双子の神秘

 *この文章は二〇一五年八月八日に他サイトに投稿したものです。


「双子(ふたご)」と一口に言っても、実態としては、性別が同じで容姿もそっくりな一卵性双生児と、性別が同じでも必ずしも容姿は似ていない二卵性双生児、そもそも性別の異なる男女の二卵生双生児の三パターンが存在する。


 しかし、一般に「双子」という響きから多くの連想するのは、性別が同じで瓜二つの顔形をした、一卵性双生児ではないだろうか。


 現実の場面として男女の双子や同性でもそっくりではない双子の場合、視覚的には年齢の異なる兄弟姉妹と大差ない。


 だが、顔形も背格好も鏡に映したように酷似した二人だと、目にする側はある種の衝撃を受ける。


 自然の生み出した神秘といったものを感じるのだ。


 一卵性の多胎児でも三つ子以上には滅多に会うことはないが、双子であれば小中学校の学年に一組くらいはいそうな身近さがある。


 ちなみに小学校中高学年で通っていた学校は一学年四クラスで、学芸会の劇も、一つの劇を四クラスで分割して演じることになっていた。


 私は一組だったのだが、通しの練習をするたびに、

「どうしてうちのクラスで主役になった子は出番が短いのに、二組で主役になった子は延々出続けてるんだろう」

「周りの役は全員三組に代わったのに、主役だけはまだ二組の子がやってる」

と首を傾げていた。


 二組と三組の主役が一卵性双生児だと知ったのは発表もだいぶ近づいてからだ。


 転校してきたばかりで他のクラスの子はよく知らなかったことに加えて、二人の顔も背格好も声もそっくりだったので、別人だと気付かなかったのだ。


 おまけに衣装(父兄が準備)も同じ色柄の浴衣(日本の昔話風の創作劇でした)を着ていた。


 一組から二組、あるいは三組から四組に主役がチェンジすると、同時に衣装の色柄も微妙に変わるので別人だと一目瞭然だが、二組から三組の主役に交代しても同じ浴衣なので遠目には変化が見えなかったのだ。


 それはそれとして、「双子のドラマ」と聞いて、多くの日本人が思い浮かべるのは、あだち充の「タッチ」だろう。


 双子の兄弟「達也」と「和也」、そして幼馴染の美少女「南」の三人を主人公にしたこの青春ドラマは、原作漫画はもちろん、アニメ化された作品もヒットし、映画にもなった。


 双子のお笑いコンビ「ザ・たっち」は、明らかにこの作品を意識したというか、パロディした芸名である。


 ウィキペディアを見ると、このコンビの本名は「拓也」「和也」で、正に「タッチ」の兄弟を念頭に置いて命名されたという。


 映画評論家とファッション評論家という個別の顔は持っているものの、「おすぎとピーコ」も一般には、「双子のオカマタレント」として一種のお笑いコンビ的な受容をされている。


 こちらもウィキペディアを参照すると、彼らがそもそもメディアに出て来たのも、そうした二人セットにしたお笑いコンビ的な扱いでだったようだ。


 本来は一卵性双生児でよく似た顔形だが、映画評論家のおすぎが裸眼であるのに対し、ファッション評論家のピーコは左目が義眼のため眼鏡を掛けてメディアに出てくるのが通例であり、それが二人を視覚的に識別する記号にもなっている。


 ただ、中年以降の彼らをメインイメージにしている私からすると、おすぎさんは目を細めて笑っている表情なのに対して、ピーコさんは眼鏡の奥の目がいつも見開かれていて微妙に焦点が合っていない印象があり、正直、眼鏡がなくても見分けの付く感触はある。


 ちなみに、「ザ・たっち」の持ちネタの一つに、いわば彼らの先輩格と言えるおすぎとピーコのモノマネもあるが、その際には一方が眼鏡を掛けてピーコに見立てるのが通例である。


 スポーツの世界に目を移すと、私が小学校高学年から中学生にかけての一九九〇年代前半、スキーノルディック複合競技で、荻原健司(おぎわらけんじ)・次晴(つぎはる)兄弟が活躍して注目された。


 一卵性双生児で顔も体格もそっくりな二人が同じ競技に出場し団体として共に戦うのみならず、個人戦では優勝を争って兄弟でワンツーフィニッシュを演じる場面すらあり、正に「事実は小説より奇なり」といった感触があった。


 ただし、この兄弟は一卵性双生児であるにも拘らず、「健司」「次晴」と第三者にも一見して「恐らくは健司さんが長男で、次晴さんは次男の扱いだから『次』の字を入れたのだろうな」と察せられる命名だ。


