ハーメルンの笛吹き

 小学校の低学年まで、絵本の「ピーターパン」は好きで繰り返し読んだが、「ハーメルンの笛吹き」は一度読んだきり、本棚から取り出して読み返すことはほとんどなかった。むしろ、このお話は読んだことを後悔するほど嫌いだった。


 最初は多分、ピーターパンをもう少し大人にしたような、青緑色の先尖った帽子と色鮮やかなストライプの服を着た妖精風のお兄さんが笛を構えて笑顔いっぱいの子供たちを背後に引き連れて歩いている表紙に惹かれて、絵本を買ってもらったのだと思う。


 タイトルに含まれている「ハーメルン」という響きも良かった。


 いかにもメルヘンの町に相応しい名というか、幼い私の中では「ハーメルン」と「メルヘン」が明確に異なる言葉として認識されていなかった。


 ちなみに、これがドイツに実在する地名だと知ったのは、大分後になってからで、私は長らく「ハーメルン」をピーターパンの住む「ネバーランド」や桃太郎が目指す「鬼が島」のように、物語の中だけに存在する町だと思い込んでいた。


 それはそれとして、紐解いた絵本の中身は、期待を大きく裏切るものだった。


 どこからともなく現れた笛吹きの若い男が街の人を悩ませていたねずみを湖に沈めるまでは良かった。


 いかにも「ヒーロー」「正義の味方」という気がした。


 しかし、その後、一転して

「お前は笛を吹いただけだ」

と報酬の支払いを拒否する町の大人たちに対して、怒りの表情を浮かべる笛吹きの姿を描いた絵が出てきた辺りから何となく嫌な感じが漂い始める。


 お金を払う、払わないでもめること自体が子供の目にはいかにもずるくて汚い大人たちの醜い争いに思え、支払いを拒否されて怒る笛吹きもその嫌らしい大人の一人に見えたのである。


 ページをめくると、今度はもっと不可解な展開になった。


 前のページまで怒りを露わにしていた笛吹きの青年が、今度は素知らぬ風に目を閉じて笛を吹きながら歩いている。


 子供の目にも、この青年がもはや純粋な動機で笛を吹く人ではないと分かるだけに、一見、静かに目を閉じて演奏に没頭しているような顔つきが不気味に思えた。


 次の場面では、表紙と同じように楽しげに笑った子供たちが、まるでお祭りの行列のように並んで青年の後を追っていく絵が描かれていた。


 先頭の青年はというと、相変わらず感情の読み取れない顔つきで笛を吹いており、背後で踊る子供たちを振り返る様子もない。


「付いてきてもこなくても、本当はどうでもいい」

とでも言いたげなその無関心さが、

「これは、本当はついていってはいけない人だ」

と子供心にも思わせた。


 次のページになると、そこにもう笑顔の人間は誰もいない。


 町の大人たちが

「子供たちがいなくなった」

と恐慌を来たしている。


 続く場面は、読む側の心を痛ませるものだった。


 小さな男の子が一人、大人たちに向かって泣いて訴えている。

「他の子供たちは笛吹きについて行ってしまった」

「自分は足が悪いので置いてけぼりにされた」


 笛吹きの姿はもうどこにも描かれていないものの、体の不自由な子を仲間はずれにして置き去りにするという仕打ちが、実に冷酷で心ないものに思えた。


「どうしてこの子が泣かなくてはいけないの?」

と目に手を当てている男の子の姿にやりきれなくなった。


 最後のページは、ひたすらカオスである。

 それまで物語に全く絡んでこなかったふくろうがいきなり出てきて、怒りを含んだ顔つきで告げている。


「子供たちは夢の国で嘘をつかない子になって帰ってくるよ」


 読んでいるこちらが底なし沼に突き落とされた気がした。


「夢の国」と呼ばれたその場所は、物語の中にすら実在しない、現実的な「死」そのものとしか思えなかった。


「嘘をつかない子になって帰ってくるよ」

という予言じみた台詞も、

「もう二度と戻ることはないよ」

という絶望的な宣告の皮肉な言い換えにしか映らない。


 読み終わった後に、どこにも救いがないのだ。


 無邪気な子供たちが、ずるくて汚い大人たちのせいで、また別の悪い大人によって殺された。そんな不条理で理不尽そのものの物語に思えた。


「悪い大人だけ仕返しに痛い目に遭わせればいいのに、どうして子供たちに酷い仕打ちをするんだろう」

「足の悪い子まで仲間はずれにして悲しませて」

と憤懣やるかたない思いで、絵本を閉じた記憶がある。


 話は変わって、宮崎勤みやざきつとむによる幼女連続誘拐殺人事件が起きたのは、私自身がまだ「幼女」に分類される年齢だった頃だ。


 当時は、連日、テレビを付ければ、私と同い年か、一つか二つ違いの女の子の写真が名前と年齢付きで、行方不明になった、あるいは遺体が発見された場所を示す地図と一緒に映し出された。


