「二十一世紀」社会の片隅から
二〇一六年もはや六分の一は過ぎてしまった。
同時に、二十一世紀も既に一割以上は終わってしまっているのだ。
一九八二年生まれの私が子供の頃、「二十一世紀」と言えば輝かしい未来の代名詞であった。
当時のアニメ「ドラえもん」のエンディングテーマ「青空っていいな」には「僕らは未来の地球っ子/とっても素敵な星だから」という歌詞が入っていた。
「二十一世紀」とは指定していないが、ここでの「未来」とは「二十一世紀」とほぼ同義語で当時の私には捉えられていたし、そう解釈した人は少なくなかったとも思う。
「ドラえもん」にしても二十一世紀の更に先を行く二十二世紀からやって来たロボットの設定であり、正に輝く未来を体現する存在と言えよう。
検索してみると、漫画の連載当初は「ドラえもん」は二十一世紀から来た設定であり連載長期化に従って二十二世紀に変更されたという記事も何件か見つかった。
しかし、私の世代にとって「ドラえもん」は既に「二十二世紀から来た猫型ロボット」で定着していた。
二十一世紀に入って十数年も経ち、のび太より幼かった私がママの年配に近くなった今でも、アニメの「ドラえもん」でのび太たちは子供であり続けている。
けれど、当初の設定としては、二十世紀ののび太少年と二十二世紀のドラえもんの間に横たわる未知の領域が、二十一世紀の大人になったのび太の時代であったはずである。
そもそも、「ドラえもん」は大人になったのび太とその子孫の境遇を少しでも向上すべく二十二世紀からやって来たのであり、その意味でものび太の成人する二十一世紀は希望溢れるものでなければならないのだ。
それが高度成長期に連載開始した「ドラえもん」のコンセプトだったのだろう。
高度成長期には生まれていなかったので分からないが、バブル期の日本人の中にあった「二十一世紀」のイメージは、今の私たちが揶揄しつつも懐古する「バブル」の華やかさにSF映画的な装飾を兼ね備えたものであったように思う。
一九八〇年代に「スター・ウォーズ」や「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズが日本でもヒットしたのは、それらが取りも直さず未来や先進的な異世界への憧れをかき立てるものだったからだろう。
だが、バブル崩壊の挫折を経て実際にその時が近づいてみると、日本人の中には「二〇〇〇年問題」や「二〇〇一年問題」などシステム上の混乱を懸念する現実的な空気が強くなった。
また、現実に二十一世紀に突入したリアルタイムの意識としても「今は二十世紀より輝かしい時代だ」と喜ぶ人よりも「苦しい時代になってしまった」と語る人の方が多い感触がある。
むろん、不景気とはいえ、終戦直後の栄養失調による餓死者が珍しくなかった時期と比べれば、現在の私たちは遥かに豊かだ。
インターネットで個々の意見や思いを発表できる環境は、戦前の特高こと特別高等警察が反体制的な言動をした人間を否応なしに連行して拷問を加えた時代からすれば、輝かしい自由そのもののはずだ。
何より、プロの作家でも要人でもない私がこうして文章を発表できるのも、現代という時代の恩恵なのだ。
話は変わって、この年末年始は娘の体調不良に振り回された。
もちろん、これは母親の私の責任だ。
クリスマスで二歳になった娘は、それまで病気らしい病気に懸かったことがなく、病院に行くとすれば定期健診か予防接種しかないのが母親としても自慢だった。
それが、誕生日の直前になって、本当に何の前触れもなくいきなり嘔吐したのでとても驚いた。
初めは普段飲んでいるフォローアップミルクを吐くだけでイオン飲料は受け付けるようであり、また、発熱もなく元気に走り回っているので、新しく缶を開けたばかりのミルクが良くないのかと誤解していた。
次の日の昼は元気なので安心していたが、夜になるとミルクはもちろん、イオン飲料すら吐き出したので、慌ててタクシーで市民病院の夜間診療に連れて行った。
そこでは「ノロウィルス」と診断され、座薬と飲み薬が出た。
座薬のおかげですぐに熱は下がり、翌日には嘔吐が止まった代わりに盛んに下痢をするようになった。
家族にも感染の危険性があるというので、嘔吐した跡には塩素入りの漂白剤を含んだ布で拭き、下痢をしたオムツも漂白剤と一緒にナイロン袋に入れてすぐさま捨てた。
幸い、私を含む家族には下痢や腹痛などノロウィルスの症状が出ることはないまま、娘の下痢の症状も二日程度で収まった。
