ピエロ恐怖症

 世間で似た傾向の人は一定数いるようだが、私は子供の頃からピエロの顔が怖かった。


 赤茶けた髪に先の尖った帽子を被り、白塗りの顔に青や黒で目張りを入れ、赤い付け鼻をして、シャンプーハットみたいな襞(ひだ)のたくさん付いた襟を着けた極彩色のつなぎを纏った人物の絵を見かけると、絵柄自体の雰囲気はそうでなくても、気味が悪くなった。


 むしろ、絵の中で、愛らしいもの、愉快なものとして描かれているほど違和感を覚え、反発すら感じた。


 マクドナルドのコマーシャルで赤い髪に白塗りのドナルドが微笑んでいる姿を見かける度に、「何でこんな気持ち悪いキャラクターを宣伝に使うんだろう」と思った。


 小さい頃、住んでいた地域にロッテリアはあっても、マクドナルドはまだ進出していなかったので、「きっとマクドナルドに行くと、あの薄気味悪い人が待ち構えているんだろうな」と行ったこともないまま、マクドナルドの店舗を生身の人が脅かし役で控えているお化け屋敷のように想像していた。


 実際、子供の目にもドナルドの正体がれっきとした大人の男性で、それが化粧をしておどけて見せている内実は何となく察せられたので、「どうして男の人がわざわざ化粧して笑って見せているのか」といういわば二重の偽装を施した感触がどうにも不気味だった。


 ドナルドやあるいはピエロそのものの役割は、子供番組に出てくる歌や体操のお兄さん、あるいは被り物をしたキャラクターと大差ない。


 だが、風貌としては飽くまで素顔で出てくる歌や体操のお兄さんに対してピエロは明らかに奇妙な粉飾を施す一方で(成人した男性が一見してそれと分かる化粧をして人前に出てくる事態が既に通常の場面ではありえませんよね)、元の面差しがうっすらと辿れる余地を残している点において、演者の本来の容姿を完全に遮断した被り物のキャラクターとも異なる。


 おとぎ話の悪い大人が本当の思惑を笑顔の下に押し隠して手招きしているような、漠然とした怖さが、顔全体で笑ったピエロの風貌には漂っているように思う。


 小学生の頃、スティーヴン・キングの小説が原作のハリウッド映画「IT」が日本でも公開され、話題を呼んだ。


 邪悪なピエロが幼い子供を次々誘拐し殺していくホラーというかミステリーとのことで、宣伝には、先尖った爪を持つ、白塗りに朱色の付け鼻をしたピエロがこちらに向かって微笑む写真が使われていた。


 宣伝を見た時点で「これは自分にとってトラウマになる恐怖映画だろうから、多分、この先、決して見ないだろうな」と思う一方で、「私と同じようにピエロを不気味に思う人が、やっぱり世間にいたみたいだ」と妙な安心感も覚えた。


 映画の公開当時も、この映画及び原作小説が「変質者がピエロの扮装で子供たちを連れ去っては殺していた実際の事件がモデルだ」という噂は何となく聞き知っていた。


 改めて検索してみると、ジョン・ゲイシーというアメリカに実在した猟奇殺人犯にヒットした。


 実業家として成功し、地元ではパーティでピエロの扮装をしては「ポゴ(Pogo)」の愛称で子供たちの人気を集めていた名士だったが、裏の顔は小児性愛的な同性愛者で、三十三人もの少年を殺害したという。


「キラー・クラウン(killer clown)」訳して「殺人ピエロ」と仇名された彼は、逮捕後も莫大な資産を元手に裁判を継続させ、また、かつてはやり手の実業家として成功したコミュニケーション能力の高さで看守を丸め込んでいたが、最後には獄中で文通していた法律化志望の青年を牢獄の面会室に誘き出して手にかけようとした事件が決定打となって死刑が確定した。


 いずれも未見だが、映画「IT」の他にもこのジョン・ゲイシー本人を描いた映画も制作されているようで、正に「事実は小説より奇なり」というか、「これが現代に実在する人物の話か」と一瞬疑ってしまうような寓話的な禍々しさに満ちたストーリーである。


