物語を書く、本を出す。

*この文章は二〇一五年六月二十一日に初稿を完成させました。


 前稿(『イヤミスの時代』)でも取り上げたが、一九九七年に神戸連続児童殺傷事件を起こした「酒鬼薔薇聖斗」こと「元少年A」が、太田出版から手記を出版した件は物議を醸した。


 なお、この手記「絶歌」は、太田出版の公式サイトでは「ノンフィクション・人文」のカテゴリで紹介されている。


 この太田出版について改めて検索した。


 ウィキペディアによれば、芸能事務所の太田プロダクションの出版部が独立する形で出来た出版社であり、もともとは同プロダクションに所属していたビートたけしの本を出版するための会社だったという。


 その後はサブカルチャー系の書籍を中心に出版してはいるものの、鶴見済の「完全自殺マニュアル」や高見広春の「バトル・ロワイヤル」など、これまでも社会的な論議を大きく引き起こした作品を世に出してきた実績がある。


 一九九三年に出版された鶴見済の「完全自殺マニュアル」はタイトルの通り、自殺の具体的な方法や実行した場合の致死率を成功例・失敗例と共に紹介・解説している。


「自殺はとにかくいけないことだ」という精神論が支配的だった風潮に対して、「いざ、自殺を実行しようとするとどうなるか」を分析した視点には斬新なものはある。


 しかし、バブル崩壊直後で一般の厭世・悲観的な気分が蔓延した時期に出版されたこの本はミリオンセラーを記録する一方で、「悩んでいる人間に自殺への衝動を煽る悪書」「自殺幇助の書」といった反発が強く起こった。


 一九九九年に出版された高見広春の小説「バトル・ロワイヤル」は孤島に隔離された中学生たちが生き残りをかけて互いを殺戮する、いわゆるデスゲーム形式の作品だ。


 本来は角川書店主催の第五回日本ホラー小説大賞の落選作であったが(ちなみにこの回の同賞の受賞作は該当なし)、センセーショナルな内容に目を付けた太田出版が書籍化し、映画化もされて大きな話題を呼んだ。


 こちらもメディアミックス的な面を含めて記録的なヒットになったばかりでなく、その後、影響を受けたデスゲーム系作品を次々生み出した点でも記念碑的な作品になった。


 だが、それゆえに「未熟な中学生たちが殺しあう残虐描写を売り物にした猟奇趣味の作品」「青少年の暴力衝動を煽る悪書」として批判もされた。


 今回の「元少年A」による手記は、ちょうど「完全自殺マニュアル」と「バトル・ロワイヤル」の出版の間に起きた現実の凶悪事件の当事者の告白だ。


 恐らく、太田出版としても「完全自殺マニュアル」や「バトル・ロワイヤル」のように物議を醸す形で広く世間の注目を集め、売り上げが飛躍的に伸びる現象を期待しての出版と推察される。


「完全自殺マニュアル」は実際の自殺事件の例を取り上げているとはいえ、作者の鶴見済は生前の故人たちと関わりを持っておらず、事件そのものの責任を負う立場にはいない。


「バトル・ロワイヤル」がいかにショッキングな内容であっても、飽くまでフィクション、創作である。


「元少年A」による手記は、現実に世間を騒がせた凶悪事件の加害者によるものであり、正に重い事実そのものを売りにしている。


 こうした行為の是非はさておいて、太田出版がこの手記を世に出した経緯には世間の関心の高さから「売れる」見込みが強く持てた点が大きいだろう。


 批判や非難が高まれば高まるほど、それは商品への興味をそそる形になり、数字としての売り上げは伸びる。


 これが、「完全自殺マニュアル」や「バトル・ロワイヤル」の時にも見られた、この出版社お得意の炎上商法である。


 裏を返せば、他が敬遠するキワモノ(そもそも『バトル・ロワイヤル』は当初の応募先である角川書店からは明確に『切られた』作品である)を敢えて売り出す手法で生き残ってきた出版社と言える。


