ドラえもんとヒョンヒョロ――二十一世紀の藤子・F・不二雄作品

 九月三日は、ドラえもんの誕生日だ。

 ロボットなので正確には「誕生日」ではなく「製造日」とでもすべきかもしれない。


 しかし、おとぎ話の蝙蝠こうもりが「とり」でも「けもの」でもなく、最後は単独の「蝙蝠」そのものに分類される存在になってしまったように、日本人の中でネコ型ロボットのドラえもんも「猫」でも「ロボット」でもなく「ドラえもん」という独立した生き物としての地位を得ているように思う。


 二十二世紀から現代にやって来た、どら焼きが好物で、ネズミ恐怖症、四次元ポケットから次々便利な道具を出してくれる「ドラえもん」は、作者の藤子・F・不二雄が亡くなった後もアニメとしては続いている。


 作者の死後もずっとアニメのシリーズが続いている点では「サザエさん」も一緒だが、「サザエさん」に登場する家族像は、私の子供時代ですら既に「古き良き過去」のイメージで捉えられてた。


 これに対し、「ドラえもん」で描かれるのび太たちの日常は、アニメの放送開始当時から現在に至っても、基本的にリアルタイムと直結したイメージで受容され続けているように思う。


 同じ小学五年生で「出来の良くない息子」という設定であっても、いがぐり頭に制帽を被り、両親や一回り以上も年の離れた姉を「父さん」「母さん」「姉さん」と呼ぶカツオは目上の相手へのちゃっかりした面も含めて戦前の大家族の少年のイメージだ。


 しかし、短髪に眼鏡を掛け、両親に「パパ」「ママ」とどこか甘えを滲ませた呼び方を使うのび太からはその駄目さ加減も含めていかにも現代的な核家族の子供といった印象を受ける。


 昭和三十年代が舞台の「三丁目の夕日」シリーズで、主人公格の少年一平は町工場を兼ねた住宅に核家族で暮らしつつ、両親を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼んでいる。


 これは舞台となる東京の下町の庶民的な気風ばかりでなく、焼け跡から再び立ち上がる時代の子供の野卑さを含めた逞しさを感じさせる。


 漫画としての「ドラえもん」の連載が開始されたのは一九七〇年、昭和四五年のことだ。

 終戦から四半世紀を経たこの年には「こんにちは/こんにちは」の歌いだしが印象的なテーマソングの大阪万博が開催され、日本が自信と豊かさを取り戻しつつあった時代だった。


 そんな時代に未来の国から「こんにちは」と現れたのがネコ型ロボットのドラえもんだったのである。


 のび太を始めとする、この未来からの使者を迎え入れた人々の在り方は、その時代から現在まで大きく変わってはいないということだろう。


 強いて言えば、小学生のジャイアンを母親が「店番もしないで」と叱りつけて家に連れ戻す描写(そもそも他の子供たちが両親を『パパ』『ママ』と呼び、純粋に一戸建ての家に住んでいるのに対し、このキャラクターだけが家業の商店を兼ねた家に住み、働き手としての役割を負わされる一方で、両親を『父ちゃん』『母ちゃん』と呼ぶ、一時代前の少年に相応しい形象を持たされている)。


 次に、「子供のいない伯父夫婦の住むアメリカに養子に行った」スネ夫の実弟スネツグがゲストで登場する回の設定。


 これらには、私の子供時代の常識や感覚に照らし合わせても少し違和感があったが、この辺りは現行の設定ではどうなっているのだろうか。


 それはそれとして、時代はまだドラえもんが日常的に製造販売される二十二世紀には達していないけれど、連載が開始された一九七〇年の時点では少し先の未来だったはずの二十一世紀にとうに入っている。


 アニメを見始めた頃はのび太くんよりずっと幼かった私も、小学館の学年誌に掲載されていた漫画を並行して読む内に彼の年に追いついて年上になり、いつの間にかアニメとも漫画とも疎遠になっていた。


 それでも、アニメのドラえもんの声の担当者が変わってしまうニュースを耳にした時には何とも言えない寂寥感に囚われた。


 今でもコミックを読み直して、ドラえもんの吹き出しを読む時に頭の中で響くのは、私が日常的に視聴していた時にこのキャラクターを担当していた、大山のぶ代さんの、ドラ猫にもおばあさんにも聞こえる声だ。


