羽衣の流れ着く先は

「この話のどこが面白いんだろう?」

 絵本の「羽衣天女」を読んだ子供の大半が、そんな感想を抱くのではないだろうか。


 地上の泉に降り立って水浴びを楽しんでいた美しい天女の姿を貧しい男が偶然見かけ、彼女の羽衣を自宅に隠す。

 羽衣が無ければ天上に帰ることの出来ない天女が立ち往生しているところに、この男は再び現れ、地上で自分の妻として暮らすよう強いる。

 しかし、しばらくすると、天女は男の家内から羽衣を見つけ、その身に纏って元の天界に帰っていく。男は引き止めるすべもなく、地上に取り残される。


 説明するまでもないかもしれないが、これが一般に普及している「羽衣天女」の粗筋だ。


 美しいお姫様が素敵な王子様と結婚してハッピーエンド、という西洋のおとぎ話の黄金パターンに慣れ親しんだ女児にとっては、気に食わない要素満載である。というより、好きな部分を見つけ出す方が難しい。


 貧しい男が天女の裸で水遊びする姿を透き見するそもそもの状況設定が、子供の目にも何となく猥褻(という言葉を当時は知らなかったけれど)な印象を受けたし、服を盗んで帰れなくするという行動もいかにも下劣であり、自分の妻になるように強要するくだりに至っては殆ど男主人公というより悪役である。


 その一方で、絵柄を見ると、この男はいかにも人の良さそうな若者として描かれており、飛び去る天女に向かって縋るように両手を広げて叫んでいる悲しげな末尾の姿を目にすると、読者として彼をどう捉えるべきなのかはたと迷いが生じてしまう。


 客観的には天女を陥れて自分の妻になるように強いたというれっきとした悪行を働いており、彼女に去られてしまうのは至極当然の結末である。


 だが、貧しいながらも夫として妻になった天女に酷い仕打ちを加えたといった描写は見当たらず、また、天女も元の世界に逃げ帰るだけでそれ以上の報復や制裁を与えようとはしていない点からすると、夫になってからの彼をさほど憎んではいないように思える。


 というより、もし、彼が一貫して卑劣で暴虐な人間であったのであれば、天女として尋常ならぬ罰を下すのが妥当な結末だろう。


 自分の沐浴姿を偶然見かけただけの青年を失明させたり、夫と通じた人間の女を落雷で八つ裂きにしたりする、理不尽なまでに強力なオリンポスの女神たちと比べると、この天女はいかにも非力で柔弱だ。


 天女といっても、羽衣がなければ飛ぶこともできず、人間の男に唯々諾々と従う。


この「羽衣天女」の造型からは、ギリシャ神話で言えば、上位に立つ女神の怒りによって言葉を奪われ(ギリシャ神話の女神の仕打ちは奸悪な魔女と大差ないものが多い)、また、人間の美少年への恋に破れて消滅していく妖精(ニンフ)のエコーのような、半神半人的な美女といった印象を受ける。


 あるいは美しい妻に去られ、元の孤独で貧しい暮らしに戻っていくことがこの男にとっては一番辛い結末なのかもしれないと少し大人になってからは思わないでもない。


だが、そんな現実的な哀歓に根ざしたストーリーならば、敢えて伴侶を天女のような神性を帯びた存在にする必要はない気もする。


 要は、この話はアンバランスなのだ。ファンタジーにしては夢が無さ過ぎるし、因果応報譚としても明らかに食い足りない。


 強いて言えば、「相手の弱みに付け込んだ関係は長続きしません」という教訓が導けなくもない。


しかし、「天女の沐浴中に飛行用の衣裳を盗んで、飛べなくなったところを妻にする」というシチュエーションがあまりにも特殊過ぎて、例えばイソップ童話の「すっぱい葡萄」のような普遍性を獲得するには至らない。


「羽衣天女」のストーリーを思い出すたびに、起承転結の「転」の部分で強制終了させてしまったような、本来の結末や描き切るべき側面が欠けてしまった感触を読むたびに受ける。


 この話に限らず、伝承や民話の原型を辿れば、多かれ少なかれ、物語として不完全だったりあるいは不条理だったりするものかもしれない。


だが、そうした本筋としての不完全さとは別に、飛び去る天女と地上で嘆く夫の構図には、ガラスの靴を片方だけ残して王子の前から姿を消すシンデレラの絵のような、二人のその後を色々と連想させる余韻が漂っている。