 若者の活字離れと併せる形で指摘されることだが、出版業界は構造的な不況にある。


「日本著者促進センター」のウェブサイトによれば、新刊の発行点数は二〇〇六年の七七七二二点を頂点にして減少に転じており、これは比較的最近と言える。


 しかし、書籍全体の販売部数は一九八八年の九四三七九万冊がピークで、それが二〇〇六年には七五五一九万冊で二割も減少した計算になる。


 ここ三十年のスパンで本全体が売れなくなる一方で、この十年の間に新刊も減ってきたということになる。


 本が売れない。

 新しい本も出ない。


 紙媒体の書籍は商品としては正に先細りの状況にある。


 そういう私にしても、ほんの一時期だけ出版業界の末端に属していた。


 その時、まだ色刷りの鮮やかな新刊の単行本が返品の段ボールに箱詰めされていく様子を目にして何とも寒々しい気分になった。


また、自社の倉庫に山と積み上げられた返品本に暗鬱となったことを今でもはっきり覚えている。


 業界新聞の見出しには大抵、「負債」「赤字」「民事再生申請」といった不景気な言葉が躍っていた。


 本を売る側にとって、書籍を作ることはハイリスク・ローリターンが基本である。


 その一方で、自分の著作を書籍の形で出したいと望む人は一定数おり、近年では自費出版を巡るトラブルもしばしば聞かれるようになった。


 かつて、自費出版で経営を拡大した新風舎は、ちょうど新刊の発行点数が最多をマークした二〇〇六年、こちらも年間出版点数二七八八点と日本最大を記録した。


 だが、その翌二〇〇七年から経営悪化し、同社から自費出版で著作を出した人々から販売を巡る訴訟を起こされ、二〇〇八年一月に破綻した。


 最大出版点数を誇った翌々年には倒産した事実からは、個々の出版物が決して利益を回収するものではなく、自転車操業的な経営状況にあったと推察される。


 その後、自費出版の最大手となった文芸社も、ネットを検索すると、出版した作者とのトラブルの事例ばかりでなく、元社員による告発記事など、「黒い企業」と思わせる情報に事欠かない。


 本が売れない時代にあって、自費出版は著者ばかりでなく、出版社側にとってもリスクの大きい形態と言えよう。


 私もこうしてネット上に作品を投稿する立場なので、自作を書籍の形にして誰かに読んでもらいたいという心情は理解できるし、自費出版で思わぬ経済的損失を被った人たちを嘲る気にはなれない。


 自費出版でトラブルに陥り、訴訟を起こすに至った人たちにしても、まさか自作がベストセラーになって大金を得られると夢想していたわけではなく、むしろ一冊か二冊でも誰かの手に取ってもらって大事に読まれることを期待して裏切られたのだと思う。


 ただ、読み手の立場になってみると、同じ額の金を払うならば、無名の作者が自費出版した作品よりも、有名人の著書でなければメジャーな文学賞を取った作品をどうしても選ぶだろうと思う。


 というより、前者が金額として多少安かったとしても、後者を買う人の方が現実として多いはずだ。


「バトル・ロワイヤル」にしても、「メジャーな出版社の文学賞で最終候補に残った」という事実が「好悪はさておき、一定の水準には達している作品」という安心感を受け手に与え、宣伝の上では大きく効を奏した面は否めない。


 そもそも、この作品に関しては、実際に世に出した太田出版側が、メジャーな他社の権威やネームバリューをそうした形で利用した感触を強く受ける。


 なお、「バトル・ロワイヤル」は単行本としては太田出版から出たものの、その後、幻冬舎から文庫版が刊行され、漫画版は秋田書店による「ヤングチャンピオン」誌に掲載された後にコミック化されるという、結果として複数の出版社が版元として並立する状況になった。


