人魚の涙

 日本語は不思議だ。


 半身が人間で、もう片方の半身が魚という想像上の生物を表現する二通りの言葉がある。


 一つは、「人魚」。

 もう一つは、「半魚人」。


 一般に、前者だと、上半身が人間の美女で、下半身が魚になる。

 後者だと、上半身が魚で、下半身が人間の男性、あるいは骨格としては人の形をしているが、皮膚が鱗になっているというイメージがある。


 念のため、ウィキペディアを確認してもそんな感じに定義されており、より厳密に言うと「半魚人」は「ヒトと魚類の中間的な身体を持つ生物」なので、「人魚」は「半魚人」の一種、一形態を意味しているといえよう。


 アンデルセンの「人魚姫」は、上半身が美少女で下半身が魚であり、サンリオキャラクターの「はんぎょどん」は全身こそ青いものの、下半身は二本足で人体の形を取っている。


 男性的なイメージの強い「半魚人」にはグロテスクでなければ、「はんぎょどん」のような道化的、コミカルなキャラクターが与えられやすい。


 一方、「人魚」だと、ブラジャー代わりに貝を乳房に当てた半裸の美女という艶かしい外見で描かれることが多い(女優の武田久美子が一時期、白い貝殻で胸や局部を隠した扮装の写真で話題を呼んだ。これはふとした拍子に外れてしまいそうな貝殻を裸身に身に着ける扇情性を意図したのはもちろんだが、欧米的な容姿の彼女が『人魚』の装いのステレオタイプをなぞることで、『脚を得て浜辺に打ち上げられた人魚姫』といった幻想的なイメージを出す効果も意識しているように思う)。


 また、アンデルセンの描いた悲恋の果てに泡となって消える儚いイメージもあいまって、「苦界くがいに沈められ、叶わない恋に死んでいく、薄幸の美女」といった形象ともしばしば重ねられる。


 実際、アンデルセンの原作は未読だが、子供の頃読んだ絵本の「人魚姫」に出てくる海の住人たちは女性ばかりだった。


 ヒロインの人魚姫はもちろんのこと、彼女が声を引き換えに足を手に入れようと依頼する相手は「魔女」だ。


 また、陸で苦悩する人魚姫を救うべく奔走するのも「姉」たちである。


 絵本では、人魚姫姉妹はもちろん、魔女も海亀のような緑色の皮膚でいかにも悪辣そうな顔つきだが、全体としては上半身が人間の女性で下半身は魚という、「人魚」の基本を踏まえた姿で描かれていた。


 子供の頃、足と引き換えに声を失い、真相を伝えられないまま、王子が隣国の姫と結ばれていく様を傍観するしかない人魚姫の描写にやきもきした。


 一方、末妹を救うためにそれぞれの髪を献じて魔女に嘆願する姉人魚たちの姿に悲痛なものを覚えた。


 絵本では、長姉らしい人魚がひざまずいた後ろに、次姉以下の姉妹たちが横並びにまた跪いて、それぞれの切り落とした髪を差し出しており、魔女が邪悪な笑いを浮かべて彼女らを見下ろしている図が描かれていた。