「タッチ」の双子が「達也」「和也」とそれぞれ肯定的な意味合いを持つ「達」「和」の字に同じ「也」を付けて並び立たせたネーミングにしているのとは対照的である。


 なお、「タッチ」の映画版で主人公の双子に扮したのはやはり双子の斉藤祥太・慶太兄弟だが、こちらも本来似通った意味合いを持つ「(吉)祥」「慶(事)」の字に同じ「太」を組み合わせた命名であり、やはり並立する印象はあっても、兄弟としての序列を感じさせる字面ではない。


 付記すると、「おすぎとピーコ」も本名は「杉浦孝昭(すぎうらたかあき)・克昭(かつあき)」であり、双子は概して名前の字面でも似通わせるケースが強い。


 スキーの荻原兄弟はその点では異色である。


 子供を持つ年配になってみると、もしかすると、そっくりな男児が一度に二人生まれてしまって親も周囲も困惑し、「こっちがお兄ちゃんで、こっちが弟」と識別に追われる内に、正式な名前を付ける場でも「こちらが弟」とラベリングする気分が濃厚になったのかもしれないと思う。


 しかし、率直に言って、彼らの名前がテロップで表示されるたびに、

「双子でそっくりなんだから、『晴司(せいじ)』とかいう名前にすればいいのに、どうして片方にだけわざわざ『次』の字を入れるんだろう」

と子供時代の私は感じたし、同様の感想を抱く人は少なくなかったのではないかとも思う。


 実際、アスリートとしての成績の上でも個人で何度も金メダリストに輝いた健司氏に対して、次晴氏は正に兄の「次点」的な順位に終わることが多かったために、「名は体を表す」という感触で、余計にこの命名の不公平感が強く印象付けられた。


 次晴氏本人も行く先々で金メダリストの兄と間違われ、それが苦痛であった事実を語っている。


 これが明確に年齢差のある兄弟であれば、兄が「健司」で弟が「次晴」でもさほど理不尽な命名には映らないし、競技の結果に微妙な差が出ても、「兄弟でも資質には違いがあるから仕方がない」と周囲は(もしかすると本人たちも)納得する。


 また、仮に双子であっても、二卵性双生児で一見して別人と知れる風貌であれば、次晴氏も健司氏とそうたびたび間違われることもなく、次晴氏が単純にアスリートとしての成果ばかりでなく、本人のアイデンティティを含めた苦悩に陥ることもなかったのである。


 同じ国際大会で二人がそれぞれ金、銀を取得した事実からすれば、一卵性双生児の荻原兄弟は風貌ばかりでなく、アスリートとしての力量もほぼ等価にあった印象を受ける。


 というより、限りなくイコールに近い資質であったからこそ、紙一重の差で頂点に輝いた健司氏と次点に終わった次晴氏の構図が際立ったのである。


 むしろ、次晴氏が極端に劣っていれば、兄弟で同じ世界の舞台に立つこともなく、せいぜい「金メダリストの荻原健司にはそっくりな双子の弟がいるらしいよ」という風聞が時折流れるくらいで、恐らく本人は地元など狭い範囲で細々と生活し、「行く先々で健司と間違えられる」という事態も起こりえなかったように思う。


 そもそも、次晴氏を健司氏と間違えた人の大半が、風貌ばかりでなく、体格などから総合的に判断して、「この人が金メダリストの荻原健司だ」と認識したはずだ。


 元の骨格が同じでも、同一競技のアスリートとして共に鍛錬していなければ必然的に体型に差は出てくる。


 同一人物であっても、現役引退後、短期間で極端に体型が変わる場合もある。


 そこからすれば、次晴氏が健司氏に匹敵するアスリート生活を送っていなければ、体型全体を総合した印象も大きく変わり、健司氏その人だと誤認される可能性も低かったと言える。


 次晴氏が健司氏と誤認され「金メダルおめでとうございます」と何度も声を掛けられた挿話は、次晴氏本人が金メダルを取り得る可能性を十分に持ったアスリートだった事実を裏書しているように私には思える。


 現在の荻原兄弟はそれぞれ別の分野で活躍しているようだが、彼らを見るにつけ、外見も資質も酷似した一卵性双生児ゆえの苦悩や落差といったものを意識せざるを得ない。


 さて、荻原兄弟はスポーツの世界で互いに競り合うことを余儀なくされたために葛藤が生じ、引退後は敢えて別の道を選んだ観がある。


 だが、世界に目を向けると、ポーランドのカチンスキ兄弟のように少年時代は共に子役として活躍し、成長後も共に政界に入り、兄が首相、弟が大統領になったという、これも驚異的な道のりを歩んだ双子もいる。


