未解決事件の闇

 Youtubeを「怖い動画」といったキーワードで検索していると、心霊写真や映像を集めた動画や放送禁止になったCM集といったもの以外に、未解決事件を取り上げた動画にもたくさんヒットする。


 率直に言って、心霊写真や映像は決まりきったパターンのものが多い。


「こんな小さくてぼやけた映りの部分をよく人の顔に見立てられるな」

「白いロングのワンピースを着て長い髪で顔を隠すなんて、ずいぶんテンプレート通りの格好で出てきてくれるんだな」

「幽霊なのにずいぶんと鏡のフレームや人と人との隙間にキッチリ収まる形で映ってくれるんだね」

「むしろ、真ん中に笑顔で全身はっきり映っているのがその場にいなかったはずの人です、て落ちの方が怖いんじゃないかな」

等々、怖くなるよりも、却っておかしくなるものも少なくない。


 個人的には、不鮮明に映りこんだものに対し無理にでも心霊現象的な解釈を加えたり、ホラー映画の自家再現風のおどろおどろしい画像よりも、エッシャーのだまし絵のように、ごく平穏で日常的な風景の中によく見ると現実的に有り得ない何かが当然のように紛れ込んでいる写真の方がよほど怖いと思う。


「放送禁止になったCM集」は、そもそも、「企業側でその都度『これはクレームが来たので放送禁止にしました』とアナウンスするわけではないし、あるコマーシャルが放送禁止になったのか、単に契約として放送する期間が終了したのか、どうやって確認を取るのだろう」という疑問が私の中にはある。


 集められたCMの内容にしても、覚醒剤の撲滅を訴えるものなど確かに一見するとショッキングな表現のものもあるが、コマーシャル・フィルムという時点で既にフィクションであり、何らかのフィルターを通した表現なので、本当の意味で暗鬱とした感じが尾を引く性質の映像はない。


 一番、ぞっとさせられるのは、やはり実際に起きた事件を扱った動画だ。


 中でも、「女性や子供が行方不明になったまま、何年も消息が掴めない事件」、「犯人が不明のまま迷宮入りした殺人事件」といった、いわゆる未解決事件が最も恐ろしく、見た後味も悪い。


 どれほどおぞましい事件であっても、犯人が逮捕され、全容が明らかになった上で死刑判決を下されたといったケースであれば、「悪人は最終的に拘束され、社会からの制裁を受けた」という結末には違いないし、「もう同じ人間による再犯は有り得ない」という一種の安心感も起こるので、凄惨な所業をなし得る人間の異常さや残忍さには寒気がしても、不条理な感触はさほど残らない。


 しかし、「犯人が不明のまま迷宮入りした殺人事件」だと、「他人の命を踏み躙った人間が罰も受けずに逃げ得を決め込んだ」という苦々しさがまず起こるし、「世間に野放しでいる犯人がまた同様の罪を犯すかもしれない」という危惧、ついで、「もしかして、次に犠牲になるのは自分や自分の大切な人かもしれない」という現実的な恐怖に繋がっていく。


 ちょうど、駅や交番の前などで、指名手配犯の写真を目にした時に、「もしかして、この犯人は案外、自分のすぐ近くに潜んでいるかもしれない」と多くの人が淡く感じる恐怖を強めたような感じだ。


 指名手配犯はそれでも罪状と共に犯人の素性が明らかにされているわけだが、「犯人不明の殺人事件」だと、罪状以外に犯人を確定する情報が殆どない。


 この犯人を覆う「闇」の深さが恐ろしさを増幅させるのだ。


 ただ、事件の存在を知った後味の悪さで言えば、個人的には殺人事件よりも失踪事件の方がより上だ。


 率直に言って、「未解決の失踪事件」という括りであっても、北朝鮮による拉致の疑いが濃厚なケースを除くと、「この失踪者はもう生きていないのではないか」と第三者には感じられるケースが圧倒的に多い。


 視聴する側の不安や恐怖感を煽るBGMや黒を基調にした画面構成など、素人によって作成される「未解決の失踪事件」関係の動画がいずれも凄惨な殺人事件を取り上げたものとほぼ同じ作りになっているのも、作り手が実質的に「死亡事件」として扱っている心情の表れだと思う。


 映像としての演出はさておき、単純に表示された失踪に纏わる情報だけを拾って考えても、特に幼い子供の失踪事件に関しては、

「これは状況的に、失踪者が誤って崖や川に転落するなどして亡くなったのに、捜査方法に何らか穴があって遺体を発見できなかったのではないか」

という不幸な事故・過失の重なりが推察されるケースか、

「これは、失踪者が小児性愛的な変質者に連れ去られて殺害され、遺体が巧妙に隠蔽されているために犯行が発覚していないだけではないか」

という誘拐殺人事件の疑いが濃厚なケースにほぼ二分される。


 むろん、数年前に新潟で発覚した監禁事件のように、誘拐された少女が九年余りも犯人の下で生き延びて家族の下に帰った例もあり、現在、行方不明の子供たちの中にも、もしかするとそうした形で生存している人がいる可能性は決して否定できない。


 だが、幼い子供を連れ去って無残に手に掛ける事件がしばしばメディアを騒がせ、今までマスコミで「行方不明」と報道された幼い子の多くが無事に生きて帰れなかった状況に鑑みれば、失踪から時間が経てば経つほど、生存の可能性が低くなっていくのも事実だろう。