「さん」と敬称を付けて書いたが、私はこの文章を書くに当たって、一度も会ったことがないにも関わらず、この人の名を呼び捨てにして記すのに何故か抵抗を覚える自分に気付いた。


 子供の頃、隣近所に住んでいて挨拶を交わしたおじさん、おばさんといった関係性の相手を呼び捨てにしたような、何か、自分の見知ったその人の表情を消し取ったような、寒々しい感触が起きてしまう。


 それだけ、この人の声、ひいては「ドラえもん」というキャラクターは、私の深層に根付いているのだろうと改めて感じた。


 話は変わって、あどけない子供の仲間でもありながら、老獪な大人の顔を覗かせなくもないネコ型ロボットは、批判的な視点を持つ時期に達した視聴者からは、のび太の甘えや自堕落さをむしろ助長させる存在とも捉えられるようになる。


「大人になってもドラえもんに依存し続けるのび太」という実写の車のコマーシャルシリーズは、いつの間にかのび太の年を追い越して大人になった世代の視点を代弁していると言えよう。


 だが、ドラえもんのポケットから出てくる道具には、仕掛けがあると分かっていてもそういうものとして楽しみたくなる手品のような魅惑が感じられることは確かだ。


 また、ドラえもんの「四次元ポケット」には、次々と奇想天外の道具を飛び出すのはもちろんだが、それ自体の全容が計り知れないところに、魅力というか恐ろしさが潜んでいるように思える。


 ポケットの向こうに広がっている「四次元」とは、一体どのような世界なのだろうか。


「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄には、「ヒョンヒョロ」という短編がある。


「ドラえもん」の連載が開始された翌年の一九七一年に発表されたこの作品には、ドラえもんをネコ型からウサギ型にリニューアルしたような外見の異星人が登場する。


 ネコ型ロボットでありながら耳を持たない姿で机の引き出しから登場するドラえもんに対し、この異星人は「ニュウ」という擬態音と共に壁をすり抜け、長い耳から姿を現す。

 

 明らかに意図的な対照だろう。


 このウサギ型異星人の容姿をもう少し仔細に見ると、ドラえもんと違って、左右の黒目が上下互い違いになっている。


 また、濃く長い上睫が描かれている。


 故に、ピエロのおどけた表情を模しつつ、焦点の定まらない目つきに、地球人の常識が通用しない不気味さや狂気も漂わせた風貌になっている。


 鈴の付いた首輪を境にして丸い胴体に丸い頭を重ねた雪だるま風のドラえもんの体型に対して、この異星人はハンプティ・ダンプティ的に頭と胴の繋がった卵型の体をしており、どうやらボタン付のスーツ姿にネクタイを着けているようである。


 家庭用のロボットとして首輪を着けた飼い猫のスタイルをなぞったドラえもんに対し、この異星人は人間に対等な交渉を求める立場にいることを象徴した扮装である。


 ドラえもんとの差異をもう少し述べると、ネコ型でありながら歯を一切見せないドラえもんに対し、この異星人はいかにも齧歯げっし類的な二本の尖った前歯をデフォルトで覗かせているのが大きな特徴である。


 この「ヒョンヒョロ」発表の三、四年前には実写の特撮ドラマ「快獣ブースカ」がヒットしたが、これは二本の尖った前歯を持つ愛らしい怪獣(劇中では『快獣』)を主人公にしている。


「ヒョンヒョロ」の異星人の風貌はこのブースカも意識したものと思われる。


 そもそも、「ヒョンヒョロ」といういかにも幼児語的な響きを持つカタカナ書きの固有名詞からして、「ブースカ」を連想させるものだ。


 劇中でも「あなたが怪獣映画ばかり見せるから、子供がおかしな妄想をするようになった」という趣旨の発言で妻が夫を詰る描写が出てくるが、この「怪獣映画」とは恐らく当時大ヒットした「快獣ブースカ」シリーズを示唆していると思われる。


 物語を結末まで読むと、この異星人が地球人に「きばを向く」存在だったと知れるので、その意味でも、この二本の尖った前歯は象徴的である。


 それはさておき、「ヒョンヒョロ」とは正確にはこの異星人の要求する「宇宙最高最大ノ価値アル」ビー玉大の星(なのか本当のところは不明)であり、この異星人自身の名は最後まで明らかにされない。


