雛人形の面影

 雛祭りが過ぎ、行きつけのスーパーに飾られていた煌びやかな雛人形たちは太い眉を逆立てた五月人形に代わった。


 何でも引っくり返してしまう二歳の娘を懸念して、我が家では今年、雛人形は飾らなかった。


 もっとも、これは福島の実家の母が雛祭り前にこちらに来る機会がなく、私一人では準備が覚束なかった事情もある。


 なお、娘の雛人形は、元々は父方・母方の両祖父母が費用を折半して私に買い与えてくれたものであり、いわば再利用の形でこの子に与えた。


 本来は女性一人に雛人形一式を贈るのが正しいようだが、私としては自分の雛人形を捨てることも躊躇われ、また、箱に仕舞ったままにしておくのも勿体ないと感じたので、娘のものとして飾ることにしたのである。


 ちなみに、今は男雛と女雛しか手元に残っていないが、この雛人形は、元は菅原道真、小野小町、柿本人麻呂の三歌人の段も含めて八段だった。


 父方の祖父母は私が高校生の頃に相次いで亡くなったが、確か、中学生くらいまでは、毎年、雛祭りの時期になると、祖父母宅に雛人形と壷に挿した桃の花を飾ってくれたと記憶している。


 正確な値段などは分からないが、幼い子供の目にも豪奢な一式だったことを今でも色鮮やかに覚えている。


 祖父母たちとしては、最初(特に、父方の祖父母にとっては唯一)の女児として生まれた孫の私に随分、奮発してくれたのである。


 曲がりなりにも結婚できたのは、あるいは、この雛人形の効用かもしれない。


 また、小さな頃から、

「人形には魂が篭っているから、粗末に扱ってはいけない」

「人形を酷く扱うと、自分にも跳ね返ってくる」

という信仰めいた感覚を持ち続けているのも、一つにはこの雛人形の影響が大きい。


 なお、この雛人形一式には木製のオルゴールもおまけで付いてきたようで、ネジを回すと、「うれしいひなまつり」が奏でられた。


 木造のオルゴールのネジを何度も回して「うれしいひなまつり」のメロディが最初は正確に流れていたのが段々緩やかになり、最後は力尽きるようにして止まってしまうまで聴き入った。


 子供の目には演奏スピードが徐々に落ちてついには止まってしまう特性が、オルゴールが段々年老いて息絶えてしまうように見えて少し切なかった。


 ネジを新たに巻くたびに、死んだオルゴールを生き返らせるようなワクワクした気分になった。


 今でも「雛祭り」という言葉から蘇るのは、三歌人も擁した八段の雛人形と壷に挿した花弁の小さい桃の花(恐らくは花の小さい種だったのだと思う)、そして、緩やかに力尽きていくオルゴールの「うれしいひなまつり」だ。


 オルゴールの金属質な音で奏でられると、あの曲のメロディはどこか不気味で哀しく耳に響いてくる。


 祖父母が鬼籍に入り、自分も人並みに母親になってからは、余計にそう感じるようになった。


 実際、歌詞を見ても「お嫁にいらした姉さまによく似た官女の白い顔」という箇所があり、歌詞中の幼い少女には既に結婚した年の離れた姉がおり、加えて、もうこのお姉さんは小さな妹には遠い存在になっていると思わせる。


 ちなみに、今回、この曲について改めてネット検索し、歌詞を担当したサトウハチローには十八歳で結婚前に夭折した実姉がおり、彼女への鎮魂を込めて作詞したとの説があることを知った。


 歌詞中の「姉さま」には死までは連想されないが、作詞された一九三五年は戦前で封建的な気風の色濃かった時代であり、女性にとって結婚は婚家に従属する性格が今より強かったと考えられる。


 適齢期を過ぎた未婚女性を「行き遅れ」、離婚して実家に戻った女性を「出戻り」と嘲る当時の慣習からは、「女性は適齢期に漏れなく結婚し、その後は婚家に骨を埋めるべきである」という通念が反映されている。


 現在でも男女の別なく適齢期を過ぎた独身者は自虐的にならざるを得ない空気があるし、離婚歴があれば「バツイチ」「バツニ」とその回数の分だけネガティヴな経歴として表現する風潮はある。


 しかし、女性に限定して「行き遅れ」「出戻り」と貶す戦前の言葉は、結婚に纏わる女性への社会的圧力が男性よりも遥かに強かった事実を裏書きしている。


 更に言えば、「行き遅れ」には「声が掛かれば結婚できる」という希望がまだ残されているが、「出戻り」には「婚家で破綻して実家に戻ってきた女」という明らかな人格否定の烙印を押す響きが感じられる。