 テレビに映し出される被害者たちの顔は、恐らくは親しい誰かが撮影したスナップ写真を放送用に拡大したため微妙に輪郭のぼやけた映りになっており、そのほとんどが、まだ写真向けの顔を作るに至らない、一種曖昧な表情をしていた。


 日を追うごとに、画面に現れる写真の数は増え、

「行方が分からなくなっています」

という説明は、数日後には

「遺体で発見されました」

という、子供の耳にも何となく絶望的な結果と察せられる報告に転じた。


 宮崎勤が逮捕された時、髪をぼさぼさにし、生白い肌に小太りな体つきで眼鏡を掛けた風体もそうだが、何より大きな目をうつろにポカっと開いた顔つきにゾッとした覚えがある。


 おとぎ話の悪い魔女のように

「私は悪いことが大好きですよ」

とある意味こちらに親切に教えてくれるような明確な悪意すら伝えてこない、感情や意思の見えない表情。


 邪悪というより、そもそもこの人の中には確固たる善悪の区別もなければ、自分の痛みを認識する神経すら通っていないか、致命的なまでに麻痺しているのではないかと思わせるような、喜怒哀楽の欠けた顔つき。


 それは、例えて言うなら、底なし沼のような、本当の深さを測ることも出来なければ、あるべき形に変えることも受け付けない、観る者に絶望的な感慨を引き起こさせる表情だった。


 小太りな体つきに眼鏡を掛け、垢抜けない服装をした宮崎勤の外貌は、いわゆる「オタク」のステレオタイプとしてその後メディアでも定着し、表面的には似通った風貌の犯罪者も現れなかったわけではないが、この人くらい不気味な目をした犯罪者は、後にも先にも稀だと思う。


 絵本に出てくるいかにもメルヘンチックな妖精然とした風貌の笛吹きと「オタク」の誘拐殺人犯とでは、表面的には懸け離れている。


 だが、大人の社会においては不遇にされた人間が自分より弱い子供を連れ去るという不条理、理不尽さにおいて、「連れ去られる子供」の立場に自分を置いていた当時の私には相通じているように思えた。


 そもそも、「ハーメルンの笛吹き」の笛吹きは、無職の引きこもり「オタク」同様、というか、それ以上に、劇中で社会的アイデンティティらしきものをまるで持たされていない。


「ピーターパン」や「桃太郎」のように固有名詞としての名を与えられておらず、技能から便宜的に「笛吹き」と呼ばれているだけである。


 また、「ハーメルン」は明らかに彼にとって通過点の一つでしかなく、どこへともなく姿を消す結末もそうだが、彼が元はどこから来たのかも物語の中では謎のままだ。


 そもそもハーメルンの町民たちがトラブルを解決してもらっておきながら、報酬の支払いを拒否するのも、彼が明確な帰属先を持たない「流れ者」であることへの蔑視感情や不信感に起因している。


 この点でも、一貫して「ネバーランド」を根拠地にしている「ピーターパン」や、どこから来たのかは不明でも、鬼が島からの帰還先として養父母の待つ「村の家」を持たされた「桃太郎」とも異なる。


 このアイデンティティの不明瞭さも、見た目の華やかさや手際の鮮やかさと相乗効果で、のっぺらぼうのような不気味さを増幅させている。


 その後、小学校の低学年の頃にアニメ「ムーミン」で、野菜のナスと動物のカバを掛け合わせたような主人公たちに混ざって、人間の風貌を与えられた「スナフキン」を見てから、「ハーメルンの笛吹き」のネガティヴなイメージに少し変化が生じた。


 先の尖った帽子を被り、緑を基調にした装いでハーモニカを吹くスナフキンは、明らかに「ハーメルンの笛吹き」のイメージを踏襲している。


 強いて言うなら、楽器が伝統的な葦や木の笛(絵本の『ハーメルンの笛吹き』で笛吹きが吹いているのは大抵このタイプ)、あるいは神話的な印象の強い角笛(ギリシャ神話の羊飼いの少年などが吹いているもの)ではなく、金属製のハーモニカにされている点が現代的な改変だろうか。