 異界からの来訪者が徹頭徹尾、名乗らないコンセプトが、短編「ヒョンヒョロ」と、日常世界に現れる異邦人(正確には『人』ではないが)の名をそのままタイトルにした「ドラえもん」との決定的な相違である。


 さらに言えば、「のび太の子孫のセワシ(『世話し』てくれる子孫とのネーミングか)の命を受けて二十二世紀からやって来た」と明確に来歴を語るドラえもんに対し、この異星人は要所要所で自分のいた星の習慣や特性を断片的に匂わすだけで、包括的な説明や紹介をすることはない。


「手紙ヨンダデスカ?」「地球人ノ生活キョウミアルデス。」「ドシタラワカルノ。」といったカタカナ書きでぎこちない言い回しの台詞、交渉相手の幼児「マーちゃん」に向けて書いた手紙のいかにも幼稚な筆跡等から、地球の日本語がこの異星人にとっては母語でないことは何となく察せられるが、要所要所の台詞から以下のことが分かる。


 ・この異星人の母星の生物は全て分裂繁殖である(つまり、母星では、全く同じ姿をしたウサギ型生物がウヨウヨいる可能性が極めて高い)。


 ・この異星人の母星の感覚では、自分の書いた手紙を読み上げるのは恥ずかしい行為である(地球人には理解しがたい、自分の母星固有の感覚だという自覚はある模様)。


 ・この異星人の母星の食習慣は地球とは異なる(焼き魚や野菜を食べるマーちゃん一家を見て、『葉ッパヤ魚ノ死体ヲクウデスカ?』と話しており、敢えて『死体』と強調していることからすると、この異星人の母星では生きたまま食べるのがデフォルトなのかもしれない)


 ・この異星人にとって、「誘拐」とは「対象を丸ごと隣の世界に移動させる」ことである。というより、「誘拐」という言葉をそうした行為と誤解している(『ヒョンヒョロヲ手ニイレタラカエシマスデス』と語っていることから、隣の世界への移動それ自体は対象を損壊する現象ではないと思われる)。


 ・この異星人の属している次元は、三次元ではない(警官の発砲した銃弾はこの星人の体をすり抜けるし、またこの異星人自身も壁をすり抜けて姿を現す)。


 ・この異星人の母星の感覚では、約束の時刻ちょうどに行動するのが全うである(約束の五分前に荷物を引き渡そうとしたマーちゃんの父親に対して、『ルーズ』と評している)。


 最も不可解なのがこの異星人の属している「次元」であり、「誘拐」された対象が移動する「トナリノ世界」だが、あるいはこれこそがドラえもんのポケットが通じている四次元の世界ではないかと思わせる。


 四次元に通じるポケットを道具として持ってはいても、ドラえもん本体はのび太たちと同じ三次元に属しており、「タケコプター」、「どこでもドア」といった道具がなければ空も飛べず空間の移動も出来ない。


 だが、「ヒョンヒョロ」のこの異星人はそもそも自身が異次元の住人であり、正に神出鬼没である。


 これに対し、異邦人を迎える人々の側は、意思疎通を図る方面で退化した造型が目立つ。


 劣等生とはいえ、小学校高学年ののび太には読み書きなど基本的なリテラシーは備わっており、ドラえもんとも対等にコミュニケーションが取れる。


 一方、「ヒョンヒョロ」でこの異星人を迎え入れる少年「マーちゃん」は就学前の子供らしく、異星人の書いた手紙の文字を読むこともできない。


 また、「ドラえもん」では、のび太の両親を始めとする周囲の大人たちも、「未来から来たネコ型ロボット」という触れ込みを完全に信じるかは別として、ドラえもんを現実の存在として受け入れてコミュニケーションを取っている。


 のび太の母がドラえもんを「ドラちゃん」と呼び、のび太一家とドラえもんが同じ食卓を囲んで食事を取る描写は作中でしばしば出てくるが、これはドラえもんが家族の一員として溶け込んでいる状況をよく示している。