 姉人魚たちにとって、そもそもが末妹の声を奪って窮地に陥れた敵とすら言える魔女。

 その相手に頭を下げて助けを乞わなくてはならない、髪を短く切り揃えた海の姫君たちの哀しさ。


 そんな姉たちの思いすら利用して突き落とすであろう企みが透けて見える、魔女の奸悪な微笑み。


 幼い私の読んだ絵本は、「海に飛び込んだ人魚姫は、天使に助け出されて、天国に昇っていきました」というラストになっていた。


 羽の生えた愛らしい子供の姿をした二人の天使が、二本足のままドレスから白い衣裳に装いを変えた人魚姫の腕を掬い上げていて、人魚姫の顔は明るく微笑んでいる。


「泡になって消えたのではなく、魂は救われた」という結末は、幼い読者にショックを与えないための、精一杯の改変だったのだろう。


 しかし、子供だった私にも、このラストが、陸では生きられず、海にも帰れなかった人魚姫が現実的には死んだことを意味しているらしいのは、おぼろげながら理解できた。


 釈然としないエンディングだった。


「お姉さんの人魚たちはどうしたんだろう?」

「どうして一番悪い魔女がお咎めなしなんだろう?」


 暗い海の底で、姉人魚たちが短く切り揃えた髪を揺らしながら、互いに黙して岩の上に腰掛けている、黒い影になったしなやかな背中が思い浮かぶようで、やり切れなかった。


 白雪姫に毒林檎を売りつけた魔女は処刑にされるのに、人魚姫姉妹から美しい声や髪を奪った挙句破滅に追い込んだ海の魔女は、まるで逃げ得のように何の制裁も受けない。


 大人になって読み返すと、魔女は基本的には相手の希望を叶えているのであって、その代償が結果的に相手の不幸を呼び寄せても、彼女の責任ではないと頭では分かる。


 しかし、「人魚姫」の魔女からは、その場その場で相手の希望を受け入れる形で、明らかに破滅に誘導する悪意や狡猾さが透けて見える。


 更に言えば、人魚姫姉妹を破滅に陥れたところで、この魔女が現実的な得をする要素は読む限りどこにもない。


 人魚姫が死ぬことで有利になる人物というと、強いて言えば、王子と結婚する隣国の姫になるだろうが、これは海の魔女とは別人であり、かつ物語の中で両者は何の繋がりも持っていない。


 もっと突っ込んだ言い方をすれば、この隣国の姫は気を失って浜辺に打ち上げられた王子をその時点から介抱した点で善人である。


 しかも、人魚姫の声を奪う魔女の魔法の結果、人魚姫が王子の命を助けた真の恩人である事実を最後まで知らないという点で、王子同様、気付かずに魔女に欺かれた一人と言える。


 だからこそ、この「人魚姫」の魔女からは他者全てを弄ぶ嫌らしさや陰険さがより強く浮かび上がってくるのだ。


 直接的には手を下さずに関わった相手を窮地に追い込んでいくところに大人の狡さや汚さが集約されているようで、かつ自分は火の粉を被らずに上手く逃げ切った魔女の高笑いが聴こえるような結末。

 ここに、読み手としては大人になってもやはり苦いものを覚える。


 絵本を読む年齢を過ぎてから、人魚のモデルになったジュゴンの写真を見て、

「こんなでっぷりしたイルカみたいなの、どこも人魚姫じゃないよ……」

と軽いショックを受けた。


 一方、ギリシャ神話を読んで、「ローレライ」や「セイレーン」といった、普段は海や水の中に住んでいて時たま陸に這い出ては美しい歌声で船乗りの男を惑わし、船を沈ませる美女妖精の形象を知った。


 アンデルセンの「人魚姫」は十九世紀に書かれたから、ローレライやセイレーンの伝説の方が先である。


 難破した船から王子を救出した「人魚姫」が脚と引き換えに美しい声を失う展開は、美しい声で船を沈ませるローレライやセイレーンの伝承を踏まえていると思われる。


 伝承を踏まえて見直すと、あるいは美しい声を持つ人魚姫に見初められたからこそ、王子の乗った船は沈んだのかもしれないと思わせる点でも、この展開は含蓄が深い。


 姉人魚たちが妹を海に連れ戻すべく殺せと命じるのが、恋敵の隣国の姫ではなく、飽くまで王子本人である描写にも、「本来は船と共に死ぬべき男だったのだから」という突き放した感慨が見える気もする。


 アンデルセンがそんな顛末を意図したかは不明だが、ローレライやセイレーンの伝承を知ってから、「人魚姫」で末妹を失った姉たちのその後を想像すると、月明かりの下、泡になって消えた妹に似て、しかし、無邪気さの代わりに艶やかさを帯びた歌声で船乗りを惑わせては、冷たい微笑を浮かべて、沈んでいく船に見入る姉人魚たちの姿と哀しい歌声のこだまが浮かんでしまう。