 ポーランド関連の記事を読むと、政治家としての彼らには必ずしも好意的でない見方も散見するが、それでも正当な選挙を経て二人で国のトップに立ったのであれば、非凡な兄弟と見るべきだろう。


 なお、大統領を務めた弟のレフは二〇一〇年に飛行機の墜落事故で亡くなったが、兄のヤロスワフは今もなお、ポーランド政治の重鎮だという。


 これもまた、数奇な人生である。


 近代以前、特に男児の双子は「家を分ける」として嫌われる向きがあったという。


 恐らくこれは、同じ母親から二人の男児が同時に生まれた場合、この二人に兄弟としての明確な序列を付けることが難しいため、家督や財産相続の観点で支障を来たすという事情が影響している。


 日本の「桃太郎侍」が「大名の双子の弟」、フランスの「仮面の男」が「国王の双子の弟」と設定されているのは、こうした事情を前提にしている。


 むろん、そこには「本人の意思や努力ではどうにもならない事情で、同じ顔をした兄弟の一方は貴顕の地位を享受し、他方は日陰の暮らしを強いられる」という不遇な主人公側の悲劇性も意図されている。


 だが、その一方で「権力を持った兄が暴虐に走れば、より良い内面を持つ弟に取って代わられる」という因果応報や復讐譚の要素もこの設定には内包されているように思う。


 権力者側の兄にとって、日陰の身分に落とされている双子の弟は、ある意味、ドッペルゲンガー的な存在と言えよう。


 あるいは「ドッペルゲンガー」というイメージ自体が、双子を忌む社会の深層に根付いた「同じ顔の人間は二人要らない」「どちらかは消えるべき」という排斥感情の産物なのだろうか。


 冒頭に挙げた「タッチ」は、優等生だった弟の和也が途中で事故死し、落ちこぼれだった兄の達也が弟の遺志を引き継いで野球に取り組み、また、ヒロインとも結ばれる展開になっている。


 いわば、「怠慢な兄が勤勉な弟に取って代わられる」従来のストーリーを逆転させた構図だが、見方を変えれば、自分の代わりに懸命に生きてきた弟が消滅することで、兄は本来はあるべき道に戻ったとも言える。


 逆説的に言えば、達也が本来あるべき人生を送るためには、和也は死ななければならなかったのである(単純に恋愛物としても、双子の両方が生きている状態で、ヒロインが片方を選ぶ展開にすると、他方を捨て去って傷を残す彼女の行動に対して、読者はどうしてもネガティヴな印象を抱いてしまう。また、ヒロインが拒絶することで、双子の片方の人生は物語の中で全否定される感触にも繋がる。よって、劇中では達也や南に責任を負わせない形で和也は殺され、残った二人が結ばれる解決が図られたとも言える)。


 なお、「家」制度が強固だった時代には、相続対策の一環として、双子が生まれた場合、片方は跡取りのない家に養子に出すということもよくあったようだ。


「二十四の瞳」で有名な壺井栄の児童文学短編「柿の木のある家」でも、ある家で双子の男児が生まれるものの、片方は赤子のまま、子供のいない叔父の家に養子に出される。


 物語の冒頭では伏線として、「知り合いのどこそこの家でも双子のお嬢さんが生まれた。一方は養女に出されたけど」という趣旨の台詞がある。


 物語は双子の兄である少年の目を通して描かれている。


 子沢山の少年一家に対して、子供好きであるにも関わらず子宝に恵まれない叔父夫婦が親戚の間でも肩身の狭い思いをしているといった、古い「家」制度の気風が色濃く残る時代背景と共に、そっくりな双子として生まれながら、一方は生家に残され、他方は養子に出されるという、子供にとっての不条理が浮き彫りにされるのだ。


 読んだ当時は小学校高学年だったが、戦後四半世紀以上を経て生まれた私からすると、

「この叔父さんの家、すぐ近所でしょっちゅう顔を合わせる間柄らしいのに、わざわざ片方を赤ちゃんの内に養子に出す意味が分からない」

「本来そっくりな双子が『従兄弟』として顔を合わせながら育ったら、どっちにも葛藤が生じて可哀相じゃないか」

「いっそ双子の両方を叔父さんたちが引き取った方が、よほど子供たちのためなんじゃないの?」

と疑問や違和感ばかりを覚えた。


 ウィキペディアで確認したところ、この小説の発表は一九四九年で一応は戦後の話であり、一九五五年には映画化もされているらしい。


 つまり、わずか六十年前には、十分に現実感や共感を持って受け止められたストーリーなのである。


 男性二人の双子をメインに話してきたが、女性二人の双子を扱ったドラマというと、ケストナーの「ふたりのロッテ」、川端康成の「古都」、次にNHKの朝の連続ドラマとして話題を呼んだ「ふたりっこ」が有名だろうか。