 まだ幼く無邪気な子供たちが人知れず不慮の死を遂げた上に、遺体が誰にも気付かれないところで朽ちて骨になっていく様子を想像すると、酷く救いのない感慨に襲われる。


 失踪した子供たちのご家族であればやはり生存の可能性を信じて待ち続けたいだろうとは察せられるが、第三者としては例え遺体の形であってもきちんと発見され、また、その死の原因が明らかにされるべきだと強く感じる。


 そして、それがもし他殺によるものであれば、直ちに犯人を捕らえて厳罰に処すべきだと思う。


 話を未解決の失踪事件に戻すと、個人的に興味を引かれたのは、一九九一年に福島県の船引町ふねひきまちで起きた小一女児行方不明事件だ(ここからはデリケートな話題になりますので、失踪した女の子を含めて事件関係者の固有名詞は敢えて出さないことにします)。


 この事件はテレビでも何度か取り上げられたので、ご存知の方は多いと思う。


 私が小学三年生の時に起きたこの事件に関しては、小学校の高学年に入った辺りから、地元の福島駅や交番の前に情報提供を呼びかける写真入りポスターをよく見かけるようになったので、鮮烈に覚えている。


 同じ福島県内にあっても行ったことのなかった「船引町」という地名もこの事件をきっかけに覚えた(なお、ウィキペディアによれば『船引町』は現在は田村市に統合されているとのことだ)。


 怖そうなおじさんたちの顔写真の下に「強盗殺人」「死体遺棄」といった恐ろしげな罪状が記された指名手配犯のポスターと隣り合うように張り出されたポスターに映った、紺地の浴衣を着た幼い女の子の顔は、彼女と本来さして年の違わない私の目にすら痛ましく映った。


「この子はきっと良くない大人に連れて行かれたんだ」


 ポスターを初めて見た時からそう感じた。


 一九九一年七月二十五日、夏休みが始まったばかりの夜、家の中で眠っていたはずのこの子が暗い闇の中に連れ去られていくところを想像すると背筋が寒くなった。


 私の住んでいた「福島市」は県庁所在地なので福島県内の基準では都市部に相当するはずだが、それでも郊外の夜中は真っ暗になる。


 そもそも市街地を外れると全般に閑散としていて、夕方以降は一人で歩いていると気味が悪くなってくる場所も少なくない。


 失踪事件当時は「田村郡」に属していた船引町でもこうした状況は恐らく同じだったはずだ。


 ポスターの前を通り過ぎる私が、中学生になっても、高校生になっても、成人しても、ポスターの中の女の子は浴衣姿のまま、幼い表情を決して変えることがない。


「この子、早く見つからないかな」

「こんな田舎なのに、どうしてすぐ見つけられないんだろう」


 もどかしい気持ちになったが、一方で、険しい山林が多く、しかも、「沈んだら上がってこない」と言われている猪苗代湖のある福島の地形からすれば、誰かが人知れず殺害されてその死体が遺棄されても発覚しづらいかもしれないとも感じた。


 私が子供の頃、お盆やお彼岸の季節に山の上にある墓地にお参りに行くと、墓地の駐車場には、必ず一台はナンバープレートを外された、一見して不法投棄と分かる自動車があった。


 むろん、ほとんどは「故障したけど修理や廃車の手続きが面倒だった」とかいう理由で普段は人の寄り付かない墓地の駐車場に捨て置かれたものだったとは思う(重大な犯罪に使われた車ならば、却って足がつかないように入念に処理されるものだろうから)。


 だが、遠目には普通に駐車されたかに見えた車が、近づくに従って、ナンバープレートを外され、幾日も雨曝しにされて窓ガラスや車体全般が薄汚れている様子が認められると、正に「車の死体」といった趣になり、「誰が、何のためにここまでやって来て、この車を捨て去ったのか」といつも不気味に感じた。


 殺人事件を巡る報道ではしばしば「山中で被害者の遺体が発見された」という展開を見せるので、第三者は「人を殺して山に隠してもすぐに見つけられる」と考えがちだ。


 しかし、その多くは犯人の供述やその足取りについて確定的な情報を事前に得た場合であり、実際には、山のどこかに証拠が隠されたまま発覚を免れている事件は少なくないのではないかと思う。


 それはそれとして、大人になってから改めてネットで目にした船引町の小一女児行方不明事件についての記事では、失踪当時、女児の父親が経営する建設会社の従業員で、しかも女児宅に住み込みで働いていた、これも当時二十歳の男性K(恐らくは姓名のイニシャルだろう)氏に疑惑を向けたものが多い。


 この男性は単に住み込みの従業員であるばかりでなく、やはり女児宅に同居していた女児の十七歳の従姉(女児父の姪)の恋人でもあったとのことだが、雇い主である女児の父親との関係は悪く、失踪当日は父親の言いつけで本来は恋人と二人で行くはずの旅行をキャンセルさせられ、従姉は旅行に出て、彼は女児宅に残された状況だったと言う。


 ちなみに記事では、女児の従姉は両親の離婚を機に非行に走り、暴走族の仲間に入って、そこで出来た恋人がK氏であり、従姉の口利きで建設会社に就職した経緯も伝えていた。


 しかし、就職後もシンナーを吸っているところを雇い主である女児の父親にたびたび見つかって叱責される等、K氏の生活態度は芳しいものではなく、それ故に関係は悪化していった(そもそも、周囲の了承を得てのこととはいえ、二十歳と十七歳のカップルが結婚もしていないのに他人の家に間借りして同棲している状況自体、福島の土地柄からすれば、風当たりが強かったと個人的には察せられる。恐らくは従姉にせよ、K氏にせよ、それぞれの自宅には帰りづらい事情があって、雇い主である父親の温情でそうした措置が取られたと思われるが、『暴走族上がりの不良カップルが親戚の家に上がり込んでいる』と周囲からは白眼視されていても不思議はない。田舎の人間関係はこうした点には非常にシビアです)。