 ローレライにせよ、セイレーンにせよ、誘惑する女性の危険なセクシュアリティを表象する存在だ。


 水の底から這い上がってくる美女のイメージには、どこか地上とは隔絶した境遇から生じた恨みや憎しみが纏いついている(和製ホラーの金字塔になった映画『リング』で、貞子が古井戸の底から這い上がってくる設定も、単なる偶然ではないように思う)。


「アラビアンナイト」でも、壷に閉じ込められた魔神が海底で救いの主が訪れるのを一心に待つ内に、次第に現れない待ち人への憎しみを燃え上がらせていく挿話がある(余談だが、ヨーロッパのおとぎ話で魔法を使うのはたいてい『魔女』だが、『アラビアンナイト』の世界で壷やランプから姿を現す『魔神』や『魔法の精』は男性の形象を取る場合が多い。キリスト教圏においては『悪は女から生まれる』ということで魔女が跋扈するが、イスラム圏においては魔物であっても女性は滅多に人前に姿を晒してはいけないのだろうか)。


 人魚姫姉妹を陥れる海の魔女にしても、あるいは冷たい北の海底で孤独に暮らす内に、他者そのものへの怨念を募らせていったのかもしれない。


 これと関連して、おとぎ話の「人魚姫」を一読して気付くのは、「人魚『姫』」であるにも関わらず、海の王であるはずのヒロイン姉妹の両親が一度も姿を現さず、物語に全く絡んでこない点だ。


 末娘の人魚姫が悲しい結末を迎えるのは、一面では、本人たちもまだ若く未熟な姉人魚たちだけで解決に乗り出した点にも起因しているように思える。


 あるいは、陸の人間に恋をして海の世界を捨てる人魚姫の行為は、姉妹たちの両親が支配している海の世界への反逆に他ならないので、それ故に両親は末娘の出奔から救済まで一切関わってこないのかもしれない。


 物語全体を通して浮かび上がってくるのは、人魚姫及び姉妹たちの寄る辺なさである。


 ディズニーの「リトル・マーメイド」でヒロインが王子と結ばれるハッピーエンドに書き換えられるだけでなく、人魚姫姉妹の父親をメインキャラクターとして登場させている。


 これは、オリジナルの「人魚姫」の姉妹たちに漂う欠落感を補完するためであろうか。


「アリエル」と固有の名を与えられたあどけない人魚が温かい家族の助けを得て幸福を掴む「リトル・マーメイド」は広く受け入れられ、シリーズ化までされた。


 これは、可憐な人魚姫が恋に破れて、生きる場所を失うアンデルセンの原作のラストにやりきれない感触を抱く人が多かったのも一因だろう。


 コペンハーゲンの海岸線を望む「人魚姫」のブロンズ像はしばしば首や腕を切り落とされる等の被害に遭っている。


 こちらも、決して文化財を傷付ける愉快犯的な感情からではなく、悲しい物語の結末への抗議・反発に私には思える。


 日本では、小川未明が一九二一年に発表した「赤い蝋燭と人魚」が有名だ。


 作者は「日本のアンデルセン」と評されており、タイトルに敢えて「人魚」と入れている点からしても、アンデルセンの「人魚姫」を意識した作品と思しい。


「人魚姫」が泡になって消えていく人魚姫とその姉妹の悲哀を描いた作品だとすると、「赤い蝋燭と人魚」から浮かび上がるのは陸の人間の酷薄さに裏切られた人魚母娘の怨念だ。


 アンデルセンの「人魚姫」に登場する王子や隣国の姫といった陸の人々は、口の利けない障害者として姿を現した人魚姫に対し、彼らの意識の上ではむしろ厚遇しており、決して心ない仕打ちに出ることはない。


