「しまじろう」の世界

 ドラえもんやミッキーなど漫画やアニメのキャラクターが学習教材に使われることはしばしばある。


 しかし、本来は学習教材に使われていたキャラクターがアニメにもなり、一般に広く知れ渡った例としては「しまじろう」が挙げられるだろう。


 説明するまでもないかもしれないが、ベネッセ・コーポレーションによる幼児向け通信教育教材「こどもちゃれんじ」のイメージキャラクターだ。


 ウィキペディアを参照すると、「しまじろう」が初めて登場したのは一九八八年度の「こどもちゃれんじ」創刊号。


 一九八八年と言えば、私は六歳、幼稚園の年長組で、ちょうど「こどもちゃれんじ」の対象年齢になるわけだが、当時は「しまじろう」はもちろん「こどもちゃれんじ」自体がそこまで一般に知られていなかった。


 私が「しまじろう」を知ったというか、テレビでよく目にするようになったのは、もう小学校の高学年には入った時期だと記憶している。


 これもウィキペディアで確認すると、ちょうど、一九九三年末からアニメ「しましまとらのしまじろう」が放映されるようになった時期と重なる。


 一九八八年に登場し、また、一九九三年にアニメにもなった「しまじろう」のキャラクターデザインは、明らかに「ジャングル大帝」のレオやミッキー・マウスといった有名どころの人気キャラクターに強く影響されている。


 そもそも、「子供のトラ」という設定自体が、「虎の子」転じて「大切な子供」という学習教材に相応しい意味合いはあるにせよ、ライオンである「ジャングル大帝」のレオの向こうを張った印象を受ける(『しまじろう』単体だと『子供のトラ』にも『トラネコの子供』にも見えるが、アニメに登場する父親は肥満気味の巨体でトラの成獣そのものに描かれている。また、別個に黒猫の三兄弟や女猫の『にゃっきい』等、ネコのキャラクターも出てくる)。


「しまじろう」というネーミングも、恐らくは映画「男はつらいよ」の「寅さん」こと寅次郎をもじったものだ。


 ちなみに、「寅さん」には妹の「さくら(桜)」がいるが、「しまじろう」にも妹の「はな(花)ちゃん」がいる。


 ここで思い出されるのは、アニメ「クレヨンしんちゃん」もシリーズの長期化に従って、当初は一人っ子だった五歳児の「しんちゃん」こと「しんのすけ」に妹の「ひまわり(向日葵)」が生まれていたことだ。


 古風な男児名の兄と花に因んだ命名の妹の取り合わせは、「男はつらいよ」シリーズの主人公兄妹がプロットタイプと言えるだろうか。


 それはそれとして、幼児向け通信教育教材「こどもちゃれんじ」のロングランに従って、当初は一人っ子だった「しまじろう」にも妹の「はなちゃん」が誕生した。


 また、一九九二年の放映開始当初は「下品」「子供が真似すると困る」と強く批判された「クレヨンしんちゃん」も次第に子供向けアニメとして表現が和らげられ、長期化されるにつれて、悪ガキの「しんのすけ」にも「ひまわり」のお兄ちゃんという立場が与えられた。


「しまじろう」も「しんちゃん」もアニメシリーズのスタートは一九九〇年代前半で連動しているので、「両親、面倒見の良い兄、可愛い妹」という家族構成は、あるいは、平成の日本人にとって「理想の核家族」のステレオタイプなのかもしれない。


 話は変わって、先ほど「しまじろう」を「ジャングル大帝」のレオに似ていると述べたが、この「ジャングル大帝」を盗作したと話題になったディズニーの「ライオン・キング」の公開は一九九四年、「しまじろう」のアニメシリーズが開始した翌年である。


「ジャングル大帝」のアニメ第一作の放映は一九六五年。

 これはアメリカにも輸出された(というより、そもそもがアメリカへの進出を意図して制作されたという)。


 なお、現地でのタイトルは“Kimba the White Lion”、「白ライオンのキンバ」といった意味だ(『ライオン・キング』の主人公は『シンバ』。英語での綴りは“Simba”で、誤植としか思えないネーミング)。


 当時は子供だった日米の視聴者が長じてクリエイターになり、「しまじろう」や「ライオン・キング」をそれぞれ制作したのかもしれないと想像すると、感慨深いものがある。


 ただ、「ライオン・キング」が「ジャングル大帝」と同じく野生に生きる動物たちを擬人化した世界観であるのに対して、教材から出発した「しまじろう」シリーズは飽くまで平凡な人間社会に擬人化した動物たちを配している。