 ケストナーの「ふたりのロッテ」は、「柿の木のある家」と同じく一九四九年にドイツで発表されたジャンルとしてはこれも児童文学小説だ。


 ただし、「柿の木のある家」の双子の男児たちが物心付く前に引き離されて終わるのに対し、「ふたりのロッテ」は互いに双子であることを知らずに育った少女たちが偶然再会し、離婚した両親を復縁させて家族を再生させるという対照的な結末を迎える。


 日本もドイツも第二次大戦では敗北を喫し、「柿の木のある家」「ふたりのロッテ」がそれぞれ発表された一九四九年はまだ両国の人々にとって挫折と傷心の気分が蔓延していた時期であった。


 加えて、一九四九年は冷戦の影響下でドイツが東西に分断した正にその年であった。


「ふたりのロッテ」は作品としてはナチス時代に書かれ、戦後に日の目を見た経緯があるようだ。


 だが、作品の受容としては、敗戦のショックに加えて祖国の分断に深く傷付いたドイツの人々にとって、可憐な双子の少女が分裂していた家族を一つに再生する物語が明るい希望を与えるものとして当時のドイツ国民に広く受け入れられたのかもしれない。


 これに対して、「柿の木のある家」は、作者の壺井栄が戦前から社会主義運動に傾倒しており、「家」制度に対しては個人を抑圧する旧弊と捉える意識が強かったために、「本来は共に育つはずの双子が引き裂かれ、歪な二つの家族が形成される」というラストになったのだろうか。


 加えて、受け取る読者の側にも「子供は大人社会の被害者なのだ」とシンパシーを覚える動きが強かったのだろう。


 一九六一年から一九六二年にかけて連載された川端康成の「古都」は、別々に育った双子の姉妹が偶然再会して自分たちが双子だと知る展開は、「ふたりのロッテ」と共通する。


 だが、「古都」では再会した姉妹は既に適齢期に達しており、しかも、実の両親は既に亡くなっている。


 そして、今では置かれた境遇が異なることを察した貧しい方の娘は富裕な姉に対して、「もう会いません」という趣旨を言い残して去っていく。


 正に「覆水盆に返らず」といった哀感の漂うラストである。


「柿の木のある家」といい、「古都」といい、日本人の方が「別々に育てられた双子」というシチュエーションに対し「一度壊れたものは元に戻らない」という悲観的なイメージを投影させやすいのだろうか。


 一九九六年の連続ドラマ「ふたりっこ」は、戦後半世紀を経て社会が豊かになった時代を反映してか、愛情ある両親の元で共に育った双子の姉妹の成長を描いている。


「ふたりっこ」というタイトルは恐らく先行の「ふたりのロッテ」を意識したと推察されるが、「一人っ子」を捩って「二人で一人」という双子の固い結び付きを示した造語でもある。


 また、川端康成の「古都」がタイトルからも明らかなように京都を舞台にしてその風俗を忠実に物語に織り込んでいるのに対し、「ふたりっこ」は大阪が舞台である。


 周知のように京都と大阪は関西を代表する二大都市である。


 しかし、京都が古風で品の良い佇まいを持つ一方で、しばしば排他的で陰険な階級社会だと指摘されるのに対し、大阪は猥雑で品がないと揶揄される反面、開放的で情に厚いイメージがある。


 だからこそ、「古都」で別々に育った双子の姉妹が再び離れて生きていく道を余儀なくされたのに対し、「ふたりっこ」では共に育った双子がそれぞれの個性を開花させていく面が強調されたのかもしれない。


 ちなみに、小説「古都」は映像化では同じ女優が一人二役の形でヒロインの双子を演じ分けるのが通例であるのに対し、ドラマ「ふたりっこ」はヒロイン二人の子供時代を実際の双子である「マナ・カナ」こと三倉茉奈・佳奈姉妹が演じたことでも注目された。


 率直に言って、成長後の姉妹に扮する女優二人よりも、この可憐な双子の方がドラマの目玉であったように記憶している。


 女性の双子の有名人というと、他には歌手の「ザ・ピーナッツ」が浮かぶが、私の中でこの二人は映画「モスラ」の「小美人」のイメージだ。


「南洋版ティンカーベル」といった趣の扮装をした二人は劇中では歌ばかりでなく、「モスラを返して下さい」といった台詞も基本的に全て声を揃えて同時に発する演出が取られている。