 一九九九年の「音羽お受験殺人事件」などに見られるように、大人同士のトラブルから鬱積した怨恨が本来は罪のない幼い子供に向けられてしまう悲しい事件はしばしば起こるし、K氏が自分を冷遇する雇い主への怨恨を幼いその娘に向けたとしても有り得ない話ではない。


 結果から言うと、二週間の取調べを受けたK氏は証拠不十分で釈放され、女児の父親は経営していた建設会社を廃業した。


 その後、恐らくは恋人とも別れて自分の家に戻ったK氏の身辺を女児の父親は徹底して探ったものの、決定的な証拠は見つからず、女児の父親としてもK氏の姿を目にするのが苦痛になり、追求を諦めたと記事は伝えていた。


 記事を読む限り、私も確かにこのK氏の行動には疑念が拭えない。


 しかし、この男性は一貫して無実を主張しており、雇い主である父親との関係は悪かったとしても、幼い失踪女児やその友人たちとは夜遅くまでゲームをして遊ぶなど必ずしも険悪な関係ではなかったと思わせる面もある。


「元は暴走族をしていた」「シンナーを吸っていた」等、事件前の不良性を伝える情報はあるが、いずれも明らかに他人の心身を傷付けた前科といったものではなく、また、事件後に何らかの犯罪を働いたという情報は今のところ見当たらない。


 記事に出てきた情報の限りでは、このK氏がほんの数時間前まで無邪気な笑顔を自分に見せていたであろう幼い少女(まだ小学校に上がって三ヶ月しか経っていなかった)を暗い夜の外に連れ去り、無残に手に掛け、遺体を巧妙に隠蔽し、あまつさえ二週間の取調べにもしぶとく白を切り続けたために罰を免れたのだろうと断じるには、何かが一つ足りない感触を受ける。


 大体、前日に恋人との旅行を阻止されたのを恨んでの犯行という短絡的な動機にしては、気付かれないように連れ去る手口が犯行としてどうも周到過ぎる感触を受ける。


 また、仮にそのような獰悪な人物だったすれば、その後、二十年余りも目立った罪もなく大人しく過ごしてくれるものだろうかとも思う。


 一九六八年から一九七四年にかけて起きた首都圏女性連続殺人事件で、十件の強姦殺人の疑いを懸けられた小野悦男は無罪を勝ち取り、「冤罪のヒーロー」になったものの、この連続殺人事件以前にも放火・傷害・詐欺など前科数犯の履歴があった。


 彼は釈放後まもなく窃盗で逮捕されて再び塀の中の人になり、出所後に同居していた女性を殺害して無期懲役になった。


 法律上は過去の連続殺人について罪に問われることはもうないが、「凶悪な人間は結局、悪事を繰り返す」というのが小野悦男に対する大方の実感ではないだろうか。


 もし、現時点では目立った罪科のないK氏が、失踪事件に関しても主張通り無実だとすれば、罪に問われなかったとはいえ、半月近くも取り調べを受け、それまで一つ屋根の下で暮らしていた人たちからも白い目で見られ、今なおネットでみなし犯人扱いされている状況が痛ましく思える。


 実際、女児が失踪した夜には、女児宅の外に不審な白い乗用車が止まっていたのが目撃されたそうだが、捜査の結果、これは近辺の住民のものではないと判明した。


 なお、女児の失踪が判明した翌朝にはこの白い乗用車は消えていたという。


 ちなみに女児の失踪が判明した早朝に外出先から帰宅したK氏は「昨夜遅くにタクシーで郡山に行って、始発の列車で郡山から戻ってきた」と説明しており、夜遅くに郡山まで彼を乗せたタクシーの運転手も現れて証言している。


 捜査に使われた警察犬が玄関口で立ち止まったため、女児は車に乗せられて連れ去られたと推察されているが、それがこの白い乗用車だとすれば、誰が運転していたかはもちろん、事件前の車の調達から事件後の車の処理までの流れを考えても、K氏以外の第三者が失踪に関わっているとしか考えられない。


 むろん、K氏に共犯者がいて二人以上で協力して女児を連れ去った可能性も浮上するが、仮に当時二十歳だったこの元従業員に不良仲間がいたとしても、さすがにわずか七歳の少女を狙う残忍な犯行に協力する人間がそうそう出てくるとはどうしても思えない。


 もちろん、一九八九年に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件のように、不良少年グループが拉致した女性を集団で暴行し、殺害した後に死体遺棄する事件は現実に起きている。


 しかし、このコンクリート詰め殺人事件の記事を読む限り、少年たちは殺害から死体遺棄まで綿密に計画した上で被害者を誘拐したのではなく、当初は飽くまで暴行目的で拉致、監禁して衰弱死させたのであり、かつ被害者は少年たちと同世代の女子高生であった。


 殺害まで到らなくても、不良少年のグループが女性を襲うといった事件は聞かなくはないが、七歳の少女はそうした対象としてもどうにも幼過ぎる印象が拭えない。


 一方、小児性愛者が幼い少女を猥褻目的に連れ去る事件も多々あるが、こうしたケースのほとんどは単独犯である。


「婦女暴行」でしかも対象が「幼い少女」という要素が付け加わると、犯行としての卑劣さが増幅するので多数の人間が加担する可能性が低いとも言える。


 また、宮崎勤などを見ても分かるように幼い少女を性的対象として狙うような犯罪者は概して自閉的で社会性も低いので、そもそも共犯者を得るだけの関係性を他者との間に築けないからこそ、単独で幼女を狙うとも言えるだろう。


