土や本土民を悪玉視する意識が濃厚である)。
また、開園待ちの一般客を恐らくは本人たちの許可を取らずに延々と映し出して冷笑的な文脈で放送するマスコミの態度にも疑問を覚えた。
それこそ、現地の人たちの目には自分たちの粗探しをしようと待ち構えている日本のマスコミの姿がどのように映っただろうか。
一九八三年、昭和五十八年の東京ディズニーランド開園時に欧米のマスコミがどういった反応を示したかは分からない。
だが、もし、開園待ちの一般客の姿を遠巻きに延々と映し出して「日本人はこんなにもマナーが悪い」と冷笑したり、「アメリカ本国のディズニーランドと比べると設備・管理がこんなにも劣っている」と貶めたりする報道だったら、当時の日本人も不愉快になったのではないだろうか。
それなのに、どうして二〇一〇年代の後半にも入って日本のマスコミは中国本土の人に対してはそうした仕打ちが出来るのだろうか。
こうした露骨な蔑視を隠しもしない姿勢に日本人としての余裕のなさが透けて見えるように思う。
上海ディズニーランドをことさら貶める報道をする日本のマスコミというか日本人の本音は、「ずっと下に見ていたはずの中国本土にディズニーランドが出来たのが気に入らない」ではないだろうか。
一九九六年までイギリス領だった香港は、高度成長期以降の昭和の日本人にとっても親しみやすい都市であり続けた。
早世した
率直に言って、今でも「香港映画」と聞いてカンフー映画やアクション映画を連想する日本人は少なくないのではないかと思う。
東洋人としての風貌を持ち、華麗な伝統武術を見せながらも、「ブルース」「ジャッキー」といった欧米的な芸名で登場する場合が多い香港スターたち。
彼らは、豊かになったとはいえ海外旅行がまださほど一般的でなかった昭和後期の日本人たちにとって一種無国籍な魅力を放っていた。
一方、中国本土の映画というと、昭和の後期でも香港映画に比して日本では公開される作品自体が限られており、しかも、その多くは香港映画のようなエンターテインメント性に富んだものとは言えなかった。
本土出身のスターで日本でも比較的有名になった人というと、
「コン・リー」「チャン・ツィイー」といった名前も中国名の標準語発音に基づいたカタカナ表記であり、日本人の感覚としては「純正な中国人」とアピールするものにも映る。
彼女ら個人への好悪はさておき、経済的には日本や香港に劣り、また、政治・社会に抑圧的な感触の強い中国本土には多くの日本人が否定的な印象を抱いている。
「純正な中国人」と思わせるネーミングは決して明るい響きを持っていない。
この感覚は昭和から平成に変わった今も変わっていない。
平成に入って中国本土の目覚しい経済成長が日本でも伝えられるようにはなった。
だが、同時に根強い反日的な気風もクローズアップされるため、かの地への好感度は上がらず、むしろ、不信や反発を強める日本人は増えたとすら言えるかもしれない。
純粋な中国名で本土出身者と分かると、
「きっとこの人も日本や日本人を内心では嫌っているに違いない」
という目線がどうしても入ってしまう。
現在に至るまでの日本での一般的な傾向として、本土の俳優が香港・台湾の俳優と比べて親しまれづらいのは、この辺りも原因であるように思う。
さて、香港が中国本土に回帰したのは一九九七年、平成九年で既に平成の時代に入ってからだった。
当時の日本では「香港返還」と何故かイギリス側の視点に立った呼称で盛んに報道され、しかも、一種の悲劇として捉える見方が主であった。
もちろん、これは「共産主義圏である中国本土に回帰することで香港の自由が失われる」という香港市民の現実的な危機感に寄り添ったものではあった。
だが、そこに加えて香港が「イギリス領」から「中華人民共和国の一部」に転じることで日本人の目に映っていた無国籍な魅力が消えてしまうことへの哀惜や失望感も根底にあったように思う。
だからこそ、本土回帰から数年後に開園した香港ディズニーランドは「本土の他の主要都市に比した香港の依然とした優越性」の象徴として捉えられ、日本人の中にもさほど反発が起きなかったのである。
しかし、そこから僅か十年で、まるで追い落とすように本土の上海に新たなディズニーランドが誕生した。
アジア初の東京ディズニーランドから二番目の香港ディズニーランドの誕生までには二十年余りの歳月を要したが、二番目から三番目までのタイムラグはその半分である。
しかも、東京二〇〇ヘクタール、香港一八〇ヘクタールに対して、上海ディズニーリゾートは四〇〇ヘクタールでアジア最大、世界でも第二位の広さを誇るディズニーパークである。
この数字だけを取っても上海ディズニーは東京や香港に対抗するというより、むしろ凌駕する目的で建設されたと分かる。
上海もここ数年は景気後退しており、上海ディズニーは景気浮揚を期待してオープンした面もあるとのことだ。
それでも、香港の二倍の巨大リゾートを建設するだけの体力が上海にはあったのであり、そこに同じ「中華人民共和国」に属していても「特別行政区」香港と「直轄市」上海の格差が浮かび上がる。
香港で反中国的な出版物を扱った書店関係者が拘束される、反中国的な態度を表明した歌手のコンサート開催に圧力が懸かる。
そういった本土から香港への抑圧・迫害を想起させる事件が相次ぐ中で上海ではアジア最大のディズニーリゾートが新たにオープンする。
この両都市の明暗には私も一抹苦いものを感じざるを得ない。
日本が昭和だった戦前・戦中、租界だった上海とイギリス領だった香港はいずれも日本の侵略の対象になった(上海には日本租界があり、香港は一時期日本軍に占領された)。
日本軍が撤退した戦後、新たに共産化の波に飲まれた上海からは自由を求めて多くの人が香港に移住した。
戦後の昭和の日本人は香港を国際経済の重要拠点かつ一種のオリエンタリズムの都として愛好する一方で、上海を含む中国本土に対しては露骨には出さなくても「貧しく未開な地域」として蔑視する態度を温存した。
昭和から平成に変わり、香港が中国本土に回帰する一方で、上海が新たに国際経済の拠点として台頭する時代になった。
そうなると、日本人の中には香港に対しては同情的に眺める一方で、上海や本土出身者全体に対して戦前の日本人が「チャンコロ」と嘲っていた時のような冷笑を隠しもしない人が増えた。
その結果が、夢と自由を演出するディズニーランド(『アメリカの偽善・欺瞞の象徴』と皮肉る見方もあるが、それはディズニーがアメリカの『正義』を忠実に映し出す鏡として機能してきた何よりの証左である)を相手の後進性を揶揄する材料に使う現状なのは、日本人としても本当に苦々しい。
「中国や韓国は国内での問題から自国民の目を逸らすために反日を利用した」とはしばしば指摘される。
だが、経済や労働、政治家の不正など国内での問題が山積している状況でこれ見よがしに他国民のマナーの悪さを報道して不信や蔑視を煽る日本のマスコミはそれとどう違うのだろうか。
また、中国や朝鮮半島の人を「チャンコロ」「チョン」と嘲って憚らなかった昭和初期の日本人は結果的にどのような方向に流されただろうか。
昭和という時代はは遠ざかったようでまだすぐ近くに漂っているように思えてならない。
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