「しまじろう」シリーズの洋服を着た動物たちが街を闊歩する世界観は、むしろミッキー・マウスのそれをなぞっている。


 ちなみに、一九八八年の創刊号の時点ではトラの男児「しまじろう」、鳥の男児「とりっぴい」、そして女児ヒツジの「らむりん」の三名がメインキャラクターだったという。


 男児二人・女児一人のトリオ編成は、創刊号発行当時、NHK教育テレビの人気シリーズだった「にこにこぷん」のキャラクターたち(ガキ大将の男児山猫・じゃじゃ丸、おしゃまな女児ペンギン・ピッコロ、お坊ちゃま風の男児ネズミ・ポロリ)と同じ構成である。


 ただし、「しまじろう」シリーズが長期化するにつれてこの構成にも変化が訪れた。


 まず、女児キャラ一人では足りないと判断されたのか、白ウサギ女児の「みみりん」(白兎に可憐な少女のイメージを投影させる日本人の定番的なキャラクター)が追加され、また、現在ではヒツジの「らむりん」は「外国に引っ越した」という設定で姿を消し、代わりに女児ネコの「にゃっきい」(女猫ということでやや吊り気味の目に描かれており、キャラクターも勝気で少しきつい面もある設定)が仲間に加わっている。


 加えて、ウィキペディアを確認すると、教材の英語コーナーに「しまじろう」の母方のいとこでアメリカから来た設定の「トミー」(英語圏ではごく一般的な男性名だが、同名の玩具メーカーも連想される)が登場し、アニメシリーズでもこのキャラが途中からレギュラーとして頻繁に出てくるようになったものの、教材の英語コーナーでも「しまじろう」で一本化されるに伴ってアニメでも姿を消したらしい。


 画像検索で確認してみると、「トミー」は「しまじろう」とよく似てはいるものの、書き分けのため「しまじろう」にはない前髪があり、また、やや面長で大人びた顔つきにされ、背丈も少し高めに描かれている(『母方のいとこ』とあるだけで実際の年齢関係は不明だが、ネット上ではこのキャラクターを『しまじろうのお兄ちゃん』と誤認した書き込みも見受けられる)。


 年度別の通信教材としては「『しまじろう』と似てるけど違うキャラクター」よりは「しまじろう」そのもので一本化した方が良いと判断されて「トミー」は使用されなくなったのだろうが、アニメシリーズとしてはレギュラーのキャラクターが説明なしに唐突に消えた格好になったようで、ネット上にはこのことに対するアニメ視聴者の不満の声も少なからず見受けられた。


 その辺りに、一貫したストーリーを持つ漫画や小説ではなく、一年ごとに内容の変わる学習教材ゆえのメディアミックス上のつまずきというか、ひずみが見える気がする。


 結果として、創刊号から現在に至るまで一貫して「しまじろう」の仲間として登場するのは「とりっぴい」だけである。


 先ほど「しまじろう」は「ジャングル大帝」のレオに影響されていると述べたが、「とりっぴい」も緑色のオウム風のキャラクターデザインからして「ジャングル大帝」のオウムのココが原型かと推察される。


 ただし、「とりっぴい」はたてがみが赤・黄・青の三原色で塗り分けられているため、ニワトリやキジのようにも見える。


 恐らくは複数の鳥の融合なので「とり(鳥)っぴい」とぼかしたネーミングになったと思われる。


 また、「とりっぴい」というネーミングは「鳥がピーピー鳴く、さえずる」といった意味なのだろうが、語感としては「トリッキー」と掛けている感触も受ける。


 鳥にちなんだキャラクターといえば、ディズニーの世界でもミッキーに次ぐ存在としてドナルド・ダックがいる。


 更に言えば、「しまじろう」と「とりっぴい」の位置関係は、そのままミッキー・マウスとドナルド・ダックのそれを踏襲しているように思える。


 ちなみに「とりっぴい」は赤い蝶ネクタイにネイビー・ブルーのチョッキを纏っているが、これは明らかにドナルド・ダックの青い水兵服に赤い蝶ネクタイを結んだスタイルをなぞったものだ。


 アニメの製作スタッフにも「とりっぴい」のキャラクター形成にドナルド・ダックはかなり意識されていたようで、「しまじろう」が幼い男児キャラの慣例として女性の声優が担当していたのに対し、「とりっぴい」は男性が声を当てており、しかも、意図的にガラガラした声音、もっと露骨な言い方をすればドナルド・ダック的な「アヒル声」を作っている。