 猥褻目的ではなく複数の人間が幼い子供を誘拐する事件の場合は、身代金など営利を目的にしていることが多いが、この事件に関しては少女が姿を消しただけで、犯人から何らかの要求を伝える動きは一切ない。


 K氏には自分を冷遇する雇い主への報復という動機があったとしても、猥褻目的でもなければ営利目的でもなく、発覚すれば死刑になりかねない重罪に共犯者として手を貸し、その後も巧妙に痕跡を消す第三者とは、どのような人物なのだろうか。


 それこそ、生半可な暴走族のレベルではなく、厳然たる裏社会の人間といった人物像しか浮かばない。


 しかし、そういったいわば犯罪を生業にする人間ならば、尚更、社会的な利害の外にいる少女を狙う犯罪に加担するだろうか、といった疑問も浮かぶ。


 付記すると、私は高校時代にこの事件が起きた町から通う同級生と話したのだが、この一家を知る近辺の人々から事件が起きた当時、最も疑わしいと見られていたのは、住み込み従業員のK氏ではなく、また別の人物だったと聞いた。


 というより、その時は二週間も取り調べを受けたはずのK氏の存在など全く話題にも上せなかったので、それから十年以上経ってネットでこの事件に関する記事を読んだ時には酷く驚いた。


 むろん、この種の事件には色々と憶測が飛び交うものであり、流言飛語が広まった可能性も強いが、家内で静かに寝ていたはずの幼い少女が忽然と姿を消したこの事件には、地方の閉鎖的な気質や旧弊といったものが黒い影を落としているように思えてならない。


 この事件以外にも、福島県には未解決の失踪事件や怪死事件が複数件発生している。


 具体例としては、まず、一九九四年に起きた原町市女性失踪事件が挙げられる。


 結婚を三週間後に控えた当時二十一歳の女性が忽然と姿を消した事件だ。

 この事件もテレビで何度か取り上げられているのでご存知の方は多いと思う。


 ネットの事件関連の記事では、失踪した女性は行方をくらます前にどうやら婚約者の女性関係に纏わるトラブル、端的に言えば婚約者の元恋人からの嫌がらせと推察されるトラブルに悩まされていたらしい。


 失踪当日も職場に若い女性の声で失踪女性に対して電話が懸かってきて、女性本人が応対していたとの証言が出ている。


 もちろん、去年、札幌で婚約者と口論して部屋を出た女性が他殺体で発見された事件のように、当然ことながら当初は婚約者に嫌疑が懸かったものの、結果的には全くの第三者に襲われて殺害されたらしいと判明した事件もある。


 しかし、この失踪事件については、事前のトラブルについて明らかになっていることが多いにもかかわらず、婚約者やその元恋人の女性が具体的に取り調べを受けたといった情報は見当たらない。


 なお、失踪から数年後に中高年女性の声で失踪女性を名乗る電話が家族の住む家に掛かってきており、その音声記録もテレビの特集では公開された。


 単なるいたずらなのか、事件と何らか関わりのある人間の仕業なのかは不明とのことだが、この電話に出た際に「○○(失踪女性一家の姓)です」とのみ告げた失踪者の妹さんに対し、電話の主は「お姉ちゃんだよ」といきなり切り出していることからして、失踪女性一家の電話番号はもちろん、家族構成まで把握している人間である(失踪事件の概要だけを知っていたずら心を起こした人間が女性宅の電話番号を偶然知って掛けたとしても、電話口に出た若い女性が失踪者の『姉』なのか『妹』なのかすぐには判別できないはずなので、『お姉ちゃんだよ』という切り出しは不可能である)。


 ネット上の記事では、この電話の主は地元出身の五十歳以上の女性で公衆電話から掛けたものだと判明しているという。


 そこまで分かっているのならば、何故、この電話が単なるいたずらなのか事件に関係しているのかが明確になるまで追及されていないのだろうか。


 この点も非常に気に懸かる。


 この電話を掛けた人間は事前に失踪女性の家族構成まで把握しているばかりでなく、公衆電話から掛けている点にも明らかに足が着かないように工作した気配が見える。


 仮にこの電話が悪意ある第三者による失踪女性の家族を嘲弄するためのいたずらだとしても、何らか警察からの処罰や注意を受けるべき性質の行為であるはずだ(事件と直接関係がなくても、行方を案じる家族を弄ぶ行動に出られる、その心性に非常にグロテスクなものを覚える。幽霊より、やはり生きた人間の方が恐ろしい)。


 それが、何故、身元まで特定されていながら、動機が不問に付されているのだろうか。


 船引の女児失踪事件では住み込み従業員のK氏が二週間の取調べを受けて証拠不十分で釈放される過程を経ていたが、原町の女性失踪事件においては明らかに疑わしい複数の人物に対してそもそも取調べを行ったのかすら怪しいというか、警察側が敢えて掘り下げた捜査を避けたかのような不自然さが見える。


 次に、遺体が発見されている未解決事件としては、一九八九年の福島女性教員宅便槽内怪死事件が挙げられる。


 これは福島県田村郡都路村(現・田村市)で発生した事件だ。


 地元の小学校に勤める若い女性教員宅のトイレの便槽から、やはり地元に住み、この女性教員とは顔見知りでもある二十六歳の男性の遺体が発見され、検視の結果、凍死と判明した。


