「イヤミス」の時代
*この文章は二〇一五年六月十五日に初稿完成したものを一部修正して投稿しています。
嫌な後味の残るミステリー、略して「イヤミス」が近年の文芸作品の流行だという。
私はミステリー小説の熱心の読者ではないので、個々のイヤミス小説を論じることは出来ない。
しかし、凶悪事件、主に殺人事件が起きてその犯人と経緯を追うというミステリーの構造そのものが、既に嫌な後味を前提にしているものではないだろうか。
仮に殺された被害者が極悪人、正義の加害者は逮捕されず、社会的な制裁を一切免れるという結末であったとしても、本来、善人である加害者が罪に手を染めていく過程にはやはりやり切れない感触が残る。
謎を解き明かすことで、罪を犯した人の業や哀しさが浮かび上がる。
それが、ミステリーというジャンルが根底に持つ宿命である。
ただし、シャーロック・ホームズやポワロにせよ、あるいは日本の明智小五郎や金田一耕介にせよ、古典的なミステリーは名探偵が難事件を解き明かす、その手腕の鮮やかさに焦点を当てたものが主流であった。
今でも、「キャラクター・ミステリー」略して「キャラミス」はこの系譜に属すと言えよう。
キャラミスが事件を捜査・解決する側の鋭敏さに重点を置いたカテゴリだとすれば、イヤミスは事件を引き起こす・巻き込まれる側の闇に焦点を当てたカテゴリと言えようか。
しかし、この二つは必ずしも拮抗しうるわけではなく、相互に影響を与える関係にあるように思う。
テレビドラマの人気シリーズ「相棒」は、杉下右京警部とその相棒となる部下が難事件を解決する内容であり、系譜としては間違いなく「キャラミス」に該当する。
紅茶を嗜み、慇懃な口調を常に崩さない杉下右京のキャラクターは明らかに「英国紳士」を意識したものだ。
この彼が独立した探偵ではなく、飽くまで警察組織に属している点も含めて(劇中では右京たちの目を通して、しばしば警察組織内部の腐敗や旧弊といったものも描かれる)、シャーロック・ホームズの現代日本的な書き換えといった印象を受ける。
探偵のホームズと医師のワトソンは社会的な利害の絡まない友人関係だが、杉下右京と歴代の相棒たちは職場の上司と部下である。
これまで三回代わった部下たちの去就の経緯がそのままシリーズの重要な一話を形成するばかりでなく、シリーズ全体の底流を成している点でも、杉下右京とその部下ではなく、正に二人で主人公を務める「相棒」というタイトルに相応しい。
右京にはドラマ開始の時点で既に離婚した元妻で小料理屋を経営するたまきがいるが、初代の相棒だった亀山薫にも同棲している記者の恋人の美和子がいる。
前者の結び付きは、一見、高級官僚と愛人のママといった風情の男女が、実はかつて正式な夫婦であったという意外性と、単なる愛人関係よりもっと複雑な結び付きだと思わせるドラマ性を意図している。
後者の「一つ屋根の下で暮らしていながら、正式な夫婦ではない」結び付きは、そのまま三権の一つである「行政」を担う警察と「第四の権力」マスコミの微妙な関係を連想させる。
亀山薫が相棒を務めたシリーズは記者の美和子が主要な人物としてドラマに関わってくるため、必然的に事件にマスコミの報道が大きく絡んでくる展開の話が多い。
裁判員制度を取り上げた「複眼の法廷」(シーズン6、第一話)は、「ノルマ達成のために犯罪をでっち上げる」警察内部の腐敗ばかりでなく、「スクープを狙うマスコミが新たな被害者を出してしまう」という皮肉を描いている。
最終的に亀山薫は美和子との結婚と同時に警察を辞し、右京の下を去るが、これも、ある意味必然であろう。
亀山と美和子が正式な夫婦になってしまったが最後、視聴者には、警察とマスコミが公然と癒着して情報漏洩している、別な意味での腐敗の構図を連想させてしまうからである。
二代目相棒の神戸尊は、右京の部下になる以前に、偽証で無実の人間を有罪に追い込み、相手から遺恨を突きつけられる形で自殺された過去を持っている。
また、初代の亀山薫が明らかな左遷として特命係に配属され、右京の部下になったのに対して、神戸尊は実は上層部からのスパイとして右京の下に送り込まれた経緯があり、最終的には不本意ながら上層部に戻る形で「相棒」を辞す。
そもそもの相棒役が偽証やスパイといった後ろ暗い背景を秘めているせいか、神戸尊が相棒役を務めたシリーズは、全般に他者への不信や取り残された人間の孤独といった暗い感触が後を引く話が目立つ。