 なお、ドナルド・ダックには幼い三つ子の甥であるヒューイ・デューイ・ルーイがいるように、アニメの「とりっぴい」にも幼い三つ子の弟妹「とと」「りり」「ぴぴ」がいる(『しまじろう』と妹の『はなちゃん』にも明らかにミッキーとミニーが意識されてはいるけれど)。


 むろん、ドナルド・ダックのようなしかめ面で物事を不意に投げ出す短気さやある種の毒気といったものは、飽くまで明るいお調子者の「とりっぴい」にはない。


 ちなみに、初期のディズニー漫画や短編映画のドナルドを見ると、出世して名声を得た途端恋人のデイジーを捨て去ろうとしたり、職場でミスを指摘されると逆上して辞めようとしたり、素直に笑えない描写も多い。


 第二次大戦中に発表され、アカデミー賞を取った短編映画「総統の顔(Der Fuehrer's Face)」はドナルド・ダックを主人公にした反ナチスのプロパガンダ映画だが、劇中でのドナルドは、ナチス・ドイツをモデルにした「ナチランド」の市民として日々抑圧され、軍需工場で酷使される内に心身に異常を来たしてしまう。


 主人公が天真爛漫で体制順応型のミッキーではなく、むしろ、どこかひねた反抗の表情を持つドナルドだからこそ、抑圧的な社会の中で窒息するように自我を失っていく痛ましさが浮かび上がる演出だ。


 軍需工場で弾丸の組み立て作業に追われる内にドナルドの心身が疲弊し、自身が弾丸に詰め込まれて戦地で捨石にされる幻覚に陥る描写は恐ろしい。


 この短編映画のラストはいわゆる夢オチで、「ナチランド」の市民として搾取される悪夢から覚めた後、星条旗のパジャマを着たドナルドはアメリカ国民の自分に喜ぶと、ミニチュアの自由の女神にキスする。


 第二次世界大戦中に発表されたこの作品は、日本では公開はもちろん、ソフト化もされていないが、「ディズニーランド」及びミッキーやドナルドの活躍する世界がアメリカ合衆国の理想化されたミニチュアであり、かつ水兵服を着たドナルド・ダックが有事の際にはメディアにおける合衆国の先兵ともなり得る存在だという事実をよく示している。


 悪夢中の「ナチランド」にて鍵十字入りの制帽と腕章を着けたドナルドは酷使されるが、星条旗をイメージし青地に星模様のシャツと赤と白の縞模様のズボンのパジャマを纏って目覚めた彼はミニチュアの自由の女神に口付け、そして、この映画の宣伝ポスターではデフォルトの水兵服姿に戻ったドナルド・ダックがヒトラーの戯画にトマトをぶつけている。


 子供向けのアニメのキャラクターだからこそ戯画の似顔絵に真っ赤なトマトをぶつける表現に和らげられてはいるものの、これは「いつかヒトラー本人に流血させて殺してやろう」という作り手のメッセージに他ならない。


 日本も今、社会の右傾化や戦前的な体制への回帰が懸念されているが、仮に有事になっても、「しまじろう」や「とりっぴい」がこうしたイメージに使われるとはちょっと思えない。


 デフォルトで水兵服姿のドナルド・ダックはディズニーの世界でも「労働期の青年」を想定したキャラクターであり(三つ子の甥たちはドナルドの妹の子とされており、そこからすると、ドナルドも本来は子供がいてもおかしくない年配と言える)、だからこそ、工場での労働や兵役といった労役を課せられる一方で、アメリカ人たるアイデンティティを強く持ち、ヒトラーの似顔絵に怒りを込めてトマトをぶつけるレジスタンスを演じる政治意識も持ちうる。


 これに対して、「しまじろう」や「とりっぴい」は教材でもアニメの世界でも就学期以前の子供として扱われており、基本的にそこからの逸脱は許されていない。


 仮に、今の日本がどこかの国と交戦状態に陥っても、そこの元首の似顔絵に「とりっぴい」がトマトを投げつけているイメージ画などがメディアに出れば、「大人が幼い子供を煽動してやらせている」感触が濃厚になり、痛ましさや嫌らしさを覚える人の方が多いはずだ。