 警察は「死亡男性は覗き目的で便槽内に侵入したものの便槽の狭さで出られなくなって凍死した」と判断し、飽くまで「事故」として処理した。


 ちなみに靴の一足は遺体の頭の上に置かれ、もう一足は付近の土手で発見されるという不可解な状況であり、しかも、この死亡男性の車は女性教員宅近くの駐車場に鍵を付けた状態で発見される不審点もあった。


 更には、男性の足取りが途絶えてから遺体の死亡推定時刻までには実に二日間の空白がある。


 何より、当の便槽の大きさと死亡男性の体格からすると、入り込むのは実質的に不可能だという結果が後日の再現実験で明らかになっており、そもそも、捜査においても遺体を引き出すには便槽があまりにも狭過ぎたために壊さざるを得なかったという過程を経ている。


 死亡男性は生前、好青年で周囲の信頼も厚かったため、真相解明を求める署名活動が起こり、一ヶ月余りで集まった四千人程の署名が、三春警察署に提出されている。


 しかし、警察は飽くまで事件性がないとして取り合わず、再捜査が行われることはなかった。


 死亡時の状況が明らかに不自然であり、また、再捜査を求める多数の署名が提出されているにも関わらず、飽くまで「事故」、しかも「覗き目的で女性の家の便槽に侵入した」という故人を貶める意図の明らかな見解を通そうとしているところに、警察の怠慢というより、腐敗めいたものが匂ってくる。


 このように福島県の未解決事件は、いずれも、「明らかに怪しい人物がいるのに何故か逮捕・追及はなされなかった」「いかにも不自然な理由付けで『事故』として処理された」といった、単純な捜査不足というよりも、捜査する側も含めた地方社会の隠蔽体質や悪弊を連想させる顛末になっている。


 個人的に、船引町の女児失踪事件については、「失踪した女児が子供のいない夫婦に引き取られて育つ等して、どこかで別人として生きているかもしれない」といった希望的な観測がなくもない。


 生きていれば、失踪当時の年齢の子供がいてもおかしくない年配だ。


 恐らくは縁日に撮ったであろう紺色の浴衣姿のまま、会ったこともない多くの人間に記憶されている女の子の行方は、いつか明らかにされる日が来るのだろうか。


 話は変わって、ネットを検索するうちに、韓国にもやはり未解決の三大事件があることを知った。


 まず、一九八六年から一九九一年にかけて華城市近辺で起きた、十件の連続強姦殺人事件である「華城連続殺人事件」。


 次に、一九九一年、ソウルで九歳の少年が誘拐され、両親の下に犯人から複数回に及ぶ脅迫の電話やメモが送り付けられたにも関わらず取り逃がした挙句、少年は惨殺体で発見された「イ・ヒョンホ君誘拐殺人事件」。


 そして、これも一九九一年、「カエルを取りにいく」(実際は『カエル』ではなく漢方薬の原料としてお小遣い稼ぎに使える『サンショウウオの卵』だったらしいが)と言い残して近くの山に遊びに行った五人の男子小学生がそのまま行方不明になり、十年以上経った二〇〇二年に白骨化した他殺体で発見された「カエル少年失踪殺人事件」。


 いずれの事件も犯人逮捕に到らないまま、全事件とも二〇〇六年で公訴時効が成立した。


 なお、この三つの事件はいずれも韓国では映画化されており、事件に対する社会的な注目度の高さを窺わせるが、全事件とも一九九一年前後に発生しており(だからこそ十五年後の二〇〇六年に全事件が時効を迎えた)、かつ女性や幼い少年といった弱者を狙った犯罪である点が個人的に気に懸かった。


 特に、「カエル少年失踪殺人事件」の捜索に使われた写真に映っている五人の少年たちの幼い面影は、生前の彼らとは全く無関係の私が見てすら、胸を痛ませるものであった。


 前掲の船引町の失踪女児もそうだが、誘拐されて殺害されたイ・ヒョンホ君にせよ、この失踪殺人事件の五人の少年たちにせよ、事件発生時の年齢から逆算すると、同世代だ。


 生きていれば今頃は自分と同じように成人し、社会に出て、結婚し、子供も持ったかもしれない彼らの事件に関する記事を読むと、物悲しさがいっそう増すのと同時に、「一つ状況が違えば、自分も彼らのようになったのだろうか」とその意味でも空恐ろしい感触を受ける。


 恐らくは通っていた小学校の記念アルバム辺りから切り出したであろう水色の背景に行儀良く収まっている「カエル少年」五人の表情や身なりを見る限り、「ごく普通の良い子たちだったんだろう」としか思えないし、犯人側に何らかの怨恨があっての事件だったとしても、この少年たちに本当の意味での責任があったとは思えない。


「少年たちの頭部にはいずれも鈍器で強く殴られた形跡がある」「一人の少年の遺体には犯人の攻撃から身を守ろうとして手に骨折した跡があった」といった趣旨の記事を読むと、大人になれずに命を絶たれた五人の少年たちの最後に目にした風景がどれだけ絶望的で凄惨なものであったのか、察するに余りがある。