 日本人の語感からすると、このキャラクターの「砂」と「布巾」を同時に連想させるネーミングは、あまりロマンチックではない(正直、名前を耳にする度に『砂埃を拭き取った雑巾』を想像してしまう)。


 しかし、明らかに人外のキャラクターたちに混ざって、人間としての姿を取っており、しかもちびのミイのように「わがままで意地悪な女の子」といった悪意あるデフォルメを加えられていないスナフキンの風貌には好感を抱く人は多いだろうし、また、そうした感情移入を期待されたキャラクターだとも思う。


 ただ、「ハーメルンの笛吹き」が世俗の人間のエゴに怒って町から姿を消した結末からすると、このスナフキンもあるいは同類の人間とは折り合わないために、愛すべきムーミンたちと一緒にいるのかもしれないとも思わせる点で、どこか孤独や哀愁の付き纏うキャラクターである。


 私の中で「ハーメルンの笛吹き」のイメージが決定的に変わったのは、いわゆる思春期に入ってからだ。


 小学校の高学年か中学生になってからかは忘れたが、遊びに行った母の実家の本棚で、「眠るのがこわい」という詩集を見つけた。


 どこか外国の波止場のような場所で青空の下、白いブラウスに縁の赤い麦藁帽子を被った十四、五歳くらいの黒髪の綺麗な女の子が落書き入りの白いナップザック(?)を枕代わりにして横になり目を閉じている。


 女の子の顔は微かに笑っていて、白いマニキュアをした片手を麦藁帽子のつばに添えている。


 長いこと本棚にあって少し埃を被って黄ばんでいたが、それゆえに余計にノスタルジックなその表紙の写真に惹かれて手に取った。


 中身としては寺山修司が選者として公募した素人の詩を載せた内容だったが、「おませなツインキー」「哀しみの終るとき」「黒馬物語」といった、恐らくは編集当時に公開されたと思しき洋画の白黒のスチール写真が作品と作品の合間に挿まれており、正直、そちらの方が眺めていて楽しかった。


 前述した三作については検索したところ、いずれも一九七〇年から一九七二年辺りに製作・公開されていた。どれも、私にとっては、全編ちゃんと見てみたいような、それでいて、白黒写真から連想したイメージだけに置いておきたいような、不思議な感慨を引き起こさせる作品である。


 さて、その詩集のスチールの一つに、こんな写真があった。


 先尖った帽子を被った青年が縦笛を吹きながら、ふと通りかかった家の窓辺で足を止め、奥に目を向けている。

 そこには、ベッドに身を横たえて眠る少女の姿がある。


 写真の下には、邦題を示した他の映画のスチールとは違って、“The Pied Piper”とイタリック書体の英語で記されていた。


 当時はこの英語の正確な意味は分からなかったが、一目で、

「これは、『ハーメルンの笛吹き』の映画だ」

と分かった。


 切ない写真だと思った。


「ロミオとジュリエット」の有名なバルコニーの場面のように、窓を挟んで、外に若者がいて、家の中に少女がいる。


 何の説明なしに見ても、この二人がロミオとジュリエットのように結ばれることが許されない関係だと察せられる。


 しかも、青年が見詰めているのに、少女は眠っていて気が付かない。


 ベッドに横たわる少女の寝顔が安らかで可憐であるほど、外で見守る彼の背中から孤独が浮かび上がる。


 そのまま気付かれずに終わるのは寂しいけれど、彼女が目を覚ませばもっと切ない。


 数多く使われたスチールの中でも、「眠るのがこわい」という詩集に正にぴったりの一枚だと思った。


 表紙の写真は眠れる美少女が主役だが、中に配されたこのスチールではそんな少女を窓の外から見詰める笛吹きの青年が主人公である。


 むろん、絵本の「ハーメルンの笛吹き」にこんな場面は無かった。


 加えて、そろそろ大人の計算高さを身に着け始めていた時期の私には、

「おとぎ話そのままだと、ある程度長尺の映画にするには足りないから、話を持たせるためにもラブロマンス的な要素を加味したんだろう」

という製作上の都合も察せられないわけではなかった。


 しかし、私が生まれるより前に娘時代の母か叔父が買って読んだ、経年でうっすら卵色に変じたページに白黒で刷られたその写真を眺めていると、不思議と腑に落ちるというか、自分が焦って読み飛ばしてしまったページを後から改めて読み直したような気持ちになった。