 人ならぬ美女と貧しい夫の組み合わせで言うと、他には「鶴女房」と「雪女」があるが、いずれも正体の判明した妻が夫を残して去っていく結末は共通している。


「鶴女房」と「雪女」は、夫が本来の姿をした妻と出会った後に、生身の人の姿を借りた妻に再会し、異形の正体に気付かずに結婚する。


 これに対し、「羽衣天女」は、夫側が異形の正体を熟知した上で、生身の女性に変えてしまうように働きかけて結婚に持ち込む点が大きく異なる。


「鶴女房」と「雪女」に出てくる夫たちは「素性の知れない美しい女が現れて妻になってくれた」という極めて受動的な結婚をしているが、「羽衣天女」の夫は「美しい天女を盗みを働いて陥れてでも妻にした」という至って能動的な婚姻である。


 それだけ、対象となる天女が美しかったからとも言えるが、なりふり構わない強引な行動からは、相手がもっと醜く平凡な女であっても通常の形で娶ることが難しい境遇の男なのではないかと思わせる。


 不況で地道な職探しに疲れ果てた失業者がとうとう思い余って銀行強盗を働いたような痛ましさも「羽衣天女」の夫の行動には仄見えるし、だからこそ、元の境遇に戻される以上の罰が与えられなかったとも考えられる。


 天女の妻が去っていくのはもともと地上が彼女にとって一時ひとときの遊び場でしかなく、婚姻生活は帰郷への足止め以外の何物でもなかったためである。


 人間の夫にとって夫婦は一生の縁であっても、天女の妻にとっては地上での生活そのものがかりそめのものでしかない。


 この平行線が、「羽衣天女」の夫婦の悲しさである。


「雪女」の夫は、ある意味サスペンスの主人公であり、殺人現場を目撃し、自身も辛くも死を免れた男が、その後、素性を偽装して現れた犯人(正確には『人』ではないけれど)と気付かずに結婚し、彼女の口から正体を知るに及んで、再び死を逃れる代わりに結婚生活は破綻する。


 吹雪の中に消えていく雪女が夫を手にかけなかったのは、共に暮らして子供まで儲けたことから来る情からとも推察される。


だが、物語の冒頭で特に罪のない老人を凍死させる冷酷さを持っている前提からすると、夫としてももう正体の知れた彼女とは暮らせないだろうと思わせる。


「鶴女房」は、夫が「機を織っている姿を見ないでくれ」と言い含められていたのに好奇心に負けて覗いてしまい、妻が鶴であることを知ってしまうという、この手の異種婚姻譚にありがちな禁忌違反による離別パターンだ。


 しかし、この夫はもともと罠にかかった鶴を助ける優しい心の持ち主であり、妻がその鶴だと知った後でも決して拒絶はしなかったと思われる点が、ラストで鶴に戻った妻の飛び去る別離の悲しさを増幅させている。


「鶴女房」こと「鶴の恩返し」を絵本で読んだ時、

「どうして鶴と分かったら一緒に暮らせないんだろう」

「ずっと一緒に暮らしてはなぜいけないんだろう」

とひたすらやりきれなかった。


 同じ白い鳥が美女に姿を変えるおとぎ話でも、西洋の「白鳥の湖」ではオデットは王子と結ばれるハッピーエンドなのに、日本の「鶴女房」だと、夫が禁忌を破ったことそのものよりも、そもそも異種同士が結ばれることが許されないかのように妻は愛する夫の制止を振り切って飛び去っていく。自らの翼で織った、美しい布だけを残して。


 いつの間にか、私の中では、「羽衣天女」と「鶴女房」がコインの裏表のように結び付いて思い起こされるようになった。


 発端がどうであれ、二つの話の夫たちが末尾で妻を愛していることに変わりはない。

 にも関わらず、異種の姿に戻った妻たちは空の彼方に飛び去っていく。

 羽を思わせるきらびやかな衣と人ならぬ美女という組み合わせも相通ずる。


 絵本を読む頃を過ぎてから、「羽衣天女」の天女や「七夕伝説」の織姫、「竹取物語」の月からの使者、あるいは七福神の弁財天の扮装が、中国の古代から中世にかけての上流婦人の衣裳を基にしていることをおぼろげに察するようになった。


 日本でも奈良時代辺りまでは同時代の中国や朝鮮半島の影響の強い衣裳を支配層は身に着けていたから、和服が独自の発展を遂げてからも、そうした大陸風の装いが「雲の上にいる人」のイメージとして日本人の潜在意識に残ったのだろうか。