 他の二つは確かに恐ろしい事件ではあるものの、いずれも異常な一個人による単独の犯行だろうと察せられる。


 しかし、この事件はむしろ殺人に関して素人の単独犯では難しいのではないかと、これも推理の素人の私にも思われる。


 単独犯と仮定すると、

「山遊びするほど元気な少年が五人もいれば、一人くらいは逃げ切れるのではないか」

「五人全員を完全に殺すまでに、それぞれの被害者の悲鳴や助けを求める声などを第三者に聞きつけられたりして足がつきやすくなるのではないか」

「山中で出会った少年たちを恐らくは偶発的に殺害したと思われる犯人が、五人の遺体を十年余りも発見されないほど巧緻に隠蔽するのはかなり困難なのではないか」等、次々に疑問が浮かんでくる。


 例えば、日本でほぼ同時期に複数の子供を殺害した宮崎勤のような、計画性を持って誘拐殺人を連続して働いた犯人でも、ターゲットは一度の犯行につき飽くまで一人であり、山中に遺棄した被害者の遺体も程なくして発見されている。


 更に言えば、宮崎勤の被害者がいずれも学童に達するや否やの幼女であったのに対し、「カエル少年失踪殺人事件」の少年たちは小学校の中高学年(最年長は十三歳なので日本なら中学生)に該当する男児である。


 殺害はもちろん、五人全員の遺体を土中に埋める作業にしても、一人ですぐに出来るものだろうか。


 五人の少年たちの殺害から死体遺棄までに複数の人間が関わっていると見る方が自然に思える。


 ネット上の情報を見る限り、遺体が発見された山の付近には軍の射撃場があり、「誤って射撃場の敷地内に入ってしまった少年たちの一人が流れ弾に当たって死に、一緒にいた他の少年たちも口封じに殺されたのではないか」といった憶測が根強く流れているようだ。


 ただし、「少年たちの失踪当日は祝日だったので射撃の演習は行われていなかった」と公式には発表されているという。


 演習の有無はさておき、軍関係の施設に部外者の子供が「誤って入る」状況が成立し得る環境だったのであれば、それこそが大問題だと思う。


「当日は演習が行われていなかった(から、少年たちが流れ弾で死ぬ事態は有り得ない)」という発表は、裏を返せば、「演習の行われている状況ならば、施設内に誤って入ってきた少年たちが流れ弾で死ぬ可能性もある」という意味に取れるし、そもそも「軍の施設に部外者が誤って入ることはセキュリティ上、有り得ない」と断言できていない点にこそ、当時のこの射撃場の杜撰な管理体制が見える気がする。


 大体、何も知らない子供たちが誤って入ることが現実として起こり得るならば、悪意ある人間が侵入して弾丸や銃器等の凶器を盗み出すことも可能であるはずだ。


 少し話が飛躍するようだが、安全面を無視した建設の結果、ソウルの一等地にあった三豊デパートが五百人余りの死者を出す崩落事故を起こしたのがこの四年後の一九九五年、規定の三倍以上の貨物を積載した結果、三百人近くの死者を出したセウォル号の沈没事故が発生したのは昨二〇一四年だ。


 韓国の社会体制として、安全管理に対する認識が従来から弱い印象は否定できない。


 話を事件に戻すと、この種の事件には、信憑性はさておき「犯人と思しき不審な人物を目撃した」という証言が少なからず出てくるのが普通なのだが、この事件では失踪前の少年たちを目撃した証言は複数出ており、しかも少年たちの差し迫った悲鳴を聞いた証言まで出たにも関わらず、そうした不審人物の目撃証言は何故か一つも出てこない。


 見方を変えると、犯人は目撃者にそうした不審を抱かせないような扮装の人物だったとも考えられる。


 また、遺体が発見された当初、警察が「少年たちは山中で遭難し、低体温症で亡くなった」とことさら事件性を否定するような発表をして捜査を打ち切ろうとしていた点など、むしろ「犯人や少年たちが殺され死体を遺棄されるまでの全容が明らかになっては困る事情が警察側にあるのではないか」と思ってしまうような不自然さが感じられる。


 付記すると、少年たちが失踪し、遺体が発見された臥竜山はわずか標高三百メートルで、日本の高尾山のほぼ半分。当日、同じ山にいた別の少年グループは無事に下山し、帰宅している。


 私の福島の実家の近くには標高二百七十五メートルの信夫山しのぶやまがあり、山としての規模は恐らく臥竜山と大きくは変わらないと思われる。


 そこからすると、小学校の高学年や中学生にもなる年配の男の子たちが遭難して死ぬシチュエーションはどうにも有り得ない感触を受ける。


 標高三百メートルという規模ならば、仮に少年たちが道に迷って立ち往生していても、山に探しに来た大人たちにすぐ発見されて保護される可能性の方が、何度捜索しても見落とされる可能性より圧倒的に高い。


 少年たちが失踪したのは三月も末で、事件の起きた大邱テグの三月の平均最低気温を見ると二・八度、山の上では少し下がると仮定しても、健康体の五人の少年たちが全員、低体温症や衰弱で自然死を遂げるまでには数日を要するであろうことは明らかだ。


 警察は何故、遺体が発見された当時、このような不自然な見解を通そうとしたのだろうか。


 そもそも、この事件は、少年たちの失踪直後から、警察や軍を動員して大規模な捜索活動が行われたようなのだが、解決を妨げた本当の要因がむしろ警察や軍といった捜査する側にあったのではないかと思わせてしまう点でも、背筋の寒くなる事件である。


 二〇〇三年の韓国映画「殺人の追憶」のモデルともなった、「華城連続殺人事件」の犯人のモンタージュは、日本の一般的なそれのように鉛筆書き(または鉛筆書き風)で写実性や肉感を持たせたものではなく、ペン書きのようなタッチで平面的に描かれている。