 しかし、「赤い蝋燭と人魚」に出てくる陸の人々は、飽くまで人魚の体のまま現れた娘の養父母となる蝋燭屋の老夫婦にせよ、娘人魚を買い受け檻に入れて連れ去る香具師にせよ、欲に目の眩んだ醜さや異形を虐げる冷酷さを強調した造型ばかりだ。


 アンデルセンの「人魚姫」は人知れず身を投げた人魚姫が泡となって消えるところで終わっている。


 この結末の後に、姿を消した人魚姫に気付いた王子が悲しむ場面も想像できなくはないが、それはもう物語の枠の外にある。


 だが、「赤い蝋燭と人魚」は、娘人魚の乗った船が沈み、恐らくは母人魚と思われる謎の女が娘人魚の残した赤い蝋燭を買い取って姿を消した後も、まるで踏みにじられた母娘からの呪詛のように神社に赤い蝋燭が灯り続け、時化しけを絶え間なく起こして村を滅ぼしていくという、怪談じみた展開が続く。


 神社に灯り続ける蝋燭の赤い色に、血塗られた怨念が表象されているのは言うまでもない。


 しかし、火を点した蝋燭自体が人の命の儚さといったものの象徴にしばしば用いられる小道具だ。


 また、江戸時代の有名な怪談会である「百物語」では、一つの話が終わるたびに蝋燭の炎を吹き消すのを慣習としていたことから、いわば怪奇現象の呼び水として捉えられていたとも言える。


 美しい人魚を主人公にしながらもこうした暗い物語が描出されたのは、むろん、小川未明の作家性もあるだろう。


 だが、この「赤い蝋燭と人魚」が発表された一九二一年、日本は大戦景気の反動で深刻な不況に陥っており、首相の原敬が暗殺されたのもこの年であった(ちなみに第一次世界大戦に敗れてどん底に陥っていたドイツで、ヒトラーがナチスの党首に就任したのも同じ年だ)。


 生活に困窮した家庭が子女を遊郭に売るいわば「娘の身売り」が、深刻な社会問題になっていた時代だ。


 養父母として愛情を注いできたはずなのに香具師の提示した大金に目が眩んで娘人魚を引き渡す老夫婦の描写には、こういった世相も反映されていると思われる。


 また、当時は身体に奇形のある人を見世物にする行為が商業として成り立ってもいた。


 血を分けた実の親兄弟から売り払われる女性や肢体不自由児が少なくなかった世情を考えると、「金で売るのは飽くまで養父母」という劇中の設定は、むしろ現実の残酷さをオブラートに包んでいると言えるかもしれない。


 北の海の底で孤独に暮らしてきた母人魚が陸の人間の情を信じて産み落とした娘を託す。


 この設定自体が、苦界に沈められ父親のない子を宿した女性が産んだ子をよそに預けるといった、遊郭が現実に機能していた時代にはそこかしこで見られたであろう悲しい場面を容易に連想させるものだ。


 こうした無情な時勢においては、地上に拠り所を持たない美しい人魚は愛護ではなく、酷薄な売買や搾取の対象としてしか描けなかったのかもしれない。


 育てた娘人魚が決してただのお荷物ではなく、蝋燭に絵を描いてヒット商品を生み出してくれ、家業に十分貢献する存在になっているにも関わらず、養父母はより高額な身請け金と引き換えに、娘を香具師に売り払う。


 裏切られた人魚母娘の怨念が直接虐げた相手ばかりでなく、陸のコミュニティそのものに敷衍していく結末にも、そんな心無い社会への作者からの批判が見える気もする。


「赤い蝋燭と人魚」を含む小川未明の作品群には戦後、批判的な論評が相次いだという。


 これは単純に個々の物語に暗く救いのない話が多いばかりでなく、発表された当時の社会の旧弊さや因習、閉塞感を連想させ、大人の読者には自己嫌悪的な感情も含めた反発を引き起こしたからではないだろうか。