だが、今度は盛んに咳をするようになり、夜は遅くまで咳で眠れず、朝も咳の声で母親を起こす始末。
そこで、今度は近くの小児科クリニックに連れて行った。
年末のクリニックは体調を崩した子が多く、予約を入れて行ったにも関わらず、備え付けのモニターで流れる「ライオン・キング」をほぼ全編通して見終わるほど待たされた。
正確には、赤ちゃんライオンのシンバが「早く王様になりたい」と歌っている場面から見始めて、成獣になり王位に就いたシンバに新たな子供が生まれて終わったと思ったら、また最初に巻き戻って先王のムファサに跡継ぎのシンバが誕生してお披露目する場面になった所で私たちが呼ばれた。
その時に熱はなかったせいか、診察はごく簡単なものに終わり、咳止めの飲み薬を出された。
そして、大晦日の前日から都内の夫の実家に泊まりがけで行ったが、娘は咳に加えて鼻水が止まらなくなり、鼻の下から唇全体が荒れてガサガサになり、常に誰かが抱っこしていなければ泣き続ける状態になった。
正月の二日、区役所の休日急患診療所に連れて行った。
この時点までは「簡単に咳止めの薬だけ出してもらって帰る」ことしか家族の誰もが予想していなかった。
だが、診療所の医師は四日以上も発熱していると知るなり「ここではなくもっと大きな病院で検査してもらった方がいい」と告げた。
私たちはそのまま紹介された総合病院(という分類は現在廃止されているらしいが、あらゆる科に対応する大きな病院)に向かった。
そこで諸々の検査を受けた結果、「気管支肺炎」及び「溶連菌感染症の疑い」と診断され、その日から入院することになった。
市民病院、小児科クリニック、休日急患診療所、総合病院。
年末年始のほぼ二週間で四つの医療機関を訪れた計算になるが、最初の二箇所では根本的な完治には至らず、入院が必要な段階にまで悪化させてしまったのである。
むろん、娘を一番近くで見ていた私がもっと注意を働かせて対策を打っていれば、入院に至る事態は未然に防げたはずだ。
だが、市民病院と小児科クリニックでそれぞれ別な医師に診てもらっていたにも関わらず、入院時に聞かされた病名は全く出てこなかった点に、現代医学の複雑さというか、恐ろしさを覚えるのだ。
それはそれとして、娘は件の総合病院の小児科病棟に入れられた。
病院の規則として面会時間は朝九時から夜九時までとなっており、夜間は子供を病院のスタッフに一任する形になる。
いわゆる泊り込みではないので、子供の実質的なケアの観点で親の負担は軽い。
しかし、面会時間が終わる頃になってまだ寝付けない娘の泣く声を背に病室を出るのは辛かった。
まだ、自分の感情を言葉にすることが出来ず、また、親の言葉を正確に理解することも出来ない年頃だ。
いきなり注射を打たれて点滴のチューブを手につながれたことも、一日中狭いベッドで寝て外に出られないことも、病院食しか口に出来ないことも、夜になると見知らぬ人たちの中に置き去りにされることも、この子にとっては全てが理不尽な仕打ちでしかない。
ただし、私たち母子はまだずっと恵まれているのだ。
娘の入院中、専業主婦の私は基本的に毎日朝から晩まで娘に付き添うことが出来た。
実質は義母と交代で付き添っていたので、私一人がずっと面倒を見ていたわけではないが、娘にとっては入れ替わり立ち代わり家族の誰かが現れて近くにいてくれたのである。
しかし、同じ病室にいた他の子供たちはそうではなかった。
隣のベッドに来た五歳くらいの女の子はお母さんが働いており、夜の七時前後にならなければお母さんが来ない。
この子は二歳の娘を「赤ちゃん」と呼び、娘がむずがる時には自分のお気に入りのぬいぐるみを貸してくれるばかりでなく、お姫様の絵を描いたり色紙で花を折ったりしてくれた。
自分より幼い子に対しては「お姉ちゃん」になれる子である。
だが、夕方近くになると、「お母さんが来ない」と泣き出し、ナースコールを押しては「お母さんはまだなの」「どうして来ないの」と繰り返し訴える。
ブザーの向こうの看護師さんたちも困った調子で「今、向かってる途中だよ」「もうすぐ来るよ」と答えるのだが、女の子の泣き止む気配はない。
そして、お母さんが現れると抱きついて「もううちに帰りたい」「保育園のみんなに会いたい」とせがむのだった。
面会の終わる消灯時間になると「眠くないもん」「暗いのはやだ」とお母さんの服を引っ張って引き止めようとする。
まだ二十代の半ばかと思われるお母さんが言い聞かせる様子には傍目にも辛いものがあった。
母親が働いていて昼間は来られないのは、向かいのベッドにやって来た、これも四、五歳かと思われる女の子も同様だった。