 ドナルド・ダックを「とりっぴい」に置き換えて「総統の顔」のような作品を制作したとしても、まだ小学校にも上がらない年配の子供に銃剣を突きつけて劣悪な状況で働かせるシチュエーションが対戦国への批判や風刺の意図を超えて残酷な表現と映るので、観客からは倦厭されるのではないだろうか。


 そもそも、教材はもちろんアニメでも、擬人化された動物たちが共生する「しまじろう」の世界では、個々のちょっとしたトラブルやちょっとした悪さやいたずらをするキャラクターは存在しても、例えば、「ジャングル大帝」のブブや「ライオン・キング」のスカーのような自他を破滅に追い込むレベルの悪意を持つ形象は登場しない(ちなみに、ブブとスカーはそれぞれ登場作品の悪役ライオンで、黒のたてがみに片目に傷を持つ風貌はもちろん、一度は追い落としたはずの主人公たちに報復されて滅ぶ運命も共通している。『ライオン・キング』を目にするたびに、『ディズニーがやれば盗作でない』というガリバー企業の横暴を感じずにいられない)。


「しまじろう」の世界には、種族間の弱肉強食関係もなければ、上下関係も存在しない。


 アニメ中の基本的に個性らしき個性を与えられていない「しまじろう」とおしゃべりな「とりっぴい」の取り合わせからハリウッド映画にしばしば見られる白人のヒーローとコミカルな黒人のコンビも連想できなくはないが、哺乳類のトラである「しまじろう」と鳥類の「とりっぴい」の間に劇中世界での社会的な格差は特に見られない。


 ただ、アニメではカラスやハトなどが擬人化されずに飽くまでその世界の野鳥として登場しており、「とりっぴい」が鳥の鳴き声で彼らと対話した後に「しまじろう」たちに会話の内容を説明する描写がしばしば出てくるので、「彼らと『とりっぴい』の違いは一体何なのか」という疑問が頭を掠める程度である。


 これは、ディズニーの世界で犬のグーフィは擬人化されているのに対して、プルートは飽くまで「ミッキーの飼い犬」として登場する矛盾に似ている。


 しかし、これもDNA上は98%以上一致するというヒトとチンパンジーと同程度の差異が、グーフィとプルート、あるいは「とりっぴい」と野鳥たちの間には存在しているという風に説明がつくかもしれない。


 そもそも、「ヒト」の世界だって、人種による身体的な違いもあれば、言語による文化的な違いもある。


 他人種を同じ「ヒト」と見なさず家畜や化け物扱いする時代もあった。

 他言語の話者を排斥したり自分の母語を自由に話せない相手をそれだけで蔑視したりする場面は現在でも至る所で見掛ける。


 同じ人種・母語であっても、絶望的な格差が生じてしまう社会環境もある。


 そうした事実に鑑みれば、ディズニーの世界で身体的には同じ「犬」であるはずのグーフィとプルートが文化的に大きく隔絶していても私たちにそれを揶揄する資格はないようにも思えるし、「しまじろう」の世界で他の野鳥たちに解せない言語が「とりっぴい」に操れてもそこまで不思議ではない。


 歪みも含めて、擬人化した動物たちの世界は、私たちの世界の映し鏡なのだ。


 話は変わって、現行の「こどもちゃれんじ」は、〇歳から就学前まで年齢別に六つのコースに分かれている。


 〇歳から一歳までが「こどもちゃれんじbaby」、一歳から二歳までが「こどもちゃれんじぷち」、二歳から三歳までが「こどもちゃれんじぽけっと」、三歳から四歳までが「こどもちゃれんじほっぷ」、四歳から五歳までが「こどもちゃれんじすてっぷ」、五歳から六歳までが「こどもちゃれんじじゃんぷ」だ。


 このクリスマスで二歳になる娘が現在取っているのは「こどもちゃれんじぷち」である。


「こどもちゃれんじbaby」の頃には基本的に知育のおもちゃとちょっとした絵本だけで、「しまじろう」といえば起き上がりこぶしと積み上げブロックの上に載せる飾りくらいにしか登場しなかった。


 しかし、「こどもちゃれんじぷち」に入ると、まず最初の号で「しまじろうパペット」こと「しまじろう」のぬいぐるみが届く。


 毎月の教材絵本の表紙も季節ごとに装いを変えた「しまじろう」の人形であり、更にはその教材に即したDVD(一枚に二月分の内容が収められている)にも「しまじろう」の着ぐるみによる実写、人形劇、そして短編アニメのコーナーが収録されている。