 そんな時代に作られた「うれしいひなまつり」には、雛祭りに心をときめかすあどけない少女に比して、実際に嫁入りした「姉さま」には実家の肉親たちばかりでなく、無邪気な娘時代そのものから切り離されてしまった侘しさも覗く。


 夢見る少女と大人の世界に組み込まれた女性の明暗が微かに揺曳しているだけに、この曲には例えばクリスマスソングのような手放しの明るさではなく、切なさが印象付けられるのである。


 鮮やかな緋毛氈の上に飾られた煌びやかな装いの人形たちには、むしろ、その華やかさ故に、主役の男雛・女雛はもちろん、臣下の官女たちや楽士たちに至るまで、もはや自分からは降りることを許されない運命の残酷さも漂っているように思う。


 子供の頃は、美人顔の女性人形でありながら、女雛様でも官女でもなく飽くまで「三歌人」として二人の男性人形に挟まれて置かれている小野小町の人形が不思議でならなかった。


「三人で昔の有名な歌人だから」とは周囲の大人たちからも説明されたものの、

「この人はどうして男の人形に混ざってこの段にいるんだろう?」

というある種の違和感は消えなかった。


 小野小町が絶世の美女でかつ歌才に恵まれた才媛でありながら、晩年は落魄し、貧しく孤独に死んでいった伝承を知ったのはもっと大きくなってからだ。


 雛壇の小町人形は飽くまで若く美しい姿を取っているので、「美女歌人として盛名を謳われた頃の小町が、天皇・皇后の結婚式に参列して華を添えている」という想定なのかもしれない。


 だが、小町が乞食の老婆にまで零落する「卒塔婆小町」の伝承を念頭に置いてこの人形を眺めると、「美しく才能に恵まれても、独身のままの女性は後々不幸になります」という無言のメッセージが込められているようにも思えてくる。


 なお、雛人形では三歌人は五人囃子の下段に置かれるのが一般的だ。


 男女ペアの最上段、女性のみの第二段、男性のみの第三弾に続いて、男女混合の段が置かれた格好である。


 段としては、女性である小野小町が中央に来るのが一般的なので、「なぶる」という字を連想させる配置でもある。


 皇后でも官女でもなく、歌人の「小野小町」という個性ある人格を持たされた人形は、そんな位置に置かれているのだ。


 話は変わって、先日、鬼怒川温泉を訪れた。


 宿泊先のホテルのロビーには、地元の古い雛人形が飾られていたのだが、五人囃子ではなく七人囃子の構成になっていた。


 考えてみれば、これは楽隊の人形であるから、持たせる楽器のバリエーションさえ増やせば、五人以上の人数にすることは可能である。


 それはそれとして、五人囃子が一般的になったのは、あどけない少年たちを個々の顔が明確に見える形で集合させるには五人が上限だったからだろうか。


 率直に言って七人もいると、「たくさんいるな」という印象になり、比較的覚えやすい人形とそうでない人形に分かれてしまう。


 五人だと同じ段に一列に並んでもそれぞれの個性を際立たせつつ協調してもいる感触になる。


 これが四人だと「四天王」や「四神獣」のような分立して競うイメージになるし、三人以下ではそれぞれの楽器の名手という印象にはなるが、帝の結婚を祝う楽隊としては寂しすぎるように思う。


 男女混合ではあるが、戦隊ヒーローは五人構成がデフォルトだ。


 故マイケル・ジャクソンが兄たちと組んだグループには「ジャクソン・ファイヴ」と「五(five)」という数字を前面に出した名が付けられていた。


 ライバルの白人兄弟グループ「オズモンズ」も五人構成であった。


 二つのグループの写真を見ると、戦隊ヒーローさながら兄弟五人でそれぞれ色違いの衣装を着て映っているものが多い。


「三国志演義」を紐解いても、蜀の「五虎大将軍」、魏の「五将軍」と、主だった武将たちを五人で括った取り合わせが目立つ。


 これに類似した例として、織田信長に仕えた家臣たちも「織田五大将」と五人をピックアップした言い回しがあることもネット検索して分かった(付記すると、この『五大将』は柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉の五人である)。


 五人の若者たちが楽しげに歌い踊る、あるいは五人の強豪たちが共に戦うといったイメージは、東西で親しまれたものなのかもしれない。


 なお、五人囃子は長野県の妻籠など地方によっては女性人形の場合もあるそうだ。


 可憐な美少女たちの楽隊というイメージも魅力的ではある。


だが、三人官女も五人囃子も全員女性だと雛壇全体としての印象が「男雛様と御所の妻妾たち」になってしまい、現代的な感覚だと女の子の良縁を願う行事にちょっと相応しくない雰囲気になる。