 これに対して、「ヒョンヒョロ」に登場する大人たちは、マーちゃん曰く「円盤にのったうさぎちゃん」が来訪した事実を皮切りに、あらゆる形でこの異星人を拒絶・否定しようとする。


 まず、マーちゃんの両親は、息子の語る「円盤にのったうさぎちゃん」の存在を端から夢見がちな幼児の妄想と決め付けて取り合わず、幼い息子の持参した異星人からの手紙もたちの悪いいたずらとしか解釈できない。


 冒頭の母親の台詞からすると、マーちゃんにはこれまでも「ミドリ色の狼」「空とぶ大男」といった怪物を目撃した、あるいは「お星さまひろった」等の突拍子のない「虚言」を繰り返したいわば「前科」がある模様だ。


 だが、物語の結末まで読むと、この異星人が訪れる前も、幼い少年の目撃した真実は両親によって「うそ」と決め付けられ見過ごされてきたと言える。


 しかし、今回ばかりは些か事情が異なり、ウサギ型の異星人はこの両親の前に直接姿を現す。


 にも関わらず、夫妻は目の前に突きつけられた真実をアルコールや疲労から来る幻覚と頑なに思い込もうとする。


 ちなみにこの両親は小太りで小柄な父親と長身でスレンダーな母親という、明らかに「ドラえもん」ののび太の両親をなぞった風貌を与えられている。


 野比家は父親のみ裸眼だが、「ヒョンヒョロ」のこの一家(劇中の描写では、幼い息子の愛称が『マーちゃん』と分かるだけで、両親の名前も一家の姓も不明)は、父親のみ眼鏡を掛けており、そこにも視覚的なコントラストばかりでなく、二つの主人公家族がネガポジの関係にあることを想起させる造型になっている。


 そして、「ドラえもん」の野比一家とドラえもんの四者が食卓を囲む日常シーンを作者がセルフパロディーする形で、マーちゃん一家の食事を異星人が傍観する場面が描かれるわけだが、この異星人をとにかく「無いもの」として扱おうとする両親の描写が秀逸である。


 異星人と会話する息子に「ひとりごといっちゃいけません」「しらないひとが聞いたら気ちがいかと思うよ」と制し、「ボクココニイテマスヨ」と告げる異星人を無視して、「課長」「山田さんのおくさん」といった、その場にいない自分の知人の噂話をしてやり過ごそうとする。


 異星人はもちろん、わが子や配偶者と目を合わせようともせず、食べながらそれぞれ一方的に話し続ける夫婦は、結局のところ、自分の「常識」に閉じこもる形で、他者と意思疎通を図る努力を端から放棄しているのである。


 これを受けた異星人も当初は言葉で自分の存在を知らせようとしていたのが、父親に向かってにらめっこのように舌を出して珍妙な表情を作る、母親の背後から目隠しするといった幼児的なアプローチに転じ、最後には料理の入った鍋に舌を入れてペチャペチャ音を立てながらなめるという文字通り動物的な行動に出る。


 ピエロの面影も持つウサギ型の異星人が、地球人が自分の外観から想起するイメージに合わせて言動を退行させているように見える一方で、「無視を決め込むと事態は悪い方にエスカレートする」というその後の展開を暗示する描写にも思える。


 その後、杓子定規な「犯罪の常識」に凝り固まった刑事(いかにも頑固そうな初老の風貌でありながら、舌足らずなために、丁寧語の『です』を『でしゅ』と幼児的な言い回しで発音するという、皮肉な造型を与えられている)に率いられた警察が絡むことで、事態はますます奇妙な様相を呈していく。


「ヒョンヒョロ」を執拗に要求する異星人と、「ヒョンヒョロ」が何なのかも分からないまま、そして分かろうともしないまま、ひたすらこの奇天烈な異星人に去ってもらいたい一心で行動する大人たち。


 この両者の摩擦は、土壇場になってようやく大人たちが「ヒョンヒョロとは何なのか」と根源的な疑問を口にした瞬間、破滅的な局面を迎える。


「ドラえもん」において奇妙な道具を次々出すネコ型ロボットを受け入れ、対等にコミュニケーションを取って共に暮らしていく人々は、少し大人になった読者からすると、危機意識や常識的な感覚に欠けているようにも見える。