 どこか土俗信仰のお面や人形を思わせる風貌であり、その乾いた、無機的で感情を持たない雰囲気が、ゾッとさせられるのだ。


 うら若い女性を次々襲って手に掛けるという、明らかに猟奇的な欲望に基づいた犯罪でありながら、この犯人のモンタージュには、初めから終わりまで眉一つ動かさずに犯行を成し遂げて立ち去っていくような不気味さが感じられる。


 韓国人男性にしてはエラや頬骨の目立たない、女性的な輪郭だという印象を一見して受けるが、トータルするとそこまで特徴的な風貌ではないので、群集に紛れてしまったのだろうと思わせる点も、状況を想像すると怖気がする。


 この連続殺人犯の風貌と罪状から、私はイギリス人女性を暴行・殺害して逃走した市橋達也を連想した。


 あるいはこの犯人も罪を犯した華城の街から逃亡し、流浪したのかもしれない。


 罪もない女性を十人も手に掛けた罪状からすれば(暴行に関して言えば被害者はそれ以上いる)、彼は逮捕されれば間違いなく死刑になるのだから。


 犯行のあった一九八六年の時点での「二十五歳から二十七歳くらいの男」という目撃情報からすれば、連続殺人犯は三十年近く経った現在では五十歳にはなっているはずだ。


 むろん、もう彼自身が存命でない可能性もある。


 五年弱の間に老女から少女まで含む十人もの女性が次々殺害されたという犯人の異常な欲望の強さや実行力からすれば、一九九一年四月の犯行を最後に連続殺人が止まった事実は、犯人の生き延びての潜伏よりも、その後の遠からぬ死を意味しているようにも思えてくる。


 この「華城連続殺人事件」においては複数の男性が被疑者として拘束されたが、この内、十六歳の少年を含む二人が過酷な取調べに追い詰められて自殺を遂げており、しかも、その後、真犯人による新たな強姦殺人事件が発生することで、自殺した彼らの無実が証明されるという皮肉な展開を見せた。


 濡れ衣を着せられて死に追い込まれた二人の男性たちもまた、この連続殺人犯による犠牲者と言えよう。


 一九九一年四月の最後の犯行の後、程なくして、この連続殺人犯は、自分の犠牲になった人々の怨霊に連れ去られるようにしてあの世に旅立ったのかもしれない。


 犯人が存命だとしても、せめて、自分のせいで非業の死を遂げた人々に対する呵責の念を抱きながら静かに暮らしていて欲しいと思う。


「イ・ヒョンホ君誘拐殺人事件」の犯人にしても、銀行から身代金の引き出しに失敗して行方をくらましてからの消息は知れないが、九歳の少年を誘拐し惨殺してまで得ようとした金を結局、放棄したこの犯人が、その後、安穏と社会で生き延びていけたようには思えない。


「幼い男児の誘拐殺人」「身代金の要求」といった点から、一九六三年に日本で起きた「吉展ちゃん誘拐殺人事件」が連想されるが、東京の裕福な家庭に生まれ育った幼い少年を手に掛けた当時三十歳の小原保は、福島県(先述の船引の女児失踪といい、どうも禍々しい事件に関わっている出身者が少なくないようで……)の貧農の生まれで、片足に障害を持つ不遇な人物であった。


 韓国では高級住宅街の代名詞的な位置づけにあるソウル江南区に住んでいたイ・ヒョンホ君を無残に殺害し、執拗にその両親に脅迫の電話を掛け続けた犯人も、あるいは都会の富裕層に怨念じみた感情を抱く、当時の韓国社会における不遇な人物だったのだろうか。


 小原保は逮捕されて死刑になったが、韓国のこの誘拐殺人犯は公権力に拘束されなかった代わりに、社会の底辺で孤独に死んでいったのかもしれない。


 韓国の三大事件が一九九一年前後に発生していると前述したが、一九九一年当時の韓国は盧泰愚ノ・テウ政権であり(ちなみに日本では海部俊樹、宮沢喜一による自民党政権)、「カエル少年失踪殺人事件」が起きた大邱テグは彼の出身地でもある。


 一九八八年、盧泰愚政権下の韓国で開催されたソウル五輪は、韓国が先進国の仲間入りをした事実を国際的に知らしめる華やかなイベントであった。


 しかし、この平和の祭典は当初は共催を要求していた北朝鮮(当時の指導者は初代の金日成)との交渉が決裂し、北側の実質的なボイコットの上での単独開催であった。


 開催前年の一九八七年に起きた金賢姫キム・ヒョンヒら北朝鮮の工作員による大韓航空機爆破事件は、五輪への妨害を意図したものだったと言われている。


 一九八八年の五輪開催地として決定したのは一九八一年に遡るが、そもそも開催候補地として有力視されていたのは日本の名古屋だった。


 開催が決定した一九八一年当時の韓国は全斗煥チョン・ドファン政権で、これはれっきとして軍事政権であり、しかもその二年前の一九七九年に起きた朴正煕パク・ジョンヒ大統領の暗殺事件を経ての体制であった。


 国際的な認識としても日本に比して韓国の不安定な政情は明らかであり、しかも、前々から候補地として名乗りを上げ具体的な準備を進めていた名古屋に対し、ソウルは立候補締切日でのエントリーであった。