 写真を見る限り、実物のジョン・ゲイシーは小太りのむしろ冴えないおじさんといった風貌で、ピエロの「ポゴ」に扮した姿を見ても、映画「IT」の奇怪ななりに端正な姿形をしたピエロと比べると、「できそこないのおデブさん」といった印象が否めない(余談だが、一九九〇年公開の映画『IT』で子供たちを襲う殺人ピエロを演じたティム・カリーは本来は端正な風貌の人だが、エキセントリックな役柄が多く、『IT』から二年後の『ホームアローン2』で主人公のケビン少年を追い詰めるホテルのフロントマンを演じたのも彼である。この作品では戯画化されてはいるものの、子供にとってはやはり『怖い大人』である)。


 しかし、そうした散文的な感触も含めて、一見どこにでもいる人の良さそうなおじさんが、実はその笑顔の裏で子供を手にかけて床下に埋めるというギャップが、この事件の怖さであるとも思う。


 逮捕後も看守を巧く丸め込み、凶悪犯罪者の心理に精通しているはずの青年を二人きりの状況に誘い込んで殺そうとした前述の事件の詳細を読んでから、ジョン・ゲイシーの写真を改めて見直すと、小太りで冴えない風貌までもが、そういう形で他人の目を欺くための周到な自己演出に思えてくる。


 このジョン・ゲイシーは自画像とも思えるピエロの絵を数多く残しており、マニアの間で彼の作品は高値で取引され、中には俳優のジョニー・デップが落札した作品もあるという。


 検索して見つかった絵には、不気味で悪辣な笑いを浮かべた、いかにも猟奇殺人犯が描くに相応しい表情のものもあるが、全体としては優しげでどこか哀しい微笑のピエロを描いた作品が目立った(あるいは、それも、観る者の同情を引くための彼の演出かもしれないが)。


 ピエロの「ポゴ」に扮したゲイシーの実際の写真と同じように、彼の描いた多くのピエロは色とりどりの風船を手に微笑んでいる。


 これは他ならぬ子供たちへのプレゼントであろうが、彼の起こした事件を念頭に置いて眺めると、彼の奪った少年たちの儚い命そのもののように見えてくる。


 私の見た限りでは、ゲイシーの描いたピエロの絵に、彼を喜んで迎えてくれるはずの子供たちの姿が描かれたものは一枚もない。


 素顔から化粧を施し風船を手にしてピエロになっていく変遷を描いたもの、あるいは著名人と思しき中年男性とピエロが記念写真でも撮るように並んで立っているもの、はたまたピエロの背後に死神のような大きな髑髏(どくろ)が迫っているものはある。


 しかし、ピエロの手にした風船を受け取ってくれる無邪気な子供が画中に現れたものはない。

 それとも、絵の中の世界においても、子供たちはピエロによって既に殺されてしまった後なのだろうか。


 ゲイシーの絵の中には、ディズニーの「白雪姫」に出てくる七人の小人に囲まれ、腹の上に手を組み合わせて目を閉じた、ピエロ自身の死を描いたと思われる一枚もある。


 ピエロの組み合わせた手の上には「僕はポゴ(I’m Pogo)」と記されており、足元には色とりどりの風船が飛び去ることなくまるで毬(まり)のようにたむろしている。


 この絵の描かれた時期は不明だが、毒入り林檎を食べて死んだ白雪姫と同じように、薬物投与されて刑死する自分の運命を感傷的に描いた作品と思しい。


 だが、周知のように毒林檎を食べて息絶えた白雪姫は、その後王子のキスで目覚めて蘇生する展開だ。


 それを踏まえると、「自分を死刑から救ってくれる主が現れますように」という生への絶ちがたい希望や未練にも思えてくる一方で、「自分は殺してもまた生き返るぞ」という怪物じみた猟奇殺人犯の不気味な予言にも見えてくる。