 実際、私がこの作品を初めて読んだのは小学校の中学年くらいだったが、

「わざと酷い人ばかり出して無理やり暗い話にしてるみたいだな」

という違和感を漠然と覚えた。


 また、少し大きくなってからは、

「母人魚が最初から自分で娘を育てれば、誰も不幸にならずに済んだのに」

「懸命に絵入りの蝋燭を作って養父母に尽くしたのに売り払われた娘人魚はともかく、子供を端から丸投げした母人魚が陸の人々を恨むのは筋違いなんじゃないの?」

と感じた。


 アンデルセンの「人魚姫」は自分の意志で人の体を得て陸に赴く。


 一方、「赤い蝋燭と人魚」の娘人魚は生まれてすぐに陸地では異形の姿のまま母親から置き去りにされ、その後は陸の大人たちから虐げられるという、徹頭徹尾、理不尽な境遇にいる。


 この娘人魚が香具師の金檻に入れられて物語から姿を消す展開に端的に表象されているように、物語の成立した時代は後のはずなのに、十九世紀のデンマークで生まれた人魚より、二十世紀初頭の日本で生まれた人魚の方が封建的な社会の檻に閉じ込められている。


 今、大人になってみて、アンデルセンの「人魚姫」、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」、そしてディズニーによる「リトル・マーメイド」の三作から、どれをわが子に見せたいかと問われれば、やはり夢と希望のある「リトル・マーメイド」を選ぶと思う。


 敵役を含めて愛嬌があり親しみやすいディズニーのキャラクターによるハッピーエンドのストーリーの方が子供にとって(というより大人にも)受け止めやすいのはもちろんだ。


 しかし、それ以上に、大人になれば現実の場でいくらでも理不尽な仕打ちややりきれない状況に出くわすのに、子供時代のおとぎ話の世界にまでそんな残酷さをこれ見よがしに持ち込む必要はないと思うからだ。


「本来のおとぎ話はこんなに残酷」というテーマで描いた作品には一定の需要があるが、これはエログロや残酷さを飽くまでフィクションとして楽しむことが出来るようになった層を対象にしている。


 物語と現実の境界の限りなく曖昧な時期にそうした剥き出しのストーリーを読んでも、薬より毒の作用の方が大きいのではないかと思う。


 言うなれば、大人にはさして害なく楽しめるからと子供に酒を勧めるようなものだ。


 例えば、素材が同じ葡萄ならば、ワインをいきなり飲ませるのではなく、グレープジュースで楽しむことから始める方が安全であるし、何より葡萄そのものを嫌いにならずに済むと思う(子供の頃、冷蔵庫に入っていた赤ワインを『ぶどうジュースだな』と勘違いして口に含み、あまりに異様な味に吐き出した記憶がある)。


 私が実際に最初に接したのはやや甘口にリライトされたアンデルセンの「人魚姫」だったが、それでも「人魚」という形象に哀しいものを刻み付けられたし、後から「リトル・マーメイド」が出てきた時に、「最初に見たのがこれだったら良かったのにな」と感じた。


 ただ、大人になってからは、海に飛び込み泡になって消える人魚姫のラストを想像した時、単なる状況としての悲惨さよりも、彼女がどんな表情をしていたのかが気になるようになった。


 それは、愛する人に真相を伝えられず結ばれなかった運命への遺恨の涙なのか、それとも、海の世界に帰れないことへの悔恨の表情なのか、あるいは、全てを受け入れた微笑なのか。


 同じ「アンナ・カレーニナ」の鉄道自殺を遂げるクライマックスでも、ヴィヴィアン・リーは思い詰めた表情で走ってくる列車を見据え、タチアナ・サモイロワはどこか自嘲的な微笑を浮かべてベールで顔を覆い直す、という風に、誰が演じるかによって、表情は異なって来る。


 それと似たようなもので、私の思い浮かべる人魚姫の最期も、その時々によって表情や色合いを様々に変えて現れるのだ。

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