 とにかくそうした古代中華風の衣裳を纏って、襷(たすき)のような細長い肩掛け(正式名称は分からない)を半ば宙に浮かして羽織った姿が、日本人の思い描く「天女」または「仙女」のステレオタイプであるように思う。


 一方、「羽衣天女」についても、大人になってから、「夫の方も妻を追いかけて天に昇り、そのまま星になった」というパターンの結末も伝わっていることや、「七夕伝説」の織姫・彦星夫婦と同一視する伝承が存在することも知った。


 織姫と彦星も普段は天の川を隔てて別々に暮らしてはいるものの、夫が地上に取り残されて恐らくは二度と天上に飛び去った妻とは会えないであろうと思わせる結末よりは、はるかに救いがある。


 それはさておき、鳳凰は、単純に中国の伝説上の鳥であるばかりでなく、日本人がイメージする中国文化の絢爛たるアイコンとも言える存在だが、これには実は雌雄があり、鳳が雄で、凰が雌だという。


 つまり、本来はつがいの形で出てきて初めて完全になるのだ。


 話は変わって、古代というより近代以前において、自然は保護の対象ではなく、畏怖すべき存在であった。


 日本では二十世紀初頭までにはニホンオオカミが山を跋扈しており、里に姿を現して人を襲うことも少なからずあった。


「ヤマイヌ(豺・山犬)」と聞くと、現代人の感覚では「山に住んでいる野良犬」程度の語感だが、これは近代以前、山に住むニホンオオカミやその亜種を指しており、従って、れっきとした猛獣を意味していた。


 中国でも「豺」と書けばアカオオカミの意であり、これはやはり残忍な種である。

 また、広い国土においては「虎狼」すなわちより大型のオオカミやトラのようなひとたび出現すれば手に負えない猛獣が潜む地域も珍しくなかった。


 近代以前の庶民にとって猛獣とは動物園で怖いもの見たさに安全な場所から鑑賞する対象ではなく、生命に危険をもたらす身近な脅威であった。


 また、食肉は既に肉片にされた状態で購入するものではなく、生きた状態で動物を捕らえ、自ら絞めて得るものであった。


 兎を日本語で一羽、二羽と数えるのは、鳥以外の獣肉を食すのがタブーだった時代に、兎を鳥に見立てて食べていた頃の名残りであり、裏を返せば、兎はそれだけ長らく食用に適した動物と広く目されていた。


 ちなみに牛肉は日本では明治時代に入ってから文明開化の流れで一般でも食されるようになったが、当初は「汚らわしい」と抵抗を示す人も少なくなかったとのことだ。


 農耕社会といえども、冷凍・冷蔵など貯蔵の技術が未熟な時代においては、その時々の天候に食糧事情は大きく左右され、人知では避けられない不幸な偶然が重なれば、容易に飢饉が発生した。


 二百六十年続いた江戸時代の間に大きな飢饉は四回起きた。

 平均すれば六十五年に一度は発生した計算になり、平均寿命は四十歳程度だったこの時代の感覚からすれば、一生に一度遭うか遭わないかの可能性を持つ災害であった。


 ちなみにウィキペディアによれば、中国では一年に一度、一か二の省で飢饉が発生していたという。


 二十世紀に入ってからも、一九六〇年前後の大躍進政策の失敗により三六〇〇万人もの餓死者が出たという記事もある。


 餓死者が大量に発生する事態は、その裏に、人が人を食うおぞましい状況も内包している。


 中国では、この大躍進時の飢饉においても飢えに苦しむ人同士が殺し合って肉を食べたとの惨事も伝わっており、人権や平等の概念のない近代以前であれば、貧しい人々の間にどれほど凄惨な事態が起きたかは想像に難くない。


 また、近代以前の社会において法律は為政者の都合であり、閉鎖的なムラ社会においては現代の感覚からすれば理不尽な差別も日常茶飯事であった。


「羽衣天女」や「鶴女房」、あるいは「雪女」に登場する夫たちは、こうした時代の制約の下に生きていた人間である。


 子供の頃から不完全な物語として引っかかっていた「羽衣天女」の伝説に加えて、地上の頚木から解き放たれた男女が一対の鳳凰になって飛び去るイメージを描きたい。


 それが、「天鵝のころも」を書いたきっかけです。

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