 持ちつ持たれつというか、何となく業界全体でヒット作の利益をシェアしている印象も受ける。


 実際、村上春樹などメジャーどころの作家は複数の出版社から刊行されているイメージが強い。


 特に廉価な文庫版にはその傾向が目立つ。


 雑誌や新書、文芸でも単行本は年々売り上げが落ちているものの、文庫本に関してはさほどではない。


 低価格で場所も取らない文庫本は、現代の読者からは好まれやすい形態である。

 電車やバスの通勤でも単行本より文庫本の方が読みやすい。


 従って、利益を回収しやすい文庫版には、多少、他社との重複があっても、人気作家の作品が次々組み込まれるようになった。


 しかし、その結果として生まれた「高い単行本は避けて、安い文庫本になるのを待とう」という読み手の傾向が、単行本の売り上げ減少を助長し、新たな書き手の新規参入と定着がより困難になっていく悪循環を生み出してもいるのだ。


 既存の文学賞に当選して作家になり、職業作家として生計を立てる道は険しい。


 文学賞に当選するまでの労苦はもちろんだが、晴れて職業作家になっても、原稿料と印税だけで生活していけるレベルの人はほんの一握りである。


 芥川賞の過去の受賞者一覧を見ると、「この人は、受賞作以外にもこんな作品を書いていたな」とパッと思い浮かぶ人よりも、「この人は、受賞後はどうしたのだろう」と疑問符の付く人の方が目立つ。


 古い年度より、新しい年度の受賞者ほど、その傾向が強くなる。


 新進作家にとっては最高栄誉とも言える芥川賞ですら、そんな状況なのだ。


 なお、村上春樹は二度に渡って芥川賞の候補に選ばれながら、結局、受賞できなかったことでも知られる。


 ただ、彼の場合は、繰り返し候補に選ばれた時点で既に力量を評価されている状況であるにも関わらず、結局、受賞に至らなかったことが却って注目を集め、一般の同情票な気分も手伝って支持が高まったケースとも考えられる。


 その意味では、彼の作品も、「バトル・ロワイヤル」と同じく落選したとはいえ、元の文学賞の権威による恩恵は受けたと言えよう。


 ただ、村上春樹にせよ、「バトル・ロワイヤル」にせよ、例外的にヒットして定着した作家、作品であり、文芸全体を俯瞰すれば、新しい書き手が参入しづらく、また、それ以上に定着も難しい状況に変わりはない。


 ここ最近のニュースとしては、他の業界で既に知名度を得た人が文芸界に進出しようとする動きが目立つ。


 リアルタイムでは、お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹が正に芥川賞の候補になっている。


 現時点では結果は出ていないし、私は彼の作品「火花」を読んでいないので内容を詮議することは出来ない。


 しかし、「本来は揶揄される立場にいるお笑い芸人が、純文学作品を書いて権威ある賞の候補になる」というニュースには、それ自体が「リア王」の道化の登場シーンを連想させるようなドラマ性が感じられる。


 恐らく、実際に受賞するまでには至らなくても、「芥川賞の候補になった」という話題性だけで、この作品は大きな収益をもたらすはずだ。


 ただ、作品の内容や実質的な完成度とは別に、他の業界で著名になった人間がその知名度を利用して文芸界に進出しようとするその行為自体への反発が強くあるのも事実だ。


 又吉直樹は最初から彼であることを明らかにした上で作品を文芸誌に掲載し、今回、芥川賞にノミネートされるに至ったわけだが、アマゾンのレビューには「芸能人としての知名度を利用したあざとい売り込み方だ」といった批判を込めたものが少なくない。


 だが、書き手が当初から有名人本人として登場し、作品も既に文芸誌に掲載して全容を明らかにしているせいか、作品が世に出てくる過程の後ろ暗さや不透明さといったものはあまり感じられない。


 だからこそ、芥川賞の候補になったニュースも好意的な方向で報道されたのだと思う。


 著名人の文芸界への進出で、結果として書き手にも出版社にもバッシングしか残らなかった事例としては、俳優の水嶋ヒロとポプラ社のケースが挙げられるだろう。


 二〇一〇年、第五回ポプラ社小説大賞を受賞した「斎藤智裕」作の小説「KAGEROU」は、「イケメン俳優の水嶋ヒロが本名で応募した作品だという事実が、受賞決定後に判明した」という触れ込みで大々的に報じられた。