ネット上でも「トラウマ回」「鬱回」として良く取り上げられる「ボーダーライン」(シーズン9、第八話)も、この神戸尊が相棒を務めたシリーズの話だ。
この話は、しかし、犯人が難解なトリックを用いた「殺人事件」ではない。
だが、犯人がなぜ事件を引き起こすに至ったかが明らかになるその過程が、非常に暗鬱とさせられるのだ。
端的に言えば、これは、失業し、周囲の人間にも見捨てられ、十分な社会的保障も受けられなかった男性が、他殺に見せかけて自殺した事件である。
ミステリーの常道である「自殺に見せかけた他殺」の逆パターンだ。
「自殺に見せかけた他殺」ならば、真相が判明し次第、犯人を捕らえて殺された被害者の無念に報いる一応のカタルシスを得ることができる、
しかし、「他殺に見せかけた自殺」の場合、当の犯人は既に亡くなっており、しかも自殺に至るまでの悲惨な過程が明らかになっても、もう彼を救うことはできない。
いわば、この話には二重の絶望が用意されているのだ。
ドラマのクライマックスは、亡くなった彼が、試食の菓子を頬張りながら、かつて自分の住んでいた部屋に新たな住人が引っ越してくる様子を遠巻きに眺める場面だ。
その直前に、いつも試食の菓子をもらっていく彼の行動に不審を覚えた女性店員から、「今度は買って下さいね」と否定的な声を掛けられ、思い余って分捕る形で得た菓子を空腹に詰め込みながら見詰める彼の足元には、菓子の欠片が零れ落ち、蟻がたかって来る。
本人としては勤勉に生きてきたはずなのに孤遇に落ちた彼は、群れからはぐれてえさにありつけなくなり、帰るべき巣も失った蟻なのだろうか。
それとも、あるべき場所から転がり落ち、いいように食い尽くされていった菓子なのだろうか。
実際には右京たちが目にすることのなかったはずのこの光景は、死んだ彼の絶望と孤独を象徴的に示している。
謎解きが鬱々とした後味を残す点で、この話は正に「イヤミス」であろう。
昨今、著名なお笑い芸人の家族が生活保護を受けていた事実が発覚して、マスコミを賑わした事件があった。
しかし、この「ボーダーライン」は、「お役所仕事的な判断と処理のせいで、本来は生活保護を受けるべき人間に必要な保護が行き渡らない」という状況を批判的に示してもおり、そうした苦いリアリティを含めて「イヤミス」の名に相応しい。
話は変わって、三代目の相棒になった甲斐亨の幕引きを巡ってもネットでは様々な論議を引き起こしたが、これも彼が相棒を務めたシリーズ全体を振り返る上で「イヤミス」的な展開ではある。
そもそもこの最終回「ダークナイト」の展開自体が、インターネットで凶悪犯罪を巡る論議が過熱し、事件関係者のプライバシーを晒し上げる私刑が横行したり、はたまた凶悪犯罪者がしばしば英雄視すらされたりするという風潮を風刺したものだ。
「ダークナイト」はタイトルといい、展開といい、漫画「デスノート」を意識していると思われる。
エリート青年の偏狭な正義が次第に暴虐に転じ、本人をも破滅に追い込んでいくこの漫画は、記録的なヒットとなった。
「ダークナイト」という通称は、「デスノート」の主人公「夜神月(やがみライト)」をもじった印象を受ける。
また、歴代の他の二人の相棒たちと比べても年若く、また父親も警察官僚の高位にある甲斐亨のキャラクター設定や「カイト」という愛称(本来なら名前そのまま『トオル』などでも良いはずなのに、わざわざ『凧』を意味するニックネームにされている。『糸が切れればどこに飛んでいくか分からない』という危うさを込めたものか)も、当初から夜神月に似せた感触はあった。
なお、「デスノート」の映画版で夜神月を演じた藤原竜也と甲斐亨に扮する成宮寛貴は同じ一九八二年生まれである。
更に言うと、丸顔であどけない顔立ちの藤原竜也より細面で切れ長の目の成宮寛貴の方が、漫画の夜神月の風貌には近い。
現在テレビドラマとして放送予定の「デスノート」のキャスティングについてもネットでは様々に取り沙汰されているようだが、映画版で主役が藤原竜也に決まった時も、「漫画の月に似ていない」「成宮の方が良かった」という声が散見された。
もしかすると、甲斐亨は「デスノートという特殊兵器を持たない夜神月」といった想定で設定されたキャラクターであり、成宮寛貴のキャスティングなのだろうか。