 映画を見終わった後に、パンフレットで本編にないシーンの写真を見つけて、

「本当はこういう場面も物語の陰にあったのだ」

と頭の中でストーリーを補完するように、私の中の「ハーメルンの笛吹き」の物語にも、笛吹きが無心に眠る少女をそっと見守るような一コマが過不足なくはめ込まれた。


 映画が公開される国の検閲フィルターを通してしばしば大事なシーンを削られてしまうように、日本で紹介された「ハーメルンの笛吹き」ではカットされた場面が、英語圏に伝わる“The Pied Piper”には存在しているのかもしれないとも感じた。


 誰がこの写真を詩集の挿画に選んだのかは不明だが、原題の英語のまま紹介されていることからして、編集当時は日本で公開されていなかったのだろうか。


 検索すると、どうやらこのスチールは一九七二年に「ハメルンの笛吹き」の邦題で公開されたイギリス映画のものらしいと判明した。


 現時点ではDVDなどは出ておらず*1、本編を観られる状況にはいないが、これもカラー映画だという「ハメルンの笛吹き」全体を音声と字幕付きでちゃんと観てみたいと思う一方で、モノクロ写真一枚の“The Pied Piper”に留めておきたい気もする。


 大学に入ってから、その前から興味を持っていた阿部謹也の著書「ハーメルンの笛吹き男」を改めて読んだ。


 ちなみにこの本のタイトルからも明らかなように、「ハーメルンの笛吹き」には「ハーメルンの笛吹き男」「ハメルンの笛吹き」等、邦題として微妙に誤差のあるバージョンが存在するが、私の中でこのフォークロアのタイトルと主人公の呼び名は飽くまで「ハーメルンの笛吹き」と「笛吹き」で固定されている。


「笛吹き男」と技能に性別まで付されてしまうと、「オオカミ少年」や「ほら吹き男爵」のような、現代人の感覚からすると病理的・サイコパス的な性癖を持つ主人公に思えてきてしまう。


 ご存知の方も多いかもしれないが、「ほら吹き男爵」は詐病を働く「ミュンヒハウゼン症候群」の語源となったおとぎ話の主人公である。


 また、「笛吹き男」という呼び名の響きから「怪人クモ男」とか「コウモリ男」といった、「仮面ライダー」に倒される一話限りのゲスト悪役のような、小物じみた胡散臭さを覚えてしまう。


 話はずれるが、日本語というものは不思議なもので、名前としての意味は本来同じはずなのに、「スパイダーマン」「バットマン」といえばハリウッド映画やアメコミの単独ヒーローになる。


 一方、「クモ男」「コウモリ男」というと、「仮面ライダー」シリーズの全体主義的な悪の組織において、個別の顔も名前も持たされていない戦闘員よりは格上であっても、首領からは捨て駒として扱われる中間専門職的な構成員になってしまう。


 そんな怪人たちを倒す「仮面ライダー」にしても、生まれた経緯からすれば「怪人バッタ男」であるはずだが、作品及び劇中での呼び名からは「バッタ」「男」といった具体的な属性は消し去られ、「仮面」とそれ自体が正体を覆い隠す意味合いの言葉に「ライダー(rider/乗り手、騎手)」と本来は中性的な横文字を加えたネーミングになっている。


 対する悪の組織の方も、私が覚えている限りでは、「ショッカー(shocker/ぞっとさせる物、人)」や「クライシス(crisis/危機)」等、元来は横文字の言葉をそのままカタカナに置き換えた名称が多かった。


 横文字の言葉をそのままカタカナにした方が、日常的なありふれた感じを引き起こさせず、クールな印象になるからだろうか。


 しかし、「ハーメルンの笛吹き」に関しては、英語の「パイパー(piper)」より「笛吹き」の方がおとぎ話の古風な雰囲気を含めて似つかわしいように思う。


 話を阿部謹也の著書に戻すと、ちくま文庫刊のこの本の表紙にはブリューゲルの「シント・ヨーリスの縁日」の部分的な切り出しが使われており、中央では黄色と黒を組み合わせた衣装を着た道化風の男がおどけた風に子供たちに笑いかけている。


 恐らくはこの道化風の男が「笛吹き」のイメージとして相応しいと判断して装丁に採用されたのだろうが、この人物は風貌からすると中年から初老の年配に見える(もっとも、この画家の描く人物は、子供でも年寄りじみた顔つきをしているのだけれど)。