 正に、「しまじろう」尽くしである。


「こどもちゃれんじbaby」の頃には母親が起き上がりこぶしの「しまじろう」を差し出しても見向きもしなかった娘も、一歳を迎えて送られて来た「しまじろうパペット」はすぐ気に入り、今では夜寝る時も手放さなくなった。


 最初はDVDを見せてもものの三分も経てば飽きて別の遊びをしたがったのが、今ではまだ来ていない号の分まで見せても飽きたらず、周囲が止めさせようとしても繰り返し見たがるほどだ。


 さて、「しまじろう」には公式に決まった年齢はなく教材の受講者に合わせて成長していく設定が与えられているので、娘の視聴する「こどもちゃれんじぷち」のDVDに登場する「しまじろう」もまだ一歳から二歳の赤ちゃんということになる。


 短編アニメを見ても、まだ妹の「はなちゃん」は生まれておらず一人っ子であり、「とりっぴい」ら固有のキャラクターを与えられた友達も出てこない。


 十二月号までに出てきた同世代の子供との関わりと言えば、せいぜい児童館で「ぞうくん」にボールを誤ってぶつけてしまい、泣き出してしまった相手に「ごめんなさい」と謝ったくらいである。


 家の中での行動と言えば、朝起きたら両親に「おはよう」と挨拶し、食べる時はよそ見せず行儀良く座り、ムズムズする感じを覚えたら母親に「トイレ」と告げて連れて行ってもらい用を足して手を洗い、起床時と就寝時にはきちんと着替えをする。


 外に出るときはきちんと帽子を被り、母親と手を繋いで歩く。


 前述のエピソードのように自分が悪いことをしてしまったら「ごめんなさい」と謝り、相手に優しくしてもらったら「ありがとう」とお礼を言う。


「こどもちゃれんじぷち」の「しまじろう」は幼児としてもそんな初歩段階にいる。


 そして、それを視聴する娘はまだそこにすら至っていない。


 朝、母親より先に目を覚ました時は、蹴飛ばして起こしてはくれるが、アハハと笑うだけで「おはよう」とは言ってくれない。


 食事中でもじっとしていられず歩き回り、座らせようとすると泣いて不機嫌になり、食べようともしなくなる。


 ベビーカーに乗せずに手を繋いで外に出ようとすれば、たちまちこちらの手を振り切って車道に走って行こうとする。


「ごめんなさい」「ありがとう」といった言葉を教え込ませて言わせようとしても、そもそもそうした場面だと理解できていないためキョトンとしている。


 服の着脱も脱ぐのを嫌がってもがいたり、渡された服を振り回して遊んだりして、とてもアニメの「しまじろう」のようにスムーズにはいかない。


 DVDの「しまじろう」はいとも簡単に便意を口にすることを覚え、また、母親に導かれるままトイレに行って用を足すことを難なくクリアしたが、娘はまだ便意を伝えることすら知らず、しかも、トイレに連れて行って補助便座に座らせようとするだけでも酷く泣いてしまう。


 教材DVDには受講者の保護者たちから「自分は『しまじろう』のお母さんのようにいつも穏やかに笑顔ではわが子に接せられない」といった声がよく寄せられるそうだが、そもそも「しまじろう」自身が既に大人になった人のように、幼児特有の恐怖心や理不尽さを持たないのだ。


 教材としてのアニメに登場する「しまじろう」一家は全員が理想像なのであり、一般に放送されるアニメもその延長にあると言えよう。


 ちなみに、今は娘にパンパースのパンツタイプのおむつを使っているが、パンパースとベネッセが提携している関係でこちらにも「しまじろう」の愛らしく笑った姿がプリントされている。


 おむつのパッケージには体重及び「ねがえり」「はいはい」「たっち」「おむつはずれ」という発達の段階に対応するサイズタイプが「しまじろう」のイラスト付きで表示されている(なお、『ねがえり』以前の『ねんね』の段階だと、パンツタイプではなく足の付け根でテープを止めて固定するテープタイプのおむつを使うことになっている)。


 最初は寝返りをしていた小さな「しまじろう」がはいはいするようになり、二本の足で立ち上がって、ついにはおむつ自体を卒業する。


 類人猿から現在の直立歩行する「ヒト」への進化図を連想させる成長の過程である。


 ぬいぐるみの「しまじろう」を抱きかかえてあちこちに歩いていく娘にしても、生まれ落ちた瞬間からすれば、格段に「人」らしくなった。


「しまじろう」を良い友達にして真っ直ぐ伸びていって欲しい。

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