 実際、ゲイシーの魔の手から辛くも逃れ、一命を取り留めた文通相手の青年ジェイソン・モスは、その後弁護士となり、犯罪被害者の支援をする仕事をしていたものの、謎の自殺を遂げている。


 ゲイシーの刑死から十年余りを経てのことであり、直接の関連は認められないかもしれないが、生前のモスはゲイシーと接した時に感じた凄まじい恐怖を書き残しており、ゲイシーが彼の精神に奥深いダメージを与えたことは疑いようがない。


 そこからすれば、彼はゲイシーの三十四人目の犠牲者であり、ゲイシーは息絶えた後も殺人鬼であり続けたと言えよう。


 ジョニー・デップが購入したのが、ゲイシーのどのようなピエロの絵であったかは不明だが、絵から発せられる猟奇殺人鬼の不気味な念じみたものが受け付けず、結果的に処分したという記事もネット上で目にした。


 これはピエロが不気味というより、おぞましい人間がたまたまピエロの扮装を好んだ例と言えるかもしれないが、私のような元来ピエロを怖がる人間にとってはピエロそのものの邪悪なイメージを増幅させるのに一役買っている。


 ちなみにゲイシーの絵を購入したジョニー・デップもまたピエロ恐怖症だそうで、落札した背景には、有名人の彼が支払った額がゲイシーに殺害された被害者遺族へのチャリティーに回される利他的な目的のほかに、彼本人の恐怖症克服の意図もあったとのことだ。


 しかし、俳優としてのジョニー・デップの作品を振り返ると、まず、出世作の「シザー・ハンズ」は顔を白塗りにした人造人間の役、代表作の「パイレーツ・オブ・カリビアン」はバンダナに髭を蓄え汚作りにした海賊役、「チャーリーとチョコレート工場」ではシルクハットに燕尾服を着た変人の工場長、そして、「アリス・イン・ワンダーランド」でもやはり白塗りのメイクを施した帽子屋役等、同世代のハリウッドスターの中でも明らかに特殊なメイクや非日常的な扮装を施した役が多いことに気付く。


 これには彼がネイティブ・アメリカンを含む雑多な血を引く出自を反映した、国籍不詳な風貌も大きく影響していると思われるが、「シザー・ハンズ」の人造人間や「アリス」の帽子屋は明らかにピエロ風である。


 先ほど、ジョン・ゲイシーの仇名について「キラー・クラウン(killer clown)」こと「殺人ピエロ」と記したが、「ピエロ(pierrot)」とは道化師を意味する「クラウン(clown)」の一種である。


 ウィキペディアによれば、「クラウン」はおどけ役だが、「ピエロ」はそのおどけ役の中でも更に馬鹿にされる役回りであり、「クラウン」の中でもメイクに涙マークが付くと「ピエロ」になり、それは、「馬鹿にされながら観客を笑わせているが、本人としては悲しみを抱いている」という意味合いを持つそうだ。


 日本人の感覚としては、「クラウン」も含む総称として「ピエロ」と呼ぶのが通例というか、「クラウン」を「ピエロ」そのものとして解釈するのが一般的であり、何より私自身がそうした前提でこの文章を書いてきたが、本来の定義としては逆であるらしい。


 ジョニー・デップに話を戻すと、ハサミになった手で期せずして人を刺し殺してしまう「シザー・ハンズ」もある意味「殺人ピエロ」であり、それ故に人里を離れるラストを迎えるが、「クラウン」と一線を画す本来の「ピエロ」の役割に込められた哀しみが、劇中の彼の表情には終始漂っているように思う。


 彼は、決して、殺人を快楽として求める「クラウン」ではないのだ。


 それはさておき、私はピエロ恐怖症を根底に持ちつつ、成長に伴って、ピエロの不気味なイメージを怖いもの見たさとして少しずつ好むようにもなった。


 中学生の頃、布袋寅泰の「CIRCUS」という曲がヒットした。


 曲調・歌詞共に、日本人が「サーカス」という言葉から連想する一種猥雑な雰囲気や禍々しさを全面に打ち出した曲で、ジャケットは一見するとピエロに扮した歌手本人の写真ともイラストとも付かない雰囲気の装丁になっていた。