 しかし、公募の文学賞の多くは作品に著者の略歴、現在の職業を付して応募することが規定に組み込んでおり、当のポプラ社小説大賞でもそれは同様であった。


 規定に従って応募すれば、ペンネーム「斎藤智裕」(皮肉なまでに平凡、平均的な名前ですね)を名乗る書き手が実は俳優の水嶋ヒロだという事実は、原稿が届いた時点でポプラ社側には明らかなはずである。


 こうした文学賞の常識に明らかに反した触れ込みは、当然のことながら、厳しい疑惑と追求の目に晒されることになった。


 そして、「ズッコケ三人組」シリーズなどほのぼのとした児童文学作品のイメージの一般に強かったポプラ社の主催したこの文学賞が、実態の非常に怪しい、はっきり言って、賞金詐欺に近いやり方で作品を募っていた事実も明らかになった。


 以下が、「KAGEROU」受賞後にネットを中心に広く知れ渡った「ポプラ社小説大賞」の実態である。


・賞金が無名の新人を発掘する賞としては破格の二千万円。芥川賞の副賞が百万円なので実にその二十倍。ちなみに、新潮社の「新潮新人賞」や文藝春秋社の「文學界新人賞」等、有名どころの新人賞の賞金は五十万円が相場。


・破格の賞金に設定してからは、第五回の「KAGEROU」受賞までずっと大賞は「該当作なし」で通しており、しかも、初めて受賞した水嶋ヒロが辞退したため、現実としてこの法外な賞金を手にした人間は一人もいない。


・水嶋ヒロの受賞後は賞自体を終了し、新たに設けた「ポプラ社小説新人賞」は賞金二百万円で常識的な額に落ち着いている。


 こうしたリークを受けて「出版不況で経営の苦しくなった中堅出版社と純文学作家として売り出したい俳優が仕組んだ八百長、茶番」といった見解が大勢を占めるようになった。


 先述したようにポプラ社の代表作品は「ズッコケ三人組」シリーズだが、これは一九七八年から刊行が始まった作品だ。


一九八二年生まれの私にとっては「小学校の図書室に必ず置いてある、ちょっと色褪せた本のシリーズ」というイメージで記憶されていた。


 一九八四年生まれの水嶋ヒロや彼の主要なファン層の世代にとっても、さして事情は変わらないはずだ。


 大手を含めて構造不況に陥った業界において、こうした過去のヒット作のイメージしか持たない企業が前面に出てくれば、当然のことながら疑惑を呼ぶ。


 アマゾンのレビューを見ていても、内容以前に、この本が世に出た経緯への不信や反発を示したものが多く、売り手側がそもそも好意的な評価の出づらい状況を作ってしまった印象が拭えない。


「KAGEROU」という書籍商品は炎上商法的な効果もあって数字の上では売り上げを伸ばしたものの、著者の水嶋ヒロに対しては以降、ネットを中心に揶揄、冷笑的な見方がされるようになった。


 また、「KAGEROU」の受賞と出版を決定した当時のポプラ社の社長は、社内クーデターの形で地位を追われ、行方不明になった後、自殺体で発見されるという悲劇に見舞われた。


「KAGEROU」というコンテンツに対しても、ポプラ社から出たオリジナルの単行本以外には、オリジナルの刊行直後に「『KAGEROU』を読み解く」(オークラ出版、外村明彦著)という便乗商法的な解説本が出版されたに留まる。


 前掲した「バトル・ロワイヤル」が単行本とは異なる版元で文庫化され、また、映像化やコミカライズなど幅広いメディアミックスを展開したのと比較すると、同じく物議を醸した作品とはいえ、純粋なコンテンツとしての受容の面で大きな落差があると言わざるを得ない。


 出版の経緯はさておき、多くの人に商品としての内容が明らかになった「KAGEROU」は、出版業界というかメディア産業として広くシェアすべきコンテンツではないと判断されたのだ。


