檸檬(レモン)の実は齧(かじ)らず
「檸檬(レモン)」と「獰猛(どうもう)」は似ている。
名前の響きからしても明らかに外来のこの果物にどうしてこの字を当てたのかは不明だが、活字で「檸檬」と目にするたびに、掌に載る果実の黄色い皮が裂けて白い牙(きば)を剥く場面が浮かんでしまう。
実際、「智恵子抄」の「レモン哀歌」では、智恵子が光太郎の差し出したレモンを「がりりと噛んだ」という一節が出てくる。
むろん、詩中では「レモン」とカタカナで表記されているし、ここで歯を剥いているのは、レモンの実そのものではなく、食する側の智恵子だ。
だが、硬く黄色い皮に白く鋭い歯の組み合わせは詩全体のイメージを形作っている。
梶井基次郎の代表作「檸檬」では、当初は主人公の鬱屈を紛らす観賞用に買われたはずの檸檬が、最終的には一個の爆弾に見立てられて置き去りにされる。
この掌編で描かれている主人公の行動は、書店の画集の上に、本来はそこの商品でない果物を置いて帰るという、客観的には挙動不審者の奇行以外の何物でもない。
ただ、堅固でありながら繊細な感覚に裏打ちされた梶井の文章が、一個の小さな檸檬が本当に爆発して瀟洒な建物を吹き飛ばすかもしれないという、一パーセントにも満たない可能性を読者にどこかで信じさせる結末になっている。
あるいは肺病で早世した作者の死への予感が、遠からず腐敗する運命にある黄色い果実を時限爆弾に見せたのだろうか。
私には、八百屋の棚に並んでいた他の果物の中から梶井に見出された一個の檸檬が、何となく彼その人に思える。
話は変わって、子供の頃、私にとって柑橘類は「そのまま食べられる甘酸っぱいのが蜜柑(みかん)、砂糖をかければ行ける苦いのがグレープフルーツ(よそのお宅では分からないが、我が家ではシュガースティックで少しずつ砂糖をまぶしながら食べていた)、どうしても駄目なほど酸っぱいのがレモン」だった。
生の果実はもちろん、ドロップ飴でも薄荷(ハッカ)の白と檸檬(レモン)の黄色の粒は避けて食べた。
甘いもの好きの子供にとって、いわば、ババ抜きのジョーカーのように、レモンは鬼門であった。
年中スーパーの生鮮食品として並んでいるにも関わらず、このバレーボール型の黄色い果物は、絞り汁を料理のスパイスに用いるのでなければ、輪切りにした欠片を飾りに使われるだけ。
果物といえば、同じ柑橘類の蜜柑やあるいは林檎のように、皮と種以外はそのまま全て食べられるべきものだと根拠なく定義づけていた幼い私にとって、レモンは果物であって果物でないような、一種、不気味な位置づけの品種であった。
周りの大人が「柑橘類」として蜜柑やグレープフルーツと同列に扱う様子を見ても、可愛らしい子猫と獰猛なライオン、トラ、チーターを同じ「ネコ科」として一つの括りに入れているのを目にした時に似た理不尽さをどこかに覚えた。
「どうして酸っぱくてそのまま食べられないのに、果物の仲間に入ってるんだろう?」
「もしかして、そのまま全部食べられる人もどこかにいるのかな?」
答えの出ない問いが紙風船を少し潰したような形の黄色い実を見かけるたびに頭をもたげた。
清涼飲料水「C.C.レモン」が登場したのは、確か私が小学校高学年の時だ。
チーターならぬ「チータ」こと水前寺清子の歌うこぶしの利いたコマーシャルソングとあいまって、瞬く間にヒット商品として定着した。
ポカリスエットやアクエリアスほど人工に徹底した「スポーツドリンク」ではないけれど、オレンジジュースほど完全な自然の「ジュース」でもない。
炭酸飲料としても、グレープやオレンジなど他の果汁と掛け合わせたファンタのような甘過ぎる感触はなく、かといって、コーラのような一から十まで人工的な刺激でもない。
いわば、天然と人造の半ばする爽やかな風味が受けたのだと思う。
そのままでは食すに適さないレモンをビタミンCという美質を維持したまま摂しやすい形に抽出した印象がネーミングにも端的に表れている。
その当時でさえ既に中年で演歌の大御所的な存在だった水前寺清子の起用にも、一見、若年層が主要な購買者となる清涼飲料水にはミスマッチな演出と見せかけて、「本来なら食えないものをうまく料理しましたよ」と逆説的にアピールする意図が見える気もする。恐らくは水前寺清子に親しんだ中高年層を取り込むマーケティングも兼ねていたのだろう。
実際、大人というか社会人になってみると、飲み屋の揚げ物に添えられたレモンの輪切りを日常的に目にするようになる。
水前寺清子が画面に出てきて歌うコマーシャルは、酒を嗜み、高カロリーを懸念する年配の視聴者に向けて、「添え物ではなくちゃんとビタミンCを摂取するサプリとしてレモンをどうぞ」と宣伝しているようにも見える。
戦前の日本文学において、永別の哀しみや説明の付かない鬱屈を演出する小道具だった果実は、健康志向の現代メディアにおいては天然の生み出したサプリメントとしての役割を与えられたようだ。
話は変わって、「きれいな歯」でレモンの実を「がりりと噛ん」で息絶えた、高村光太郎の妻にして生涯のミューズであった智恵子は福島の出身であり(私の出身高校の前身は智恵子の卒業した師範学校でもあり、いわば彼女は遠い先輩である)、「東京には本当の空がない」という言葉も残している。
自然環境的な観点で言えば、戦前に没した智恵子の目にした「東京の空」は、むしろ今の福島の空より青く澄んでいたはずだ。
しかし、不穏な陰の濃くなっていく時代の中で、一個の芸術家として認められず、また、裕福だった生家が傾いていく状況に置かれていた彼女にとって、東京の空は挫折と孤独を深める色彩しか持たなかったのだろうか。
そこから「あれが安達太良山/あの光るのが阿武隈川」という、これもまた有名な故郷への賛歌に繋がっていくわけだが、光太郎の筆を通した「東京には本当の空がない」という文言を目にするたびに、「『本当の空』とは、この時点で智恵子の追憶の中にしか存在しなかったのではないか」という虚無感に囚われる。
それはそれとして、「レモン哀歌」との関わりは不明だが、福島には「檸檬」と書いて「れも」と読ませるお菓子がある。
優しい山吹色の和紙に包装された中身は、バターの風味の利いたほんのり甘いチーズケーキで、幽かにレモンの香りがする。
「風と共に去りぬ」で、ヒロインのスカーレットの母エレンについて、「レモン・バーベナの香水を付けた、典雅な中年婦人」と描写されているが、この「檸檬(れも)」にもそんな品の良い味わいがある。
生(き)のままのレモンに齧りつくには、私の味覚はまだ常識を失っていない。
また、本屋で商品のディスプレイを改竄した挙句、他所(よそ)で買った果物を放置して帰る真似をするには、もう大人の臆病さが身に染み付いてしまっている(『何をなさっているんですか』と店員さんに見咎められて答えに窮するみっともない場面が浮かんでしまう)。
しかし、胸の中に灰色の憂鬱が堆積するこの頃は、混じり気のない本当の黄色をした果実が眩しいほど鮮やかに映り、ほんのり優しい香りの漂うチーズケーキの温かな甘さが懐かしく蘇るようになった。
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