それはさておき、視覚的には擬似的な父子関係にも見える杉下右京と甲斐亨の組み合わせは、最終回に至って「デスノート」の夜神月父子を彷彿させる顛末を迎える。
ただし、「ノートに名前を書くと、その人間が死ぬ」という刑法上の罪には問えない非日常的な手段に依拠する「デスノート」の世界では、原作漫画では青年が真相を知らない父親を抹殺する展開を迎えるが、映画版だと青年の罪を察知した父親が息子を粛清する結末に変えられている。
飽くまで日常に依拠した「相棒」の世界は、基本は「デスノート」の映画版と同じ路線にしつつも、刑法上の罪を犯した青年が生きて拘束され、恐らくは裁判を経て刑に服すであろうと予想される現実的な形で処理されているようだ。
エリートとして生きてきた青年にとっては、あるいは心臓麻痺などで横死するよりも、重罪人として収監され、周囲からの失望や冷蔑の視線に囲まれて生き続ける方が悲惨であるかもしれない。
また、杉下右京にとっても、これまで難事件を共に解決してきた「相棒」がその一方で背信行為を働いていたという事実は、刑事としてばかりでなく、まず、人間として根底を揺るがすレベルの衝撃のはずだ。
ネットでは早くも次の相棒は誰かが話題を呼んでいるようだが、直属の部下が逮捕された状況では杉下右京が刑事を続けるとしてもこれまで以上の風当たりが強くなるはずであり、また、ドラマとしても甲斐亨が関わった事件を今後の新シリーズで当たり障りなく回顧するのは難しいだろう。
そうした現実の苦味をより多く含んでいる点でも、ダークではあっても飽くまでファンタジーの「デスノート」に対して、「相棒」最終回の「ダークナイト」はイヤミスと言える。
さて、先ほど、イヤミスは事件を引き起こす・巻き込まれる側の闇に焦点を当てたカテゴリだと述べた。
これには、現実に凶悪犯罪が起きた際に犯人像をプロファイリングしたり、逮捕後もその動機を心理学的な観点で掘り下げたりする精神分析の流行(というよりもはや定着?)が背景に挙げられるだろうか。
「心の闇」という言葉は、凶悪事件が起きた際に、犯人の動機を報道し分析する際に、「心の闇を追った」と敢えて情緒的に表現するマスコミの慣用句としてよく使われる。
実際、凶悪犯罪を引き起こす人間の心理は多くの人の関心を引く分野だと思う。
未解決事件の犯人像については、「もしかして、次に犠牲になるのは自分や大事な人ではないか」というそこはかとない恐怖感や危機意識からどうしても情報が欲しくなる。
また、逮捕された犯人に関しては、「なぜそのような恐ろしい所業を働くに至ったのか」とこちらとしても納得の行く動機を求めてしまうし、そこに一種の有名人への覗き趣味も手伝ってやはり情報を追ってしまう。
現実として引き起こされる凶悪事件の方でも、不可解さを秘めたケースが増えるようになった。
一九八〇年代後半に起きた宮崎勤による「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」は、怨恨でもなければ、身代金など営利目的でもない動機で、幼い少女が立て続けに誘拐され惨殺された事件である。
それまでは、子供の誘拐殺人事件といえば、身代金目当ての果てが通例であった。
また、婦女暴行事件が連続して起きたとしても、被害者は少なくとも十代には達した、女性的な体型を備えた年配のイメージが固定していた。
しかし、宮崎勤が性的搾取の対象に選んだのはいずれもまだ「少女」にも達していないような幼女であり、襲った後には無残に殺害して遺棄した。
そうした陰惨そのものの犯行を働く一方で、「今田勇子」という女性名を使って犯行声明文をマスコミに送りつけるなど、彼には世間に向けて自分の所業を誇示した上で「捕まえてみろ」と挑発するような態度が見られた。
こうした不気味な犯罪者像は、彼本人への分析ばかりでなく、「自分の身近にも第二、第三の宮崎勤がいるのではないか」という恐怖から、宮崎勤と同じくアニメやゲームを趣味とする人を「オタク」と定義して排斥(または揶揄)する風潮を生み出した。
ただし、宮崎勤の場合は、逮捕時で既に二十六歳の成人であり、当初から実名も顔写真もマスコミに出回るばかりでなく、裁判前から「これは死刑確定だな」「生きては世間に出て来ないだろう」と世間一般でもうっすら察知されていたせいもあって、彼を巡る量刑や報道のあり方そのものが問われる傾向は薄かった。