こちらは普段は大人しかったが、回診の医師が現れると急に怖がりだし、「お母さん、呼んで」と繰り返す。
また、この子の具体的な病名は分からないが、明らかに高熱でうつろな目つきになり、「お母さん呼んできてよう」と見回りに来た看護師さんにせがむ姿も目にした。
それ以外は大人しくお絵かきしたり画用紙を切り抜いたりしていることが多かったが、道具を持ってきてくれる保育士さんに「これはこういう絵なの」と引き止めて話したがった。
なお、小児病棟には医師や看護師といった医療スタッフ以外にも保育士が交代制で勤務しており、各病室を回っては患者の子供たちと一緒にお絵かきや紙細工をして遊んだり、あるいはおもちゃやDVDを貸し出したりしていた。
やってくる保育士さんたちはいずれも子供たち一人一人に穏やかな笑顔で声を掛け、むずがる子供に対しても嫌な顔一つせず辛抱強く接していた。
我が子一人すら持て余し気味の私には頭が下がる。
これ以外にも、斜向かいのベッドに来た一歳くらいの男の子はまだ病院食が食べられず、また、恐らくは具合が悪くて泣き続けるので、一人の看護師さんが付きっ切りで抱っこしてミルクを飲ませたりあやしたりしていた。
この男の子のお母さんも働いていて夕方以降でないと病院には来られないので、要は担当の看護師さんが母親代わりを務めていたのである。
耳をつんざくような泣き声を上げ続ける男の子を胸に抱いてあやす看護師さんもまた、朗らかな笑顔を崩すことはなかった。
保育士や看護師の仕事の大変さ、尊さを垣間見た気がした。
これは私たちがお世話になった病院ばかりでなく、他の病院の小児病棟にも共通する光景だろう。
保育士及び看護師は女性の多い国家資格職の二本柱と言える。
最近は男性の保育士や看護師も増えているとのことだが、女性の医師をわざわざ「女医」と性別を明らかにする呼び方が定着しているのに対し、保育士や看護師も敢えて「男性」を頭に付けなければ一般には女性と捉える傾向が強い。
これは医師が男性の多いのに対し、保育士や看護師は女性の比重が大きい証左だ。
そもそも保育士の旧称が「保母」、看護師の旧称は「看護婦」であり、年配者には今もそう呼ぶ人が少なくないことからも明らかなように「女性ゆえの職業・職掌」といった認識が根強い。
実際、統計を見ても、二〇一二年の時点でも医師の男女比において女性は一九・七パーセント。全体の五分の一にも満たない。
一方、保育士の就業者の男女比では、二〇一〇年の時点でも男性は全体の二・八パーセント、看護師は五・八パーセントであった。
保育士も看護師も実に九割以上は女性の職業ということになる。
さて、医師は一昔前までは高収入かつ社会的地位の高い職業の代名詞であり、二〇一三年の日経メディカルオンラインの調査では勤務医の平均年収は一四七七万円。
同年の国税庁の調査によるサラリーマンの平均年収が四一四万円だからその三倍以上であり、今もなおステイタスは健在と言えよう。
これに対し、ウェブサイト「年収ラボ」によれば、女性看護師の平均年収は二〇一四年の時点で四七三万円。
サラリーマンの平均年収と比べれば高いと言えるものの医師の三分の一であり、同じ医療スタッフでも非常な格差があると分かる。
病院が舞台のドラマでは男性医師と親しくなって玉の輿婚や愛人の地位を狙う女性看護師が必ずと言っていいほど登場するし、現実でもその手の話はよく聞く。
これは、医師と看護師で金銭的にも社会的にも圧倒的な格差があり、職業人として看護師であることより、「(名士である)医師の妻」の方がステイタスは上だと一般に強く認識されている事実を紛うことなく示している。
同時に、職場としての病院が医師を頂点とした厳然たる階級社会であり、看護師、特に若い女性の看護師がその中では低く位置づけられている現実も浮かび上がる。
なお、「年収ラボ」の同じ調査による女性医師の平均年収は九八九万円。
同性の看護師の二倍ではあるが、こちらも医師全体の平均からすると明らかに低い感触を受ける。
そして、保育士の平均年収に至っては、これも「年収ラボ」によれば、二〇一四年の時点で三一七万円、平均時給にして一二五六円。
同サイトによれば医師の平均時給五一三〇円だから、保育士はその四分の一以下である。
単純に平均年収の額だけでも、医師・看護師はおろか、一般のサラリーマンより薄給だと一目瞭然である。
事実、保育士の低賃金や待遇の悪さを伝える記事はネット上でも枚挙に暇がなく、また、看護師にしても「ハードワークでこの給与では割に合わない」といった声をよく見かける。