 誰の目にも、名古屋が確実とまでは行かなくても、ソウルが圧倒的に不利な状況だった。


 それが既に東京、札幌で五輪が開催されていた日本の名古屋に対し、「冷戦で分断された朝鮮半島での初の五輪」をアピールした韓国のソウルに決選投票で敗れた。


 五輪開催地としてサマランチ会長(当時)が「Seoul《ソウル》」と読み上げた際、記者会見の会場が静まり返ったと言われている。


 それほどまでに、ソウルの五輪開催地決定は大方の予想に反するものだったのであり、裏を返せば、名古屋と比べて準備不足や悪条件はあっても「分断された南北朝鮮が協力しての五輪共催」の青写真に圧倒的な魅力があったのだとも言える。


 だが、結果的には南北の度し難い分断を浮き彫りにさせ、対立を助長する形での単独開催を迎えたのであり、開催中も不公正な審判に対し参加国からのクレームが相次ぎ、判定を巡って乱闘事件が起こるなど、ソウル五輪は正に薄氷の上に成り立つ平和の祭典であった。


 審判の公平性を巡る疑惑といったものは、こうしたスポーツイベントには付き物だが、韓国人選手に負けの判定を下した外国人審判に対し、韓国側のコーチたちが次々乗りこんで殴りかかる光景などは、率直に言って、開催国としての民度の低さを内外に印象付けるものであった。


 それはそれとして、未解決の三大事件の起きた一九九一年は、韓国と北朝鮮がそれぞれ国連に同時加盟し、南北基本合意書を締結した年でもあったが、韓国の人々の中では、爆破テロによるショックや精神的な傷が癒えるには程遠かったはずである。


 むろん、時代、環境を問わず異常者は一定の確率で生まれるものであり、平均して豊かで平和な社会であっても殺人事件が全くなくなることは有り得ないだろう。


 だが、同じ一九九一年という年に凶悪性の濃厚な未解決事件が集中して発生している状況からは、当時の韓国社会に蔓延していた荒廃や不安といったものを感じずにいられない。


 いずれの事件も警察や軍など大量の人員を動員して大掛かりな捜査を行ったとの記述が見えるが、「華城連続殺人事件」や「イ・ヒョンホ君誘拐殺人事件」は犯人側も少なからず証拠や痕跡といったものを残しているにも関わらず取り逃がしている点に捜査体制の未熟さが浮かび上がる。


 特に「華城連続殺人事件」は捜査側が被疑者を拘束しては誤認逮捕と判明する失態を繰り返しており、しかもそうした被疑者の内の二人を自殺に追い込むという、いわば二次被害とでも言うべき事態を引き起こしている。


 生きて釈放された被疑者についても「事件についての自供をしていたが曖昧な点があり、その間に真犯人による新たな事件が発生したので誤認逮捕と分かり釈放」といった記述が目立つことからして、恐らくは当時の取り調べが被疑者に犯人としての自白を強要する、脅迫的かつ暴力的なものであった状況が推察される。


 裏を返せば、一度捕まってしまえば、無理にでも犯人にさせられるといった、冤罪への危険性が非情に高い体制だったとも言え、被疑者の自殺もそうした状況から生じた悲観に端を発していると思われる。


 日本でも脅迫的な取調べによる冤罪の可能性が指摘された事件は何件か起きているが、「華城連続殺人事件」に関しては同一事件の捜査において冤罪被害を続出させた例であり、一九九〇年代にも入った法治国家の警察としては慎重さに欠けるばかりでなく、人道意識が低い印象は免れない。


 五年にも及ぶ連続殺人を止められず、真犯人を取り逃がしたのは、こうした警察の行動に滲む組織の粗雑さも一因であるように思う。


「カエル少年失踪殺人事件」の記事によると、失踪から五年後の一九九六年、犯罪心理学者を自称する人物が「失踪少年の一人の父親が少年たちを殺害し、家の下に遺体を隠している」と主張し、その少年宅の各所を掘り返す騒動があったという。


 もちろん、遺体は見つからず、この自称犯罪心理学者は勤務していた大学を懲戒解雇、学会からも除名処分を受けたとのことだが、あらぬ疑いを懸けられた少年の父親はその後、酒びたりになり、息子たちの遺体が発見される前年の二〇〇一年に病死したという。


 この父親の死も二次被害と言えるだろうが、この自称犯罪心理学者が名指しで犯人を断定する憶測を公に口にするのはもちろん、個人宅を掘り返すという現実的な破壊行動に出ている点、一九九〇年代も後半を迎えた当時の韓国社会がそうした暴挙を現実として成立させてしまっている点に驚きを禁じ得ない。


「これって、まずそんな主張を公然とした時点で、少年の親から名誉毀損で訴えられるんじゃないかな? そうじゃなくても周囲から非難を浴びるんじゃないの?」

「勝手に掘り返す前に家宅侵入や器物損壊で心理学者本人が逮捕されて終わりじゃないの? それこそ、警察は何をしているの?」


 日本人の私としてはどうにも首を傾げてしまう。


 日本でも子供が失踪する事件では家族に疑いの目が向けられ、あらぬ誹謗中傷に晒されることは少なくないそうだが、この韓国の自称心理学者の行動からはそれ以上に、

「罪を犯したと思われる人間に対しては、手荒な形で暴き立てても構わない。むしろ、悪人なのだから、そのくらいしても許される」

という一種、酷薄なまでの制裁感情が見える。


「華城連続殺人事件」における被疑者の相次ぐ自殺も、取り調べる警察側にそうした制裁感情が根を張っており暴走したからこその悲劇ではないだろうか。


 未解決事件の本当の怖さは、真犯人が行方をくらましたその手口の巧妙さにあるのではなく、彼らが紛れ込んでしまうだけの闇が事件の起きた社会の側に存在していることにこそあるのかもしれない。

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