「ヒョンヒョロ」に登場する大人たちの行動はむしろ大人の読者から十分共感されうる常識的な感覚や危機感に基づいているが、それゆえに最後は全員が非日常に転落してしまう。


「ドラえもん」の人々は「二十二世紀からやってきたネコ型ロボットとその道具」という「非常識」を日常の中に受け入れる柔軟さゆえに恩恵に与ってもいる。


「ヒョンヒョロ」の大人たちからは、それぞれの「常識」に自己完結して、「『ヒョンヒョロ』なる意味不明なものを欲しがるウサギ風異星人」という異分子をとにかく排除しようとする狭隘さが見える。


 そもそも、「どうしてあんな子になったのかしら。」という途中の母親の台詞に集約されるように、マーちゃんの両親は異星人以前に幼いわが子の思いすら理解できておらず、息子が「ヒョンヒョロ」を拾ったという劇中最大の真実を一貫して見過ごしている。


 この両親が息子の言葉に最初から耳を傾けていれば、異星人も友好的な「うさぎちゃん」のまま去っていってくれたかもしれないのである。


 一方、キリンやゾウの描かれた大きなベッドを備え、天井からは飛行機のプラモデルを吊るし、床には積み木やミニカーなど豊富なおもちゃの転がったマーちゃんの部屋。

 これは、幼い子の一人部屋にしては過剰に立派な印象を受けるし、そこに両親の裕福さや一人息子への溺愛が見て取れる。


「ドラえもん」ののび太は自室を与えられてはいるものの、就寝時は毎回押し入れから布団を出して引いており、ドラえもんは空いた押入れで寝るつましさである。


 しかし、こうした形での空間のやりくりが、二人の親密さを保障してもいるのだ。


 また、小学校の高学年にもなったスネ夫が親に買ってもらったラジコンやプラモデルをよく友達に見せびらかしている描写からも明らかなように、当時のプラモデルは高価なおもちゃである。


 その貴重なおもちゃを共有する、しないが、劇中の友人関係では重大なファクターになっている。


 スネ夫はしばしばジャイアンとはおもちゃを共有して、のび太は仲間外れにする行動に出るが、これはのび太へのいじめ、ジャイアンへの追従であると同時に、三人の中では腕力や体格の面で一番劣ったスネ夫の示威行動でもある(三人の少年の中でスネ夫は一番小柄に描かれているのみならず、漫画の中には激昂したのび太から思い切り殴打されて泣くエピソードも出てくるので、本来は一番腕力が弱い)。


 このように「ドラえもん」の人物たちは、物質的には少なからず不備・不満を抱えているものの、それ故に他者と交流して互いの関係性を深めている。


「ヒョンヒョロ」のマーちゃんは、前述したように字の読めない描写からどうやら就学前らしいとは分かるものの、幼稚園や保育園といった同世代の子供たちの集まる場所に通っている描写もなく、そもそも本編には同年輩の子供が全く出てこない。


 マーちゃんの自室の床に転がったたくさんのおもちゃは、物質的には充足しているものの、生きた遊び相手には恵まれず、一人遊びの世界に閉じこもっている主人公の少年の境遇を裏書きしてもいるのだろう。


「ヒョンヒョロ」には、「ドラえもん」同様、土管の置かれた空き地が冒頭に出てくるが、ここはマーちゃんがウサギ型宇宙人と出会って語らう場所としてのみ機能しており、他の人間の姿は影も形も見えない。


 この空き地で出会い、一緒に積み木遊びをしてテレビドラマを見てくれる異星人の「大うさぎちゃん」は、彼にとって唯一同じ目線で遊んでくれる相手だったわけだが、裏を返せば、この異星人は孤立した境遇の子供に忍び寄る悪魔だったとも言える。


 この異星人が、マーちゃんのベッドに描かれたキリンやゾウのように日本人にとっては明らかに異邦・異形の動物ではなく、因幡の白兎に始まって古来日本人に親しまれてきたウサギの姿を借りている点も重要だろう。