ここから見えるのは、一般に高給とされる職であっても女性はその中では割安にされやすく、また、女性の多い職業は国家資格職であっても前提として低賃金に留められやすいという構図だ。
しかし、難関である医学部の入学試験や高額の代名詞である最低六年間の授業料、そして医師の国家試験は、男女でその内容や負担が変わるわけではない。
専門の医師となった後も、男性医師と女性医師で業務の内容や医師としての責任の重さが異なるわけでもない。
それなのに、何故、同じ職業の中で男女の賃金格差が生じてしまうのだろうか。
また、看護師や保育士は偏差値的な観点からすれば医師と比して難易度の高い資格職ではないかもしれないが、業務上の肉体的精神的な負担が小さいわけでもなければ、職業的に接する相手への責任が軽いわけでもない。
むろん、病身の娘に適切な診断と処置を下した医師たちには感謝するが、少なくとも娘が入院している間、私たち親子のすぐ身近にいて何くれと助けてくれたのは、看護師と保育士たちであった。
一人ひとりの給与の詳細等は知らないが、彼女らの仕事が薄給に甘んじるべきものだとはどうしても思えない。
元は「保母」「看護婦」と呼ばれていた彼女らの報酬が「女性だから安く使って構わない」という蔑視感情の下に必要以上に低く設定され、今もなおそうした状況に置かれているとすれば、早急に改善されるべきだろう。
「一億総活躍社会」のスローガンの下、私のような専業主婦はもはやニート的な社会不適合者で、女性は結婚し子供が生まれても働くべきだという流れになっている。
そこには生まれた子供が小さな内は保育士に預けることが構造的な前提になっているわけだが、そこで発生する待機児童や保育士不足の問題は、まず、保育士の待遇の悪さが一因ではなかろうか。
近年、劣悪な保育施設での虐待や事故のニュースが相次いでいる。
その度に「どうして親はそんないい加減な所に子供を預けるのか」といった、適切な施設に入れなかった親、特に母親を責める反応が少なからず見られるが、預けた親たちにしても他に選択肢がなかったからこそ劣悪な施設に預けざるを得なかったのが真相だろう。
更に言えば、そんな劣悪な施設でも次々参入して営業が成り立つほど、保育の業界は人手不足なのである。
女性が子供を預けて働く状況は、それ自体が決して容易でないのだ。
その一方、「イクメン」という言葉が新たに出てきて育児に積極的に参加する男性がもてはやされるようになったが、二十一世紀にも入ってこうした言葉が出てきたこと自体、「育児は女性がやるものだ」という通念がそれまで根強かった証左だ。
そもそも、デパートやレストランなど小さな子供もたくさん出入りする公共の施設では、女子トイレには必ずといっていいほど赤ちゃんのオムツ替えのスペースが設けられているが、男子トイレには「あるところにはある」というレベルでしか見かけない。
「子供の世話は女性がするものだ」という認識はこのように無意識のレベルで日本社会に浸透しているのだ。
実際、娘が入院していた数日間、同室だった子供たちは、母親たちは働いていても退勤後に必ず見舞いに現れたが、父親たちは一度も姿を見せなかった。
むろん、私たち家族のように実家は少し遠方にあって旦那さんは仕事の関係上見舞いに行きたくても行けないケースもあったかもしれないし、そもそも母子家庭というご家族もいたかもしれない。
朝の九時から夜の九時までという面会時間も、フルタイムで働く労働者にとってはなかなか難しいものがある。
だが、「子供のためにより多くの時間と手間を割くのは父親ではなく母親」という現実がここにも見える。
「女医」が「男性メインの医師の世界に例外的に参入してきた女性」というニュアンスを含んでいるように、「イクメン」にも「女性メインの育児に参加する希少な男性」という響きが感じられるのだ。
男性が働いて女性が専業主婦として家事・育児を担当するのが普通だった時代、「横暴な夫」のステレオタイプとして「誰が食わしてやってると思ってるんだ」と妻を殴りつけるイメージがよく描かれた。
むろん、これは当時としても否定的に捉えられていた男性像ではあるが、家事及び育児は賃金の発生しない低次元な作業と一般に見られていた事実をよく示している。
こうして家内で実の母や妻が担当する限りは基本的に無償の家事・育児に対して、男性側が自分は手を出さないまま「大した労苦ではない」と決め付ける向きは今でも処々で見受けられる。