 しかも、二人セットで「小美人」と呼ばれているだけで、個別の名は与えられていない。


 演じていた「ザ・ピーナッツ」自体も二人で「ザ・ピーナッツ」という扱いで、個々の名前で取り上げられることはほとんどない状況と重なるが、この双子の妖精「小美人」は典型的な「二人で一人」扱いのイメージで描かれている。


 男性の双子だと、聖書の「カインとアベル」のように競り合ってどちらかが挫折や敗北を強いられる間柄として描かれがちである。


 また、男性二人の双子で「二人で一人」という役回りのキャラクターは、「鏡の国のアリス」のトゥイードルダムとトゥイードルディーのようにどこか不気味でグロテスクな形象を与えられやすい。


「ザ・たっち」や「おすぎとピーコ」も明らかに「奇妙でこっけいな双子」のイメージを全面に出している。


 これに対して女性の双子だと「二人で一人」の役回りが多く、かつ可憐な美少女二人が笑顔で並んでいるイメージで描かれやすいように思う。


 男性目線で喜ばしい存在として登場させられていることは言うまでもないが、女性の目を通しても醜く嘲られる姿をした女性キャラが二人並んで出てくる構図はあまり愉快なものではないので、創作物に登場する双子の女性たちは概して美(少)女の形象を与えられると推察される。


 メディアに登場する双子の姉妹も、基本的に「美人」「可愛い」イメージで売るケースがほとんどだ。


 さて、「エビちゃん」のニックネームで一躍人気モデルになった蛯原友里(えびはらゆり)にも双子の妹がいる。


「エビちゃん」ブームの頃、華やかな世界で活躍する彼女に対し、そっくりな双子の妹の「英里(えり)さん」は看護師をしていた状況がメディアで取り上げられ、話題になった。


 この時は、確かに基本的な顔形や体形は似通っているものの、モデルとして容姿を売る立場にある姉と医療の世界で働く妹の間には、やはり芸能人的な雰囲気やモデル的な表情の洗練といった要素で明確な違いがあり、二人で似たような服装・メイクをして並んでいても「こっちがモデルの『エビちゃん』だな」と一見して分かった。


 更に言えば、「やっぱり、モデルをしている『エビちゃん』の方がもう少し美人だな」と感じた。


 しかし、その後、素人であるはずの妹の「英里さん」もしばしばメディアに露出する立場になり、風貌や表情が洗練されるにつれて、単独での写真だと姉妹のどちらなのか私には判別できなくなった。


 二人並んでのショットでも、あまり明確な差異は見えなくなってきた。

 雰囲気や表情の洗練度からしても、「エビちゃんが二人いる」状態だ(ちなみに、『蛯原友里』は本名だそうで、今は姉妹どちらも結婚して姓は変わっているものの、旧姓からすれば、どちらも『エビちゃん』である)。


 せいぜい、「顎が尖っている方が先に出てきた方の『エビちゃん』かな?」くらいの違いであり、「英里さん」と思われる方にも遜色はない。

 見ようによっては、「英里さん」の方が綺麗に見える写真もある。


 この「英里さん」がメディアに頻繁に登場するようになった背景にも、多くの人の中にある「並び立つ二人のそっくりな美女」という魅惑的な双子のイメージが大きく作用した面は否めないだろう。


 正確には双子かどうか不明だが、「三国志演義」には「二喬」と呼ばれる美人姉妹が出てくる。


 孫策の妻になったのが姉の「大喬」、周瑜の妻になったのが妹の「小喬」だ。


 しかし、これは姉妹の姓である「喬」に便宜的に兄弟順を示す「大」「小」を付けた呼び名であって、言うなれば「喬家の上のお嬢さん」「喬家の下のお嬢さん」といった意味合いであり、彼女らの本名は伝わっていない(『三国志演義』の時代の女性たちは固有の名を持つ存在として記録されていない)。