 恐らくは昔の映画や催事のポスターがそうしたタッチで描かれることが多かったので、敢えてそのムードを模していると思われる。


 映画「IT」のポスターのピエロは白い壁紙を破ってこちらに白塗りの顔を明らかにしているが、「CIRCUS」のジャケットのピエロ(に扮した布袋寅泰)は黄色い灯りを背に、逆光で半ば影になった顔で挑むようにこちらを指差している。


 このジャケットの布袋寅泰は白塗りにして目張りを入れてはいるものの、元の肌や面影が一見して分からなくなるほど厚塗りというわけではなく、飽くまで地の肌が透ける程度に止めている。


 率直に言って、私はこの歌手の風貌は苦手だ。


 敢えて「嫌い」というほどの反発や不快感を覚えたことはないが、この人の顔を見ると、そんなゴシップを聞いたわけでもないのに、「前科数犯」という言葉を連想してしまうし、「凶相」という語句を目にした時も、リアルに世間を騒がせた凶悪犯たちよりも、この人の顔が真っ先に思い浮かんだ。


 歌手としても、風貌に違わないエキセントリックな声質がやはり苦手で、入れ込んで聴く気にはなれなかった。


 その彼が、よりにもよってピエロの装いをしているわけだが、このピエロは邪悪さや禍々しさを隠そうともしていない。


 というより、日本人らしからぬ細身の長身に道化の衣装を纏ったシルエットといい、素の目鼻立ちを覆い隠すのではなくむしろ強調するメイクといい、このピエロの扮装は布袋寅泰がイメージとして持っているダークさを引き立てるものである。


 ジョン・ゲイシーの「ポゴ」のような獰悪さを愛嬌の下に糊塗するのではなく、最初から大人の邪悪さをそのままの形で提示している。


 その確信犯的な演出に、例えて言うなら、マイナスとマイナスを掛け合わせてプラスに転じたような清清しさを覚えた。


 他の歌を聴こうとは思わないが、この「CIRCUS」の布袋寅泰に関しては好きだと思えるし、客観的には彼より美声でもっと歌唱力があったとしても、他の歌い手の声でこの曲を聴きたいとはなぜか思えない。


 私にとって、そうした位置付けの曲であり、歌手である。


 歌手とピエロの思い出についてもう少し語ると、マイケル・ジャクソンが亡くなったばかりの頃、生前の彼の写真を検索していて、ピエロの扮装をしたものを見つけた。


 白塗りした顔には両目の下に涙の粒も描かれており、これは、本来の定義通りの「ピエロ」の顔である。


 化粧を施していない首筋は褐色で、一見して、これは彼がまだ本来の肌の色を失っていない時期に撮られたものだと分かった。


 しかし、白塗りした鼻はもう人工的に先尖っており、彼が病的な変容に足を踏み入れた後の姿だとも同時に知れる。


 哀しい写真だと思った。


 むろん、写真自体が寓話的な哀感を意図して撮られたものではあるが、それ以上に、この写真の後の彼の人生とその死を知る者の目からすると、白塗りにされた顔も、両目の下にこぼれた涙も、その後の運命を予言するものにしか映らないからだ。


 本来はメイクのはずの涙が生身の彼の痛みそのものに見えてくる点でも、この写真は哀しい。


 今、私の部屋には小さなピエロの人形が飾ってある。


 大きく隈取をした水色の目の下に涙は描かれていないから、正確には「クラウン」かもしれないが、陶器造りの頬はふっくりしていて、愛らしい少年の風貌を形作っている。


 このピエロは、生業として子供におどけて見せる大人ではなく、純粋に同い年の遊び仲間を求める子供に見える。


 大人ピエロが子供たちを脅かす映画「IT」の本編は未だに観る勇気が持てない私だが、この子供ピエロは可愛らしく思えるようになった。

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