凶悪犯罪者を巡る精神分析が過熱するばかりでなく、報道や刑罰のあり方を巡って世論が紛糾したのは、やはり、一九九七年に起きた神戸連続児童殺傷事件だろう。
この事件で、二人の児童を殺害し、また、三人の児童に重軽傷を負わせ、「酒鬼薔薇聖斗」と名乗ってマスコミに犯行声明文を送付したのは十四歳の少年だった。
逮捕された彼の実名や顔写真は、法規制としてメディアで明かされることはなかった。
彼の実名と顔写真を掲載した写真週刊誌「FOCUS」は、一部の書店を除いて販売は自粛された。
しかし、ここで事件の報道に大きな役割を果たしたのが、この時期に新興メディアとして台頭してきたインターネットだ。
「FOCUS」に掲載された少年の実名と顔写真はネット上に拡散され、今では「酒鬼薔薇聖斗」で検索すれば、彼の顔写真は簡単に閲覧でき、また、実名も知ることが出来る。
それからは、少年による凶悪事件が起きて、テレビや新聞、雑誌では規制が掛けられても、インターネットでは加害者の個人情報が晒され、拡散されるという現象が普遍的になった。
むしろ、主要メディアで規制されているほど、「知りたい」という欲求が高まり、ネット上ではデマを含めて事件関係者の情報が過剰なまでに出回るようになった。
俗に言う「私刑」現象である。
しかし、匿名性の高いインターネットで出回る情報には必然的にデマや誹謗中傷といった性質のものも多く含まれており、本来は事件とは無関係の人が「犯人」と決め付けられ、不当な攻撃を受けるといった二次被害も目立つようになってきた。
お笑い芸人のスマイリーキクチが一九八九年の女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与したという中傷をネット上で執拗に受け、結果的に十九人が中傷犯として検挙された事件も記憶に新しい。
これは有名人への妬みから来る貶めがおどろおどろしい事件と結び付けられて拡散した例であり、引き合いに出されたのが少年による事件のため関係者の名前が徹底的に伏せられた状況を逆手に取った中傷と言えよう。
世間には、他者を無残に殺害する「心の闇」が一部に存在する一方で、無実の人間を殺人犯に仕立ててしまう「心の闇」も不特定多数の形で潜んでいるのである。
さて、かつて「酒鬼薔薇聖斗」を名乗り、マスコミからは「少年A」と仮に呼ばれた男性が、昨年「元少年A」の筆名で自伝を出版した。
内容の詮議はさておき、少年に我が子を殺害された遺族たちはいずれも、絶版と回収を要請している。
被害女児の母は、加害男性が自伝を出版した事実を、本人からではなく、新聞社からの連絡で知ったとコメントしている。
また、被害男児の父は、以前から事件についての出版物を出さないようにと加害男性に伝えていたと明言している。
そこから読み取れるのは、この加害男性は、被害者遺族が望まないと知りながら自伝を出版社に持ち込み、反対される事態が予測できたために遺族には告知せず、何の了承も得ないばかりか、むしろ不意打ちする形で世に出したのである。
この行動一つを取っても、彼は自分の存在と所業を世間に知らしめたいがために自伝を出版したのであり、つまり被害者遺族への配慮より自分のエゴを優先したのである。
そして、そこに出版社も一枚噛んだと言える。
「酒鬼薔薇聖斗」として自分の所業を世間に誇示した時点から、刑法上の再犯はしていなくても、加害男性のメンタリティが更生したのかは非常に疑われるところだ。
太田出版は、なぜ、殺人犯がその所業をネタに利益を得るような行為に加担するのだろうか。
「元少年A」と匿名で自伝を世に出した加害男性は、当時三十二歳。
二十六歳の宮崎勤が逮捕されて実名と顔写真を一斉に報道された時よりも年上である。
なお、元少年Aと同い年の加藤智大が秋葉原通り魔事件を起こしたのが二十五歳で、二〇一五年二月に死刑が確定した。
刑死した宮崎勤やその予定にある加藤智大と比べて、元少年Aの犯した罪は軽いと言えるのだろうか。
犯罪者として残忍でないと言い切れるのだろうか。
二人と比して元少年Aの犯した罪が軽いわけでもなく、残忍さも劣らないとすれば、何故、元少年Aだけは自由の身で、被害者遺族を踏み躙る形で金銭を得る行為が許されているのだろうか。
「イヤミス」とは、創作の世界より、現実にこそ、理不尽な形で存在するものなのかもしれない。
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