「二喬」とセットで称されるこの美人姉妹も、どこか双子的なイメージで連想されやすい。


「エビちゃん姉妹」と日本人としてはやや特殊な姓である「蛯原」に由来するニックネームでメディアに登場する姉妹は、この「二喬」を彷彿させる。


 酷似していながら僅かに異なる個性を持つ美女が二人並ぶことで、単独の場合よりもそれぞれの美が引き立つのである。


 話は再び変わって、山田詠美の短編に「黒子の刻印」という作品がある。


 高校時代、現代文の模試にこの一部が出題されていたことから、興味を覚えて全編を読んだ。


 要約すると、よく似た双子の姉妹がいて、一方には頬に目立つ黒子があった。


 黒子のない方はとかく美人扱いされ、本人も自信を持っているのだが、黒子のある方は周囲からもブス扱いされ、劣等感に苛まれる。


 黒子を持つ娘は結局、整形手術で黒子を除去するのだが、黒子のない姉妹に対する劣等感は消えることがないというラストだ。


 ストーリー自体は興味深く読んだものの、「双子で本来の顔形は似ているはずなのに、黒子があるというだけで、そんなに美醜の扱いに差が出るのだろうか?」という疑問がどうしても生じてしまった。


 小説を読みながらこの姉妹の姿を思い浮かべようとしても、違和感ばかりを覚えた。


 この短編を映像化するとすれば、主人公の双子は同じ女優さんが二役で演じる、あるいは「マナ・カナ」のような本来そっくりな双子が扮するのが設定上は妥当なのだろう。


 しかし、そうすると、基本となる顔形に好意的な観客の目には「黒子のある子だって十分可愛いのに」と映るだろうし、逆に冷笑的な観客の目には「黒子がない方だって、そこまで綺麗でもないでしょ」と評価されるので、どのみちあまり説得力のある展開にならない気がする。


 かといって、この双子の姉妹を黒子以外の造作全体に目立った違いのあるキャスティングにすると、黒子が歪んだ劣等感の象徴に転じるドラマとしては破綻してしまう。


 視覚的な美の持つ残酷な力がテーマの作品であるにも関わらず、現実の映像にしようと試みると奇妙に綻びが生じてくるのだ。


 女性が自分の容姿に劣等感を抱き、身近な同性に嫉妬心を燃やすといった場面は現実にもよくあるが、よく似た双子の姉妹という設定にこの展開を当てはめるのはやはり無理があるように思えた。


 前述した荻原兄弟のように「僅かな違いが結果的に大きな落差を生む」例は現実に確かに存在するが、健司氏と比べて軽視され続けた次晴氏の苦悩は生まれついての容姿ではなく、飽くまでアスリートとしての後天的な結果に起因している。


 そもそも土台の骨格が似ているのならば、外見の面で追い付き追い越すことは可能である。

 エビちゃん姉妹を見ても、一目瞭然だ(この姉妹はどちらも目立った黒子などはないけれど)。


 女性が外見への評価に過敏になりやすい面は否定しないとしても、双子ならば、やはり生まれつき似通った容姿の上ではなく、それぞれが得意な分野、希望とする進路で競合する方が現実的ではないかと感じた。


 そこで、手前味噌になるが、拙作「非対称な二人」では、そっくりな双子の姉妹ではあるものの、泣き黒子を持つ姉と完全にシンメトリーな顔をした妹で、敗北するのは後者の展開にした。


 視点は姉妹ではなく彼女らを眺める少年に置いたものの、この二人は容姿で競合はしていないし、黒子を持つ姉が妹に比して周囲から微妙に疎まれているのも外見ゆえではない。

 妹が結果的に挫折を強いられるのも、彼女の風貌が原因ではない。


 二人がそれぞれ持っていた資質の違いが、これもまた接する側の価値観によって、是と映ることもあれば、非に転ぶこともあるのだ。


 クローン技術が世間を騒がせ、クローン人間の可能性が不気味なものとして取り沙汰されていた頃、「一卵性双生児の母親たちにはそうしたショックが全く見られなかった。なぜなら彼女らは自然の生み出したクローン人間と接しているからだ」と報じていた記事を読んだ記憶がある。


 一卵性双生児同士のDNAは同一であり、クローン人間がオリジナルとなる人間のDNAをコピーした存在であることを考えれば、一卵性双生児は正に自然が生み出したクローン人間と言える。


 だが、同じ両親の下に育った一卵性双生児であっても、自ずと個性や選択には違いが出てくる。


 冒頭に挙げた小学校の同級生にいた双子たちも、そうと知ってからはすぐ見分けが付くようになった。


 まず、どちらも活発な質だったが、「お兄ちゃん」とされる方はバスケットが好きで肌が幾分白く、「弟」はサッカーが好きで冬でも浅黒く日焼けした顔をしていた。


 また、劇の衣装はさておき、普段は決して同じ服を着て学校に来ることはなかった。


 もしかすると間違われないように敢えて違う服を身に着けていたのかもしれないとも思うが、「お兄ちゃん」の方は白い服、「弟」の方は灰青色の服をよく着ていたと記憶しているので、恐らく色や服の好みも双子で違ったのだろう。