 やはり、男雛様と女雛様、ろう長けた三人官女の次にはあどけない少年たちを持ってきた方が段としての個性が引き立つし、一般に五人囃子が少年人形にされているのもそのせいだろうと思う。


 一方、三人官女も昔は五人や七人といった構成になる場合もあったそうで、これも本来は宮廷に使える女官たちであるから、手に持つ小道具のバリエーションを増やせば不自然ではない。


 三人という構成に落ち着いたのは、「美・愛・貞淑」をそれぞれ司るギリシャの三美神などにも代表されるように、「三人の美女」のイメージには女性に求められる性質を投影させやすいからだろう。


 更にネット検索してみると、三人官女として紫式部、小野小町、清少納言を配したバージョンの雛人形が最近では販売されていることも分かった。


 ちなみに、この三人は「平安三賢女」と称されていた。


 製作元である老舗メーカー「人形の久月」のホームページを確認すると、一九九七年に放映されたコマーシャルで既にこの「平安三賢女」が登場しており、思った以上に前からこのバージョンは存在していたことになる。


 一九九七年といえば、私はもう中学三年生で雛人形を新たに買ってもらう年齢でもなければ、母親として娘に買い与える年配でもなかったので、すっかり見落としていたようだ。


 三人官女と三歌人をミックスして一つの段にした印象だが、女児の健全な成長を願う雛祭りを祝う人形として、三人官女もそれぞれ個性ある才女たちが好ましいという流れだろうか。


 その代わりに、菅原道真と柿本人麻呂は消されてしまった格好だが、もともとこの二体は風貌や装いとして右大臣・左大臣と被るのに加えて、「歌人」という属性が小野小町とバッティングしてしまうため人形としての個性も持たせづらい。


 装いとしても男性人形は女性人形に比して華やぎを与えにくいとなったら、残念ながらこの二人は雛壇から退場するしかないだろう。


 雛人形の歴史の中で、こんな風に新たに付け加えられたり姿を消したりした例は他にもたくさんあるはずだ。


 三賢女に話を戻すと、正史としてはよく知られているように紫式部と清少納言はライバル関係にあった(というより、紫式部が先に宮廷を去った清少納言を敵視していた)が、それは、そもそもが対立する立場の后妃たち(同じ一条帝の妃である定子皇后・彰子中宮)に仕えてそのブレーン役を務めていた事情に起因する。


 この二人が同じ女雛様に仕えれば、確かに最強のタッグかもしれない。


 小野小町にしても五人囃子の下段から三人官女の中央に据えられたのだから、正に昇格の観がある。


 従来から、三人官女の中央の人形には、一番年長で位自体も他の二人より高いと推察される風貌を与えられる。


 小野小町は正史としても紫式部・清少納言より一世紀以上前に活躍した人であり、雛人形の顔としても古株だから、三人官女もとい平安三賢女の筆頭に相応しい。


 なお、販売元のサイトで見る限り、中央の小野小町が紙と筆を持ち、左右の紫式部と清少納言は花の枝を携えていた。紫式部が紅い花、清少納言が白い花なので、もしかすると紅梅と白梅の枝をそれぞれ持たされているのかもしれない。


 従来の三人官女が柄杓や三方といった酒席で用いる実用的な道具を手にしていたのに対し、三賢女はそれぞれの学才や風雅の心得を主張する小道具を与えられたようだ。


 私が生まれた一九八二年、女性の大学・短大進学率は三十二・八パーセントで全体の三分の一程度に留められていた。


 だが、二〇一五年には五十四・五パーセントで半数を超えている。


 女性の平均初婚年齢も一九八二年の時点では二十五・三歳だったが、二〇一四年には二十九・四歳で四歳も上昇している。


 三人官女の平安三賢女への変容には、「女性は結婚までに十分学び、キャリアを積むべきだ」というリアルタイムの価値観が反映されているのだろう。


 なお、「三賢女」とはいうものの、「賢さ」を担当しているのは紫式部であり、後は小野小町が「美しさ」、清少納言が「優しさ」という風に大人の女性が持つべき資質を司っているのだという。


 これはギリシャの三美神を意識しての趣向と考えられる。


 女雛が霞むほど華やかな「平安三賢女」だが、先にも書いたように小野小町は独身のまま没落した伝承があり、紫式部や清少納言が女流文人として名を馳せたのはそれぞれ夫と死別・離別して宮仕えに出た結果であった。


 史実の本人たちが結婚には恵まれなかったことを念頭に置くと、女雛の下段で嫣然と微笑む「三賢女」たちの姿はどこか皮肉に思えるが、あるいは、そんな彼女たちがブレーンになってくれるからこそ、女雛様も難なく幸せでいられるのかもしれない。


