似て非なる

 梅の花がこぼれ、代わりに、辛夷(こぶし)と木蓮(もくれん)の白い花があちこち開いたと思ったら、早くも散り敷き始めている。


 昔読んだ「カロンの舟に祈りをのせて」という児童小説で「木蓮は辛夷のお兄さんね」とヒロイン姉妹の母が言う場面があった。


 木に咲く花としては大ぶりな木蓮と小ぶりな辛夷とでは、確かに兄弟か姉妹のような印象を受ける。


 どちらもほぼ同時期にビロードじみた蕾から花開く点も、お揃いのコートを脱ぎ着する兄弟姉妹を思わせる。


 ただ、辛夷の花は華奢で可愛らしい花が細い枝にバランス良く咲いている印象だが、木蓮は一つ一つの花は美しくても全体としては「木の枝に間違って咲いたチューリップ」に見える。


 もともと蓮に似ていることから「木に咲く蓮」という意味で「木蓮」と名付けられたわけだが、木蓮の花と枝はどこかちぐはぐな印象がある(『辛夷』もこの字面だと辛い薬味の一種か、中国のどこかの異民族への蔑称に見える。音の上でも『拳』に通じるので清楚な花にはややそぐわない)。


 基本となる面影は似通っていても、辛夷が素直で可憐な妹だとすると、木蓮はどこか融通の利かないお姉さんのような固い感触も受ける。


 なお、前述した「カロンの舟に祈りをのせて」では、闊達で快活な姉と繊細な妹が登場するものの、正ヒロインの妹は若くして病に斃(たお)れる展開になっていた。


 この妹に病気の兆候が現れるのは、白い辛夷の花弁が舞い散る中、膝に痛みを覚える場面である。


 劇中の辛夷と木蓮の対比は、やはり薄命の妹と生き続ける姉の暗喩なのかもしれない。


 ちなみに、「木蓮」は本来、紫色のシモクレンを指すそうだが、私にとって「木蓮」と言えば白いハクモクレンが先に思い浮かぶ。


 近所でも見かけるのはハクモクレンばかりだから、あるいはシモクレンよりも育てやすいといった事情もあるのだろうか。


 シモクレンも赤紫のチューリップかシクラメンが誤って枝に咲いた風だが、色鮮やかな代わりに、どこか毒々しい。


 例えて言うならば、美人ではあっても、厚化粧して香水をたっぷり着けた女性の風情だ。


 ハクモクレンの花は全体としてはクリームが勝った白でも根元はほんのりピンクに色づいていて、ほのかに紅を含んだ白牡丹にも通じる優しい艶やかさが漂う。


 これが辛夷の花だと、真っ白な花弁に赤紫のラインがはっきり入り過ぎたりして、それはそれで魅力的ではあるものの、木蓮のようなふくよかさには乏しい。


 遠目には辛夷の方が見栄えがすると思うけれど、間近で眺めると木蓮の方が好ましく感じる。


 こうしたちょっとした違いが大きな落差をもたらす例は、他にもあるかもしれない。


 例えば、ツバキといえば、花ごと地に落ちる性質から、耽美的なイメージに用いられやすい。同じ名前のシャンプーは、艶やかな黒髪に真紅の花を対照させ、「日本人女性の美」をアピールする演出が取られていた。


 これに対して、サザンカは花弁が地面に散らばるせいか、外見はツバキと見紛うほど似ているにも関わらず、さほど耽美さや艶やかさの象徴に使われることは多くない。


 童謡の「たき火」は「さざんか/さざんか/咲いた道」という歌い出しだが、これは子供たちが冬の路地に集まってたき火をする牧歌的な光景を描出した曲だ。


 しかも、「しもやけ/おててが/もうかゆい」と生活感を強調した歌詞が後に出てくるため、歌詞中に登場したサザンカまでが何やら卑近な色合いを帯びてきてしまう。


 大体、「春を彩る花」といった艶やかな字面の「椿(つばき)」に対して、「山茶花(さざんか)」という文字列そのものが「茶色く生乾きに枯れた汚い花」を連想させる。


 ところが、中国語だと日本語のツバキに該当する花が「山茶花」になり、「椿」はまた別な植物を指すのだという。


 なお、日本語のサザンカは中国語では「茶梅」「油梅」「海紅」といった表記になるようだ。


 複数の名称があることからして、中国人にとってのサザンカはもう少し多様なイメージを持つ花なのだろうか。


「茶梅」「油梅」といった名称からは梅(恐らくは紅梅)に似た花として捉えられていると知れる。


 これには、梅と同じくサザンカが花弁を散らす性質も影響しているのだろう。


 また、「海紅」というもう一つの呼称の字面を見ると、色鮮やかでロマンチックな雰囲気が感じられる。


 ちなみに、前述した「コブシ」「モクレン」に関しては、中国語でも「辛夷」「木蓮」と同じ漢字を当てるそうだ。


 この辺りに、共通点は多くても完全には一致しない日本語と中国語の複雑な関係が見えるように思う。


 そもそも、書き言葉としての中国語が基本的に表意文字の漢字で全て記されるのに対して、日本語は漢字に表音文字のひらがなとカタカナが併用される形であり、そこに苛烈なまでに徹底的な中国人とどこかに曖昧さを残す日本人の違いが現れている気がする。


 話はまた変わって、私は以前にも書いたように「子供たちの遊び」や「バベルの塔」、「雪中の狩人」といったピーテル・ブリューゲル(大ブリューゲル)の作品を見て惹かれた。


 その後、ブリューゲルが「ヒエロニムス・ボッシュの後継者・模倣者」という位置付けであることを知った。


 そして、ボッシュの作品も改めて見て、確かにブリューゲルはこの先行画家の強い影響を受けており、テーマによっては一見するとどちらが描いたのか判別しがたい作品もあるとは感じた。


 だが、ボッシュの絵を見ても、何故かブリューゲルの絵を最初に見た時ほどの親しみや感動は覚えない。


 もっとはっきり言えば、ボッシュの絵はマネキンのように生活感を持たない女性たちの肢体に象徴されるように、洗練されている代わりに冷たい。


 ブリューゲルの描く人物は、「農民の婚礼」に登場するリンゴさながら赤い頬をした花嫁や「農婦の顔」で描かれた魯鈍に口を半開きにした顔つきの農婦に現れているように、どこか土の匂いがする。


 これもまた、似通っているだけに、少しの差異が際立ってしまうケースだろうか。


 ブリューゲルが「ボッシュの後継者」とされつつ、単独の名前を残しているのは、やはり彼独自の個性が認められているからだと思う。


 さて、インターネットが普及した今、ある作品が先行作品の盗作・剽窃の場合は瞬く間に知れ渡るようになった。


 著作権の保護、そして作品制作上の不正防止の観点では、好ましい傾向と言えるかもしれない。


 だが、その一方で、ある作品について「これは先行作品のパクリだ」というのがその作品及び作者を否定・矮小化する常套句になった。


「盗作」「剽窃」ではなく「パクリ」と飽くまで軽い言葉を使っている点に、本当に先行作品の著作権を守ろうとする正義感や不正な制作への怒りではなく、「とにかく新しく出て来た方の作品は否定したい」という安直さや「独自性はとにかく認めない」という偏狭さが感じられる。


 むろん、著作権の侵害や不正な行為は防がなくてはいけないが、個々の良さを努めて見出そうとする余裕は持ちたいと思う。

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