 そもそも、自分の容姿や外見への関心度自体が二人で大きく異なっていた。


「お兄ちゃん」は小学生の男の子としても明らかにおしゃれな方で前髪を長く伸ばしていたのに対して、「弟」の方は動くのに楽な髪型が好きらしく常に短く切り揃えていた。


 なお、快活で可愛らしい顔をしていたこの双子の兄弟はどちらも女の子から人気があり、私の目には二人とも他人への態度や言動の点で大きな差はないように見えた。


 この双子同士もむしろ仲は良さげに映った。


 しかし、男子の間だと、スポーツ少年風の「弟」とは親しくしている子たちがおしゃれな「お兄ちゃん」に対しては微妙によそよそしくなるなど、「同性からだと評価が違うんだな」と傍目にも分かることがあった(もっとも女性二人の双子であってもこうしたケースは起こり得るだろうが)。


 中学以降はこの双子とは別の学校になってしまったので二人がどうなったのかは見ていないが、それぞれ別の高校に進学したと風の便りで聞いた。


 DNAが同一で一緒に育っても、このような違いが出るのである。


 その一方で、別々に育てられた一卵性双生児の姉妹が成人後に出会ったところ、まるで鏡に映したようにそっくりな人生を送っており、結婚後の家族構成まで同じ、何より、再会した時点での二人の風貌も服装も申し合わせたように似ていた、というケースを実話として読んだことがある。


 恐らくこの姉妹は別個ではあっても社会的・経済的にほぼ同レベルの環境で成長したと推察されるが、同じDNAを持った二人の人間の辿る軌跡として非常に興味深い。


 それはそれとして、双子が社会学・心理学実験のモルモットにされるケースは少なくないようだが、「ブレンダと呼ばれた少年」のような痛ましい事態を引き起こしたケースもある。


 この話をかいつまんで説明すると、一九六五年、カナダに一卵性双生児の男児が生まれ、兄は「ブルース」、弟は「ブライアン」と名付けられた。


 生後七ヶ月で兄の「ブルース」は性器に損傷を負った。


「息子はもう肉体的に男性として生きられない。どうすべきか」と悩んだ両親は、アメリカ合衆国・ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学病院のジョン・マネー教授の下に相談に訪れた。


 このマネー教授は当時は性科学の権威だった。


 そして、「男らしさや女らしさというのは、生後の環境によって左右されることであって、先天的なものではないから、『女の子』として育てれば良い」と主張する教授の指導の下、両親は弟の「ブライアン」は通常の男児として育てる一方で、兄の「ブルース」は「ブレンダ」と新たな女性名を付け、女の子として育てる決意をした。


 こうして、この一卵性双生児の兄弟は、表面的には性別の異なる双子、「姉」の「ブレンダ」、「弟」のブライアンだと教え込まれて成長する。


 本来の性別通りに育てられている弟のブライアンは、しかし、幼時から「姉」の「ブレンダ」に取っ組み合いで打ち負かされ、更には両親が「姉」ばかりを偏重して自分を顧みないと感じるようになり、非行に走った。


 一方、成長するにつれ、「ブレンダ」と呼ばれ、女児として扱われる兄の「ブルース」は自分の性に違和感を強めていくようになる。


 周囲が服装ばかりでなく女性ホルモンまで人為的に投与して「女性」に仕立てようとしたにも関わらず、「ブレンダ」は自分を女性と思えず、また、周囲の目にも男性的な風貌に成長していったのだ。


 十四歳になり、両親の告白から自分が本当は男性として生まれたことを知った「ブレンダ」こと「ブルース」は「男性」に戻る決意をし、「デイヴィット」と新たな男性名を名乗り、男性器の再形成手術を受ける等、「男性」としての自己を取り戻していく。


 だが、歪な幼少期を送った影響は、この一卵性双生児の兄弟を根深く傷付けた。


 女性としてのアイデンティティを強要された兄も、本来通り男性として育てられたはずの弟も、成人後に相次いで自殺した。


 これは、共に育てられながら、一方が異常な形を強いられた結果、他方にも歪み・皺寄せが波及したケースだろう。


 実際、ジョン・マネー教授は「生まれた時点での性別が男性でも、女性として育てられれば女性になる」という自らの学説に説得力を持たせるため、「本来同じ性別で生まれた双子の片方は男性として育ち、もう片方は女性として育った」というケースをこの兄弟二人をモルモットにして実現させようとした。