 さて、最近の新しく売り出された雛人形を目にして感じたのは、着物の色柄自体も私の子供の頃から微妙に変化しているということだ。


 もっと端的に言えば、若草色やピンクといった淡い中間色を要所に置いた装いが目立つ。


 私の雛人形は、女雛は茜色、男雛は藍色の唐衣を纏っており、襟は真っ白だった。


 子供の頃、広告で見た女雛も基本的に赤・オレンジ系の唐衣に真っ白な襟という組み合わせが多かったように記憶している。


 しかし、近所のスーパーに飾られていた雛人形には女雛の襟元にはピンク、男雛の襟元には若草色の生地をそれぞれ唐衣と白い襟の間に挟んでいるペアがあり、それが酷く目を引いた。


 ピンク色も若草色も確かに春らしい色だが、目立って雛人形の衣装に用いられるようになったのは、最近の傾向ではないだろうか。


 そもそも、先述した「平安三賢女」にしても、清少納言が若草色、小野小町が朱色、紫式部が紫色を基調にした装いをしており、従来は全員とも同一の色調の衣装を着せていた三人官女とは大きく異なる。


 月並みな見方だが、雛人形の衣装も時代と共に「この色でなければ駄目」という暗黙の縛りが薄れ、現代的な感覚で綺麗に思える色合いを自由に組み合わせるようになったのだろう。


 どことなく、私が小学生の頃は、男の子は黒、女の子は赤のランドセルで固定されていたのが、いつの間にか、ピンク色や水色、茶色といった様々な色のランドセルが使われるようになっていた状況と似ている。


 もちろん、一九八〇年代後半から一九九〇年代前半でも、赤や黒以外のランドセルが店にないわけではなかった。


 だが、ランドセルを買いに行った際、棚の隅に一つだけあった淡いピンクのものを欲しがった際、母に言われた。


「六年生になってもずっとピンクのランドセルしょってたらおかしいよ」


 恐らく母としては娘が一人だけ異なる色のランドセルを使っていて周囲から浮いていじめられたりすると困るという配慮だったのだろうし、今、親になって振り返っても、自分も同じ状況なら皆と同じ色のランドセルを我が子に買い与えると思う。


 しかし、私の中では、

「ピンクのランドセルっておかしいの?」

「大人になった人にはピンクは赤より駄目な色なの?」

と割り切れない何かが残った。


 買ってもらったランドセルは、雛壇と同じ鮮やかな赤だった。


 その後、通った小学校の全てで、判で押したように、男の子は黒、女の子は赤のランドセルを使っており、例外は記憶にない。


 結果として、自分が赤のランドセルを買ってもらったことに後悔はない。


 だが、淡いピンクや水色のリュックサックを背負った子供たちを見掛けるたびに、あの時の私と同じように自分の好きな色のランドセルが欲しくて使えなかった人は実はたくさんいて、そうした人たちが大人になって我が子には好きな色を選ばせる流れになったのだろうと思う。


 最近では、

「大体、ランドセル自体が非機能的で高価過ぎる」

「子を持つ親に無理に買い与えるように社会が圧力をかけるべきではない」

といった声もネットでは数多く見掛ける。


公立でもランドセルではなく学校指定のリュックサックを使わせる学校などもあるようだ。


 ウィキペディアを参照すると、ランドセルが学用鞄として全国に普及したのは昭和三十年代、高度成長期だという。


 そこからすると、必需品扱いされる商品としては実は半世紀程度の歴史しか持っておらず、更に言えば、私が生きていた三十年余りで受容のされ方も大きく変化したことになる。


 また、これもウィキペディアで確認したところでは、三月の節句に雛人形を飾って祝う風習は江戸時代に全国に普及したようで、それ以前から各地に類似した風習はあったにせよ、三歌人や「平安三賢女」が登場する行事にしては比較的新しい感触が否めない。


 加えて、江戸時代の時点では段飾りの雛人形は高級品で庶民の手に届くものではなかったので、その代用品として簾状の可愛らしい吊るし雛が考案され普及した経緯があるそうで、一般家庭でも雛人形の段飾りを買い揃えるようになったのは、もっと時代が下っての話と察せられる。


 江戸時代から五百年の歴史を持つとすると、私が直に目にした三十年弱の雛人形の変化は長い歴史の中の本当にほんの一部でしかないが、それでも人形のあり方を含めて著しい変化を遂げている。


 そもそも、この三十年余りで女性にとっての結婚の持つ意味やライフスタイル全般が大きく変化しているし、何より、雛人形を買ってくれた祖父母たちと私の世代では女性の生き方のモデルイメージ自体が大きく異なっていたはずだ。


 二歳の娘が大人になり、適齢期を迎える頃には、どんなお雛様が登場しているのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る