 結局は誰が得をしたのか、というのがこの騒動に対する率直な感想だ。


 アマゾンに多数寄せられたレビューの多くが、この本が世に出た背景への疑念や反発、そして純粋な作品としての不満を訴えたものだ。


 多くの読者にとって、これは手放しで楽しめる作品ではあり得なかった。


 作者の水嶋ヒロにしても、自分や作品がこんな風に嘲笑を浴びる形で売りたかったわけではないだろう。


 その後、二作目を発表したとか小説でなくても脚本なりエッセイなり文筆活動を続けた形跡がないことからしても、彼は書く意欲をくじかれたのだと思う。


「イケメンなら何をしても許される、大目に見られる」状況を指して「イケメン無罪」というネットスラングがあるが、この騒動に関しては「イケメン無罪」とはいかなかったようだ。


 むしろ、ネット上では対象がどのような人物であっても「一つにケチが付けば、全てをバカにする」式の過剰なバッシングに発展しやすい。


彼もその例に漏れず、騒動の発端になった作品ばかりでなく、それ以前の経歴やそれ以降の言動も逐一揶揄の対象になった。


 物議を醸した出版から三年足らずで社長が社内クーデターを起こされて退任した。


この事実からしても、ポプラ社内部でもこうした世間から疑惑の目を向けられる形で商品を売り出す行為への抵抗や反発はもちろん、結果として企業イメージに傷が付いたことへの怒りが強く湧き起こったと推察される。


 炎上商法的な書籍の売り込みは、長期的な観点では売り手本人が損をするばかりでなく、読み手の不信感にも繋がり、書籍離れを加速させる。


 二〇〇〇年にインターネットに投稿され、二〇〇二年にスターツ出版から書籍化されたYoshi作「deep love」は、いわゆる「ケータイ小説」が紙媒体の書籍としてもミリオンセラーになった先駆的な作品だが、当の内容に対しては揶揄、冷笑的な反応が主であった。


 この作品が話題を呼んでからは、「ケータイ小説」という言葉そのものが、「一般の小説と比べて展開が荒唐無稽、文章や表現が稚拙」といった侮蔑的なニュアンスをより強く帯びるようになった。


 むろん、これ以降にネット小説から書籍化された作品には、紙媒体の商品としても高く評価されたものもある。


 しかし、ネットという媒体に発表する最初の敷居が低いため、公募の文学賞に応募してフィルタリングに掛けられた作品などと比べると、ネット小説は個々の作品はさておき全体としてのレベルはどうしても低い感触が拭えない。


 裏を返せば、一般の読者の中には「公募の文学賞で評価された作品ならば、一定の水準が期待できる」という信頼があったからこそ、先述の水嶋ヒロとポプラ社の騒動のような事件は起きたのである。


「KAGEROU」にしても水嶋ヒロ名義で文学賞の冠を付けずに出せば、恐らくメディアでは「タレント本の一種」という扱いになり、元から有名人としての彼に反発を抱く一部の人々から揶揄されることはあっても、一般の文芸ファンから厳しい批評の目には晒されなかったに違いない。


 また、無名作者によるネット小説ならば、さほど注目もされない代わりに実際に読んだ人たちから痛烈な酷評も受けなかったかもしれないのだ。


 ただし、インターネットは、書き手への制約が圧倒的に緩く、かつ物語をより多くの人に向けて発信できる点では、やはり表現の媒体として需要が高いと思う。


 書き手の好きな話を好きなように書けるのが無料のネット小説の魅力だとすれば、紙媒体の小説は商品である以上、当然のことながら、より多くの読み手にとってコストに見合うだけの魅力を持った物語でなければならない。


 文芸書籍の売り上げの落ち込みは、身も蓋もない言い方をすれば、コストに見合うだけの魅力ある物語が減ったからだと言える。


 だが、それ以上に読み手である私たちが他人の紡ぐ物語に身銭を切って目を注ぐだけの余裕を無くしたからではなかろうか。


 キワモノ的な本を敢えて世に出す出版社や炎上商法的な宣伝は、売り手ばかりでなく、買い手と目された側の精神的荒廃を炙り出しているように思えてならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る