 投薬や手術といった措置こそなかったものの、追跡調査のために幼い頃からマネー教授の下に連れて行かれたのは双子の片割れであるブライアンも同様であった。


 この「追跡調査」で、マネー教授は嫌がる双子の兄弟を脅しつけて、裸になるように命じ、互いの性器を較べさせるばかりでなく、「ブレンダ」を研究室のソファで四つん這いにさせ、ブライアンにその背後に立って自分の性器をブレンダの尻に押し当てるように強要し、その写真をポラロイドで撮ったという。


 幼い子供たちにとって、正に虐待以外の何物でもない仕打ちである。

 特に、同じ兄弟の間でこのような行為をさせられた屈辱は、双方の心に深い傷を残したであろう事実は想像するに余りある。


 医療・学術の名を借りてこうした暴虐が幼い子供たちに行われたのは一九七〇年代。

 まだ四十年前と捉えるか、もう四十年も前と受け止めるかは別として、このような医療としてはもちろん、カウンセリングとしても百害あって一利もない行為が、最先端とされる合衆国のアカデミックな場でなされた事実は、かの国に右倣えしがちな日本人にも広く記憶されるべきであろう。


 ジョン・マネーという一種のマッド・サイエンティストと形容すべき人物から尊厳を踏み躙られ、理不尽な屈辱を強いられたのは、「ブレンダ」と呼ばれ続けたブルースはもちろん、男性としてのアイデンティティを一貫して持ち続けたブライアンも同様であった。


 なお、先に死を選んだのは、この弟の方だという。


 両親は「ブレンダ」として育てられた兄の「ブルース」、後の「デイヴィット」の自殺について、

「あの惨たらしい実験が無ければ、あの子はまだ生きていたでしょう」

と語っているようだが、正確にはブライアンを含めた「あの子たち」のはずだ。


 恐らく両親としては事故で性器に損傷を負わせてしまった罪悪感や、また、本来の性別とは異なるあり方を強いている負い目からどうしても双子の兄を優先し、肉体的には傷を持たない弟の痛みや孤独は見過ごしがちだったと察せられる(これは特殊なケースとしても、兄弟の片方が病弱で、他方が健康の場合、両親の関心が病弱な方に集中して、本来は健全な方が引け目を覚えて育つ場合は多々ある)。


 ネット上に残った彼らの写真を見る限り、生活習慣等の違いから成長後は風貌に差異が出たものの、幼児期は瓜二つだ。


 物心付いてから「ブレンダ」と呼ばれ続けた兄が自らの性の矛盾に気付いた過程には、自分と生き写しで完全な性器を持ち、正常な男性として生きている弟の存在が大きかったはずである。


 また、弟の側からしても、自分と「姉」の置かれた状況が異常だと早期から察知し、彼としても周囲に救いを求めていたのに十分に得られなかったことが心を病んだ原因と察せられる。


 女児の「ブレンダ」として育てる過程に当初から破綻が見られたにも関わらず、両親が兄息子を娘として扱おうとし続けたのは、無傷の男性体を持つ双子の弟というあまりに現実的な比較対象があったがために「この子を完全な男性に戻すことはもう出来ない」と悲観してしまったのも一因だろう。


 更に言えば、マネー教授が「ブレンダ」の実現に固執したのも、一卵性双生児という比較実験のモルモットとしては理想的なケースだったためである。


「ブレンダ」と呼ばれ続けた兄が元の「ブルース」ではなく、新たに「デイヴィット」という名を自分に与えたのも、単純に自分の男性性を取り戻すばかりでなく、「ブルース」として生まれてから「ブライアン」と一卵性双生児ゆえに互いに比較され、共に歪んだあり方を強いられてきた過去を断ち切るために思える。


 一卵性双生児ゆえに発生し破綻の広がった悲劇、というのが、「ブレンダと呼ばれた少年」の記事を読むたびに受ける印象だ。


 同時に、顔も体型も酷似した二人の人間を巡る周囲の目線の残酷さといったものも浮かび上がってくる。


 双子として生まれなくても、多くの人が一度は、

「あの時、別の選択をしていたら、自分の人生はどう変わっていただろう」

「自分に今ともう少し異なる資質があったら、きっと現状は違っていた」

と想像する瞬間がある。


 双子が古来から物語のテーマにしばしば取り上げられ、また、現実の双子の人生に対しても一定の関心を持って捉えられるのは、彼らを眺める側の中にある「もう一つの人生」の可能性への憧れが原動力なのかもしれない。

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