内閣府男女共同参画局のホームページを見ても、男性の育児休暇取得率は二〇一一年の時点で、民間企業で二・六三パーセント、公務員で一・八〇パーセント。
同年の女性の取得率が民間企業で八十七・八パーセントである。
女性は「取れる人はほとんどが取る」のに対して、男性は「ほとんどの人は取らない(または取れない)」のが実情だ。
三十四歳の男性衆議院議員が「育児休暇を取る」と宣言して物議を醸したことがあった。
これについての論議はさておき、一般社会でも育児休暇を必要とする男性は年配としてはまだ若く、組織での地位も高くない場合が多い。
そもそも不景気で正社員であっても雇用が不安定になりがちな状況で、かつ上司である年配の層に「育児は母親がやるものだ」「本来は無償の低次元な作業だ」「育児休暇など仕事もせずに給料だけもらう怠慢だ」という意識が支配的であれば、目下の男性は取りたくても言い出せないのが実情だろう。
「小さな子供の面倒を見るなど大した仕事ではない」「育児などある程度大人になった人間なら誰にでも務まるはずだ」といった、自分が育児の当事者になることは回避する男性の認識が、他の男性の育児参加を阻害するばかりでなく、女性の多い保育士という職業を低賃金に留め、結果として、劣悪な施設や悲惨な事件を生み出しているのではないだろうか。
これは介護など他の業界についても言えることだが、精神的にも肉体的にもハードで責任も重い仕事であるにも関わらず、「この仕事・業界なら労働者を薄給で使い捨てても構わない」といった認識が社会の中に蔓延して改善されなければ、劣悪な施設や労働者による惨事が絶えなくなる。
年が明けて半月で起きたスキーバスの事故なども、高齢で経験も少なく、また、本人としても乗り気ではなかったらしい運転手に夜間の長距離運転を振り当てざるを得ない業界の窮状が遠因であろう。
ちなみに乗客として若い学生たちが命を落としたこの事故では、亡くなった女子学生は生前ネット上に残していた華やかな面影や経歴も手伝って多数の人が葬儀に集まる一方で、こちらも命を落とした六十五歳の運転手は遺骨を引き取る身内もいないという落差でも話題になった。
この運転手さんの家庭環境など詳細なプライバシーは不明だが、六十五歳ならば年金の受給が始まっているはずの年齢であり、恐らくその額では不十分なために無理を押して働かざるを得なかったものと推察される。
ここで生活保護を何故受けなかったのかという疑問が生じる。
ネット上では「ナマポ」と俗称されるこの制度は、数年前に著名な芸人の家族が不正に受給していたのが発覚して非難された事件の影響もあって、「本当はさして困っていない人間でも少し抜け道的な工作をすれば利用できる制度」という見方をされがちだ。
だが、現実の受給者数は二〇一五年一月現在で二一七万人。
総人口の二パーセントにも満たない。
国民の一六パーセントが相対的貧困だという数値からすれば、「働きたくないので不正に工作して受給している」ケースよりも「実際には受給資格が十分あっても受けていない」ケースの方が多いと言えるのではないだろうか。
こんな所にも、社会の歪みが見える気がする。
「一億総活躍」というスローガンは、それ自体はポジティブな語感ではあるものの、よく揶揄されるように「一億総玉砕」「一億総ざんげ」といった敗戦前後の狂気や挫折の空気を連想させる。
戦後七十年を経た今、平均寿命は男女共に三十年も延びた。
相対的貧困率は二〇一四年の時点で十六・一パーセント。
六人に一人がいわゆる貧困層に当たるが、衣食住にも事欠く絶対的貧困率が高かった終戦直後に比べれば、格段に余裕のある社会だ。
しかし、敗戦の焼け野原から立ち上がりわずか二十年でオリンピックと万博を成功させた世代の人々と比べて、リーマンショックや震災はもちろん二昔も前のバブル崩壊を引き摺る今の私たちは酷く疲弊しているように思える。
バブル期に活躍した俳優たちが揶揄されつつも当時演じたイメージを求められ続ける向きがあるのも、浮薄さを含めて明るい自己肯定感に満ちていたバブルを懐古する気分が視聴者の中に根強いからだ。
彼らを冷笑的に眺める人にしても、今がかつて夢を持って思い描いていた二十一世紀なのだと思い当たった時、やり切れない気持ちを抱くのではないだろうか。
今のこの時代も後から振り返って見てより良い時代への助走期間だったと思えるようにしたい。
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