 最近は分からないが、少なくとも私が小学生だった一九九〇年代までは、公立小学校はどこも校庭に専用の小屋を備え付けてウサギを飼育していた。


 マーちゃんの部屋で共に積み木遊びに興じる異星人はその限りでは純粋に愛らしく親しみやすい表情で描かれており、「ウサギ型にアレンジされたドラえもんともう少し幼いのび太」といったイメージを意図的に出す一方で、「学校の飼育小屋で遊ぶ子供とウサギ」をファンタジー風に描き換えた感触も受ける。


 ただ、人とウサギの大小関係は逆転しており、また、二人が遊ぶのは飽くまでマーちゃんの部屋であることを考えると、この図には「専用の飼育小屋に入れられたウサギと戯れる主の子供」の立場を反転させた印象もあり、どこか恐ろしげな雰囲気も滲む。


 ちなみにマーちゃんの両親が自宅庭のテラスで語らう描写や枕元に絵を飾った大きなダブルベッドのある夫婦の寝室など、アメリカのホームドラマに出てくる家屋、家具を模した感触も受ける。


 アメリカ式の広い庭付きの邸宅は、作品発表当時はもちろん、今も日本人にある種の憧憬を呼び起こす一方で、一軒一軒の家が孤立に陥りやすいという面も秘めている。


 不審者に向かってとにかく発砲しまくる警官の描写もアメリカ的と言うか、ハリウッド映画的な誇張表現である。


「ドラえもん」に出てくる人々の暮らしと比較すると、「ヒョンヒョロ」は作品世界の「現実」そのものを当時の日本人の憧れだった欧米的なライフスタイルに置き換えることで、物質的な豊かさに反して空疎になった人間関係や内省を風刺した印象を受ける。


 物語の最後にはマーちゃん以外、人っ子一人いなくなった住宅街全体が俯瞰する形で描かれる。


 同じような一戸建ての家が延々立ち並ぶ光景は、そもそも、この地域に住んでいた人々はそれぞれの家に閉じこもって互いに没交渉でいたのではないか、その結果がこの無人の光景ではないのかと思わせる点で、絶望的な孤立感が浮き上がってくる。


「ドラえもん」のネコ型ロボットは落ちこぼれの少年に寄り添い、便利な道具で何くれと手助けしてくれる仲間であり続けるが、「ヒョンヒョロ」のウサギ型異星人はあどけない幼児にひたすら自分の欲しいものばかり要求した挙句、最後は孤絶の中に置き去りにしてしまう。


 自分たちの「常識」にことごとく見合わないウサギ型異星人を排斥しようとした大人たちは、最後はこの異星人の「常識」に背いたために、自分たちが別世界に連れ去られてしまった。


「非常識な! あまりにも非常識な!!」という台詞は、前代未聞の「誘拐予告」を受けた初老刑事、そして「ヒョンヒョロとは何か」と地球の大人たちに問われた異星人、それぞれの発言として劇中に二回出てくる。


 いずれも、自分の中で絶対だった「常識」を揺るがす事態に直面し、その狼狽を頭ごなしに相手を否定する形でしか捉えられない心情を吐露する発言である。


 発表から四十年余り経った今、アメリカ式の大きな一軒家ではなくマンションのような集合住宅が増えたという住宅事情こそ異なるものの、「ヒョンヒョロ」に描かれたようなコミュニケーション不全による人間関係のトラブルは現実のものになっていると思う。


 コミュニケーションが壊滅的に苦手だという意味で、「コミュニケーション障害者」略して「コミュ障」という言葉を近年ネット上でよく見かけるようになったが、これは人間関係の希薄化と表裏一体の関係にある。


「ドラえもん」は読み手が大人になっても視点を変えて楽しめる作品だが、「ヒョンヒョロ」はむしろ読者が大人の「常識」を身に着けてからの方がより怖さが浮き彫りになる作品だ。


 二十二世紀の事情は不明というか、未知だが、リアルタイムの感覚では、楽しい夏休みが終わり、始まったばかりの学校に子供たちが倦み始めるこの時期に「ドラえもん」は生まれた。


 一方、作者の藤子・F・不二雄が一九九六年の九月二十三日に亡くなってからは、もう二十年近く経つ。


 生前の彼は、二十二世紀はもちろん、二十一世紀の世界すら直には目にすることが無かった。


 だが、この人の残した作品群には現在になっても古びないというより、今、読み返した方がゾッとさせられる、予言じみた魅惑に満ちている。

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