「ハーメルンの笛吹き」の「笛吹き」は、一般の絵本でも、また、実写の映画でも、青年のイメージとして描かれることが多い。


 私としても、町の大人たちのエゴに怒り、子供たちを連れ去る人物としては、自身が大人の老獪さや狡猾さを身に着けているであろう年配の男性よりも、まだ少年の未熟さや潔癖さをどこかに残している青年の方が似つかわしいと思う。


 実際、著書においても「ハーメルンの笛吹き」伝説の元になった史実として、少年十字軍の事件が挙げられており、羊飼いの少年(前述したように職掌として角笛を吹く)が預言者を自称し、他の子供たちを率いて遠征しようとした事実が記されている。


 日本で言えば、十七歳の天草四郎が主導した島原の乱を連想させるエピソードである。


 それはさておき、史実の天草四郎については特に笛や音楽と関連する逸話は見当たらないが、映画「魔界転生」で天草四郎を演じて当たり役にした沢田研二の本業は歌手であり、劇中のきらびやかなバテレンとしての扮装は、そのまま当時全盛期のロック歌手だった彼のイメージを演じる時代に合わせて変換した観がある。


 また、義経が牛若丸時代に弁慶を打ちのめして家来にした有名なエピソードでは、五条大橋に牛若丸が篠笛を吹きながら現れる筋書きになっており、カリスマ的な美少年(あるいは美青年)と笛や音楽といった要素は、洋の東西を問わず結び付けられやすいように思う。


 話を再び阿部謹也の著書に戻すと、「ハーメルンの笛吹き」の原話において、笛吹きは色鮮やかなまだら模様の衣装を着て現れており、それで英語タイトルも「The Pied Piper(まだら服の笛吹き)」となっているわけだが、当時は身分によって着る服の色は厳しく制限されており、この笛吹きのような被差別階級にある楽師が鮮やかなまだら模様の衣装を纏うことは本来は許されなかったはずだという。


 ここでも、何となく、禁教と鎖国が固く敷かれた江戸の町に、色鮮やかな襟を大きく立てて開いた西洋風の上着にロザリオを提げた出で立ちで現れる、映画「魔界転生」の天草四郎が連想されてしまう。


 つまり、ハーメルンの町に姿を現したその瞬間から、彼は異邦人であると同時に、反逆者でもあった。


 ハーメルンの町を食い荒らす大量の鼠は、この動物を媒介にして感染を引き起こす、当時ヨーロッパ全土を席巻した「黒死病」ことペストの暗喩でもあるそうだ。


 老若男女、身分の別にかかわりなく襲い掛かるこの伝染病は、ヨーロッパの社会そのものを揺るがした。


 笛吹きによる鼠の大量駆除は、混乱の収束と社会の安定をもたらした。


 だが、ひとたび平安を取り戻した人々の中には元の階級意識や差別心が復し、本来の身分から逸脱した装いをした笛吹きに対して、感謝の念よりも新たな混乱をもたらす危険因子として排斥する感情が起きたのではないだろうか。


 ちなみに、原話においては、子供たちと共に市長の成人した娘も笛吹きの奏でる音色に誘われて姿を消した記述もあるという。


 深窓育ちの令嬢は、その後は流浪の笛吹きの伴侶とでもなったのであろうか。


 窓の奥で眠る少女を見詰める笛吹きを描いた映画“The Pied Piper”も、原話のそんなエピソードを念頭に置いているのかもしれない。


 阿部謹也の記述によれば、「足の悪い子が置き去りにされた」というエピソードも原話にはないそうで、恐らくは、少年十字軍の史実などから、「体の悪い者は置いていく」という徴兵検査的な概念が笛吹きに連れ去られる子供たちの描写に投影されて派生したものと思われる。


 変遷に変容を重ねていく「ハーメルンの笛吹き」の物語は、どこか、覗くたびに模様の異なる万華鏡を思わせる。


 眺めるこちらの手加減一つでまたガラリと様相が変わり、一つでも新しい欠片を加えるか、あるいは取り去るかすれば、もう元の模様は見せてくれない。


 笛吹きと共に旅立つ子供よりもむしろ取り残される大人の年齢になってからの方が、どこへともなくまた歩いていく笛吹きの面影や尾を引く笛の音色が、時として切ないほど、鮮やかな色彩を持って浮かび上がるようになった。


*1 映画「ハメルンの笛吹き」(ジャック・ドゥミ監督、一九七二年)は二〇二一年にブルーレイが日本でも発売されました。このエッセイの初稿はその以前に書かれたものです。

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